風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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クリスマスSS 同じ空を見ていた - 6 -

 実戦テストは、明後日に迫っていた。
 イーリッチの出来は相変わらずで、やる気だけはあるんだが努力がどうも実を結ばないという、伸び悩みなのか元々の適正の問題なのかいまいち判断の付きかねる状態に陥っていた。
 今日もきっちりしごいたが、しごいた分だけばててしまい、足腰立たなくなりそうだったから切り上げたところだ。
「そういや、お前はテスト、どーすんだ?」
「……ナディーティクは二人一組じゃなくて、一人で受けるんだと」
「アルワはどうでもいいだろ。お前の話をしてんだよ」
「俺、は……だって、弱ぇしよ」
 こいつは、相方と別の場所で訓練を行うようになってから、妙にグズ男になりだした。ナディはナディはと口をつくのはそればかり。いい加減鬱陶しくなってきてもおかしくないだろ?
 まあ、気持ちは分からなくもないがな。二人だけしかなかった世界に、突然九龍が乱入してアルワがおかしくなったようなもんだからな。聞けば、訓練が終わった後、こいつが相棒を迎えに行ってもあっちは無反応なんだそうだ。時間いっぱいまで、訓練に粘っているらしい。
 哀れな駄犬だ、で片付けばいいが、確かに主人に放置されたらそれなりに同情を向ける気にもなってしまう。
「じゃあ、お前は、テスト受ける必要ないだろう?元々、二人が組んでいたからこっちに回されただけで、お前単品なら普通にプログラムこなせば終いなんだから」
「……それ、逆に返すと俺はナディと組まないとまともに戦えないって言われてんじゃねぇか?」
「違ぇよ阿呆。相方が変態だからだろ」
 なんなんだ、今日はいつもに輪を掛けて鬱陶しい。訓練中はいつもと同じダメ野郎に見えたが、本当は何かあってダメ野郎だったのだろうか。
「……鬱陶しいな、一体何だって言うんだ今日は」
「何でもねぇよ。るっせーな」
「るっせーなだとてめぇガキのくせになんつー口の利き方をしやがってんだコラ」
「痛だだああだだだあぁあぁぁぁッ!!」
 こめかみを拳で締め上げると、ひーひー叫びながら「すいませんでした」と宣った。こういう目に遭うと分かっているのに暴言を吐く辺り、すでにこの悪態は条件反射なのだろう。
「あのな、これでも俺は、お前の戦闘技術以外のところは評価してるんだ。格闘だってビタ一進歩しないのに努力だけはしてるだろ。俺に何言われても投げ出さなかったしな」
「あ、あんた、褒めるか貶すかどっちかにしろよ……」
「褒めてんだろ、十分」
「……………」
 不服そうに「どーも」と言ったふくれっ面の反抗期は、何が悩みなのか、はたまた何もかもが悩みの種なのか。しばらくして、溜息と共に溜まっていた鬱憤を吐き出し始めた。
「昨日、また、ナディを迎えに行ったんだ。……相変わらず、クソチビと組み合うとぶっ飛ばされるばかりで、俺は今までそんなナディを見たことがなかったから、やっぱ、ショックで。終わるまでずっと待ってて、声を掛けたら、迎えに来る暇があるなら少しは強くなるよう努力したらどうだ、ってな」
「そりゃまた手厳しいな」
 こいつは、性格こそ短気で粗雑で出来損ないだが、だからといって努力を放棄するような奴ではない。おそらく、離れたことでアルワからそれが見えなくなっているのか、……九龍しか見えていない状態になっているのか。
 どちらにしても、イーリッチにとっては酷い状況に変わりはない。
「俺だって、好きで弱いワケじゃねぇよッ!でも、しょうがねぇだろ?俺が、ちゃんと戦うってことをし始めたのはナディと会ってからで、ガキの頃から当たり前みたいに戦ってきた連中とは違うんだよ、同じようにできねぇんだよッ!!」
「あー、んー、まあ、なぁ……」
 俺もここ数年で、とはもちろん言わないでおく。俺の場合ドーピングだ。連中とは違う。その通りだ。言葉を濁してアロマパイプを咥え、イーリッチが僅かにぎょっとした顔をするのを無視して火をつける。
