風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery 六番目の小夜子 - 2 -

 H.A.N.Tがメールを受信する。  件名『CHARIOT』、それから『いい香りがするけど』。先に届いた方がトト・ジェフティメスからのもの、二通目が取手鎌治からのメールだった。
 トトからのものは暗示めいていた。この世の非常識という非常識を見ている身としては、占いという確証のないものですら頭から否定する気にならない。(固い頭でロゼッタ協会員など無理なのだ。)
 『あなたは間違っていない』か。進む先にある真実。俺は一体誰に辿り着くんだ?CHARIOT……戦車なんて、それが忘れている『誰か』のことならそいつはロケットランチャーでも背負っているのだろうか。まさか。
「誰からだ?」
「トトと、取手だ。……取手もこの匂いで調子がおかしいらしい」
「なら様子でも見てきてやれよ」
 考え込んでいると、皆守は先にマミーズへ行って席を取っていると言った。
「みんな、例の香りのせいでおかしくなっていやがる。九龍、いいな?自分を見失うんじゃないぞ」
「…………」
 それは嫌味か。皮肉か。すでに俺は迷走状態だろうが。
「おいおい、なんて顔してるんだよ。そんなことじゃ、相手の術中にはめてくれって言っているようなもんだぜ?」
「すでにはまってるんだろ。人を忘れてるってことはな」
「まあ、そりゃそうなんだが。あんまりそういう面を……いや、百面相はいつものことか?でも今はそうじゃねえからな」
「何言ってんだお前」
「心配してんだよ」
「どのツラ下げて言ってる」
「このツラ」
 言って、すぐ目の前まで『そのツラ』を下げてくる。俺は、顔を覗き込まれるのは好きではない。背が高くない、というのを痛感させられるからだ。
 と思っていると、口の中に何かを突っ込まれた。一瞬、鉄の味がして、習性で思わず吐き出しそうになるが皆守の指がそれを許さなかった。
 ……口の中にあったのは、アロマパイプ。皆守甲太郎、愛用。
「どういうつもりだ」
「精神安定剤、代わりだ。喫煙よかマシだろ未成年」
「不安定だなんて一言も言ってねぇよ」
「そのツラでか?」
 俺は一体今どんな顔をしているというのだ。皆守の目の中に移る自分だけはどうしても見たくない。
「とにかく、落ち着くことだけは保証してやる。いつもふかしてる俺が言うんだから間違いないさ」
 別に効能を疑ったりしているわけではないが……ちゃんと銜えないと皆守の指がいつまでの唇の上にいそうで、仕方なく口に収める。目の前の男はなぜだか満足げに口元を吊り上げた。
「…唔該」
「ンゴイ?どういう意味だ?中国語か?」
「……自分で調べろ」
 居たたまれなくなって半ば突き放すように皆守の肩を押すと、よろけもせずに一歩分だけ離れた。不思議そうな顔をしている。真正面から見据えることができない自分に内心苛立ちながら、横を向いてアロマパイプに歯を立てた。
「それじゃ、先に行ってる。早く来いよ」
 ふらりと俺の脇を抜け、屋上の扉から出て行く。去り際、軽く叩かれた肩に感触が残った。
 どうも調子が狂う。そういう意味ではこの男は八千穂明日香よりも厄介だ。読めないという点に於いても、何かを見透かされているような気がするという点に於いても。他人に機微を気取られないよう振る舞うのは苦手ではなかったはずなのに、皆守の前ではそれが崩れる。
 そんな事を考えながらラベンダーの香りを燻らせていると、確かに甘ったるい臭いの中にいたときよりも落ち着いてきた。頭痛も引いてきた気がする。
 強すぎて痛いくらいの中国製煙草の紫煙に比べると、なんと柔らかいことか。普通なら物足りない、とでも言いたくなりそうなものだが、今はそうは思わない。
