風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery 六番目の小夜子 - 8 -

 魂の井戸に入ると、傷はまるでなかったかのように治ってしまった。痛みの欠片もない。傷の名残は破れた革グローブだけ。これは長く使ってたものだから廃棄はちょっと惜しいけど、こうなったら使えない。部屋から予備を引っ張ってきて装着。まだ革が馴染みきってないけど、前もってちゃんとなめしてあるから大丈夫。
 弾薬、爆弾の補充、銃のメンテ、火力不足を補うためのFN・P90PDWの装備。全部が済んで、甲太郎と白岐ちゃんにそれぞれ抗弾ベストとケブラーアーマーを渡して着せた。甲太郎はごねたけど、こればかりは着てもらわなければ先に行かないとごねて突っぱねた。(それとも放射能保護スーツを着てダースベーダーみたいに完全武装で行きますか、と言ったらようやく着てくれた。)もしもの時のために煙幕瓶と催涙瓶も持たせておく。自衛ね、自衛。
 化人創成の間は、相変わらず薄暗い。いつもと違うのは、カビ臭い(もしくは化学薬品臭かったり火薬臭い)はずの部屋が、妙に甘い臭いで満たされていること。けれど、好きな甘さじゃない。夜会のときはもっと、好きな甘さだったはずなのに。
「ふふ……待っていたわ」
「どもー」
「……あなた、私と会うときはいつも酷い顔してるわね」
 少し離れたところに立ってる双樹姐さんは何だか呆れてるようだ。そういえばこの間は寝不足の顔だったっけ。今日は泣き明かし。散々だな俺。
「ここに来るまでに何があったのかしら?墓守の化人たち?それとも待ち受けていた罠?」
「あ、こいつこいつ」
「オイッ!」
 甲太郎を指すと絶妙なタイミングでツッコミが入る。でも俺、間違ってないっしょ?泣かせたのは甲太郎。
「あら、仲間割れ?」
「やー、遅い時間に引っ張り出したから不機嫌でさ。当たられて泣かされる可哀相な俺」
 めそり、と泣き真似をしてみせると、姐さんは妖艶としか言いようのない唇を綺麗に吊り上げた。さっきよりも鋭く、妖しげに。
「ならば、もう分かったでしょう?あなたのしていることは誰にとっても迷惑なのよ。諦めて引き返す気にはならないかしら?」
「迷惑ばらまいてる自覚はあるけどね。ここまできてランデブーのドタキャンはちょっと傷付くな、俺」
「……そうね。あなたには、あなたの理由がある」
「そういうこと。今日はね、戻れないんです。俺はあなたが嫌いじゃない。カイチョーのためにっていう理由がいい。嘘臭くない。でも一つだけ、大きく間違えた。俺の記憶を弄ったことだ。あれはいただけない。ちょーっと、てっぺんきた。だからきっちり返すもんは返す。それが、俺のケリの付け方」
 言いながら銃を抜いた。ベレッタM92FS。今日はこの二挺拳銃。室内という決まった区画での戦闘では、このスタイル、ちょっと強い。ゴーグルを下げ、戦闘態勢万端になったのを見て取ったのか、双樹姐さんはパチンと指を鳴らすと優雅な足取りで後方へ去っていく。
 辺りは甘い臭いで飽和寸前。いつの間にか現れていたでかい蛇が、しゅるしゅるとこちらに向かってくる。
 まずはすぐ傍にいる蛇に銃撃を散らす。バシュ、パシャっと着弾音が響く事に蛇の肉は削がれていく。蛇の動きは早くない。あまり体力を使わないで相手ができる。二体を倒したところでマガジンキャッチ、銃弾補充。向かってくる蛇にも同じように対処。あっと言う間に内臓を撒き散らしながら消えていった。
 さて。
「あら、これだけの数じゃつまらなかったかしら?」
「俺を倒したいなら一個小隊持ってきて♪」
 奇襲がハマれば一人で倒せます、なぁんて、空の弾倉落としながら、姐さんと対峙する。彼女をいくら銃撃しても、死なないことはもう知っている。死なないなら、容赦はしない。
「もしくはお宅のワンコ、三匹ほど」
「五匹でなくて?」
「あいつ、あれで強いよ?一ヶ月前なら五匹でも勝てた。もう、三匹でも危ない」
「一対一なら?」
「そりゃ、勝つよ」
 まーだ。負けませんよ。あのスポーツ根性が抜けない限り、ね。でもアレに人殺し根性が備わるのも、なんか嫌だけど。
「素敵な自信ね」
「長年培ってきた経験てヤツがございますので」
「でも……《生徒会》の力を、あんなものだと思ってもらっては困るわ」
「へぇ」
 夷澤だって、あんなものって程じゃないよ?ちょーっと、過小評価しすぎでない?