「俺は、お前の在り様は間違っちゃいないと思ってんだけどな」
「…………」
「もしも両方がハンターになった場合、優秀なのはどっちだって言われたら、おそらくお前だよ。……強いだけのハンターは、酷いもんなんだぜ?」
「でも、クソチビはトップハンターじゃねぇかよ……」
「あいつだって、昔は酷くてな。遺跡に建ってる石碑も解読できなくて、俺も二、三度死にかけたもんだ」
「へぇ……」
 意外そうな顔をするが、まあ意外だろうな。俺だって意外だ。あの、歴史の成績が壊滅していたせいで遺跡の石碑が読めず、何度も死にかけた阿呆たれが、今では難なく遺跡を踏破するトップハンター。
 だが、九龍がその位置にいるのだって、努力の賜物と言える。高校時代、図書館に通い詰めて歴史書を読み漁り、担任に古語を自主的に習いに行き、結局は自分のウィークポイントを克服した。
 それがちょうど、元々の戦闘力に追いついて、今のあいつができあがった。
「だからな、きっとアルワもハンターになってから、何度も何度も死にかける。いや、実際に死ぬかもしれない」
「あいつは!遺跡の中でやられるなんてヘマはやらかさねぇよッ」
「化人は倒せても、トラップまでは回避できないだろう。前にも後ろにも進めない状態で天井でも降ってきてみろ。一発だぜ」
 想像したらしいイーリッチが、ぶるりと身震いをする。……俺があの時生き残ったのは、九龍のパッシブスキル:悪運発動があったからに違いない。
「遺跡の中ってのは、ただの戦場とは違う。強い、だけじゃ最後まで辿り着くことは無理だ。成績見たが、アルワは典型的な戦闘力特化。あれじゃ九龍の二の舞になる。だから、サポートする奴が必要なんだよ」
「……バディ、か」
「大事な奴を守りたいって思うなら、そいつより強くなるって方法もあるが、隣に立って、足りないとこを補ってやるって手もあるだろ」
 その選択肢を考えたことすらなかったのか、鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面。駄犬な上にイノシシなこの阿呆は、アルワが《宝探し屋》になる、と言ったら自分もそうならなければいけないとでも思い込んでいたようだった。
「コーも、その、あいつの足りてねぇとこをフォローしてんのか?」
「俺は、まあ、どうなんだろうな?あいつの足りてないとこを補っているといえば、そうなのかもな」
「第一、あいつに足りないとこなんかあんのかよ?」
「お前、嫌いな割にずいぶん九龍のこと買い被ってんだな……」
「そりゃ毎日ナディがあいつの話ばっかしてたらそうなるだろッ!!」
「いや、知らんけど……」
 消えかけたカートリッジを新しいのに差し替え、苦笑と一緒に火をつける。ラベンダーの匂いに包まれながら、九龍の顔を思い出す。
「あいつは、生きる欲求が、足りてないんだ」
「は?」
「絶体絶命に陥ったとき、普通なら死に物狂いで生きようとするもんだが、あいつにはそれがない。あっさり笑って死んでいくんだ」
「……それ、どっか壊れてんじゃね」
「壊れたんだよ。……ずっと、昔にな」
 一度目は育ての師匠がやらかして、二度目に俺がやらかした。それからずいぶんまともになってきたが、まだ普通の人間と比べると、足りない。
「だから、俺が一緒に行って、あいつが諦めようとすんのを止める。俺が一緒にいれば、俺を死なせたくないからそれこそ死に物狂い、ってのになって生きようとする。……うっかり俺が死にそうになると、自分を諦めて俺を生かそうとするのが困りもんだけどな」
 イーリッチは俺の話を聞きながら、困ったような悩ましいような面白百面相を繰り広げている。何をそんなに考えているのかと思いきや、
「なあ……もしかして、あんた、その……ゲイだって言ってたけど、相手って、……あいつ?」
「今頃気付いたのかお前!?」
 てっきり、とっくに気付いているものだと……。協会のハンター連中はこっちが何も言わずとも勝手に勘付くから、俺たちの関係というのは相当分かりやすいものなんだと思っていた。
「と、いうことは、バディが、恋人でも、いい、のか?」
