風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery
Night observation - そんな馬鹿な -

 (雪の降る夜だった。)

 あれは確かに、雪の降る夜だった。

 黒いはずの夜が、降る雪積もる雪に覆われていく。都市の裏の廃墟は吹きだまりのように存在し、崩れ落ちた屋根からはひっきりなしに雪が落ちてきた。屋内とも言えない廃墟に、雪が積もる。
 冷たく凍えたはずのその部屋にはなぜか熱が籠もっていた。空気が、熱を帯びた空気が冷やされて白く濁っているのが見える。
 真っ白い雪。しんしんしん。降り積もる雪。落ちてくる雪、立ち上る湯気。真っ白い雪、積み上がる屍体。真っ白い骨剥き出しの、真っ赤な血臓物脳髄。溶ける雪、人体の温度、湯気、身体の中身が散らばる。血、硝煙、内臓の噎せ返るような臭い。さっきまで響いていた音はもうない。絶叫、怒声、断末魔、銃声、爆音、耳鳴り、しんしんしんしんしん。
 白と赤。混ざり合う廃墟に影が立つ。黒い影。黒い髪、黒いロングコート、後ろ姿。黒い合皮グローブ、ベレッタM92FS二挺拳銃。
 こっちを振り返る影。一人だけ立ち続ける、殺し屋。
 しんしんしんしん。殺し屋のコートに雪が降りては消えていく。
 黒い影。ツリ気味の猫みたいな眼、昼間の太陽に嫌われたかのように蒼白い顔色、頬には血が点々と飛んでいる。同じ色をした唇が俺を見て、少しばかり吊り上がる。
『―――クロウ?』
 柔らかい口調、甘い声。
 屍体と臓物の散らばる真ん中で、いつもと同じ口ぶりだった。
『ああ、そうか、最後は、やっぱり』
 腕が動いた。右腕を真っ直ぐこっちに。
『お前さんで、終わりだな』
 俺は銃を抜く。どうしてだか解らないけれど。銃を抜く。
 街に降る雪は汚れるのが当たり前だという。   ―――そんな馬鹿な。
 彼女と見た雪はいつだって、真っ白で。


 しんしんしんし、  んしんしん、    しんしんしん


 雪が降る。


 真っ白な廃墟に、赤く染まった雪が降る。

*  *  *

 
 現在の葉佩九龍の年齢を十七、十八と仮定するならば、俺が両親を失ったのは六歳頃ということになる。その時のことを覚えているかと言われたらほとんど覚えていないと答えるしかない。断片的にしか、ということだ。何しろ年が年だし、その年頃のガキが見るには些か、―――刺激が強いシーンだった。
 俺の父親は頭部を吹き飛ばされたし、母親は胸を穴だらけにされた。それだけは、強烈に覚えている。二人に逃げなさいと言われ、俺は銃(もちろんその時は銃の型式など分かりようもなかった)を抱えてとにかく走った。走って走ってトラックに乗り込み……気が付いたらあの場所にいた。何に追われているのかも当時は分からなかった。
 記憶があるのはそれくらいだ。両親のことや彼らを殺した人間の事は、後になって情報を商品にする行商人に聞いた。自分の素性を他人から聞かされるのは随分と不思議な気分だったが、俺は自分が何者かもよく分かっていない状態だったのだから仕方のない話だ。
 転がり込んだ先の場所で俺は数ヶ月一人で生き抜き、……犬以下の扱いをされながらも生き抜き、当時流行っていた薬を打たれて半分死んでいたところを、次の家族になる女に拾われたのだ。
 彼女はその場所で銃工をやっていた。酷い扱いをしたせいでガタのきていた俺の銃も、拾ったその日に整備をしてくれた。俺は拾われた日、とりあえず何も信用しないのが流儀だと信じ込んでいたために彼女に銃を向けて逆に殺されかけた。結局は殺しも殺されもせず、なぜだが共に暮らすことになったのだけれども。その時の彼女の心境は解らない。彼女は理由を明かしてはくれなかった。

