風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery 六番目の小夜子 - 5 -

 時計台のてっぺんにある扉を開けて中に入ると、そこは小さな部屋になっていた。ベッドがひとつ、そこに座っていた人影は間違いなく白岐ちゃん。黒髪で黒い眼で、一人が似合う人。
「九龍さん―――」
「遅くなりまして。迎えに来ました姫君、なんてね」
「あなたに会えそうな気がしていた……。あなたはきっと、ここへ来ると……」
 いつもより更に顔色の白い白岐ちゃんは、ふらっと立ち上がると胸の前で手を組んだ。
「でも……どうして?私など放っておいてもよかったはずでしょう?」
 その姿を見て、胸が詰まった。一番不安だったはずなのは彼女なのに。あのまま永遠に、學園中の人から存在を忘れ去られていたかもしれないのに。俺はそんな中で彼女ともう一人をダブらせて正解に辿り着くのが遅れた。
「放って、おけるわけなかったんだ。……ゴメン、白岐ちゃん。ホント、ゴメン」
「九龍さん……」
「俺が惑っちゃってなければ、ここに来るのはもっと早かったはず。ゴメンね。俺、自分がどこにいるのかも、よく分かんなくなってて……」
 ここで、一発ぶん殴られても文句は言えなかったんだ。なのに白岐ちゃんは、項垂れた俺に腕を伸ばした。殴るためなんかじゃなくて、抱き締めるための。
「ありがとう……私を、捜してくれて」
 もうあの臭いはないのに、記憶のどこかがズキッと痛んだ。この体温が俺の『現在』で、過去を振り返っていても仕方がないのだ。分かってる……分かってるんだ、そんな事は。
 微かに震えたのが分かったのだろう。白岐ちゃんは俺の肩に刻まれた傷にそっと触れた。
「彷徨っているあなたの魂は、けれども私を見つけてくれた。……大丈夫。あなたは、ここにいるのよ」
 思わず、身体が小さく跳ねる。彼女の口からこぼれる『大丈夫』は、本物の大丈夫だった。ごまかしでもまやかしでもなかった。また、白岐ちゃんが誰かと重なる。大丈夫。安心して。平気。怖くない。どうしてそんなふうに思えるのか。何か言わなければいけなかった。問わなければ俺は分からないままだと思った。けれどそれより僅かに早く、部屋の中に小さな鈴の音が響き渡る。
 聞き覚えがあった。そして、現れた二人にも見覚えがあった。
「《王》の意識が強まっていく……」
「―――!?」
 甲太郎が息を呑むのが分かる。いるはずのない姿がそこにあるのだから、驚いて当然。双子は、いつだったかと同じように前触れもなくそこにいた。
「彼女たちは誰よりも古くから、この學園の地下に広がる《墓》を見守り続けてきた者。太古にこの遺跡につかえた巫女の持ち物が、長き時を経て人の形を得たもの―――それが彼女たちよ」
 初めて見たときから誰かに、似てると思ってた。そっか、白岐ちゃんだ。白岐ちゃんに似てるんだ、雰囲気が。
「私は小夜子」
「私は真夕子」
 そうして恭しげに一礼する二人。慌てて俺も頭を下げた。
「葉佩―――あなたは今までの盗掘者たちとはどこか違う……。《墓》を守るべき《墓守》たちにさえ、真の解放をもたらしてきたあなたならば、辿り着くことができるのかもしれない。この遺跡に眠る秘宝―――《九龍の秘宝》に」
「クーロン……?《九龍の秘宝》って、どういうこと、ソレ……」
 俺のいた街を、日本人はそう呼ぶ。もちろん地元の人間は別の発音なんだけど。俺は、その秘宝の名前に聞き覚えがあった。これは、偶然の一致か?