 紫色の煙が身体の中に浸透していくような感覚の中、空だけが濁らずに蒼い。錯覚じゃない。今、俺に与えられた世界。
 ぼんやりと遊び始めた思考は、ある物語の行に辿り着いた。
「……『これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ』」
 宮沢賢治、だった気がする。昔、露店で売っていた短編集に載っていた。日本語で書かれた本は手に入りにくい場所だったから、その本を読んで日本語を覚え直したのだ。何百回も、それこそ本の背表紙が割れるほど読んだもんだから印象的な文章は暗記している。
 ツェラやイーハトーブの青空が緑色に濁り、日や月が銅色になったりしても変わらない。
 俺は別の時間に別の場所で別の景色を見ていたのだが、今はもう見ることが適わない。帰りたい場所が、還ることのできない場所になってしまっている。あの場所に帰っても、一番大切なものを失ってしまった。
 ………大切なもの…?俺が、無くしたものは何だったか?宮沢賢治という作家を、最初に教えてくれた誰かが、確かにいたはずだったのに俺にはそれが誰だか分からない。靄がかかる。不快でないはずのラベンダーの香りが、なぜだか考えを遮るように立ち込める。
 苛立ちの歯車を更に加速させる気配を背中に感じたのはその時だ。気付いて、表情を完全に消す。
 振り返るまでもなく、屋上に喪部銛矢が現れたことは解った。
「ふぅん。ここがキミのお気に入りの場所という訳か?」
「………」
「平和だね、ここは。『けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほんとうの平らさではありません』なんてね」
 聞いていたのか。
 俺は気付かれないようパイプの端を強く咬んで、振り返る。喪部は嫌な笑いを湛えたまま立っていた。
「なァ、葉佩。餌を抱えて巣へと戻ろうとする蟻の行列を見ると、思わず踏みにじってやりたくならないか?」
「……まあ、確かに」
「ふぅん、そんなふうに言われるとは思わなかったよ。キミには……」
「だがそんなことに構っている暇はない。他人が生きるのを邪魔する手間もだ」
 空気が加速度をつけて黒く淀んでいく。さっきまで澄み切っていたそれを汚しているのは間違いなく目の前の男と、俺だ。
 まだ会って数時間しか経たないが、確信めいた何かがある。俺は場所と時間と立場さえ揃えば呆気なくこの男と殺し合う。今はただ、そういう状況が揃っていないというだけだ。理由はよく分からない。たぶん、俺とあんまりに似すぎているからだろう。
「本当かい?……他人が生きるのを邪魔する。キミはそうして生きてきたんじゃないのか?」
 笑いを滲ませた、人の神経を掻き乱すように撫でる声。
「そんな面倒な趣味は持ち合わせていないつもりだ」
「へぇ?」
 喪部と俺が同様の歩調で歩み寄る。互いの距離、数十センチ。立ち止まり、睨め合う。
「ボクはね、葉佩。自分がさも害がないというような正しい顔をして歩く人間の邪魔をするのが、大好きなんだよ」
「そりゃ、糞みたいな趣味だな」
「……キミはボクと同じかと思っていたけど?」
「勘違いするな。俺が『邪魔して』きたのは俺と同じ糞溜まりにいる連中共だ」
 触れずに、脇の銃に意識を向ける。こいつと生きるということは、つまりはそういうことなのだ。いつでも撃てるように指先に神経を追い詰め、喪部の横をすり抜ける。
 喪部からは、懐かしい臭いがした。こびり付いて取れない、血の臭い。ラベンダーの匂いも煙草臭さも熟したあの臭いも、全て掻き消えるほどに濃い臭いは、一瞬だけ漂ってすぐに消えた。
 趣味の違いなどどうでもいい。血溜まりに肩まで使っているのは同じだろう?
