風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery
Night observation - たとえ俺がそうできなくても -

 あの時からずっと、何かに問い掛けている。どうして、と。なぜあの日の雪が真っ赤だったのだろうか。汚したのは俺で、彼女で、……そんなはずはない。だって俺も彼女も、雪の白が好きだったのだから。
 冷たい廃墟の床は、まだ凍えたまま。温度を失った記憶としてどこかに刺さりっぱなしになっている。それを、ずっと放置した。治らなくてもいいからだ。直に凍傷となって腐り、いつかは俺を殺す傷だ。だがそれでいい。そうなるのが当然だと、思いこんでいた。
 けれど、この場所ではそうではなかった。それだけではなかったのだ。俺を殺す傷が、あっさりと周りの人間を傷付ける。何かを護る?それどころの話じゃない。手を広げて収まるだけのものすら零れていく。
 もう、まっぴらだ。たくさんだ。
 なのに、なぜだ。数時間前に肩を爛れさせたはずの男が、なぜか俺を引き止めている。
 硝煙の臭いの漂う、廃墟のような墓の下で。

*  *  *

 最近の天香學園は嫌に明るかった。最初は暗い場所に一緒になって隠れていた俺も、今では息を止めながら影を探して夜を歩くのが精一杯だ。見つからないように見つからないように。それなのにほんの少し翳ったのを見計らって外へ飛び出した。
 罠だと知っていたら、俺は笑っていたはずなのに。隠れたままでいたはずなのに。飛び出した先で持っていた全てを暴かれた。眩暈がするような明るさの下で、俺は自分のどす暗さに恐怖した。
 ここは、いけない。
 今日一日で、それが身に浸みて分かった。皆守甲太郎に銃を向けたときに、自分の『どうしようもなさ』を突き付けられた。
 ここは、違う。ここはいていい場所じゃない。取り巻く様々が、何もかも違いすぎる。
 血の臭いの濃度は明確に世界の違いを意味するのだ。
 ここの通常は俺の異常。そして、ここにいる人間にとっての異常が、俺にとっての通常。
 両親がいなくて初等教育も中等教育もまともに受けていなくて腐った街で生きてその街すら無くして唯一さえ亡くして―――殺して。
 それでも、俺の何が分かるなんて、お決まりの台詞を吐くつもりはない。理解されようなんて思ってはいないし、これは不幸自慢でもない。俺は自分が不幸だなんて思ってはいないのだから。ある一時期は自分が世界で一番幸せだと信じていたくらいだ。
 でも今、ここに立って、途方に暮れるような違和感しか抱かないのは、この地で俺が異端だという証明に他ならない。この違和感をぬぐい去るにはどうしたらいい?神に懺悔でもすればいいのか?赦しを請えばいいのか?
 できるわけがない。俺は自分のしてきたこと全てを間違いだなんて思っていないのだから。許されたくなどない。許された途端、それらは全て罪になるのだ。俺の両手は真っ赤に染まっているけれど、その色は罪の色じゃない。それが罪だとしたら、俺が生きていることそのものが罪なのだ。
 俺が神に赦しを請うとしたらそれはただひとつ、『あいつ』を失った日のことだけだ。だがそれすら、この場所には何の関係もない。
 何も関係のない場所。
 だから、もう。
 何もかも切り離してしまうことにした。
 俺はそれを選んだはずなのに、『そうでない俺』を選び取ろうとする人間が、いるとでも?
 答えを持っている男が、冷たいを通り越して痛みすら訴える指の先を、柔らかい温度で包み込んでいる。俺は記憶を過去へ飛ばし、現在を放棄するように泣きながら、それでも無意識にその温度だけは追っていた。
 ずっと凍え続けていたどこかに、小さく灯りが宿ったような温度。全てが暖かいわけじゃない。けれど、降る雪の一粒程度は溶かしていくほどの。赤い雪を、溶かして消すほどの。