「……恋人どころか息子をバディにしたり、奥さんバディにしてる奴、腐るほどいるぞ。お前、山師ジャックんとこだってバディは恋人だぞ」
「へ、へぇ……」
「まさか、その勘違いが理由で『ハンター』目指したとかじゃないだろうな……」
「違う!!つーか、ジョーンズのじーさんが、そ、そうやってバディを恋人にしてうつつ抜かしてると、ろくなハンターになれん、って!」
「ジジイ……」
 あのじいさん、自分の親父さんがお袋さんをバディにして、そのすったもんだのせいで自分がハイスクール上がる頃まで親父さんのことを知らなかったらしい。だから、バディが色恋相手ってのを快く思ってないってのは知ってるが……。
「じゃあ、そっか……あいつ、あんたの、恋人……なんだ」
「どーした、そんなにショックか?」
「ショックなのは、……ナディーティクだ」
 ぽつりとこぼした言葉は、複雑な色を滲ませる。イーリッチ自身は、その事実で消沈したわけでなく、むしろ喜ばしいと捉えたはずだが……そうか、相方か。
「あいつ、さ。俺を拾うまで、ずっと一人だったらしい」
「拾う?」
「そ。俺は、自分の住んでた場所が襲われて、家族全員殺された。俺も殺されそうになったんだけど、そこに、なぜかナディが現れて、俺のことを、助けてくれたんだ」
「襲われた、って……戦闘に、巻き込まれたんじゃなくてか」
「俺が小さい頃はまだ国の中で戦争していた。終わってからも、あっちこっちでいざこざがあった。俺の親父は軍にいて、狙われたんだと。後から知った。その地区一帯、割といい家ばっかりだったのも、悪かったらしい。たくさん死んだよ。親父も、母さんも、妹も。幼なじみも、隣のクラスの奴も」
 必要以上に乾いた声音で話してはいるが、未だ、奴の中で大きな傷となっているのはすぐに分かった。他人事のように話すことで、自分の悲しみと関係ないところに置こうとしているようだった。
「ナディはさ、気がついたら瓦礫の上に、まるで当たり前みたいに立ってて、俺たちのことを見下ろしてた。奴らがナディを捕まえに行くと、ひらひら、踊るみたいに翻弄して、あっという間に片付けた。銃を向けられても怯まなかった」
 その様子を、呆気なく想像することができた。
 強い風と、風に乗って吹き付ける強烈な火薬と血の臭い。散発的な銃声と、時折の悲鳴と、死の無音。枯れ果てた街に佇む、小柄な少女。金色の髪に、頬には傷が走っている。狂乱する連中を冷めた眼で見下ろして、簡単に殺戮してしまう。
 俺が九龍に抱いている、ずっと昔の姿と綺麗に重なった。
「―――結局、襲ってきた奴らは、全滅。俺んちも、俺を残して全員死んだけどな」
「で、お前は、あいつに付いていった……と」
「付いてこいなんて、一言も言ってくれなかったけど。俺は、すげぇ悲しくて、憎くて、苦しくて、なのにそん時に強烈に思ったのが、今、こいつを見失ったらたぶん二度と会えない、ってことだけだった。麻痺してたんだな、色々」
 自嘲気味に呟くイーリッチ。俺も、その切ない焦燥感には覚えがある。九龍が雪の向こうに消えそうになったとき、自分にまつわる全てを一瞬たりとも振り返らず、ただあいつを失うかもしれないという絶望が恐ろしかった。
 今、その一瞬の焦燥を後悔しているか、と言われれば、微塵も後悔しておらず、それはきっと、こいつも同じだ。
「あれからずっと、俺がナディを見てるみたいに、ナディもきっと、あいつを見てる」
「だがな、九龍は年齢的に考えて、出会いようがないって言っていた。やっぱり、似てるだけの人違いじゃ……」
 だが、イーリッチはきっぱりと首を振る。
「俺も、そう思ってた。だから聞いたんだ。ナディに。似てるだけの奴に、何であんなにひっついてるんだよ、って。そしたら、」
 詰まらせた呼吸を戻すかのように、深い溜息を吐き出した。心なしか、吐息が震えたような気がする。重く、痛いくらいに感情を込めて、なのに淡々と言った言葉は、
「あいつ、だったんだと。ナディの命を助けて、生きるように言って、心ん中でずっと、追いかけてきたのは。―――ハバキ、クロウだったんだよ」
「……あ?」
 ……どういうことだ?んな、まさか。一体いつ。そんな幼い頃に会っていたというのか?