 喪部の声が、聞こえた気がした。

*  *  *

 階段を降りていると、不意に耳に留まるピアノの音。ささくれ立った神経が凪いでいくような音だ。
 そういえば取手も様子が変だと言っていた。……別に俺が出て行ってどうなるわけでもないのは分かっている、が、気にはなる。音楽室の前に立ち、ピアノが鳴り続けているため入るタイミングを取れずにいると、扉の向こうの音が止んだ。
 戸を開けると、ピアノの前に座っていた取手が顔を上げる。
「九龍、君?」
「……悪い、邪魔したか?」
「ううん。来てくれて嬉しいよ」
 手招きされて音楽室に入り、笑みを浮かべる取手に近付いた。以前よりよく笑うようになったこの男を、俺は実は苦手にしている。……どうしてそこまで警戒心を持たずにいられるのか。あんまりに俺を開けっ広げに受け容れようとするため、逆に俺の方が戸惑ってしまう。
「どうしたの?何か、あったのかい?」
「いや……メール、ちょっと、不安だとかあったろ」
「それで、わざわざ?」
「……別に、たまたまそこ、通ったから」
 そんな突き放したような言葉にも、取手は笑って「ありがとう」と返してくる。俺は同じように笑うことを苦手をしているから、どうしていいか分からなくなるしかない。
「ピアノ、毎日弾いてて飽きないか?」
「毎日ずっと同じ曲を弾いている訳じゃないからね。僕の夢は世界に通用するピアニストになることだから、飽きてるなんて言ってられないんだ」
「そう……そう、だったよな」
「九龍君には将来の夢があるかい?」
「……夢?」
 将来の、夢。俺の現在は、過去の俺の将来だ。あの頃、俺は何を夢見ていただろう?何も夢見ていなかったんじゃないか?あの頃の事が空っぽで、今は上手く思い出せない。だからなのか、夢を見るということすら正しい認識で捉えきれていないような気がする。
「夢、は……特には、無い」
「……そうか。でも、君の場合は夢がないというんじゃなくて、すでに叶えているからなのかな」
「どうだろうな。今の俺が夢だってことは、ないはずなんだがな」
 叶えているなら。今の俺が昔の俺の夢だ。だが、こんな自分は誰も望んでいなかった気がする。
「これからやってみたいこととかもない?」
「これから?」
 それはあるが、夢ではない。生きられるところまでは生きていたい、なんてのは夢とは呼べない。
「……やっぱり、無い。何も、思い浮かばない」
「そっか……」
「そこでお前がそんな顔する必要はないだろ。んな顔してるより、ピアノ弾いてる方が似合うぜ」
「九龍君…」
 だから、そこでなぜ微笑う。俺には分かりかねる。
「じゃあ、俺は行くが。……大丈夫なんだろうな」
「ふふ、やっぱり心配して来てくれたんだね。ありがとう、九龍君」
「………」
「僕は大丈夫だよ。君の顔を見たら何だかすごく安心した」
「……そうかよ」
 皆守から借りたアロマパイプを噛みしめて、俺は音楽室を後にした。後ろからはまたピアノの音色が響いてくる。まあ、調子が戻ったならそれでいい。
 途中、財布を教室に置き忘れたことに気が付き、三階に引き返した。皆守はマミーズで待っている。今日は弁当を持ってきているのだが、後で食うことに決めた。今日はカレーが食べたい気分だ。
 少し急ぎ足で廊下を行く間も、甘ったるい臭いとラベンダーとがせめぎ合って……なんだ、この臭い。
「む、九龍」
 それは3-Bから漂ってきた。
「真里野」
「そんなものを銜えているから皆守殿かと思ったではないか」
「ほっとけ。……それよりお前、何やってんだ、教室の中で」
 教室の後ろでカセットコンロを使って飯ごう炊飯。思わず脱力してしまい、3-Bの入り口で項垂れる。周りの目など気にもしちゃいねぇ、このイノシシ男は。
「実は、昼食の炊き出しをしていたのだが、肝心の材料が切れてしまってな。お主、もしも所持していたら、少々分けてはもらえぬだろうか。我ら日本人の主食である《あれ》を……」
「分けてやったとして、白飯とあとはどうするつもりだ、今日の昼メシは」
「何と言われても、それだけだが?」
 ……この男は。飯を炊くことだけは異常に上手いのだが他の料理はからっきしだ。白飯に漬け物さえあればいいと豪語しているのだが、栄養偏執のせいで時折腕の血管が異様に浮き上がったりしていたりする。
「おい猪侍」
「拙者は猪などではないぞ」
「いいから黙って待ってろ。そのカセットコンロはしまっておけ。飯ごうもだ。……いいからしまえッ」
 あいつが死のうが生きようが知ったこっちゃないが、バディとして登録してある人間に死なれるのは協会員として色々と都合が悪い。死ぬことはなくとも目の前で倒れられたら寝覚めが悪いしな。
