風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery 六番目の小夜子 - 4 -

 思い出すに任せるのと同じくらい、俺は出てくる目からの鼻水も垂れ流したまんまにしてた。声も出さないもんだから、ルイ先生はどう声をかけていいか分からないっぽい。
 しばらくはぐるぐると記憶と思い出の中で迷子になっていた思考がようやく現実に戻ってきて、深く息を吐き出す。
「あー……っと、えっと、すんません。ちょっと、色々と思い出しまして……」
「……そうか」
 頭痛は、綺麗にどっかいってる。もう欠片も痛まない、代わりに傷のような記憶が一つ、戻っている。それを確認して、また目頭が熱くなる。いやね、もう気ぃ張ってる気力、ないわ。
「こちらこそ悪かったな。様子がおかしいことに気付いていながら……もう少し慎重に記憶を手繰らせるべきだった」
「イエイエ。そんなん、ルイ先生のせいじゃねーっス」
 いつもの通り、にぃっこり笑ってみせる。けれどルイ先生は胡散臭いのかなんなのか、酷く心配そうな顔をして俺を長椅子に座らせ、自分も俺の目の前に腰掛ける。
「……今朝、保健室に来てみたら生徒のカルテが抜かれていた。だが、抜き取られたカルテはひとつだと分かっているのに、誰の物か思い出せなかった。私は生まれのせいもあって、少々占術には造詣が深くてね。失せものを探す《符》のおかげで、ようやく現れたのが彼女の名だ」
「白岐、幽花……」
「君の級友に間違いないな?」
「……ハイ。そうデス。その通りです。白岐ちゃんです」
 ごめんね、白岐ちゃん。忘れたりしちゃって。俺の中で色んな物がごっちゃになってて、ワケが分かんなくなってた。黒髪で黒い眼で、なんて。誰かさんとそういう特徴が似てたから。
「ちゃんと、思い出しました。白岐ちゃんのことも―――全部を」
 そうか、と。ルイ先生は一言。俺が変だったのが白岐ちゃんのせいじゃないってことは、もう分かってるっぽい。
「で……落ち着いたか?」
「………」
「前々から、君が何かを抱えているのは気付いていた。だが、君はそれを隠していただろう?無理に触れるわけにはいけないと思い、深くは追求しなかったが」
 ルイ先生は綺麗な指を俺の頬に。何かと思ったら目の下辺りを拭われた。
「踏み込んでいれば、君は今日、傷を更に広げたりはしなかったかもしれない。……すまない、カウンセラー失格だな」
「……んなこと、ないです。俺が勝手に、こんな事になっただけで、」
 首を振る、その動作が終わる前にルイ先生の腕が俺の肩を引き寄せていた。柔らかく抱き締められ、後頭部を優しく叩かれる。まるで子どもにやるように。あやすように。
 また、鼻の奥の辺りが痛くなってきた。錯覚かもしれないけど、今なら吐き出してもいい気がしている。
「……忘れてたんです」
「それは白岐幽花のことではないのだな」
「白岐ちゃんのことも、忘れてたんですけど。……もちっと昔の、深いとこにあるヤツでして」
「忘れていたことと、今日の君の態度とは何か関係が?」
 俺は彼女の腕から少し離れて、顔を見上げた。
 煙管の匂いが優しく鼻をつく。何度も保健室に来ているせいでもう馴染んだ匂い。その匂いに、それから優しすぎるルイ先生の言葉と表情に促されるように、俺は喋り始めた。
「家族が、いたんです。一人、血は、繋がってなかったんですけど、俺は家族だって思ってたし、あいつもちゃんと俺のことを家族だと思ってくれてた」
「それは、……中国での、ことか?」
「ハイ。香港で、暮らしてたんです。一応日本人なんですけどね、俺。両親いなくて、そいつとずっと二人で生きてきた。それこそ、普通両親とか学校で教わるだろうことを全部、生きている意味もそいつが教えてくれて、だから俺にとっては母親みたいな、姉みたいな、ある意味師匠でもあって」
「女性だったのか」
「女性……つっても、初めて会ったとき、そいつは今の俺よりも年下でしたけどね、すっごい女だったんです。子どものくせに、もっと子どもの俺を育ててくれた」