「『九匹の龍の力を得た者は、富と栄光を手にする』今なお、そう語り継がれる幻の秘宝……」
「九匹の、龍?」
 まるで俺の名前だ。……俺の名前はあの女が漢字を当ててくれた。そして、あいつは《九龍の秘宝》ってヤツを口にしたことがある。何が、どこで繋がっている?またワケが分からなくなってきた。
「それはこの遺跡に封印された古代の《叡智》です。けれど、わたしたちとは違う、今の世に生きるあなたがたにその力を託す事が本当に正しいことなのか、まだ、分からない……。葉佩、あなたにとって大切なものとは何ですか……?」
「大、切な……もの?ぇ、…っと」
 俺の脳内、ほぼ錯乱状態。ワケ、分かんない。あいつは俺にとってただの過去じゃなかった。しかも過去だったはずが現在にも絡んできてる。俺はここにいるべきなのか、さっさと去った方がいいのか、でも甲太郎は逃げるなって言うし、白岐ちゃんは何もかも分かっているような口ぶりだし……。
 分かんなくなって、仕方がないから俺の十八番。
「あー、なんてーか、面白けりゃいいかなー、なーんて」
「……笑顔、ですか?」
「そんなとこ。ね、それより、《王》てナニ?」
「人の欲望が《王》を目醒めさせる。怒りと憎しみに満ちた《王》を封じるためにこの《墓》があるのです。あなたはここまで知らずとはいえ、その箍を壊して進んできた」
 王と墓。ここの墓はピラミッドとは逆だったってこと?ピラミッドの場合は侵入者を阻むために仕掛けがなされる。けどここは……身内の王を封じるため?
「《墓守》たちの《力》と、その魂によって《力》を得た神名を持つ化人たちの存在が、この《墓》を今日まで厳重に封じてきました。ですが、そのために多くの《墓守》たちが、人としての幸せな生を犠牲にしてきたことも確かです」
「そりゃ、そうだけどさ。だってその《墓守》たちだって自分が何を封じているのか分かってないんじゃねぇの?」
 双子は、答えてくれなかった。ただ静かに首を振るだけ。
「あなたは《墓守》たちをその強さと優しさで解放に導いてきた……。それは、あなたであったからこそ叶ったことだと―――わたしたちはそう信じています」
 それはまさしく、甲太郎に言われたことそのままだった。甲太郎が、会長に言ったことと言った方が正しいのかも。
 でも、俺には一体自分が何をしたのか分かってない。俺の強さと優しさ?それは俺のものじゃないって、誰も、何もかも知っていそうなこの二人さえ知らないなんて。コレ、致命的。
「葉佩―――どうか、彼女を悪しき者の目から隠してください」
「白岐ちゃんを……?待った、ちょっと待って、それどういうこと?」
 鈴の音が響く。まずい、消える…!
「わたしたちは、ここまで辿り着くことのできたあなたを信じます。どうか―――この地の平穏を守って」
「え、あ、ちょ、ちょっと待って!!オイ!」
 ……消えた。消えやがった。謎だけ残して消えたよ、マジで。
 何もなくなった虚空に、俺の視線は泳いだまま。同じ怪異に遭遇したというのに、甲太郎はあっさりと現実に戻って来ていた。
「白岐……、お前は一体何者なんだ?」
「私にも……、まだよくは分かってはいない。私という存在が、この學園に何をもたらすのか……けれど九龍さん、あなたが何を成し遂げるのか私には見守る義務があるのかもしれない」
 さっきから、どうも嫌な感じだ。ガチャンガチャンと首枷と手枷と足枷が次々に掛けられているような。甲太郎が逃げるなと言った言葉に呼応するように、事態が悪化してる気がする。
「あなたに、これをあげるわ―――」
 手渡された連絡先とプリクラ。受け取る手が震える。俺はもう、恐怖が頭のてっぺんまで来ている。これ以上この場所にいたらどうなるのか、自分でよく分かってる。なのに、中途で放り出すわけにはいかない理由がどんどん付随されてくる。
 精神的にここまで追い詰められたのは、たぶん、生まれて初めてだと思った。

*  *  *