「いきなりハンターになろうって言い出したのだって、ロゼッタ協会って組織に、異様に強い黒尽くめの男がいるって噂で決めたんだ」
「ちょ、っと待てよ。考えてみろ。アルワは、まだ未成年、だろ?九龍よりも年下だ。……九龍が、もしもアルワに会えるとしたら、それこそ子どもの頃だ。それで、何で、」
 言葉を遮るように、顔を上げて俺を見たイーリッチは、ほとんど泣きそうだった。泣きそうなのに、無理に笑おうとしていた。
「あいつ、ずっとハンターなワケじゃなかったんだろ。もっと、暗いところにいたんだろ。ナディみたいに、戦場に現れたりして、伝説だったんだろ?そのとき、会ったんだってよ。ナディーティク、馬鹿みたいに幸せ惚けた顔して、言ってた」
 ―――私は、あの人に、付いていくの。それだけを想って、生きてきた。
 ……それで、あの、強さなのかよ。過去にあった何かがきっかけで九龍に出会い、あいつの強さを目の当たりにして、追いつくために、強くなったのだとでも。
 いや、そうなのかもしれない。そう考えると、納得できることが多すぎる。
 九龍を目指していたなら、あの立ち姿が似ていても当然なのだ。
 すとん、と、ナダルチカ・アルワという少女の姿が自分の中に落ちてきて、様々な事象を受け入れつつある俺とは逆に、相方として生きてきたイーリッチは、悔しげに、唇を噛んだ。
「じゃあ、俺は、何だったんだよ。ナディが銃が苦手だから、持ったこともないアサルトライフル持って、援護のためにサブマシンガンも使って、そういう戦い方を覚えるまでこんなにかかって、……あいつがいなかったら、俺、一人じゃ、戦えない、のに……」
 ああ、そうか。そうなのか。
 こいつは、全部、分かっていたのだ。アルワが苦手なこと、嫌いなもの、戦いにおける小さな弱点。だから、カバーするために、背中を守るために格闘ではない戦い方を選んでいたのだ。
 にしても、アサルトライフルに、サブマシンガンとは。銃火器使いだということは見抜けなかった。もしも九龍がこいつを見ていたら、戦い方からすぐさま気付いたかもしれない。
「馬鹿野郎、泣くんじゃねえ」
「泣いてねぇよッ」
「泣きそうじゃねぇか。女々しいな、ってのが、女に失礼なくらい鬱陶しいぞお前」
「ほっとけよ、どうせ、俺は、」
「銃火器使えるなら、最初からそう言え!クソ、何で協会が二人組でよこしたのか、ようやく分かったぜ」
 近接格闘に特化した戦闘少女、格闘がビタ一できないくせに成績優秀なその相棒。協会は、二人をそのままセットでハンターデビューさせるつもりなのだろう。
 俺たちが勝手に見誤って、別訓練などしてしまったが、おそらくこの二人の真骨頂は、組んだときに発揮されるはずだ。
「どうせ、お前は死ぬほど狙撃を訓練してきたんだろ」
「……何で、分かるんだよ」
「アルワが苦手なら、お前がフォローする。そういうスタンスでやってんだろ。なら、できて当然だ」
 道理だ。格闘は呆れるほど弱いくせに、戦闘の勘だけは持っている。近すぎると動きが鈍くなり、妙に距離を取りたがる。
「何で、言わなかったんだ」
「……だって、俺の扱いは、おまけ、だろ。だったら、格闘もちゃんとやって、ここで、強くなれれば、ナディも認めてくれるかと思ったんだよ」
 あーあーあー、馬鹿もここまでくると気持ちがいい。俺は頭を抱えたい気分になった。