 お世辞に治安がいいとは言えない場所で、ずっと二人で生きていた。子どもの頃の俺は、本当に何にもできない非力なガキで、よく厄介事に巻き込まれて時には殺されそうにもなって、けれどいつだってあいつが、助けてくれた。あいつが守ってくれたから、俺はあそこで生きていた。
「人生の途中で両親はいなくなったけれど、その代わりあいつが必要だったものは何もかも与えてくれたから、俺は……物凄く、幸せでした」
「だが今、君は、この學園にいて、話してくれたことは過去形、だな?」
「……そう、ですね」
 ルイ先生は俺を見る。同情じゃない。もっと深い。覗き込むのではなくて、思いを重ねようとするような。カウンセラーとしてじゃなく、たぶん俺を思ってくれる者として。
「つまりは、そういうことで。三年くらい前に、あいつ、色んなものを壊して、いなくなっちゃったんです。本当に急なことだったから俺、何であいつがそういう行動に出たのか全然理解できなくて、……一人遺されてずっと考えて、やっぱり分からないから、あいつになったら考えてたこと、分かるんじゃないかって思って。いつも笑ってるとことか、口癖とか、思想みたいなもんまで全部、覚えてる限り真似をして生きることにした」
 話しながら、俺自身、何を言ってるのかよく分かんなかった。聞いてるルイ先生は輪をかけてワケ分かんないだろうと思った。でも、先生はすっげ、真剣な顔で俺の話に相づちを打ってくれた。要領を得ないはずなのに、話を止めたりしないで。
「それで、……当たり前なんですけど、あいつでいるとそれまでの自分より周囲の人間の反応とか全然違って、生きていくのが易いってことに気が付いたんです。だからどんなときもあいつでいたら、もう、俺、自分がどれかよく分かんなくなってて……」
「ということは、今日の、あの君が、その『彼女』を持っていない葉佩九龍ということになるのか」
 何枚目かのティッシュで目元を拭いながら、俺は今日の自分を振り返る。ちゃんと、覚えてる。だから思い出して、膝を抱えてしまった。
「……俺、すっげ、性格悪いんスよ。ひねてるし、斜に構えてるし、可愛くないガキだって言われることはしょっちゅうで、自分でも自分、嫌いだったし」
 そんな俺のままでみんなと話した。みんなが不審がらなかったのは、たぶんあの臭いの作用だったんだと思う。だから《生徒会役員》の夷澤とか、臭いの影響を受けなかったルイ先生が俺の異変に気が付いたんだ。
「その女性は、本当に大切な人だったのだな」
「……俺の人生、覚えてる限りほとんど、そいつといたんです。ちゃんと『知っていた』人間て、この學園に来るまではそいつしかいなかったから、俺の世界はその女で廻ってたようなもんです」
「そうか……」
 怖くなるくらい深く、俺はあいつを大切に思ってた。あんまりに深くて、正しくそれが愛だったから、逆に口に出しては言えなかった。でもあいつはいつでも俺に「愛してるよ」って言っていた。その代わり、あいつは他の人間には言わなかった。それを知っていたから、互いに特別だと想っていられたんだ。
 あいつを真似した俺は、これでもかってほど色んな人に愛してるって言いまくってる。本当はそんなんじゃいけないのにね。分かってる、分かってるけど、不安なんだ。元の俺はあんまりに何も言わなすぎて、あいつ以外にはほとんど自分を理解してもらえなかったから。
 その反動で、今、言わなくていいことまでぺらぺら喋ってる。やっぱ、模造品はダメ。
「本当は、分かってたんです。いくら真似しても、あいつにはなれないって。人間の真ん中の所で、俺はあいつとは違ってた。表面だけ真似しても絶対ボロが出る。でも……俺は、あんまりに俺のことが嫌いだったから、元の俺に戻りたくはない」
「だがそれは、無理をしているということだろう?本来の自分を押し殺すのだから」
 痛いところを突かれた。しょうがない、苦笑になっちゃうけど笑って、頷く。
「無理、っつーか、嘘ばっかです。だから執行委員だったヤツらとかが俺に懐いてくれたりすると、すっげ罪悪感で。俺じゃないって、何度も言いたくってしょうがなくなったり、します」
「ふむ……」
「でも、これで来ちゃったから、もうこのままで行くしかないんです。本性丸出しには、できない」
 怖くて、できない。