 俺は白岐ちゃんを女子寮まで送っていくことになった。ついでに八千穂ちゃんの様子も見ておきたかったし。日が短いせいであまり遅くない時間だけど辺りは真っ暗。白岐ちゃんの歩調に合わせてゆっくり、女子寮に入る。
「ねえ、九龍さん……」
「ん?」
「私……あなたに聞きたいことがあったの」
「何?」
「あなたが《扉》を開けるたびにそこに囚われた人の心も解放された。でも―――それと同時に、この學園を覆う闇が濃くなっていっている。……あなたは気付いていた?」
 気付いていた?と言われれば、気付いていませんでしたとしか答えられません。でも、今日気付かされた。自分が、踏み込みすぎて雁字搦めの八方塞がりになっているということを。
「そう、だったみたいだね」
「実感はできているのね。でも、あなたは歩みを止めはしないのでしょう?でも……そんなあなただからこそ、私は期待しているの。私は期待しているの。あなたならきっと、この學園を覆う闇を振り払える―――振り払う力になってくれる……って」
「……期待…、されても。応えられるかどうか」
「迷っているの?」
 ええ、迷っておりますとも。
 墓の秘密とやらに、どうやら俺はかなり近付いている。仕事、という意味ではきちんとこなしているってことだろ?でも、墓とか遺跡とか、そういうこと関係なしに、俺自身の問題でここに踏み込みすぎてしまった。今日のアレは決定打だった。ルイ先生だけならともかく、現時点で一番近くにいるヤツに、知られたくないことを知られた。そして、知られたくないと思っていたこと自体が、學園という居場所や、甲太郎に関して想像を遙かに飛んでいくくらい執着を持ってしまっていたということ。
 それが、危ないんだ。自分の立ち位置を完全に間違えてる。だから、抜け出したい。全部に、背を向けてしまいたい。
 でも、できないなんて言えない。ここまで踏み込んでおいて―――ここにこれ以上いるのが怖いから、逃げたいなんて。言えない。
「……できる限りは、頑張ります」
「私は信じているわ。九龍さん、現在のあなたの隣にいる人は、過去の誰かではない。そして、今は過去ではない。あなたは、ここで生きているのよ」
「白岐、ちゃん?」
 一瞬、また白岐ちゃんとあの女の姿がブレた。あいつも、きっと同じ事を言うだろうから。あたしのことばっかり振りかえってんじゃないよ、って。だから白岐ちゃんが自分の部屋に戻る間際、俺を振り返って微笑んだとき、心臓が妙な具合に軋んだんだ。
 ―――俺は、ここで生きている。なのに、その俺が俺じゃない。みんながみんな、今日の臭いでおかしくなってれば良かったのに……どうして、甲太郎は大丈夫だったんだろう。甲太郎にさえバレなければ、まだ踏み止まっていられたかもしれないのに。
 溜め息を一発。吐いて呑み込んで、八千穂ちゃんの部屋の前に立った。
「八千穂ちゃーん、いるー?」
「九龍クン!?」
 おっと、部屋着が目に眩しい。八千穂ちゃんは部屋に招いてくれたけど、遠慮しておいた。とりあえず伝えておかなきゃいけないことだけ伝えておきましょう。
「あのさ、白岐ちゃんのことなんだけど」
「……あたし、いったいどうしちゃったんだろ?あッ、もちろん今はちゃんと思い出したよ?白岐サンのこと」
「そっか、良かった」
「でも、友達の顔も名前も思い出せなくなるなんて、おかしいよね。本当に、どうしちゃったのかな、あたし……」
 もう、これ以上ないってほど落ち込んでる八千穂ちゃんに、マミーズで約束した通り、事の成り行きと解決したということを伝えた。臭いでみんなの記憶が操作されていたこと、白岐ちゃんが時計台にいたということ。
「ええ!?香りを操って記憶操作!?」
「ビックリでしょ?」
「……でも、たとえそういう事情があったとしてもさ。あたしが白岐サンのこと忘れちゃってたのは事実なんだよね。あんなに仲良くなりたいって、そう思っていたはずなのに……」