 第一、協会は基本的にハンターとハンターは組ませない。この二人は、最初からどちらかがどちらかのバディになることを前提とされていたのだ。
 そして、ここで戦闘の連絡を強化して、一人前に仕立て上げたいのは。
「あのな、これは俺の推測だが……」
 言いかけたとき、武道場の入口から、物音。妙な気配を感じて、俺とイーリッチ、同時に振り返った。
「ナディーティク……」
 そこに立っていたのは、噂をすればのナダルチカ・アルワ。珍しくイーリッチを迎えにでも来たのかと思ったが。
 様子が、おかしい。戦闘訓練は終わっていい時間だというのに、まるで今から始まるとでも言いたげな格好、武装。右手にナイフを、左手にハンドガンを。戦う意志を、その身に滾らせて立つ。
「訓練なら終わったぜ」
 だが、用があるのはイーリッチではないらしい。
 土足のまま上がり込んできて、真っ直ぐこちらに向かってくる。ずっと、俺から視線を外さない。
 そして、あと数メートルの距離で足を止める。
「あなた」
 あなた、とは俺のことだろう。九龍の前で使っていた広東語は、披露する気がないらしい。英語で淡々と、言葉を吐き捨てる。
「いなくなれば、隣が空く。そうすれば、私が、そこにいられる」
「ナディ、お前、何言ってんだよ……」
 真っ暗で、何もない眼。イーリッチの言葉でさえ、微塵も届いていないようだった。瞬き一つなく、見据えるのは、俺。
 あの遺跡で、最後の夜に、感情全てを削ぎ落として、決意一つで頷いた九龍の眼に、とてもよく似ていた。
「明け渡して」
「できるわけないだろう。これでも命を懸けて手に入れたんだ」
「なら、力尽くで」
 左手の銃ががちりと不気味な音を立てる。空を切るように滑ったナイフは、決意の表れのようでもあった。
 静かに、殺戮者は猟の構えを見せた。
「命ひとつで手に入るなんて」
 こくん、と一つ、頷いて、
「なんて、容易い」
 それが、始まりだった。
「ナディ!!」
「止めろ阿呆ッ」
 ゼロから一気に加速度を付けてギアを振り上げた少女の身体が、距離をないものにして躍りかかってきた。
 咄嗟、止めようと間に入ってきたイーリッチを突き飛ばし、その勢いのまま回避。片腕の支持だけで衝撃を抑え、転がることなく身体を反転、距離を空け、さらに下がる。
「何なんだ、一体ッ」
「ナ、ディ……どうしたんだよ、おい……」
「チェリコ、そこ、退きなさい。さもないと、殺すよ」
「なあ、ナディ、落ち着けよ。お前、いつも俺に落ち着けって言ってんじゃねーか。短気で喧嘩っ早いって、俺の役割だろ?なあ?」
 必死に説得しにかかるイーリッチなど、まったくお構いなしだ。冷たすぎるほど冷めた眼で一瞥するのみ。
「もう一度だけ言う。……邪魔だ。退けッ」
 軽やかに、舞うように、アルワが跳ぶ。見惚れるほどの体捌きだが、四半瞬間でも見続けたら最後、なますにされるに違いない。寸前で、俺とイーリッチはそれぞれ逆方向へ跳んで避けた。
 片脚で着地したアルワは、そのまま次の躍動へ。当然、狙いは俺だ。
「コーッ!!」
「チッ……」
 最初に九龍にも食らわせた、体重を一気に掛けての体当たり。今日はそこに、ナイフの刃が付いている。くっそ、手加減一切なしじゃねぇか。マジで殺すつもりで来やがってやがる……!!