*  *  *

 俺が初めて人を殺したのは、大体その頃の話になる。両親を殺した連中は何かを探していたようで、俺は知らないうちにそれを所持していた。つまり、狙われたのだ。
 またも殺されかけた俺は彼女に救われ、その時に初めて彼女が職業殺人者だということを知った。俺は追っ手の連中を殺すため、復讐するため、自分の身を守るため、何より殺されかけたときに彼女と暮らしていた部屋を破壊された借りを返すために、銃を握ることを決めた。
 彼女は、ある組織に所属していた。いわゆる犯罪組織だ。一応フリーランスで契約社員だとも言っていたが、とにかく、そこで一番の腕利き殺し屋だった。一番年下だったにもかかわらず。
 俺は彼女に付いて人を殺す術を身につけ、自分を狙ってきた連中を皆殺しにした。
 それから先は簡単なことだ。俺は人を殺すという技術を生きるために使った。つまりは、そういうことだ。組織預かりとなり、彼女と組み、人を殺すことを生業とした。
 しばらくして、九龍城砦は完全に撤去された。元々、俺が流れ着いたときから整備は進んでいたのだ。香港が中国に返還されるに伴い、スラム街は消え去った。今では記念公園に姿を変えている。
 俺たちは街を出て、そうして色々な場所へ行った。俺が何ヶ国語も操れるのはそのためだ。

 これが葉佩九龍という人間が生きてきた時間と、―――九龍城砦という場所の話になる。

*  *  *

 彼女、の話をしたい。
 俺を拾ったとき、彼女はまだ子どもだった。もちろん年齢だけの話でだが。仕事では大人として扱われていたし、考え方も大人びていた。酒も煙草もその頃から手放せないようだった。ただ普段の彼女は子どものような顔を見せることもあり、俺はそれが酷く好きだったことを思い出せる。
 俺は自分の名前は覚えていたが漢字までは分からなかったため、彼女が付けてくれた。それは長らく彼女と俺だけの秘密だった。俺は組織からは暗号と記号でを呼ばれていたし、生活の中では違う名前で呼ばれた。なぜそうしたかと言えば、彼女がそうしていたから。彼女は色々な場所で様々な名で呼ばれていたが、本当の名前というものは俺にしか告げなかった。
 ―――本当は誰にも教えるつもりはなかったんだけどさ。
 彼女はそう言って照れたように笑った。
 その時の表情は、仕事で見せる顔とは大きく違っていた。
 彼女は俺の知る限り世界で最も戦闘に長けた人間で、特殊部隊と戦闘になったときには一個小隊をほとんど一人で壊滅させた。牙を剥き出しにした狂暴さが吊り上がった口の端から零れるような顔で戦う、言うなれば真っ黒いたてがみを靡かせる小さな獣。
 外に発露される凶悪さとは真逆に、身内である俺のことはいつだって守ってくれていた。その身が危うくなろうとも、任務を失敗しそうになっても俺だけは。だから俺はあいつの背中を見ながら、いつかは隣に立ち、……いや、守りたいと思っていた。
 俺にとって彼女はそういう人であり、つまるところ育ての親でもあり、師匠でもあり、相棒でもあったのだ。だからこそ、どちらかが死ぬまでは隣に立ち続けるのだと信じていた。
 信じていたのだ。愚かしいことに、俺は。

*  *  *

 ―――それは、酷い銃撃戦だった。
 いや、銃撃ばかりではなかった。殴り蹴り撃ち合う。彼女はやはり、世界で一番戦闘に長けていた。一瞬よりも短い時間でさえ、気を抜けば背後に死の気配を感じる。顔や防弾仕様の薄い腕はあっと言う間に傷だらけになり、出血で身体が冷え切った。
 それなのに心臓は熱い。熱は俺の頭を朦朧とさせ、これは悪夢だと何度も何度も錯覚させた。悪い夢だ。だってあいつは、俺を―――。
 浮かびかける涙をぬぐい、歯を食いしばり、俺以外に飛ぶ黒を追いかけ続けた。どうしてそこで、殺すくらいなら死ななければ、と思わなかったのかは今でも解らない。戦闘中はずっと、夢の中にいる気分だったからかもしれない。
 俺は、彼女を守りたいがために強くなった力で、彼女を全力で傷付けた。
 やがて倒れた黒いコートにちらちらと雪が落ち始め、決着は、
 