 その言葉が、今の俺にはちょっと痛い。たとえどういう事情があったとしても、俺にとってあの女は絶対に忘れてはならない人間だったはずなのに。
「俺も、今回のことで記憶とか、なんつーんだろうな、想いの強さ?そういうのって当てにならないと思い知らされたわ。でもさ、もう思い出したんだから。八千穂ちゃんは今持ってる白岐ちゃんへの気持ちを大事にした方がいいと思うよ」
 なんてったって、白岐ちゃんは元気にしてるんだから。
「九龍クン……キミって、本当に優しいんだね。ありがと。少し、元気出てきたよッ」
「おぅ、それでこそ八千穂ちゃんデショ。笑ってた方が可愛い可愛い。でね、今、白岐ちゃん、部屋にいるから会ってきたら?」
「ホント!?でも、あたしが行って邪魔じゃないかな~」
「大丈夫っしょ。顔見るだけでもさ、お互い落ち着くんじゃない?今日は色々あったし」
 促すと、八千穂ちゃんは白岐ちゃんの部屋にすっ飛んでいった。本当は心配で、会いたかったんだろうなー。
 ……にしても、しんどいなー。優しいんだね、だって。優しいのはー、俺じゃないよー。もし、今の状態の八千穂ちゃんに猫被ってない俺が接したら、絶対あんなに可愛らしい笑顔は向けてくんない。
 その自信はどこからくるのかって?そりゃ、今まで生きてきた中でそういう経験をしてきたからです。大人の世界で生きてきたからってのもあるんだろうけど。ああ、そっか。ここは子どもの世界だから、だからこんなに甘くて柔らかいのか。
 俺が子どもでいられたのって、いつまでだったっけ?……たぶん小学校ってのに上がるか上がらないかって言う年齢までだよなー。それくらいから、ずぅーっと気張って堪えて振り落とされないように踏ん張ってた。甘ったれなくせに、甘ったれたら殺されるから……あいつにしか甘えることができなくて、なのに肝心のそいつに一番子ども扱いされたくなかった。
 寮に戻って肩の傷を手当てしながらそんなことを考えた。煙草を吹かして銃創こしらえて、確かにこんなガキ、イヤだよな。……両親生きてたら、ちょっとは違ったのかな。育ててくれたあいつが子どもじゃなかったら、素直に甘えられたかね?
 どうしたって仮定の話で、もうこういうようにできあがっちゃった俺は、矯正しようがない。これから先も、どんどん歪んでいくだけ。銃を手に。それしか生き方が分からない。
 幸いっつーか一応考えて撃ったんだから当たり前っつーか、傷の方は簡単に縫えば別段大騒ぎするような傷じゃなかった。救急キットから縫合の道具を出して、片手と歯で三針ほど。左肩にはそれとは別のでかい傷痕があって、傷同士が重なっちゃってるのが少し心配だったけどとりあえずは出血も止まってるし大丈夫っしょ。
 ついでに銃の整備も終えてから、学ランの中にしまっておいた鍵を取りだした。一つが生徒会室の鍵だ。それから阿門邸の鍵。こりゃ、行ってみた方がいいのかな。少し、双樹姐さんと話をしておきたい気もする。
 俺は、悲しいことにあの人が嫌いじゃないんだ。少なくとも、大義名分は振りかざさない。行動の要は、はっきりと『阿門』だなんて。俺、好きなのよ、そういう意味の自己中。他なんて、どうでもいいって真っ直ぐさ。
 どうしようかちょっと迷ったけど、結局俺は部屋を出た。行き先は、生徒会室。敵陣ど真ん中。
「おばんでやんすー」
「!?」
 生徒会室に入ると、そこにいた人間の気配が波立つのが分かった。誰かと思ったら、会計さん。えーっと、神鳳サン、だったっけ?机に向かって何やら書類整理してたっぽい。
「ども。……アレ?双樹姐さんて、もう行った?」
「……ええ」
「そっかー」
 何だかまるで友達を遊びに誘いに来たようなノリで話してるけど、事態は(本当は)重たいことのはずなんだよねぇ。
「自分のしていることを自覚していて、なおここに現れるとは。君は、なかなかに肝の据わった人ですね」
「そ?そっかな。ただ周りが見えてないアホかもよ」
 すると神鳳さん、口元に手を当ててくすくす笑い出した。何だぁ?