 かわしきれず、どうにか刃を持つ手首だけを見切って捕まえる。と、次の瞬間、肩に激痛が走った。
「ぐッ……つ…」
 撃ちやがった畜生、訓練用の銃じゃねぇ。
 痛みと衝撃でバランスを失った俺は、アルワもろとも後ろに倒れ込む。完全にマウントポジションを取られ、上からは温度のない、虚ろの眼が見下ろしてきた。
 殺される?馬鹿野郎、こんなところで死んでたまるかッ。
 振り下ろされたナイフを回避、上体を捻って脇で腕を捕らえ、左手の銃を使われる前に思い切り身体を返す。腕を取った分、軽いアルワは床に落ちる。
「イーリッチ!!」
 もみ合いながら、呆然としているイーリッチに怒声を飛ばす。
「九龍連れてこいッ!!」
「あ、……ナディ、……おい」
「聞いてんのか!!俺じゃ、二秒で、バラされるッ!!」
「コー……」
「急げ馬鹿野郎ッ!!」
 正気に戻ったんだかまだ頭ン中飛んでんだかは知らないが、とりあえずイーリッチは頷くと武道場から駆けだしていった。
 さて、と。こうなると俺は、あの阿呆が来るまでどうにか生き延びなければならない。万が一死んでみろ、恐怖の化身と化した九龍は確実にこいつを刻む。後味、悪すぎだろ。
 だが、正直数分持つか。アルワの眼は完全に殺戮者のそれ。俺はただの獲物だ。倒そう、などと考えてはいけない。いかにして逃げ延びるか。
 幸い、銃の扱いについては素人に毛が生えた程度らしく、パラパラと目眩ましのように蒔かれるだけ。どうにか凌ごうと思えばできそうではある。だが、銃がある限り、距離を取れば不利になるだけだ。
(……かといって接近戦じゃ、マジで二秒だろうな)
 乾いていく唇からアロマパイプが落ちないよう、しっかり噛み締める。滲んだ鉄の味は、まだ俺が生きている証だ。
 再度、アルワが跳ぶ。視界が振られる。ガードを上げる。細切れのような弾丸。一発が頬を掠める、残りは回避、だが、本命のナイフの一撃がこれから。狙うなら、痛めた右腕……、ここだッ!!
「甘いんだよ!!」
「!?」
 不規則に舞い上がった身体を、タイミングを合わせて蹴り飛ばす。ノーガードだったアルワは、咄嗟に銃身を盾に緩衝、着地するが、代わりに持っていた銃が遙か場外へ飛んでいった。
 バランスを崩すものの、けれどナイフは間髪入れずに振り抜かれる。腕一本くらい、くれてやるつもりでガード。衝撃、交差させて頭部を守った右前腕に激しい痛みが走る。
 刺された、という判断を脳が下す前、脊髄反射で一気に筋肉を締めた。アルワの、ナイフを引き抜くタイミングが一瞬遅れる。これを逃す手はない。
 利き腕の左で、アルワの腕を押さえる。おそらく、腕力ならば俺の方が上。華奢な手首を握り潰すつもりで、思い切り掴んだ。
 引き抜こうとする力、留めようとする力。血の臭いで噎せ返りそうな空気の中、互いの距離が一瞬拮抗する。
「……負けない」
 鋭く呟いたアルワが次の動作に入るのを、俺は見切ることができない。ゴキ、と嫌な音がして、手の平の感触が緩んだ。手首の関節を外したのだと認識する頃には、無茶な方向へ身体を反転させていたアルワが、ナイフのない腕で鳩尾に、重い一撃。
「ぐッ……ぁ」
 息が詰まる。素人相手なら、内臓破裂コースの最重量アッパー。耐えきれず膝を付きかけるが、胸を押され、床に叩き付けられる。何度も噎せることに失敗し、ようやく呼吸を取り戻しかけたとき、目の前には怖気が走るようなアルワの顔が。
 混ざり気のない純粋な殺意を湛えたそれに、俺は不覚にも見惚れた。頬に真っ直ぐ走った傷も、引き締めた口元も、大きな眼を縁取る長い睫毛の一本でさえも、この少女の持つ全てが美しく見えた。
「私の方が、強い」
「……らしいな」
「だから、安心して」
「何をだ」
「あなたが死んでも、私があの人を守れるから。安心して―――死んで」
 関節が外れた手は、すでにナイフを放していた。けれど、腹部のダメージから立ち直れない俺は、軽い身体を振り退けることすらできない。左手の細い指が、そっと首にかけられた。動脈を探すように、首筋を這う。呼吸するたびに上下する喉仏と、その横を走る気管を、指先が間違いなく押さえつけた。
 熱が、首筋から迫り上がってくる。毛細血管が真っ先に弾け飛んでいる感触。頬とこめかみ、それから目蓋が重い痙攣を始める。鳩尾を殴られて呼吸がうまくできない上にこれでは、意識が白くなり出すまではすぐだった。
 目の端が霞み、それが色を変え、視界が黒に覆われ、頭に心音が、ハレーションが、酷く、歪み、ちらちらと、九龍が、脳裏を……、
「ガ、はッ!!」
(―――!?)
