風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery
Night observation - 死んだ魚のような眼で -

 今日は月が明るい。外灯が落ちきった道を、白い息こぼしながら必死に走った。体育の授業さえ真面目に受けない俺が。コートだけ引っ掛けて、着替えるのも面倒だから部屋着のまま。冬の夜の冷たさを、手袋もない指先に浸しながら、走る。
 行ってしまった。ならばもう追う術はない。だが、だからといって諦められるものでもなかった。ようやく見せた物を、簡単に手放せるほど諦めがいいわけではない。
 いるとしたら、もしもまだこの學園を彷徨っているのだとしたら、遺跡だ。確証はないが自信はあった。数ヶ月で知った葉佩九龍と今日突き付けられたあいつの一番奥を考えれば、そこしかなかった。
 果たして、遺跡にはロープが下がったままになっている。さっき出てきたときに九龍は片付けたはずだった。いる。あいつがまだ、この下に。
 一気に滑り降りる。手の皮が荒縄に負けて盛大に破けるが、寒さのせいで感覚がない。痛み出すのはもう少し後だ。それに今、痛みなど放り投げたところでまったく構わなかった。
 遺跡の中を、俺は九龍だけを探して走った。いつものように、あいつを朝、遺跡に呼びに来るときのように、飛び込む区画には一体の化人もいない。どこにもいない。イコール、あいつの足跡だ。
 危険のなくなった抜け殻の遺跡を駆けずり回りながら、俺のどこかが言う。結局は、最後は、こうなるのに、と。ああ、分かっている。最後はこうなる。どんな路を征こうとも、あいつはここを去っていく。(生きてか死んでかは分からないけれど。)
 それでも―――俺の手で決着を付けたかったのだ。
 他の《墓守》でもない、逃げという選択でもない、俺自身の手で、最後は。
 そのときまではここにいなければいけないのだ。あいつは。葉佩九龍は。あの、どす昏い眼をした男は。
 勝手なのは元からだ。自己中の自覚くらいある。だから何だ。それが、あいつを繋ぎ止めてはいけない理由にはならない。ならないのだ。誰にも文句なんざ言わせてたまるか。
 ならば、さて。あいつを見つけて俺はどうするのだろうか。行かせないのは、決定事項だ。だがどうやって。あんな底の見えない眼をした九龍に、俺は何をすればいいのだろう。
 傷付けたいわけではない。優しくしたいわけでもない。ただ、隣に立ちたいだけなのかもしれない。
 隣であいつがどんなものを見て何を感じて、征き着く最後の最後まで。そこに何があるのか知りもしない九龍が、深淵にたどり着いたとき一体どんな眼をするのか。
 その時までに自分の想いがどう変わっているのかなどは知る由もない。
 確かめるには最後まで隣に立っていなければならないし、それには九龍が必要だ。いなくなる、など有り得ない。
 全ての部屋を見て回り、結局今日回った無機質な区画の中央動力室に辿り着く。とにかく開いている部屋という部屋をすべて見て回る。だがどこもかしこも化人のいない静まりかえった部屋ばかり。毒ガスの充満していた部屋も、落とし穴のあった通路も。俺は迷子になった土竜の気分だ。
 俺の手は、ここに来てようやく痛み出した。魂の井戸には寄っていない。あいつは絶対、あの癒しの間に立ち寄らないことを知っているからだ。
 だとすれば、暗闇の中か、その向こう。
 いい加減息切れも激しくなり、部屋に入る前に呼吸を整えた。肺に満ちる空気はいつの間にか熱っぽく揺れていた。あれほど凍えていたというのに。
 噎せながら、アロマパイプを取り出して銜える。火を着けて、肺を匂いで満たす。大きく息をついて、扉を開けた。
 真っ暗闇の中には、濃い火薬と機械オイルの臭いが漂っていた。人の気配はないが、それでもついさっきまで何かがいたことは分かる。恐らくは九龍だ。すぐそこに、あいつはいるに違いない。
 傷の付いた壁を手探りで伝い、触れた扉を開けた。
 さっきよりも明るい。それでも薄闇に近い部屋の中央に、誰かが立っている。足下には今し方滅されたのであろう化人が、最後の残滓を震わせている。それも直に、灰のようにばらばらと消えていった。
 立っていたのは、黒いロングコートの男。と言うよりも、少年。後ろ姿。片手には銃を握っている。腰に提げた少し大きめの銃は、さっきも使っていた。
 黒尽くめの九龍は、ゆっくりとこっちを振り返った。
 怖気の走るような昏い瞳。澱んで歪んだ、死んだ魚のような眼。そうか、あれはここまで深かったのかと、俺は認識の甘さに身震いした。
 九龍は血塗れの手を握り締めるようにして、佇んでいた。
 間に合った。
 