 アロマパイプの端を囓りながら3-Cの教室へと戻る途中、俺の視界にもう一人の欠食野郎が飛び込んできた。墨木砲介も俺の姿を認め、駆け寄ってくる。まるで大型犬が尻尾を千切れんばかりに振っているようにも見える。
「九龍ドノ!!」
「墨木、……落ち着け」
「ハッ」
 まるで犬に「待て」とでも言っているような気分になるのはなぜだ?墨木は敬礼したまま微動だにしない。
「で、何だ」
「もしまだ昼食がお済みでなかったら、ご一緒させていただきたいでありマスッ!!」
「それはいいが、……お前の昼メシ、まさかまた、」
「ハッ、これは自分の部屋に貯蔵してあったレーションでありマスッ!!」
 やっぱりか。
「……墨木、いつも言っているが、レーションは高蛋白高カロリーでエネルギー摂取には向いているが日常生活においては食べるようなもんじゃない」
「ハッ……」
「だからそれはとりあえず置いて来い」
 言うが否や教室に駆け戻る墨木を見送ってから、俺は3-Cに戻って財布と弁当を持って墨木を呼びに行った。マミーズはこの學園の学食も兼ねているため、生徒の食べ物の持ち込みなども許可されている。マミーズの料理はハイカラだなどと言っている真里野も、なぜか俺が作った物はよく食う。だからあいつには弁当を食わせておけばいいだろう。
 俺は二人を引き連れてマミーズに向かった。
 案の定皆守はもうカレーを食い始めていて、なぜか俺の分まで運ばれてきていた。
「何だ、九龍。その後ろの駄犬二匹は」
「……欠食野郎共だ」
「皆守殿!拙者を駄犬と愚弄するか!?」
「自分は駄犬ではないのでありマス!忠犬と言っていただきたいのでありマス!!」
「黙ってさっさと座れッ」
 四人掛けの席に座り、俺はソファ席の皆守の横、連れてきた二人はイスに並んで座っている。墨木はともかく、マミーズには滅多に来ない真里野は所在なさげだ。
「く、九龍、拙者はこういった場所で出される食事は……」
「ならこれ食ってろ」
「九龍ドノ、自分はホットドッグを頼み…」
「却下。お前はまず野菜食え野菜」
 真里野には弁当を渡し、墨木には別の容器に入れていた海藻サラダを渡す。……なぜサラダだけ別に作ってきたのか、自分の行動が謎だが今は役に立っているのだからよいとする。更に墨木の分として天香定食を注文し、俺はようやく目の前のカレーにありつけ……、
「九龍、この握り飯は絶品だ!こっちの煮物も絶妙な味付け。これならいつでも嫁に行けるな」
「こちらのサラダも最高でありマス!自分は野菜があまり得意ではないのでありますがこれならいくらでも食べられるでありマス」
「………いいから黙って食え、黙ってだ。いいな、喋るな。それから俺は嫁に行く気はない」
 ようやく二人が静かに食事を始めるのだが、その代わり、隣の皆守が肩を震わせている。一体なんだ、今度は何だという。
「何がおかしい」
「いや……お前、保育士みたいだな」
「……好きでやってる訳じゃない」
 皆守を睨み上げると、心底おかしいという瞳で見返されてしまう。そして、指先が目の前に来たと思ったらするりと口元からアロマパイプが抜き取られた。
「そろそろ返してもらうぜ」
「あ、あぁ」
「こういうときは唔使、ってんだったか?」
「!?」
 唔使は、唔該に対する意味の言葉だ。……感謝の意に対する返答。つまり、どういたしまして。
「どこで聞いた……」
「カウンセラーに聞いたんだよ。ここに来る前にな。自分で調べろって言われたから調べたまでだ」
「………激氣」
「感謝してたんなら普通にそう言やぁいいのに。わざわざひねた言い方すんのがお前らしいがな」
 そう言ってまた、おかしそうに笑う。俺は顔面に血が巡るのを感じながら目を逸らせた。(そしてなぜかまた、笑われた。)皆守はアロマパイプをそのまま銜え、カートリッジだけを交換して火を着ける。途端、目の前の二人がまた口を開く。
「そそそそそれは、く、九龍、か、か、か、間接接吻と、いいう、」
「お二人はそういう関係なのでありマスカ!?」
「黙って、食えと、言わなかったか、俺は」
 俺はまだ一口もカレーを食べていないのだ。いい加減冷めてしまう。ようやく食べようとしたところで、今度は墨木の定食が運ばれてくる。しかも、運んできたのは舞草奈々子だ。
「は~い、お待たせいたしました!天香定食になりますぅ」
「そっちだ」
「あらら、墨木くん、お肉以外のものをお召し上がりになるなんて珍しいですね~」
「九龍ドノが自分は食生活が偏っているからと心配してくれたのでありマス!自分はその思いにお応えしなければいけないのでありマス」
「誰も心配だなんて言ってねぇだろ。……何笑ってんだよ」
 隣では皆守がテーブルに突っ伏しそうな勢いで笑いを堪えている。この男、笑い上戸だったか?