「大丈夫よ。苦しまずに逝かせてあげる」
「そりゃ、楽しみ」
「葉佩……。あなたに最高の夢を見せてあげるわ―――」
 臭いが濃くなる。いきなりまずいな、頭痛がする。頭痛は嫌いだ。俺、脳味噌ダメージ系、弱いの。ついでに綺麗なお姉さんにもね。
 近付いてきた彼女からは強い香りがした。直感でまずいと感じ、口元と鼻を押さえながら飛び退さる。威嚇に数発。有効打にならないのは分かっている。だか臭いの発散を止めるには気を散らせる必要がある。
 顔を庇って攻撃モーションを解いた彼女に接近、こうなったらこっちのもんだ。弾をあるだけ叩き込み、再度臭いを発しようとしたところで腹部と首に連続蹴撃を見舞って離脱。離れるだけ離れて弾薬を入れ替え、攻撃の機会を窺う。
 双樹姐さんは腹を押さえて二、三度咳き込むと、ものごっつい不機嫌という顔でこっちを睨んだ。
「……普通、蹴るかしら、女の子を」
「顔、殴らなかっただけマシでしょ」
「どっちもどっちよ。―――それよりも、葉佩。今度はこちらの番よ」
「何……、!? っ―――」
 臭いの感触は、脳味噌に染み込んでいる。吸った……としても微量なはず、それなのに、身体が、指先が、痺れている。
「言ったでしょう、葉佩。私たちの力、あんなものではないと」
「っぽい、ねぇ……」
 右手からベレッタが落ちた。潰れた方の手だ。けれどこの痺れは後遺症なんかじゃない。もっと、脳味噌の奥の方からくる痺れ。
「安心なさい。その痺れは心臓までは止めはしない。……たっぷり可愛がってから、始末することにするわ」
「ジョー、ダン、きっついぜ。俺、SMごっこ、は、趣味じゃなくて、ね」
 なんてふざけながらも舌は回らなくなってくる。膝はとうに床に着いていた。
 俺は頭の中で算段を立てる。薬の系統の利きはいい方じゃない。違うな、利くことは利くけど抜けが早い。麻痺……抜けるまでにどれだけ掛かるか。量は少ないはずだ。それで全身作用なのだから回りが早い、ってヤツだ。ならば効果が切れるまでそう長くは掛からない。
 自由が戻るまで、逃れきれるか……?
 双樹姐さんは優雅な足取りでこっちへ歩いてくる。綺麗な指が俺の顎を持ち上げた。ゴーグルをむしり取られて、H.A.N.Tからの敵熱源情報が入らなくなる。
「あなたみたいな眼をした子を屈服させるのはとてもいい気分よ」
 そりゃ野犬を飼い慣らした気分に近いに違いない。思っていても、もう口が動かないのが現状なんだけど。
「さて―――どうやって遊ぼうかしら?」
 変な話、俺は女の人にとっ捕まると大抵このパターン。なんなんだろーなー、もう。そんなにいびりたい顔してんだろうか。
「もう一度、泣かせてあげましょうか」
 臭いが、一気に膨れあがる。呼吸を止めなくては、そう考えてできないことに気が付いた。気管が思い通りに動かない。痺れは身体の内側までに回ってくるのかもしれない。このままだと失禁確実?最悪。
 とうとう膝着いてられなくなって倒れ込む―――寸前。
 突如、目の前で何かが炸裂する。判別するよりも前に目に染みるきつい臭いと吹き上がる噴煙に襲われる。
 俺が作った催涙瓶と煙幕瓶だと気付いたときには駆け寄ってきていた白岐ちゃんに腕を取られて支えられた。
「九龍さん、こっちに!」