「《敵地》へ踏み込んでなお、その態度―――正直、感服しましたよ。君は、我々が考えていた以上に、度胸のある人物だったようです」
 しかも、机から立ち上がって、足の低い応接用のテーブルんとこで俺に向かって手招きする。こっち来い、ってか?いやん、近付いたらトラップ仕掛けられてたとか笑えないじゃん。
「獲って食ったりしませんよ。お茶でも、いかがですか?」
「へ?」
 にっこり微笑まれるとそこで嫌とは言えない妙な威圧感のある人で、俺は促されるまま椅子に座った。うん、ブーブークッション仕掛けられたりはしていませんでした。当たり前か。
「どうぞ。粗茶ですが」
「はぁ。どうも、いただきます」
 神鳳さんと向かい合って、二人でお茶。しかも緑茶にせんべい。一体どういう状況よ、コレ。
「そういえば、毎日うちの駄犬がお世話になっているようで」
「あ、夷澤のコト?いやいや、あいつ、面白いっすよ。素質は相当いい。叩けば絶対伸びる」
「ついでに作法も躾てやってくれるとありがたいんですがね」
「……それはそっちでやってください。こっちは不意打ちも容認しちゃってるんで」
 そんで、一緒にズーッと茶を啜る。うわ、平和。あんまりに平和な空気で、いつの間にか扉の所にいた阿門会長にも気付かなかったくらい。会長は、呆れたように額に手を当てていた。
「……葉佩か」
「あ。カイチョ。ども」
「何をしている」
「えーっと、見ての通り、お茶頂いてます」
「お前の目的が何かは知らないが、俺の周りを彷徨くのは止めた方が賢明だぞ」
「えー!!せっかくお茶入れてくれたんだからせめて一杯飲ませて!せんべいも食ってく!」
 せんべい銜えて立ち上がると、神鳳さんは吹き出すわ会長は大きく溜め息吐くわで、なんか確実に俺への評価がガクンと下がった気がした。
「……今更お前一人がどうなろうと俺の知ったことではない。好きにしろ」
「じゃ、すぐ撤収しますんで」
 バリバリせんべい噛み砕いて、茶を一気に流し込んで「ごちそうさまっした!」と手を合わせる。神鳳さんは綺麗な笑顔のまま、お粗末様です、だって。
 で、さっさと撤収しようと思ったんだけど、ふと、生徒会室に漂っている綺麗な華の匂いに気が付いて足を止めた。
「あのー」
「はい?」
「双樹姐さんて、いつもはあんなに変な臭い漂わせてる人じゃなかったっスよね」
 二人のうちどっちに対しての問いかけとかってワケじゃなくて、なんとなく口から出た疑問だったんだけど。神鳳さんのほうがちらりと会長を見てから、俺に向かって笑ってみせた。
「さあ、どうでしょうね。それもまた、あの遺跡で分かることなのでは?」
「そう……そうっすよ、ね」
 じゃあ、俺はこれで、と。ごちそうさまでしたと頭を下げれば、いつでもどうぞと返される。どこまで本気なのか分かんない辺り、随分この人も食わせ者だ。
 結局敵陣に踏み込んだからといって粉微塵にされたわけでもなく。本当にお茶を一杯だけ飲んで自分の株だけ下げて帰ってきた。拍子抜け。
 まだ遺跡に潜るには時間が早すぎる。學園が起きてると行動はし辛い。部屋は……となりの住民が気になって仕方なくなるだろうから、しばらく考えて、行き先を決めた。
 ……なのに。
「あっれぇ?」
 バー九龍は本日休店。牛乳飲みに来たのに、とがっくりしていると突然扉が開いた。マスターだ。
「どーも、こんばんは」
「やはり葉佩さんでしたか。店の窓からお姿が見えたもので」
「今日はお休みなんすね」