 がくん、と全身に衝撃が走る。痛みとは別で、突如として身体が軽くなる解放感。
「ッ―――ぁ、ッハッは……はァ、はァ」
 生理的に込み上げていた涙がぼろぼろとこぼれ、視界が戻ってきたとき、なぜか、俺の目の前にいたのは、
「九龍……?」
 呆ける思考、ゆるゆると戻ってくる現実感、痛みや苦しさ、全てが大挙して俺の感覚を蝕みだした。
「痛っ、てぇ……」
「大丈夫か?動かない方がいい。呼吸は、できる?」
 不気味なほど穏やかな表情。どうやら上体だけ抱き起こされているらしい俺は、滅多に見ることのできない九龍に、―――心底恐怖した。さっきのアルワとは、比べものにならない。
「腕のナイフは、止血してから抜くから、もう少し、待ってて?」
「くろ……おれは、」
 俺は大丈夫だから、そう言おうとしているのに、頸部を圧迫されたせいで声が上手く出ない。ごろごろと、転がるような不格好な呼吸だけが出て行くだけだ。
「大丈夫。平気。俺が、甲太郎を殺させたりなんか、するわけないでしょ?」
 止めろ、と。いや、何を止めさせたいのかは分からないが、とにかく九龍を止めなくてはいけないと痛烈に感じた。だが一言も発することができない。
 ゆっくりと九龍は顔を近づけ、俺の頬に走ったナイフの傷を指でなぞっていった。その仕草が、あまりにも優しく、艶やかで、もう何されてもいいような気分になりかける。けれど、
「大丈夫。安心して。絶対に、許さないから」
 ぞっとした。そんな、慈愛に満ちた眼で艶然と冷笑。
 間違いようもなく、正気のピッチを外したときの九龍の顔だ。
 ハッとして、先刻まで俺の上に乗りかかっていた少女を探す。
 その姿はすぐに見つかった。数メートル先で、うつ伏せで床に倒れ込み、微かに痙攣を繰り返す小柄な体躯。口元から細かい血の泡を吹き出し、意識があるのかどうかすら危うい。
「くろ、……ゴホッ、もう、……大丈、夫、だから、やめ、」
「うん。大丈夫。もう、なーんにも、心配いらない」
 大丈夫だよ、と微笑んだ九龍は、卵を抱くが如く仕草で俺の身体を床に戻す。
 ちょっと、待て。まだ何か、やる気か?
「俺の甲太郎を殺そうとするなんて、それ、俺に、殺してくださいって懇願しているような、もんだよねぇ」
 九龍の声に、倒れ伏していた身体がピクリと反応した。だが、起き上がることができないらしい。顔だけを僅かに上げて、九龍を見ようとしている。
 俺は、呼吸を整え、左腕を衝立に、どうにか自力で上体を起き上げる。それだけで噎せ返りそうだったが、そんなことを言っている場合では、もちろんない。
 まずい。これはまずい。どう考えても、アルワは殺される。九龍は、戦いに強いというだけではない。生きているものを殺すのが、超人的に巧いのだ。
「九龍……、やめ、ろ……!!」
 呼びかけというよりは、懇願だった。
 それでも九龍は止まらない。踊るような軽やかな足取りで、一歩一歩アルワに近づいていく。
 誰か、誰でもいい、あいつを足止めしてくれ。止めろ、なんて贅沢は言わない。俺の自由が戻るまで、三分、いや、一分でいい。九龍が、アルワを殺さないよう、時間稼ぎを、誰か。
 願って、祈って、果たしてその誰かが飛び出してきたとき、本当に俺は天を仰ぎたい気持ちになった。
「待てよッ!!」
 それが、あの駄犬だとしても構わなかった。今の九龍の前に立てるだけでも、その度胸を認めてやりたい。
「……退いて?」
 だが、すぐに考えが変わる。
 もしかすると、二人揃って片付けられる可能性が高いんじゃないか?イーリッチは間違いなくアルワを庇う。それは、九龍の神経を逆なでするだけだ。
「あ、あんたが強いのは、よく分かったよ」
「…………」
 イーリッチの声が、みっともないくらいに震えている。だが、それも仕方のないことだ。咄嗟に、俺は逃げろと叫ぼうとして思いとどまる。今、アルワを抱えて逃亡したところで一瞬後に捕まるだけだろう。