 強烈な臭いの応酬の中で、自分の身体の自由が戻ってくるのが分かる。
 思い出した。彼女は《抱香師》、身体や神経に作用するものは、全て臭いによって作られる。キツい酢と中国酒の臭い、加えて舞い散る唐辛子の粉末に俺の鼻はもう決壊。双樹姐さんの臭いなんてどっかにすっ飛んだ。自作で何だけど、とんでもねぇもん作ったな俺。
 姐さんから、というより凄まじい臭いから逃げるために白岐ちゃんに支えられて部屋の隅まで退避。追って、口元を押さえた甲太郎がゴーグルと銃を拾って駆けてくる。
「大、丈夫か、くろ、あー、クソ、酷い臭いだ」
「ゴー、グル、プリーズ……ゲホッ」
「ほらよッ」
 ゴーグルを装着、全身の痺れがなくなっていることを確認。姐さんの熱源反応はだいぶ遠い。彼女も彼女で退避したらしい。匂いに敏感だからこそ耐えられなかったのかもしれない。
 だとすれば、噴煙で視界の悪い今がチャンスだ。
 俺は二人に礼を言って飛び出した。親指で銃を操作し、撃てる状態に持っていく。白く濁った(しかも臭い)視界の中に突っ込み、彼女の姿を捕らえた。驚く顔が見える。ベレッタは、交互に弾薬を吐き出し続けた。白靄の中に黒い砂が散りばめられる。
「あうッ……な、何……?あたしの身体が……、ああああァァッ!!」
 倒れ込む彼女の身体を支え、横抱きで担ぎ上げる。(胸のボリュームを加味すると肩に担ぎ上げるなんてムリだもんよ。)意識は完全に落ちている。あの胸の割には軽めの身体を、新たに現れた化人から離れた場所に横たえた。
 バディの二人も呼び寄せ、這ってくる蛇を掃討。さっきよりも少しばかり数が多いけれど、どうにか駆除完了。そこで、今回の大ボスの姿を視認した。
 図体がでかいのは他の奴らと同じ。片腕が異様に太く、逆の手には出刃包丁を握っている。相手の攻撃が分からない以上、適当に近付くのはどうかなーと思ったけど、その風体から近接タイプなんじゃないかと仮定してみる。ひとっ飛びで距離を詰めた途端、バカでかい腕からの右フック、フルスイング。それをバックステップで回避。
 遠距離に離れて何か特殊攻撃を撃ってくるかと思ったが、そうでもなさげだ。だとしたら、こいつの出番。武装を腰に引っ掛けていたP90にチェンジ。
 P90・PDW(パーソナル・ディフェンス・ウェポン)。FN社の、5.7mmという小降りの弾薬を使う銃。この弾、人の身体とかに当たると弾丸が回転するんだよね。だから貫通せずに体内の傷口を広げる。人体抑止力が高いから貫通による二次被害も少ないし、このサイズにしては信じられないほどの弾丸初速で威力も抜群。
 小柄なじゃじゃ馬。サブマシンガンの中ではお気に入りの一挺だ。銃身の上部に半透明プラスチックマガジンを装填。準備、完了。
 ハンドガンよりも少しロングレンジでの戦いとなり、相手が近接しかできない分、何の危険もなく斃せるはず。
 P90を散らす。
 どうやら弱点は頭らしい。次々に降ってくるヘヴィパンチを後ろに避けながら、火力で押す。撃ち尽くしたところで離脱、マガジンを取り替えて敵の攻撃が届かないところからの連射。
 撃ちきったところで、墓守は倒れた。呆気ねー!ベルギー娘万歳。
 後に現れたのは、さっきの巨体からは想像の付かない可愛らしいぬいぐるみ。クマの。テディベア、ってヤツ?