「ええ。本日、店内の改修工事をしておりますのでこちらの方はお休みなんです。せっかくご足労いただきましたのに本当に申し訳ございません」
「イエイエ、ここの牛乳飲めないのは残念だけどそれじゃあ仕方ないっスよね」
 『坊ちゃま』の話を聞いて情報収集もしたかったんだけど。こればっかりはどうにもならんね。
「そのように仰っていただけるとは……。店主冥利に尽きますな。葉佩さん、またのお越しを心よりお待ち致しております」
「ういっス。あ、もしもなんかできることあったら言ってください。俺、今日暇なんで」
「左様でございますか?……実を言いますと改装自体は終わっているのですが、壁に掛けようと思っている絵に少々サイズの大きい物がいくつかございまして……」
「おっと、それじゃあお手伝いしますよー」
 聞けば、学校の規則で業者は本当に真っ昼間の時間しか入れないらしくて、作業はまだ終わってないんだとか。だから終わらない分はマスター一人でやってたらしいんだけど、掛ける予定だって言う絵は確かにかなり大きいものもちらほら。
 どれも俺の知らない絵ばっかりだったけど、店内の装飾とよく合ってて、大きいけれどもうるさくはない、そんな絵。
 脚立登ったり壁にへばり付いたりしながら、大体の作業が終わって一息ついて、あとは小さいヤツだけってとこまで来たとき、俺はその絵の中に懐かしい景色を見つけた。  正確に言うと、絵じゃなかった。それだけは写真。白黒の。
 明らかな違法建築で配線剥き出しの壁と壁、重なり合う原色の看板。その間に挟まれた僅かな空と、壁に寄りかかって空を見上げる少年。とにかく建物も少年も薄汚い上にボロボロだ。小さく広がる空ばかりが綺麗なだけで、あとはもうどうしょもない。そんな写真だった。
 懐かしいって思ったわけは簡単で、その写真に写ってる建物、壁が半分だけコンクリで残り半分がトタンていう凄い部屋。見つけて、思わず苦笑。思い出し苦笑い。
「葉佩さん?どうかなさいましたか」
「あ、イエ、……この写真、ちょっといいなぁって」
「ああ、それですか。ここは香港でございます」
 ええ、存じ上げております。ついでに、今はもうない場所でもございます。取り壊されちゃって記念公園になってるでございます。
「実は、それを撮ったのは私でして」
「え゛ッ!?マジですか?」
「ええ。香港返還前に行きましてね。九龍城砦という場所なのですが」
「あら、まぁ」
 映っている、ボロボロの建物。そこは、俺が住んでいた場所。変な部屋は、俺が住んでいた部屋だ。この写真だと分かりづらいけど、なぜかベランダが隣の部屋じゃなくて二つ隣と繋がってて、上の階の途中まで階段があって、でも先がないからどこにも行けないっていう意味不明の造りをしてる。間違いない。
「喜龍大廈……」
 こうしてみると、本当に酷い。酷すぎて笑えるくらいだ。でも……ここだ。確かに、ここ。
「お気に召しましたか?その写真は」
「へ?あ、ええっと、ハイ。……凄いトコ、ですよね」
「よろしければその写真、差し上げますよ。今日手伝っていただいた御礼です」
「……いいん、ですか?」
 俺は、もう一度その写真に魅入った。汚い場所。壊れかけの、澱んだ臭いが漂ってきそうだ。けれどその臭いは俺に色んなことを思い出させてくれる。忘れさせてはくれない。もう、どこにもない場所なのに、こんなところにあった。俺がいつか、生きていた場所。あいつと一緒に、生きた場所。
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。手伝っていただいて本当に助かりましたから」