 あーもー、情けなくって余計涙出る。笑ってるのも結構しんどくなって、両手で顔を隠す。
 あいつは、こんなんじゃなかった。人前でなんてほとんど泣かなかった。辛いときは手の甲を血が出るほど噛みしめながら嗚咽を堪えるように泣いてた。俺は知ってる。俺には甘えていいよなんて言っておきながら、自分は甘えずに一人で立ってる。……俺には、そんな度量が足りない。根本で俺とは違ったんだよな。つまりはそういうこと。
「だがな、葉佩。今日、他のクラスメイトや友人たちは普段通り接していたのだろう?」
「……たぶん例の臭いのせいでみんなちょっとおかしかったんですよ」
「本当にそうなのか?」
「じゃなきゃ……じゃなきゃ無理ですもん」
 もう、自分の人間性なんか諦めてるし。ダメだもん。すっげー嫌なヤツだもん。前もちょっと俺っぽいコト言ったら甲太郎は嫌がったもん。お前、どうした?とか言われたもん。……分かってんだもん。
「私はさっき、様子はおかしいと思ったが不快に思ったりはしなかった。あれが君だとしたら大丈夫だよ」
「そりゃあんだけの短い時間だったら。毎日だと、たぶんちょっと殺意が湧く程度には腹立たしいかと」
「葉佩……」
 呆れたようにルイ先生の溜め息。根が深いって?しょうがないじゃん、『生意気』とかいう理由だけで俺は殺されかけたことがある。そんなんじゃ、ねぇ。
「君の育ってきた環境とここは違うかもしれないだろう?本当の君と接して、八千穂が君を嫌うと思うか?」
「……八千穂ちゃんはすっごく良い子ですけど、んーっと、たぶん育った環境があんまりにも違いすぎるのは問題かと」
「家庭環境とか、そういうことか?」
「というか、全体的に。ずっと、傍には犯罪が転がってましたし、三合会とか14kとか和記幇とかそういうのも身近」
 ちなみに三合会云々は中国マフィア。黒社会ってヤツね。
「阿片とか強盗くらいは犯罪じゃないよっていう環境で、……色々俺もやりましたしねー」
「今はそうじゃないだろう?時折煙草臭いことはあるが、君は友人を傷付けたりはしない。違うか?」
「……分っかんないですよ、そればっかりは、俺にも」
 吐き出すように色んなことを喋りながら、俺は自分の中にある決意に気が付いた。
 ああ、そうだ。もうそうするしかねぇじゃん。だったら、何言ったって、大丈夫だろ?だからこんなに、喋ってんだろ?
 ―――もう、いいじゃん。
「だって……俺、人殺しですし」
「何……?」
「たぶん、日本でいう小学生くらいの頃から殺ってました」
 ルイ先生の目が見開かれる。そこに映る俺はニコニコ笑ってる。人を殺しましたって笑顔で言われたら、そりゃ引くよな。
「日本じゃ、犯罪者は基本的に受け容れられない。しかも、俺は再犯続きみたいなもんです。何より悪いのは、俺、それを悪い事だとは認識してても、間違っていたとは思ってないんです。今でも」
「葉佩、それは……」
「そういうことなんです。環境が違いすぎて、悪い事ってヤツに対する認識もズレてるんです。それ、致命的じゃないっすか?確かに八千穂ちゃんたちに危害を加える気はありません―――とりあえずは。でも、いつでもこんなの、持ち歩いてるんスよ?」
 俺は学ランの上着を捲って見せた。脇にぶら下がる銃。俺の大事な相棒。ルイ先生の眉間に、きゅっと皺が寄る。
「日本の人たちの世界では、俺は歩く犯罪です。ズレてるんですよ。それがダメなんです。『葉佩九龍』ちゃんとやって笑ってればそういうの見えなくて済むかもしんないけど、俺じゃダメだ。自分でも分かんないトコで、きっとみんなを傷付ける。そういう要らない自信があるんです。だから、俺はッ……」
 畳み掛けるように続けるつもりで、俺は次の言葉を失った。息を呑む。
 どうして気が付かなかったんだろう。たぶん、泣いてて鼻が馬鹿になったせいだ。すぐ近くに、ラベンダーの香りがしていたのに。俺の手のアロマパイプはもう消えている。これは、いつもふかしている人間に染みついた、浅く柔らかい匂い。
 俺が黙ったのを見計らったように、ルイ先生が嘆息して、
「―――皆守」
 そう、呼んだ。俺は毛細血管の先の先まで凍り付く音を聞いた気がした。
「……いきなり話をふるなよ。まるで俺が盗み聞きしてたみたいだろ」