 拾った後にやってくる記憶はどんなものだろう。勝手に過去を覗く僅かな罪悪感を抱きながら、俺はそれを手に取った。

*  *  *

「ママ、待って!」
 突然耳に飛び込んできたのは、少女の声。
 いつの間にか俺はどこかの家の廊下に立っていた。広くて、豪華だけれど……何かが足りない、そんな家。
「行かないで……、ちゃんと良い子にするからッ、あたしを置いていかないで!!」
 声のする方へ向かう。女の子らしい彩りの部屋に、部屋の主らしき少女がいた。ベッドに突っ伏して泣いている。
「あたしとパパのところに帰ってきてよ……ママ……」
 絞り出すような声で泣いているのは、おそらく双樹姐さんの子どもの頃だ。そこにもう一つ声がやってくる。
「―――咲重。またわがままを言って家政婦さんを困らせたのかい?」
「だって、パパ―――」
 部屋に現れたもう一人は、ベッドから起き上がった姐さんをそっと抱き締めた。
 彼女が『ママ』と言っていたのは、家政婦さんのことだったのか。俺には母親の記憶も父親の記憶も酷く薄いけれど、この記憶の中にもそういうものが足りない気がする。
「……すまない。パパの仕事が忙しいばっかりに、お前に寂しい思いをさせて……」
 ああ、そうか。何か足りない、と思った何かは、姐さんの満たされてないどこかなのだ。俺はこんな豪奢な家に住んだことはないけれど、ここにいる彼女くらいの歳の頃はいつも満たされていた。両親はとっくにいなかったけれど、寂しい、なんて思わなかった。
「そうだ、今日は咲重におみやげがあるんだよ。ほら―――」
「わァ……クマさんのぬいぐるみ!!」
 その時、感覚の中に『匂い』が飛び込んできた。優しくて、甘やかで、穏やかな。まるで夜会や、屋上で会ったときに感じた彼女の匂い。
「あれ……?このクマさん、パパと同じ匂いがする」
「そうだよ。これでもう、一人の時も寂しくないね?」
「うん!!」
 何か足りない、そう思っていた部分が満たされていると感じるのは、きっと、彼女が満たされたからだ。
 足りないものは、何だったんだろう?愛とか?そういうもの?寂しさが埋まったとか?
 そういえば。
 あいつがいなくなってから、足りなくなった自分の部分をどうやって埋めていただろう。銃に触れて、口調を重ねて、コーヒーの飲み方も口癖も笑い方も真似た。ほとんどコピーのような自分になって、
 俺は、満たされたっけ?
 失った重さに、耐えられたんだっけ?
 
 双樹姐さんの記憶から、追い出されるときになって、思い出す。
 
 銃のことを。父親が俺に持たせ、母親が守り、あいつが、直し、慈しむことを教えてくれた銃。
 
 ―――これで、俺は満たされたっけ?

*  *  *

 後から聞いた話なんだけど、テディベアを片手に意識をどっかにすっ飛ばしていた俺は、相当に不気味だったらしい。左手にサブマシンガンを、右手にぬいぐるみを。シュールやね。
 戦闘が終わってからも気を失ったままの双樹姐さんを抱えて、俺たちは魂の井戸に戻った。途中、通路から通路に跳んでいかなくちゃいけないところで、思わずだと思うんだけど首に腕が回った辺り、たぶんどっかで目は醒めてたんだろうけどね。
 魂の井戸に入ったときには首に腕を回したまま、俺を見上げていた。
「姫様、お加減いかがでやんすか」
「まあまあ、ってとこかしら」
 高いヒールに気を付けて床に降ろすと、彼女はいつも通りの勝ち気な視線に少しだけの困惑を混ぜてこっちを見下ろしてきた。踵高いの履かれるとかなり目線の低くなる俺。
「ハイ。コレ」
 白岐ちゃんが持ってきてくれたぬいぐるみを手渡すと、その眼は大きく見開かれた。
「これは……。あたしの……ぬいぐるみ?」
 そうしてぎゅっと、抱き締める。まるで記憶の向こうで、姐さんのお父さんが彼女にそうしたように。思い出を、抱くように。
「パパの香水……」
「いい匂い、だよね」
「そう―――どんな時も、その香りがあれば寂しくなかった。優しくて穏やかな気持ちになれる香り―――。パパの……匂い」
 少し、羨ましいと思った。自分の根底に、思い出を呼び起こす要因、彼女の場合は『匂い』っていうのがあるということ。それも、匂い一つで足りないものが満たされるという。
 俺は、匂いや味や感触じゃ、足りない。自分の中にあるもの、周りにあるもの総動員しても足りないなあって思う。だから少し、羨ましい。
「あたし……思い出してしまったのね。―――ごめんなさい、阿門様」
「…………」
 それを聞いて、凹み気味だったところが更に凹。な、なんていうか、俺なんかが見ちゃってゴメンナサイ、みたいな。彼女が《生徒会》たる根底をぽっきり折っちゃったような気分だ。コレは他の《執行委員》たちにも言えることだけど。そういう意味では大変に申し訳ない。