 俺は好意に甘えてその写真をもらうことにした。灰色の風景。朽ちた街。佇むガキんちょはどこかで生きてるだろうか?それとも死んでる?俺は、生きている。まだ、どうにか。
 また要らない何かが込み上げてきて仕方なかったから、俺は作業に戻った。写真は、大切にしまった。


 作業の最中、マスターからは坊ちゃま話をたくさん聞いた。マスターは坊ちゃまのことをとても愛おしそうに話す。だからこっちも楽しんで聞いてたら、全部が終わった後面白い物をもらった。
 『養成ギブス』
 笑っちゃったね。(いや、笑わなかったけど。)コレ、阿門家坊ちゃまがご幼少の砌に使っていたものだそうで。……阿門、星飛雄馬になるつもりだったんだろうか。それを想像するとやっぱり笑えた。いや、笑わなかったけど。笑えなかったけど。
 それをありがたく受け取って、バーを後にした。一旦寮に戻って用意をしようと歩いてたら、そこで偶然椎名ちゃんにばったり。
「あれ、椎名ちゃん。こんばんにゃ」
「あら九龍クンッ。こんばんは、ですわ」
「えーっと、今帰り、なわけないよね。こんな時間だもんねぇ」
「リカはお祈りの帰りですの。礼拝堂にいたんですわ」
「なぁる」
 俺はなんとなく椎名ちゃんと歩き出しながら、向かう方向とは逆にある礼拝堂のことを考える。キリスト教かー。聖書は読んだな、旧約も新約も。ハンターになる前にね。俺は宗教信仰ないけど。(ちなみにロゼッタには聖書考古学専門にしてる人とかもいるんですよー。)
「ね、九龍クン」
「なんざんしょ?」
「《神様》って、本当にいると思いますかァ?」
「……えぇっとね」
 こりゃまた、答えづらい質問が。俺は、考え込んでしまった。それは、俺に神がいるってことなのか、それとも世界の人にって事なのか。しばらく呻って、
「俺には、いないよ。救世の神様は、いません」
「そう……なんですの?」
「残念ながら」
 信じてなきゃ、いることになんないもんね。だから、いないの。聖書に出て来るような素敵な奇跡は。
「でも、神様じゃないけど、信じてる者ならある。信じる目に見えない者を神様って言うなら、うん、いるのかも。俺にも、祈る何かが」
 奇跡は起こしてくれないけど、時折夢とかに出てきてぼんやりと俺の傍にいてくれる。それだけで俺は、生きていていいような気になる。そんな錯覚の恩恵を与えてくれる思い出と幻を、神と言ってもいいのなら。
「ふふッ、リカも《神様》は絶対にいると思いますの。だって、《神様》がいたから、リカは九龍クンと……」
「俺?」
「あッ、いえ、……な、なんでもありませんわッ」
「……そ?」
 それっきり口数少なくなった椎名ちゃんと、なんとなくぶらぶらと歩く。居心地は悪くない。今日は月が綺麗ですねぇ、そうですわねぇ、なんて時折言いながら。俺が、へらへら笑える俺でよかったと思いながら。だってそうでもなきゃ、間が保たなくてどっか逃げるか困るかしてたであろう中の俺。そんなん椎名ちゃんに失礼だもんよ。
 椎名ちゃんとは、女子寮の玄関でバイバイした。また明日、と言われて曖昧に笑って別れた。また明日?……どうかな。
 時間は、まだ少し早い。俺は部屋に戻る。最初は全然物のなかった部屋、それが今じゃもらい物で溢れてる。土偶っぽいぬいぐるみとかヒーローポスター、ファラオ像に、―――カレー鍋。俺が、學園に踏み込んだ証拠品。ここに残して行くと、きっと俺がここに存在したという痕跡になってしまう。それは、ダメだよなーとか考えて、なんとなく、整理を始めた。