 舞草奈々子は水を入れ替えながら何かを思い出したように俺を見た。
「そういえば九龍くん、アルバイトとかって興味ありますゥ~?」
「アルバイト?……って、臨時雇用のことだろ」
「んー、まあ、そういうことになりますねぇ」
「だったらこの學園に来る前にずっと、やってたが」
 ロゼッタに所属する前の話だ。宗教戦争や民族紛争の耐えない国ではそういう仕事には困らない。今はアフリカ、中東辺りが稼ぎ所だろう。
「いいですよね~、アルバイトって。おこづかいも稼げるし~」
「ああ」
 危険手当を倍々で付けてくれる雇い主なら短期で日本円にして数百万稼げることもある。
「ある程度なら好きな職種も選べるし」
「ああ」
 前線が苦手ならば後方支援や情報員という形でも参戦可能だ。今はガンスミスの雇用も多いと聞く。
「それにウチみたいな接客業なら出逢い……も、あるし。奈々子はアルバイトしててホントに良かったです~。あ~あ、九龍くんも奈々子と一緒にバイトできれば良かったのにな~」
「おいペンギン女、そりゃたぶん無理だぞ」
 皆守が片眉だけを器用に吊り上げて舞草を見上げる。
「何でですか~?九龍くんならお店でも大人気だと思いますよ!」
「……ヤ、たぶん如何ともし難い認識の違いってもんがある気がするんだが」
 俺と舞草の顔を交互に見比べて……また吹き出しやがった。すぐに舞草は他の客に呼ばれて行ってしまったが、皆守の笑いの発作はしばらく続いていた。
「いつまで笑ってんだよ」
「ああ、悪い悪い。あんまりにおかしいもんでな。……で、いい加減食わないと冷めるぞ、カレー」
「げッ」
 ようやく俺がカレーに手を付けたときには、すでに冷めていた。

*  *  *

 食事を終えた真里野と墨木は部活の所用だとかで先にマミーズを出た。俺と皆守はゆっくりコーヒーを飲む。隣の男は、時折馬鹿にしたようにこっちを見下ろしては含みのある笑いを見せるから気になってしょうがない。
「何なんだ、一体さっきから」
「ブラックなんて珍しいな」
「……え?」
 言われるまで、気が付かなかった。この間まで、俺はコーヒーをカフェオレのようにして飲んでいなかったか?昨日の夕方に飲んだときは確かそうして……いや、だが今はこれが当然のようになって、いて……。
「九龍、どうした?……大丈夫か、顔色悪いぞ」
 強い臭いだ。コーヒーでもラベンダーでも、指先に染みついた煙草の臭いでもない。甘ったるい、腐った臭いだ。頭が痛い。何かが引っ掛かっている。どこかで銃声が聞こえる、空耳だ、響いている。
「九龍、おい!」
 クロウ、九龍、クロウ、俺を呼ぶ声、知っている、けれど知らない、誰かの声………。
「九龍ッ!!」
「ッ―――!」
 肩を掴まれ、我に返った。
 皆守の手が耳の裏に回り、顔を覗き込まれる。……なんて顔してやがる。そんな、眼。
「頭、痛むのか?」
「…大丈夫だ」
「……なんか、思いだしたのか」
「いや……」
 記憶の輪郭が浮かび掛けた。けれどすぐに消えてしまった。消えると同時に頭痛も消える。辺りには、あの甘い臭い。
 滲んだ脂汗を拳の中で握り潰し、俺は真っ黒いコーヒーを飲み干した。あまり、いい気分ではなかった。喉元まで出かかっている『忘れている何か』を、早く嘔吐してしまいたい。
 昼休みももう残り少ない。すっきりしない……言ってみれば朦朧としたような状態で、俺は今、一番会ってはいけない人間に会う。