「まさか、あたしの弱さをあなたに知られることになるとは思わなかったわ。阿門様にだからこそ預けた私の弱い心……、葉佩」
「うぃ」
「この責任は、取ってくれるんでしょうね?」
 白岐ちゃんが、俺には似合わないって言った責任という言葉。俺は、ちょっと困った。責任なんて取りようがないから。責任とか、そういうのでお互い縛っても確実にいいことないから。幸せじゃ、ないはずだから。
 それに―――俺にはもう、無理だから。
「姐さんはさ、責任とかいうのでどうこうするの、好きなの?」
「え?」
「もしも、だよ?カイチョーとずっと一緒にいられるとしても、その理由が『責任』だったら、嫌じゃない?」
 その辺、人の好き嫌いあるでしょうけど、俺なら嫌だ。責任感で隣に立たれたらたぶん、逃げる。
 責任とかは、仕事だけで充分なんです。人間関係にそんなもん、持ち込まれたくないのです。
「俺は、そういうの、責任なしでやりたいのよ。約束とか、一緒にいるとか、そーゆーの」
「それは……ねえ?遠回しに、好きになったら一緒にいてくれるという意味かしら?」
「片っぽがそれでも困るんだけどね」
 すると、姐さんは俺の後ろに立つ二人、甲太郎と白岐ちゃんに視線を投げる。二人がどういう顔をしてるのかは分からないけど、姐さんはなんだか楽しそうだ。
「あなたの隣に立つということは、そういう意味なのね」
「は?」
「いいわ。あなたにこれをあげる」
 差し出されたのは連絡先とプリクラ。(危ねえ鼻血吹く!!悩殺ショットですよ)
 ―――って、ちょっと待てぇッ!!
「な、なななん、な、何で!?これはさすがにまずいでしょ!カイチョーに嫌われちゃうデスヨ!?」
「失礼ね。阿門様はこんなことでお責めになったりはしないわ」
「そ、そーですか……ってそうじゃないッ!そういうことじゃなくて、さ。……だって、こうするってことはこれから神鳳サンとか夷澤とか、」
「あらいいのよ、あんなのはどうでも」
「でもカイチョーとだって、」
 戦うことになるかもよ、と言いかけて、ああそりゃねえやと思い直した。彼女がこれから、《生徒会》の連中と戦うことはないんだ。だって、俺がそうすればいいんだもん。
「……じゃあ、ありがたく、いただいておきます」
「そうそう。大人しくそうしておけばいいのよ。あたしに会いたくなったらいつでも連絡して。ふふ……待ってるわ」
 彼女は少しだけ屈むと、俺と視線を合わせてきて―――突然。
「おわッ!!」
 頬に与えられた感触はめちゃくちゃに柔らかい。唇が離れた後も彼女はごくごく近い距離で、艶やかに笑ってみせる。
「……あなたなら、触れることができるかもしれない。あたしたちでさえ近付くことのできなかったあの方の深淵に……」
「カ、カイチョー、の?」
「葉佩、《秘宝》を、真実を手に入れなさい。あなただけの《秘宝》を」
 赤みがかった綺麗な眼。彼女を見てると、なんとなく『風と共に去りぬ』を思い出す。ヴィヴィアン・リーのような、スカーレット・オハラのような。眼力だけでこれだけの説得力を持つ人もそうはいない。
 圧倒されて顔に血が集まってくるのを感じていると、さっきまで不機嫌オーラをどうにか表に出さずに押しとどめていたヤツが首根っこを引っ掴んだ。首が一気に絞まる。
「……いつまで顔近づけてんだ」
「あら。私が葉佩に近付くのにあなたの許可がいるとでも?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
 空中火花激突。そういえばこの二人、知り合いっぽいんだよね。姐さんも甲太郎のことはちゃんと、俺の知らないことまで知ってた感じだし。当然なんだけど、この學園には俺の知らない過去というものがあるわけで。
 今となっては詮索する気もないけれど。とにかくもう宵っ張りもいいとこだ。遺跡の中に漂う夜の空気は確実に濃くなっている。早く戻って、みんなはベッドとフォーリンラブしてください。
 睨み合いをどうにか収めて、四人仲良く地上へ向かう。さすがにスキップの似合うメンツじゃないけど、俺はちょっと、この感じが好きだと思った。
 双樹姐さんが俺の頭を撫でて、甲太郎が威嚇して、白岐ちゃんがそれを見てそっと笑う。平和じゃないか。とても平和だ。俺は、笑いながら思う。平和はとても素敵なことだ、と。
 こういう感じがずーっと、向こうまで続いていけばいいんだ。この學園の平穏というもの。カイチョーが守ろうとして、俺が乱してきたもの。そんなつもりはなかったけれど、結局はそういうことなんだろ?