「おや、違ったかな」
「俺が寝てるのを知っててそんな話する方が悪い」
 カーテンで区切ってあるベッドスペースから、甲太郎が出てきた。色んなことを考えてますって、表情。
「九龍……」
 ……あーあ、決定打。聞かれちゃった。
 なんとなーく、甲太郎には聞かれたくなかったなー。何にも知られないまま、終わらせたかったのに。
「うは、いるならいるって言えよー。俺、気が付かなかった」
 ルイ先生は最初から気付いてて、しかも起きてることまで分かってこの話を振ったんだろう。俺はなんにも知らず、要らないことまで喋ってたというわけ。
 もう、力抜けてまう。ぐったり、笑顔まで疲れてるように見えそうだ。それでもどうにか、甲太郎が何かを言い出す前に話を逸らす。
 俺の中身から、遠ざける。
 持っていたアロマパイプを手渡しながら、にっこりと、わざとらしいくらいに笑って見せた。
「そういや、甲太郎、白岐ちゃんを探すの手伝ってくれるって言ったよな?ルイ先生、白岐ちゃんの居所、心当たりとかあります?」
「あ、あぁ」
「すんません、教えてもらえますか?ガッコ、閉まる前になんとかしないと」
 ルイ先生はちらりと甲太郎の方を見た。俺が意図的に話を変えたのは分かってるみたいだ。俺の防護壁。これ以上は何も喋りませんていう。伝わってよかった。
「……この臭いだが、実に巧妙に仕組まれている。サンダルウッド、マージョラム、ビターオレンジの花弁。これによって我々は意図的に記憶を操作されていたようだな。そして、この學園でこんな事ができるのは《生徒会》の人間しかいない」
「てーことは、つまり、《生徒会》が白岐ちゃんの存在を隠そうとしてるって事っスね」
 努めて普段通りに。この學園の葉佩九龍っぽく。笑ってみせれば、ルイ先生は困ったような顔をする。ヤダなー、先生ったら。もう気にしなくてもいいのに。
「白岐ちゃん、《生徒会》となんか関係があるんでしょーかね?」
「でなければ、この學園に関する、重要な秘密を握っているのか、だ」
「だとしても、今更、じゃないっすか?この時期に白岐ちゃんを隠そうとするって、どういう意味なんでしょうね」
 俺は、甲太郎をなるべく意識しないように話す。さっきから黙りっぱなしで、逆にブキミ。何か言いたそうなのは丸分かりなのにね。
「やれやれ、この學園には分からないことが多すぎる。《転校生》としては、挑み甲斐のある謎、といったところかな?」
「ですねぇ。でも、それよりも白岐ちゃんを見つけることが先決でっス」
「……君は、本当に素直だな」
 すっとルイ先生の眼が細められる。俺が、今の台詞を本心で言ってるのかどうか、測りかねてる感じ。さぁて、どっちでしょうか。
「それと、私が実際に見たわけではないが、例の、時計台の幽霊が彼女に似ているという話もある」
「あぁ!それ、確か八千穂ちゃんも言ってました。時計台、か……」
「行くんだろう?気を付けるんだよ。何かあったら……いつでも来るといい。話なら、聞こう」
「ありがとうございますー♪でも、大丈夫ですよ、俺は」
 行くトコ決まったらもう行かなきゃ。ホントに日が暮れる。厄介な人たちに捕まる前に白岐ちゃん救出にゴーですよ。
 挨拶して、保健室を出て。やっぱり甲太郎が付いてきたから小さく嘆息。それっきり、俺も甲太郎も話し出すきっかけがなくてだんまり。まぁ、甲太郎からは言い出しにくいだろうなー。だからってこのままさっきの話、なかったことにするのもちょいと無理がある。
 で、俺がこういう状況で甲太郎を目の前にして言うことといったら、ひとつ。
「……ごめんねぇ」
 それまでさまよっていた甲太郎の視線が、弾かれたように俺に合わせられる。
「なんか、嘘吐いてたとかそういうんじゃなくて、全部嘘だもん、どっから謝ったらいいか分っかんねーや」
 うわ、うっさんくせーって眼。笑いながら謝んなって?だってしょうがねーじゃん。深刻ぶって謝ったからって何がどうなるわけでもないし。
「とにかく、ゴメン。ゴメンね。ホント」
「九龍、あのな、俺は……」
「あ、八千穂ちゃんたちにはナイショにしててくんない?さすがに……話が広まるのはちょっと、勘弁かなって」