 ―――間に合った。

*  *  *

 何しに、来た。
 九龍は抑揚のない声で言った。普段より、かなりトーンの低い声なのに、無理に出している感じはしない。ただただ表情のない声だった。
 おそらくは戦闘の後だろうに、呼吸一つ乱さずに、大きく息を吐き出した。あまりの深さに、遺跡に眠る何かが溜め息をついたのかと錯覚する。
 九龍はするりと俺から視線を外した。銃を操作しようとして、自分の手の傷に気付いたような素振り。ここからではよく分からないが、一度目に潰したときよりは軽傷らしい。少なくとも血が滴り落ちたりはしない。
 無表情のまま手を握ったり開いたりする九龍は、痛みを顔に浮かべることはなかった。俺は、痛切にその手を握りつぶしたい、と思った。
「部屋を、見た」
 けれど俺の口から出てきたのはそんなことではなく。
「荷物ばかりだ。……どういうつもりだよ」
「不法侵入か。それは、犯罪」
「………」
「とかいうことも、俺に言う資格はないけど。真っ当な人間しか、言えない」
 もう一度俺に視線を合わせてくる。真正面から見合って、九龍の言う『真っ当さ』が、目の前の真っ黒い男には微塵もないことに気が付いた。なぜ気が付かなかったのか、どこからどう見ても、俺たち日本の高校生とは格段に違う場所にいる。
 俺はふと、いつか観た映画を思い出す。生きたままコールタール溜まりに沈められる男。頭まで黒に浸かりながら、あんな眼をして地上を見上げていた。
 俺は考えを追い出す。その男が死ぬ瞬間の映像を思い出したからだ。生きたように死んでいた。眼を見開いたまま。
「そんなことはどうだっていい。お前、あの荷物は何だよ」
「それを聞くために、あんた、ここまで来たのか。もうすぐ朝が始まる時間に」
 目の前の男が俺を『あんた』と呼称したことに内心酷い衝撃を受ける。こんな凍えた声であんた、と言われたのは初めてだ。
「早く寮に戻って眠った方がいい」
「………で、お前は」
「起きたとき、ほとんど元に戻っているはずだ」
 質問の答えになってないようだが、実は的確に応えていた。元に戻る……あいつが、来る前にと言うことだろう?墓を荒らす者がいなかった頃に戻る。つまり、九龍は消える。
「悪い夢だと思って、忘れろ」
「ここ数ヶ月のこと、全部か?」
「あんたは頭は悪くない。俺の言っている意味、分かるだろ」
「頭は、って。他は悪いのかよ」
「他人との距離の測り方と……鼻、がな」
 ほんの僅か、九龍は唇を吊り上げる。まるで見たことのない、大人びた笑い方だった。よく見なければ、笑ったかどうかすら見逃しそうな小さな笑いだった。笑っているのに眼だけはいつまでも死んでいた。
「ふざけろ。アロマとカレーだけってか?んなわけあるか」
「どうだか。白岐幽花を見失わなかったくせに」
 九龍は無事な方の手で銃を握ったまま、しまおうとしない。俺には九龍の真意が見えなかった。いつもなら全て映すはずの眼の中が閉塞しているせいだ。
 殺すぞ、と言った九龍の声が頭の中で響いた。今の九龍になら、殺されても納得できる気がする。ああ、人殺しだったんだな、と。
 ふと、九龍は俯きがちに視線を落とす。伏せた睫毛が意外に長かったことに、少しばかり驚いた。唇は引き締まり、一瞬の間の後、
「―――俺は、降りる」
「降りる、って……」
「もうここには、いられない」
 俺は思わず一歩、踏み出していた。指先に妙な力が籠もる。今すぐにでも飛び出してあいつを捕まえておきたいのに、身体は何かに押しとどめられるように動かない。