 教室に戻りかけで、階段の踊り場。昼休みの練習から戻ったばかりという風体の、夷澤凍也。目が合った途端、夷澤のスイッチが入るのが伝わってきた。本当に、好戦的だ。だが今は、間が悪かったとしか言い様がない。
「アンタ……」
 一瞬、臭いが強くなった。敵意を向けられているからそう感じるのだろうか。無視しても良かったが、……間が悪かった、本当に。
 俺は視線だけで夷澤を誘い、階段を上がった。
 ついでに皆守の口元からアロマパイプを引き抜いていく。
「おい…!」
「借りるぜ」
 夷澤が階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。熟れた臭いを誤魔化すように、俺はアロマパイプを口に銜える。夷澤の気配はすぐそこにある。……瞬いたまぶたの裏側で、夷澤の顔と化人の姿が交互にフラッシュバックした。俺は、知らず口元を吊り上げる。
 背後からの初打。打ち上げ気味のフックを受け流す。体勢を入れ替え、肘打ち。予想していたのか夷澤は身体を捻り、開いた脇に拳を入れ込んでくる。
 だがそれは誘いだ。衝撃が来る前に脇を締め、夷澤の利き腕を捕まえる。このままへし折ろうかとも考えたが、止めた。この体勢からだと綺麗に折れないからだ。
「ぐッ」
 夷澤が呻く。俺は後ろ向きのまま無理矢理階段を二、三段飛び降り、バランスを崩した夷澤を俯せに踊り場に押し付けた。利き腕は固め、開いた腕で夷澤の後頭部を押さえる。顔は横向きのまま、メガネはズレてはいるが割れたわけではないようだ。
 悔しげに、俺を睨み上げている。
「てめぇ……離しやがれッ」
 ガラが悪い。躾のなってない、野犬のような眼をしている。俺は顔を近づけて、アロマパイプの煙を吹き付けた。
「本当に犬みたいだな、よく吼える」
「んだと……?」
 周りには野次馬ができはじめている。俺を制する声がどこかから聞こえてきたが、無視した。
「真正面からの打ち合いだけじゃ、戦闘にならない」
 耳元に口を寄せて、いつものアドバイスだ。今日みたいな戦いでは及第点には程遠い。俺はこいつに戦闘を指南する立場ではないが、強くなってもらわないと面白味がない。
「本気で俺とやり合いたいなら」
 囁くと、なぜか目元が赤く染まる。悔しいのだろう。思わず笑ってしまうと、切れ長の目は更に吊り上がった。
「―――殺す気で来いよ」
「っ……」
 腕の下の身体が一気に硬直した。脈が速くなっていくのが掌から伝わってくる。
「おい」
「っと」
 まるで猫にするように、皆守に襟元を掴まれた。関節を固めたままだったせいで、無理矢理動かされた夷澤が低く呻く。
「その辺にしとけ。からかいすぎだ」
「……こいつの骨折る気かお前」
 手を取られて立ち上がる。夷澤はしばらく痛みに呻いていた。だが、俺を見上げると眉をひそめ、知らない何かを見るような目をする。
「おい…」
「何だ?」
「アンタ、ホントに、葉佩九龍か……?」
「あ?」
 俺が、俺以外の何に見えるというのか。冗談で言ったのかと思ったが、夷澤の目は笑ってはいなかった。
「一体何を言っている」
「だって、アンタは……」
「九龍ッ」
 響いたのは、まるで怒鳴るような声音だった。皆守の声はその場にいる誰にも、それ以上の有無を言わせぬほどの強さ。皆守は夷澤の言葉を遮り、俺の腕を引いた。俺はアロマパイプを返すタイミングを失い、腕を引かれながら仕方なくそれをふかすしかなかった。