 それが虫のいい頼みだってのは分かってる。分かってるけど、騒動にはしたくない。でも伝わったら騒動になるのは目に見えてる。俺が他人の真似して生きてるってことじゃなくて、人殺しだって事実は、さすがに。
「それに、ショック、受けてほしくないしさ。今更、クラスメイトが極悪人でしたとか、ヤでしょ?」
 甲太郎の痛々しい視線から逃げつつ、俺は歩き始める。時計台は一旦外に出なくちゃいけない。
「九龍」
「ん?」
「俺は今日一日、學園の連中がおかしいのを見てた」
「あー、そういや甲太郎は普段通りだったよね。やっぱ、ラベンダーとカレーの匂いしか分かんないから?」
 俺の冗談に、ニコリとも笑ってくんない上に突っ込んでもくれない。寂しいなー、もう。いいじゃんよー、ちゃんと俺、葉佩九龍やってんだからそんな態度変えなくっても。って、それも俺のワガママか。
「俺は、お前のままで良いと思ってる。今日、そう思った。無理して笑わなくても、お前はお前だろ?」
「でも、こっちの俺のが扱いやすいっしょ?」
「扱いが易いとかそういう問題か?違うだろ?」
「そういう問題だって。ホーント、今日みんながおかしくなってて良かった。不謹慎だけどホッと……、」
 ホッとした、その台詞が出る前に俺と甲太郎、同時に廊下の向こうからやってくる気配に気付いた。弾かれるように振り返って、そこにいた人物を視認する。
 会長のオーラはちょっと凄すぎ。ある意味危ないくらいだ。煽られるように感情が総毛立つ。威嚇体勢、万全。しかも、大事な人間を忘れさせられていたことが更に俺を煽る。
「葉佩九龍……、どうやら再三に渡る忠告は全て無駄だったようだな」
「お墓参りはやめましょう、って?そういや、会うたびそんなコト言ってましたよねぇ、カイチョーさん」
「……《執行委員》を解散させただけでは飽きたらず、尚も學園の秩序を乱すか、《転校生》よ。まるでそれが目的でこの學園に現れたかのようだな」
 秩序。秩序だってさ!笑わせる。散々人の頭の中弄くり倒して追い詰めて、出て来る言葉が秩序とは。もう笑う以外にないだろ?思わずけらけら笑い出しちゃうってもん。
「何がおかしい?」
「いやー、なんか、いいなぁって。そういう言葉がさらっと出ちゃう辺り、ここはとても平和デスね」
「…………」
「ちなみに、俺にその『秩序』とやらを乱す気はないよ?これっぽっちもね。ていうかね、秩序なんてご立派なもの、今まで生きてきた中でお目にかかったことがないもんで。どうやって乱せばいいのか分っかんないだよねー」
「だが結果的にそうなることは目に見えている。俺には阿門の名と《生徒会長》という立場に懸けて、この學園の秩序を正す義務があるのだ」
「それには俺が邪魔なんでしょ?……だったらさ墓がどうとか秘密がなんだとか、そういうこと建前にしないで言えばいいじゃん。目障りだから消え……」
「阿門」
 その声の持つ温度に、張りつめていた場の空気が凍らされたかのように固まる。俺も、阿門ですら一瞬言葉を失うほどの冷たさ。阿門を呼んだ甲太郎は、ぞっとするほど低い声で言葉を続けた。
「……俺は、九龍が転校してきた時から、その動向を近くで見てきたが、少なくともこいつに悪意はない。こいつの言葉に、行動に救いを見出した者がいることも確かだ」
「こ、甲太郎?」
「こいつは馬鹿で阿呆でどうしようもない上に偏屈で他人の顔色ばっか見てるような奴だけどな、何よりも他の誰かのことを最初に考えるような手の付けられないお人好しだ。この學園を壊そうなんて考えたりするような奴じゃねぇよ」
 ……俺には、甲太郎の真意が分からない。こんなところで俺を庇って、一体それが何になる?こんなことをしたって何も変わりはしないのに。俺がここに残れば会長と戦り合うし、そうじゃなければまた學園は平穏無事。全てが墓の下で行われることで、知らないフリをしていればそのうちに終わること。
 なのに、どうして?
「……お前のような奴がそんな事を言うとはな」
「………」
「いいだろう。では、葉佩九龍―――お前にこれをやる」
 投げてよこされたのは……《阿門の屋敷の鍵》?げぇ。ホントに食われに来いってか。地雷原へコンニチハ?