「……《宝探し屋》としての、仕事は」
「引き継ぎ手続きを取るさ」
「この學園から手を引くということか」
 九龍は、いや、と首を振った。その振り方も、普段の犬の身震いのような振り方ではない。微かに首を、傾けるだけ。
「調査は続行されるはずだ」
「………」
「次に来る協会員は普通の、まともな人だから安心しろ。ロゼッタ協会ってのは本当はそこそこにまともな組織だ」
「まるで、お前がまともじゃないような言い種だな」
「事実、だろ」
 俺の身体はまだうまく動かなかった。立ち止まった間に冬の空気がコートの中にまで侵入してきたかのように凍えていた。だが、それでもどうにか、九龍の立つ部屋の中央までは歩く。途中視界に入るのは、一度目に来たときに爆破された壁。俺はあの時あの場所から動かなかった。
 今は、そうもしていられない。
 異様な威圧感と存在感を発していた立ち姿も、すぐ近くまでいけば普段と変わらない。小柄で、視線も下げなければいけない。自然、俺を見上げるようになった九龍は、また唇を吊り上げた。ほんの僅か、注視しなければ分からないような微量さで。
「あんたの隣で変な騒ぎが起こることは、もうない」
 ぞ、っとした。悪い夢は今までじゃない。九龍がいなくなるという仮定のこれからだ。それが悪い夢ならいい。だが、覚めない夢ならどうなる?悪夢が現実になるならそれは、夢より尚酷い。
 これからは夢じゃない。今、だって夢じゃない。確かめるように、俺は九龍に手を伸ばした。赤く、皮のずり剥けた手の平で柔らかさを讃えた髪に、
 触れる、寸前。
「―――触るな」
 死んでいた眼が、刺すような硬度で俺を視た。周囲の空気が、一瞬で色を落としたのかと錯覚するほどの強さ。俺の手は、触れる間近で止まりそうになる。
「それ以上、来るな」
 指先に心臓が灯ったようだった。触れたい。けれど、この衝動を急かす根幹は何だ?俺は自問する。九龍の声を聞きながら、自分に問い続ける。
「……降りる、理由は」
 強い力で空気を握りながら、俺は辛うじてそれだけを絞り出した。九龍は静かな呼吸を続けながら、言葉を繋げる。目立たないほど小振りなのど仏が微かに上下するのが見えた。
「解らないんだよ……。ここの人間のことが、何一つ解らない。恐ろしいまでに。どうやったらあんな風になれるのか。俺には想像すらできない。日本ていうのは凄い国だ。皆が皆、あまりに尊くできあがっている。触ることすら憚れるほどに」
 九龍は血にまみれた方の手を少しばかり掲げて見せた。手を、俺の手に重ねようとし、直前でやめた。
「そ、んなに、日本が、凄い場所か?」
「少なくとも俺にはそう思える。けれど、そういうことだけじゃない。俺には俺の場所があった。それがここではないことを思い出しただけだ」
 中国。香港。九龍半島にそびえたかつての大スラム街。アジアのゴミ溜め。
 九龍城砦。俺にとってはファンタジーみたいな場所だ。だがそれは、九龍の現実だった。そういうことなのだ。それで?ここは、九龍にとってのファンタジーだってか。俺にはどうしようもない現実感を突き付けて来るというのに。
「ここには本当に様々なものが満ちすぎていて、俺には居心地が悪い」
「その場所には何もなかったとでもいうのか」
 その時の九龍の表情を、俺はどう表現していいのか分からなかった。どんな言葉も違う気がした。ただ敢えて、……敢えて言うなら、思い出の中で溺れて消えようとするような。唯一生きられるはずの水の中で、死んでしまったから溺れるように沈んでいく死んだ魚。