 俺の身体は、ようやく身体を起こせるかという状態。まだ、立つこともできない。クソ……。
「コーを、その、ナディが傷つけたのも、謝る。ごめんなさい。で、も、コー、無事、だったろ?だから、」
「無事?」
「生き、てる……し」
「それで」
「だ、だから、ナディを、こ、殺さないでくれ」
「冗談だろ」
 後ろを向いているのだが、イーリッチの言葉を鼻で笑った九龍の表情は容易に想像できた。眼には殺意を宿らせたまま、にやにやと笑っているのだ。声に、嘲笑が混ざっている。
「あんなに痛めつけられて、無事?笑わせんなよ?ハハ、窒息させようとしたんだろ?大丈夫。同じやり方で殺ってやるからさ。自分の肺、血で一杯にして、窒息。あ、大丈夫。俺、巧いから。すっげ、苦しいと思うぜ」
 ケタケタと、悪魔が嗤う。
 こちらから見えるイーリッチの顔から、完全に血の気が引いている。それでも、倒れ伏した相方を守るようにそこに居続けられるのは見上げた根性だ。
「だ、ダメだッ、絶対に、やらせない!!」
「やらせない?どの面下げて言ってやがる」
 九龍の腕が、一瞬でイーリッチの喉元を捕まえる。どこに隠してたその腕力、という力で吊り上げ、締め上げる。イーリッチの長身が、ほとんど宙に浮いた。
「そういうことは、まともに戦えるようになってからほざけ」
「……る、っせ…、俺、は、ナディを、守るって、決めてんだ……よ」
「じゃあ、それが無理だってこと、教えてやるよ。そうすりゃ、少しは俺の気持ちが分かるだろ」
 な?と態と明るく言い放つ。だが、イーリッチは、青ざめていた顔を真っ赤に染めながらも、九龍から眼を離すことはせず。
「無理……なんか、じゃ、ないッ!!」
「分からないガキだな、それじゃ、お前からバラしてやろおわッ!?」
「そこまでだ、阿呆たれ」
 襟首を引かれ、バランスを崩した九龍は、掴んでいたイーリッチから手を離した。
 ぎりぎり、セーフ。こみ上げてくる吐き気を寸前でせき止めて、俺は九龍を背後から抱きすくめる。九龍の周囲で張り詰めていた空気が、急速に萎えていくのを感じ、ほっとひと息をついた。
「ったく、お前は、一度キレるとどうしょもねぇな……」
「ちょ、甲太郎!?あ!!腕、ナイフ抜いちゃダメだって……血、止めないと!!」
「お前がトチ狂うからだろ」
 あわあわと救急キットを取り出し、無理矢理引き抜いたせいで相当量出血する腕の傷を手当てし始める九龍。その向こうでは、解放されたイーリッチが腰を抜かしつつも相方を助け起こそうとしていた。
「ナディ、ナディーティク!!おい!!」
 アルワは、辛うじて意識があるようだったが、呼びかけにはほとんど答えられないようだった。何か喋ろうとするたびに、ごぼごぼと真っ赤な泡が吹きこぼれるのみ。脱臼したせいで、手首もおかしな方向に曲がっていた。
「九龍、阿呆、放っておいたら死ぬのはあっちだ!」
「え?……あッ」
 正気を取り戻した九龍の顔から、一気に血の気が引いていった。

*  *  *

 結局。
 俺とアルワはそのまま協会直属の病院に担ぎ込まれた。訓練施設に怪我は付きものであり、近隣に病院があるのも道理だった。
 俺の方は腕の裂傷と撃たれた肩の傷のみだったのだが、アルワの方は手首の脱臼、肋骨の粉砕骨折と、それに伴う肺の損傷と、ほとんど瀕死のような診断が下された。急遽、応急処置のあとオーパーツによって病院内に再現された簡易《魂の井戸》に放り込まれ、内臓損傷は回復したらしい。
 九龍は、その後こっぴどく協会から叱られたのだが、意外なことにイーリッチが九龍を擁護したことでお咎めはなしとされた。また、今のアルワの状態では明後日の実戦テストは不可能と判断され、これもどうするのか、協会が論判するのを待つこととなった。
 しかし、協会からの指示を待っている間も、面倒事は続く。


 ナダルチカ・アルワが、病院から姿を消したのだ。