「俺も、もう少しお前と話がしてみたくなった。だが、このまま先へ進もうとする以上―――お前は俺にとって、排除すべき存在であることに代わりない。それだけは忘れるな」
 会長が背を向ける。伴って、固まっていた空気が戻っていく。調子を取り戻してみればなんともまぁ、身のない言い合いか。俺は、去っていく背中に告げた。
「カイチョ。……もう大丈夫だと思うよ。全部、何もかもね」
 振り返らずに行ってしまった会長に、何がどこまで伝わったかは分からない。行っちゃった後には俺と甲太郎が残された。何だかちょっと、気まずい。
「九龍」
「ん……?」
「あとで話がある。逃げんなよ」
 簡単には頷けなかった。だって、逃げたいのに逃げられないのか、逃げなきゃいけないのに逃げたくないのか。
 俺はやっぱり、自分の本当のところすらちゃんと分かってなかったようだ。

*  *  *

 時計台の入り口に近付いていくに連れて、あの臭いが漂ってきた。いるな、と思って身構えていたらやっぱりそこには赤い髪の美女が。彼女だって認識するだけで、俺は何だかぐったりする。今、一番顔を見たくない人なのに。
「やっぱり来たのね。葉佩九龍」
「やっぱりいましたね、双樹姐さん」
 燃えるように赤い髪とナイスバディは遠くからでもよく分かる。近付くと、臭いは顔を顰めたくなるくらい強くなった。また、頭がくらっとする。
 忘れてはいけない。自分に言い聞かせて、確かめるように銃に触れた。
「ねぇ、葉佩。あの夜は楽しかったわね。それでも結局、あなたとあたしはこうなる運命だった……」
「運命、ねぇ……」
 俺、その言葉に全部任せてしまうのがあんまり好きじゃない。
「初めから分かっていたわよね?いつかこうして向き合う時が来ることを」
「……でも、次のダンスはここでじゃないよね?それも、分かってるっしょ?」
 頭痛が戻ってくる。手の中の脂汗を握りつぶしながら目の前の彼女を見る。
 そんな変化が分かったのか、甲太郎はまるで庇うように俺と双樹姐さんの間に立った。
「いよいよ《役員》のお出ましか……。そんなに九龍が邪魔なのか?」
「……あなたは黙っていてちょうだい、皆守甲太郎。ともかく、葉佩をこれ以上先に行かせるわけにはいかないの」
「なら、その前に一つ聞かせろ。《生徒会》が守ろうとしているのは、この學園でも生徒でもなく、あの遺跡だ。そうだろう?それがどうして白岐にこだわる?あいつはやはりあの遺跡と何か関係があるのか?」
 甲太郎の声が、珍しく感情的に揺れている。さっきの言い合いがそんなにキているのだろうか。俺はそんな背中を見ながら、頭痛と、銃に手が伸びそうになる手を必死に押さえていた。
 彼女がくすりと笑う。人の大切な物を簡単に消しておいて、知らぬ顔で、笑っている。
「どうして急にそんな事を言い出すの?」
「何?」
「だって、あなたは毎日、ただぼんやりとラベンダーの香りに埋もれて時を見送っていただけだった。何の希望も持たず、生きていくことさえ面倒なのではなかったの?」
 ……え?
 かたかたと震えていた指が、止まった。生きていくこそさえ面倒……?甲太郎が?
 確かに面倒くさがりではあったけど、世話焼きで心配性で、危なっかしい奴ほど放っておけない。それが皆守甲太郎って人間かと思ってた。
 いや、そうじゃない、陰の部分もいっぱいあるのは分かってるんだけど……それ以上考えるとまた記憶が分裂していきそうで。頭の中から必死にラベンダーの断片を追い出した。
「そもそもそんな事をあたしに聞くだけ無駄だと分からない?學園も生徒も遺跡も、あたしにはどうでもいいこと。あたしはただ―――阿門様のお役に立ちたいだけ」
「……そのために、人の記憶を色々と弄くりまわしてくれた、と」