「卑下するわけじゃない。あそこだって悪くはなかった」
「……九龍」
「俺に必要な最低限のものは揃っていた」
「九龍」
「嘘ばかりの中にほんの少しだけ紛れる本当のものが見えていればよかった」
「―――九龍ッ!」
 とうとう俺は九龍に触れた。血塗れの手で、血塗れの手を掴んだのだ。九龍は呻きもしなかった。顔に苦痛を浮かべもしない。咄嗟に籠もった強い力を抜いていくころには、唯一痛みを示していた手の甲の強張りも消え去っていた。
 九龍は手を握り返すこともしなかったが……振り払うこともしなかった。繋がれた手を静かに見下ろし、何語か分からない言葉で呟く。俺にはその意味は分からなかったが、堪らない異国の匂いだけは伝わってきた。
 硬質な遺跡に響く、どこか別の国の言葉。閉塞しているはずなのに、音楽のように呻る遺跡の風はここまでも響いてきた。
 不意に、遠くへ来た気がした。
 九龍の手と繋がったまま、あいつが廻る場所へ飛ばされたようだった。俺はこの場所から離れることなどできないというのに。その時、なぜこんなことを思ったのかは解らない。
「九龍」
「もう、そう呼ぶこともなくなる」
「俺は認めない」
 冷たい指先の向こう、触れている血液の流動だけが温い。
「そうやって、あんたはこっちに踏み込んでくる」
 言葉はいくら拒絶しても。九龍の手から止まらずに流れてくる血液だけが、拒絶を拒み、俺に流れ込んでくる。
「俺はこの學園で、かなりの人間に踏み込んだ。資格もないくせに。だから、こうやって自分に踏み込まれるのも当然のことなのに、それを忘れてた。……もう二度と、他人に踏み込んだりしない。今回で懲りた」
「踏み込まれるのは、不快か」
「ああ。脳味噌の表面を爪で掻かれてる気分だ」
「これ以上、踏み込むと言ったら」
 九龍の手元で音がした。金属が擦れる微かな音だ。次の瞬間には、九龍は二、三歩後退さり、俺に向かって持っていた拳銃を突き付けていた。素早い動作だった。映画の中の主人公よりももっと、現実の殺し屋は凄腕らしい。
「俺は、踏み込まれたくないと言っている」
「……撃つのか」
「撃てるさ」
 手を繋いだまま、もう片方の手で離れようとする。沈んでいく場所から引き上げようとしながら、同じように沈んでいく。俺は、この手を離せない。
「撃てるのか、本当に」
「…………」
「撃てるはずがないだろ」
 沈むというなら引き上げる。逃げるというなら追い詰める。
 できないなら―――お前と同じ、場所に行く。
「お前は、俺たちを―――俺を、傷付けない」
 その時初めて、九龍の表情が歪んだ。俺が手の先に指を絡ませたからじゃない。外界からの刺激ではない、もっと奥の何かが疼いているような顔をしている。自分の中に宿った感情の正体が解らず、脳味噌が表情を決めかねているようだ。
「あんたは、」
 怒りや悔しさではないのかと、俺は思っていた。もしくは凄腕の殺し屋が、素人の戯れ事を鼻で笑うのか。
「俺を、解っていない」
 違うと気が付いたのは、虚ろだったはずの瞳孔が大きく開いたのを見たから。表情には大きく出さないものの、感情は相当昴ぶっているようで目の下には刷毛で掃いたような赤が浮かんでいた。
「何にも、」
 引き金に掛かる指に力が籠もる。
 死んだ魚の目には、何がある?何もない。何もないはずなのに、九龍は真っ黒い眼に薄い膜を浮かばせていた。それが涙だと分かって、そうしてそこに映っていた自分を見て、何もかも気が付いた。
 何もかも、だ。
「……解っていないッ!」