 姐さんが俺の味方をしてくれるのは、よくないことだ。俺の生きてきた世界では、裏切りは死、だから。彼女がどんなに大丈夫だと思っても、カイチョーが絶対に彼女に危害を加えないとしても。生まれた歪みは戻らない。裏切り者、という人間を数え切れないほど『始末』してきた俺には分かる。
 この學園はそういう世界じゃないって分かってる。分かってるからこそ、ここを、甘やかで優しい、今の彼女が持つ匂いみたいな世界のままにしておかなくちゃいけない。
「うっし、それじゃあここで、解散!」
 墓地まで這い上がって、夜の散歩がてらゆっくり寮の前まで戻って。女子寮の寮長だという双樹姐さんに白岐ちゃんは任せ、俺は甲太郎と男子寮に戻る。
 甲太郎は、結局何も聞いてはこなかった。非常階段から部屋に戻るまでの間、なぁんにも。昼間の保健室でのこと、聞かれると思って少し覚悟してたのに。
 寮の廊下は静まりかえってて、当然だけど誰もいなかった。時間はかなり遅い。甲太郎は、さっきから何度もあくびを繰り返す。
「それでは、お疲れ様でした」
「ああ」
「ゆっくり寝てくださいな」
「言われなくてもそうさせてもらうさ」
 最後に大あくびを一発、部屋に入ろうとする甲太郎の後ろ姿を見て、俺はまた少し凹む。
「……肩」
「あ?」
「痛くない?」
「……ああ」
「よかった。制服は、後で弁償するから」
「別にいいさ。お前のせいってわけでもない。俺が勝手にやったことだから気にすんな」
「そういうわけにも、ね」
 曖昧に笑って見せて、俺は甲太郎に手を振った。
「じゃあね、甲太郎。聴日見!」
「……テンヤッギン?」
「ああ、えっとね、また明日ねって意味」
 お勉強になりましたか?これにて本日の葉佩九龍広東語講座お終い。
 俺は部屋に戻る。壁一枚向こう側からも扉を閉める音が聞こえた。
 このままシャワーを浴びて寝てしまいたいところだけど、そうもいかない。荷物は大体まとめてあるけれど、甲太郎の制服の手配とか今日までの遺跡の調査書とか書き終わってない。
 パソコンを立ち上げてH.A.N.Tと接続、やるべきことを全て打ち込み終えて時計を見ればもう深夜二時過ぎ。隣の部屋の住人はとっくに、寝てるだろうと思った。
 俺は、パソコンの電源を落としてH.A.N.Tを掴んだ。二挺のベレッタとP90PDWを腰に提げる。重くはない。もう、慣れたから。
 それから、コートを羽織った。黒い、バリスティックコート。協会支給のアサルトベストは身につけなかった。本当は、これが俺の普段だから。
 弾薬とナイフ、最小限の爆弾を持って―――窓から飛び降りた。
 消音仕様のタクティカルブーツは、途中の足場を踏みつけても何の音も生み出さない。夜は音が響く時間のはずなのに、俺は、何も。
 行き先は墓地。その下の遺跡。最後に、一度だけ潜っておきたかった。これが最後でよかった。遺跡の全部を背負うには、俺は小さすぎる。荷が、勝ちすぎる。あ、身長の問題じゃなくてね?
 遺跡の奥に何があるのか、知りたい気持ちがある反面、それが表に出たときに自分にのし掛かってくるのかと思うと、もう怖くて仕方がない。
 それよりももっと怖いのは、バディの連中に素性が全バレして遠ざかられることなんだけど。もうルイ先生とか甲太郎には暴露済みで、だからいつどうやってみんなにバレるか分からない。そんな恐怖と戦いながら、遺跡を踏破する?ははーん無理無理。俺はそこまで人間できてないっす。
 何だかんだ言って、これは逃げだ。全力ダッシュでの脱走だ。任務途中放棄なんて、きっとロゼッタの上層部からは凄まじく怒られて辺境地とかに飛ばされそうだけど、それくらいの責任てヤツならなんとかなるし、何よりどこに行ってもたぶんここよりはマシだ。
 平和で、穏やかで、優しくて柔らかい世界。場所。俺はここにはいられない。血塗れの手で、もう誰も汚せない。何も守れないなら。
 こんなとこ、―――いないほうがいい。

End...