 むかつく。でも、その理由だけは天晴れだと思う。これで正義とかそんな事を言われたらぷっつんしてましたよ俺は。
「ねぇ、葉佩。あなたはどうしてここに来たの?彼女は、あなたにとってそんなに大切な存在?」
「あんたにとっての『阿門様』がカスみたいに思える程度には。消されて、その大元を消し返しちゃおうかと考えたりもしたっけか」
「素敵。情熱的なのね。なんだか真っ直ぐすぎて……、少し妬けちゃうわ」
 双樹姐さんが口元を吊り上げる。俺の言っている意味を正しく理解して、その上で笑ってやがる。さすがは《役員》様々ってことか。
「ねえ、あなたはこんな神話を知っているかしら。『古事記』にある逸話のひとつで、邇邇芸命という神様のお話よ。彼が木花佐久夜毘売という美しい妹姫を妻とし、岩長比売という醜い姉姫を拒絶したことによって、人は寿命という儚さに縛られる事になったというものよ」
「天孫邇邇芸の結婚、ね」
「もしあなただったら……どちらを選ぶのかしら?美しくも儚い木花佐久夜毘売?それとも醜いけれど悠久に傍にあり続けてくれる岩長比売?」
 そんなの、決まってる。
「どっちもいらない。美人とか美人じゃないとか、短命だとか悠久だとか。絶望的に不毛な話だもん。あんただって、会長以外の誰かを欲しいとは思わないっしょ?」
「そうね。でも、それはまるで人の心のようじゃない?時に美しく、時に醜く、儚く壊れてしまう想いもあれば、決して変わらず続いていく強い想いもある……」
「その『心』とかいうヤツ?他人のそれを勝手に弄くってどうこうするのはまともな趣味とは言えないんじゃねーの?」
 言葉に込めた牙は確かに届いているはずなのに、彼女はどうにも一筋縄じゃいかない様子。ふふふ、と不敵に笑ってみせる。
 その意味に気が付いて、俺は自分の頭から血の気が引いていくのが分かった。
「残念だけど、あたしにはあなたの問いに答えてあげることはできないわ。でも、あなたたちを不毛な疑問から解き放ってあげることはできる。あなたも―――もう彼女のことなど忘れてしまいなさい」
 また、あの臭いが強くなる。意識が淀む。侵される。記憶を手掴みされて強奪されるような気分だ。俺は、それだけは忘れちゃいけないのに。「生きていく上で必須なものを忘れたワケじゃないらしい」、そんなわけがない。一番、大事なとこなんだ。それがないだけで自分がひっくり返る。今の俺の根底。手放せない唯一。
 眩む視界の向こうで、双樹姐さんが艶笑する。攻撃は……無理だ。彼女は《生徒会役員》だ。今の状態での一手なんて屁でもないんだろう。
 だから、銃を抜いた。グロックアドバンス。コッキングして、撃てる状態にする。
 それに気付いた甲太郎が、咄嗟に双樹姐さんを庇うように立ち塞がるけど……そうじゃない。
「―――九龍ッ!?」
 サプレッサーから空気の抜ける音がする。同時に硝煙と血の臭いが漂う。左肩には確かな激痛があって、そのお陰で呆けかけた意識が無理矢理覚醒する。
「ッ……、つぅ…」
 痛みを堪えて、目の前の女を睨め上げる。きっと、凄まじい形相をしているのだろう。余裕ぶっこいていた彼女の表情に怯えが混ざった。
「忘れ、て、たまるか……ッ。死んでも、覚えてなきゃ、いけない……奴だ…」
「……なんてこと」
 一歩後退って唇を噛んだ彼女の周りから、さらに臭いが放出される。頭痛に吐き気まで加わって、俺は自分が逃げるタイミングを間違えたことを知った。膝が崩れる。もう退避は無理だ。このまま意識がすっ飛んで、目覚めたらまた忘れている?
 ―――冗談じゃない。
 歯軋りをしてどうにか立ち上がろうとしてふらつきかけた、真横を。
 何かが抜けていった。……薔薇?