 ―――銃声が響いた。


 俺は何もかも解っていた。解ってしまった。放たれた銃弾の行き先も、肩越しの九龍がどんな顔をしているのかも、最後の最後まで繋がれた手の意味も、自分の中にあるものの意味も。
 酷い耳鳴りがしていて、遺跡の中でなっていた風の音もほとんど聞こえなくなっていた。九龍の片方の手は未だ俺と繋がったまま力無く降ろされており、もう片方の手は、俺の肩越しに伸ばされていた。
 耳の奥で、銃声がまだ木霊している。本当に酷い耳鳴りだと思った。九龍の身体を空いた腕で抱き締めながら、それでも、こんな程度の傷でこいつを繋ぎ止めておけるならそれでも構わないと、そんなことも思った。
 俺は、強い力で九龍の手を握ったりはしていない。だがおかしなことに、九龍は泣いていた。耳鳴りはしていたが、胸に伝わる感覚で泣いていることが解った。こっちの、九龍が、だ。
「……痛むのか?」
 おそらく見当違いだろうと分かっていながら、俺はそう訪ねた。答えがない、代わりに背後で銃が床に落ちる音を聞いた。降ろされた腕は、どこにも行き着くことなくだらりと垂れた。
 俺は九龍の後頭部を掌で軽く叩いた。九龍は微塵も動かずに、ただただ泣いている。今日はこいつを泣かせてばっかりだなと思いながら、カートリッジが燃え尽きるのを見て大きく息を吐き出した。
 やがて耳鳴りが止もうかというほどの時間が経ち、泣き声も耳に入ってくるようになった頃。
 喉の奥から絞り出すような声音で、九龍が何かを呟いた。
「俺は……」
「ああ」
「俺は……、甲太郎、俺は」
「おう」
「―――殺せるんだ、甲太郎も、バディのヤツらも」
 吐き出した途端に嗚咽し、身体の震えは激しくなる。俺はしっかり抱きとめながら、呼吸が苦しくならないように少しだけ上を向かせた。遺跡の中に、泣き声が響く。風の音ではない、生の声が。
 まだ違和感の残る耳の奥が、泣き声を深いところで揺らめかせる。まるで水の中にいるような。それが妙に官能的だ。
「昔、家族がいた」
 水の底の、深い場所。そんな暗がりで、二人きりで―――しかも男同士で抱き合って。
 九龍は泣いている。告げる場所を選んで……俺を、選んだ。
「その女は、ある時、死んだ」
 踏み込まれたくないと言いながらここを、俺を、選んで今は泣きじゃくっている。死んだ魚は蘇った。中にあるものを全て、押し流そうとしている。
「全てを捨てようとして」
 俺は、強く九龍を抱き締める。保健室では「いなくなった」と言っていた。今は死んだとはっきり言った。この違いが分からないほど俺は間抜けじゃない。
 垂れていた腕は、何かに耐えられなくなったように動いた。控え目に、けれど縋るように俺のコートを掴んだ。小さいのに、頑なな力だった。
「だから俺が」
 不意に、消えたはずのラベンダーが強く香った。抱き締めている九龍の向こうに、見えるはずのない白い影が見えた。俺の匂いじゃない。俺じゃない……けれどラベンダーを纏う。白い影。佇む立ち姿は、いつか知っていた女のそれ。
「あんなに大切だったのに、……俺が」
 幻影だと知っている。輪郭さえもぼやけているのに、今にも消えそうな笑顔の印象だけが強く脳内に焼き付いていた。彼女は笑っていた。胸元を血で染めて、微笑っていた。
 目を閉じる。幻影は瞼の向こうにもいた。
「甲太郎」
 九龍が泣いている。自分の名前を呼ばれたと気付いた途端、幻影は水に溶かしたように消えていった。こぽこぽと何かが流れる音がする。九龍が泣いていた。俺はあいつの耳元に唇を寄せた。呼吸が掛かり合うほど近くで。
 震えた声が俺に告げる。
 
 
「俺が、―――殺した」
 
 
 九龍は小柄で、抱き締めているだけならば本当に頼りない。俺は、こんな小さな身体一つで、こいつが何をそんなに抱え込んできたのか知りたかった。知った後、どうするのかなんて考えてもいなかった。
 だが知ってしまった今、自分の中に何があるのかはっきり自覚した。痛みを与えて呻かせ喘がせ泣かせて本音も過去も吐き出すほどに追い詰めて。最後に何が待っているのかも全て、解った上で俺はこの小柄で黒尽くめの葉佩九龍という男を、

 そこまで考えて、俺は九龍の指が俺の指を握りかえしていることに気が付いた。
 
 指先は息の止まるような酷い感覚を俺に伝えてきた。
 結局のところは、それが俺の抱く全てだったのだ。