 俺の―――敗けだった。
 
 真っ白い雪の中で血塗れの身体で真っ黒い腕同士を伸ばして向け合ったベレッタM92FS。
 俺も彼女も確かに引き金を引いた。致命傷を狙う一撃だった。俺は撃つ瞬間、これでようやく終わると思った。悪い夢だったなら、終わる。
 ―――街の雪は汚れるのが当たり前だという。そんな馬鹿な。血染めの雪なんて。夢にしかない。あいつと見た雪は、いつだって真っ白だったから。夢から覚めたらまた、一緒に雪を見ようと思った。
 だというのに、なんてことだ。
 二発が重なり合うような銃声の向こう側で、倒れ込んだのは彼女だけだった。
 胸に開いた穴の向こうに、弾けた血が見える。飛沫のような血が、雪を赤く汚していく。
 雪は赤かった。白くはない。彼女を傷付けたという手応えと共に、唐突にこれが夢ではないと気付いた。膝から崩れていく彼女の身体を反射的に抱きとめながら、悪い夢はどこにあるんだと必死で探した。
 雪が降っていた。飽くことなく、降り続いていた。
 足下に倒れた黒い影には、また雪が積もり始めていた。銃撃戦の後には付き物の微かな耳鳴りを携えて、俺は穴だらけの彼女を抱き締める。
 生きてはいた。けれどもうすぐ死ぬだろう。俺の放った銃弾は、肺や太い血管をいくつも傷付けたのだから。
 黒いコートの下は血溜まりだった。少しばかり、腹から吹きこぼれた内臓の一部も散らばっている。俺は訳も分からず、ほとんど呆然としていた。彼女は死にかけだというのに、勝ち誇ったような、それなのに泣きそうな顔で笑っている。
 どうして。
 俺は自分の声を聞いて、泣いていることに気が付いた。震える声で、どうして、空撃ちを。
 ―――どうして、空撃ちなんか。
 戦闘中、彼女の放ち続けた銃弾は確実に俺を傷付けた。なのに最後の最後で、彼女が俺に突き付けた銃には何も、入っては、いなかった。
 俺は泣きながら、どうして、と問い続けた。涙が彼女の顔にかかる。頬を涙が伝う。けれど、彼女も真実、泣いていたのだ。滅多に涙など流さなかった、気丈なあいつが。
『……こうするしか、なかった』
 どうして。
『ごめんな、クロウ……』
 どうして。
『終わったことになっている。だから、逃げろ』
 どうして。
『幸せに、なんな?ここじゃない、どこかで』
 どうして。
『……あたしは、願って、祈ってる。あんたのことを……』
 どうして。
『ずぅーっと、ずっと』
 どうして?
 
 ―――愛しているよ。
 
 どうして、俺には何も言わせてくれなかったのだろう。愛していたのに。誰よりも大切な人だったのに。しんしんしん。冷たくなった彼女の身体に雪が積もっていく。真っ白い顔に赤い血を飛ばしながら彼女はただただ死んでいる。
 そんな、馬鹿な。
 雪は黙り込んだ。静かに降り続く。そんな馬鹿な。こんなにも汚された雪だなんて。誰が汚した?彼女、それから俺?
 そんな馬鹿な。誰も答えない。雪は黙り込んだ。彼女は死んでいる。もう何の気配もなかった。
 
 俺は、どうして自分だけ生きているんだろうと、応えない何かに向かって問い続けた。