「オーホホホホッ!!そうはいかないわよゥ!!」
「―――!?」
 聞き覚えのある声と共に、その場の空気が一転する。濃い薔薇の香りは、充満していたあの臭いすら打ち消した。
「このアタシの高貴な薔薇の香りに勝てる匂いなどないわ……」
「……そうね、あたしの繊細な香りじゃ太刀打ちできないほど強烈で悪趣味だわ」
「……同感だ」
 匂いに特徴を持つ二人が硬直したまま口を揃えた。その二人が見ている方向を振り向くと、やっぱりそこには『彼女』の姿が。
「お黙りッ!!」
「すどりん!」
「ふんッ、負け犬たちは好きに遠吠えてるといいわ。アタシはただ、ダーリンを救うためだけにやってきた愛の使者ッ。そうよね、ダーリン?」
 俺はもう、ありがたくって涙出そうな勢い。がくがく頷いてしまう。
「ステキッ!!アタシたち、やっぱり運命の絆で結ばれてるのねッ」
「あらあら、随分と愛されちゃってるのね」
「オーホホホホッ、これぞ愛の勝利よ!さあ、どうするの?双樹咲重!!アンタの匂いはもう効かないわッ」
 高笑いするすどりんが、今はちょっと女神に見える。いや、目の錯覚とかじゃなくて。
 俺はそのデカい背中に庇われながら、自分の肩を簡単に止血した。双樹姐さんの臭いと薔薇の香りと血臭で、辺りはちょっと大変なことになっている。
「……ねェ、朱堂ちゃん。あなた随分と葉佩がお気に入りのようだけど、……どうしてなの?」
「あらヤダ。アンタともあろう人がこの匂いに気付かないの?」
 血と硝煙と煙草の臭いですか?それだったら確かに垂れ流してますが。
「匂い……?」
「そう。ダーリンからはね……、自由の匂いがするのよ」
「………俺は草原の民か何かですか」
「……そりゃ、確かにクサいな」
 甲太郎にいたっては頭痛がしてきてるらしい。
「どういう意味よッ!!」
「……フフフッ。いいわ。ここは朱堂ちゃんの愛の力に免じて退いてあげる」
 恐るべし、愛の力。いつか世界すら救ってしまいそうだ。怖い怖い。
「その代わり、―――葉佩。必ずあなたが彼女を守りなさい。……いいわね」
 それは、白岐ちゃんの、ことなのだ。
「言われなくても」
「ふふッ、頼もしいわね」
 俺が本当に守りたかったものは、もう指の間をすり抜けてしまっている。だから、こんな手でも守れる何かがあるなら、俺はそうしなければいけない。
「これ―――預けておくわよ。それじゃ、また会いましょう、葉佩。……待ってるわよ」
 俺の手の中に鍵を預け、彼女は赤い髪を翻した。その直前、『今宵、あの場所で』と唇が動くのも見逃さなかったし、俺だってそういうことだろうと覚悟はしている。ちなみに鍵はここ、時計台のもの。本当に、助けてしまっていいのだろうか?
「九龍ッ」
「あ、肩?平気平気、ダイジョーブ。穴開いたワケでもないし。掠らせただけ、」
「ダーリン、怪我してるの!?」
「だーかーら、ヘーキ。もう止血したし」
 止血は済んでる。もう血が滲んでるのすら分からないはず。臭いと学ランが破れてるのさえ気にしなければ俺はいつも通りです。痛みだけがちょっと余分だけど。
「さて、じゃ、行きましょっかね」
「ちょっとちょっと、アナタたち本当にこの中に入っていくつもりなの?時計台の中って何だか埃っぽくってカビ臭くって、お肌に悪そうっていうかアタシ―――ハアアアァァァッ!!」
「は?は、何?あの中、なんか……」
「ぶェーーーーーッくし!!」
 俺と甲太郎は同時にコケた。なんてお約束な。ここまで来るとちょっと感動的だ。
「オホホッ。あら、やだわ。鼻の穴に埃が……やーね、アタシったらはしたない。それじゃあアタシは消えるけど……、ダーリン、浮気したりしちゃイヤよ?」
「大丈夫、安心して!さっきのあれは絶対に忘れないッ。愛してるよすどりん♪」
 ぎゅっと握られた手を握りかえす。それだけですどりんは耳まで真っ赤になってしまった。
「おおッ……オオオォーーッ!!熱いッ!熱いわッ!!アナタの愛がアタシを焼き焦がすううゥゥッ!!」
「……分かった分かった。もういいからお前はもう帰れ」
「何よ、皆守ちゃんたら。妬いてるのね?」
「誰がだッ!!」
「ウフフ、や~ね、照れちゃって。それじゃ、またねん、ダーリン!」
 そうして一発投げキッス。でも名残惜しそうだったから、俺は大きな額にキスを一つ。……あらまぁ、それだけで盛大に鼻血を吹いて、すどりんは倒れてしまった。なんてーか、純情っつーか血圧上がりやすいっつーか……。
「あーあ……、どうしよ」
「放っておけ」
 倒れたすどりんを足蹴にして(足蹴にすんだよ、酷くねェ!?この男!)、甲太郎は俺の手を引いた。それは銃弾を掠らせた左手。大丈夫とか言いながらそれでも痛んだ腕に、思わず俺は息を呑んだ。
「ッ………」
 気付いているだろうに、甲太郎はこっちを一瞥しただけ。大丈夫なんだろう?とでも言いたげな眼。強く握られた腕に加減はない。なぜだか責められてる気がして、仕方なく俺はそのまま手を引かれた。出かかっていた「放して」という一言は、とうとう出てくることはなかった。