 甲太郎はしばらく何も言わず、俺の頭をあやすように撫で続けていた。片方の手はずっと、繋がれたまま。銃を向けたというのに―――発砲したというのに、どうしてこうも落ち着いているのか俺には解らない。
 解らないことだらけだ。俺は何にも、解っていなかった。あいつが俺を遺して逝った理由も、空砲の訳も、この學園を荒らし続けた意味も、一番解らないのは甲太郎の腕だ。
 解りたくはない。解るのは怖いからだ。全てが解ってしまうのはいつだって恐怖だ。解らない方がいい。何も解らなくても、繋がれた指の先が酷く気持ちのいいことだけは解る。血の温度でぬめる感触さえ何もかも。
 銃が手から落ちたというのにどこにもかじかんだ不安が潜まない、不思議な気分。廃墟に取り残されたままの俺は、甲太郎のコートに必死でしがみついていた。そうじゃないとまた置いて行かれるような気がしていた。こんな静かな夜更けに、それも始まりかけの朝のにおいが遺跡の隙間から滲み出す中で、みっともなくしがみついているのはなぜだ。
 ―――いや、答えはやっぱりいらない。
 泣いたせいで僅かに乱れた呼吸を取り戻しながら、俺はぼんやりと肩越しの壁を見る。
「……なあ、九龍」
 俺が呼吸を飲み込むのを見計らって、甲太郎が耳元で言った。低く、僅かに掠れた、腰骨がそのまま砕け割れるような声だった。
「正直な、話」
 声音から、言いにくそうなことだというのが伝わってくる。俺は、触れている自分の指先が強張りそうになっていることに気付いた。
「お前がその……人、殺してたとか、それも日常的にっての、やっぱ、驚いたし、何にも思わなかったって言ったら嘘になる」
 甲太郎の言葉は詰まりそうになりながら紡がれる。いつも淀みなく物事を語り告げる男にしては、珍しいことだ。
 どこかが、また冷たくなり始めた。それは当然のことだから。この場所で、俺のしてきたことが受け容れられるとは思ってもいない。それでも、呼吸は失敗してばかり。泣いたせいではない。別の何かで。
「いなくなったって女、お前が殺してたってのも……なんだ、俺には、経緯とかも分からないから、驚いた、し」
 明確に、声には苦みが混ざっていた。もうそれ以上、聞いていたくないという意識が働く前に冷たさの中に戻ろうと身体を離し掛ける。こんな痛々しい声を聞きたくないから逃げようとしたのに、――― 一体何をやってるんだ。
 熱を帯びた頭の中がだんだん熱を失っていく。
 指先から伝わってきていた熱は、それはそれは危ういもの。訳の分からないおかしな温度。俺はそれを、あいつを亡くしたときにも感じていた。まるで夢のような浮遊間を伴う熱は、正常な判断力を根こそぎ奪った。結局、あいつまでも、奪い去った。
 与えられる熱とは裏腹な死んでしまいそうなほどの冷たさを、俺はまだ忘れていない。
 鼻の先に死の冷たさがふと過ぎったような錯覚を感じて、頭は急速に冷静を取り戻していった。
 ここにいることは選べない、それなのに皆守甲太郎は、離れることを許さないとでもいうかのように俺の腕を掴み、今度こそ両の腕で拘束するように引き込んだ。息の詰まる……まるで息の止まる、抱擁と言ってもいい腕の力。
「逃げんなッ!……そうじゃない、言いたいことはそんなんじゃない。……だから、逃げんな」
 止まりそうなのは呼吸だけじゃない。心臓も、背骨も軋む。それはそれは、痛いほど。息が止まるほど。肺が、押しつぶされてしまいそうな力で。
「お前は俺に後ろから蹴り殺されてもしょうがないって信じ切るとか阿呆極まりないこと言いやがったがな、九龍、」
 腕の力。高速を刻む鼓動。密着した温度。この場所に立つ意味。皆守甲太郎。解らなくて死にそうだ。言葉を流さしこまれる耳がやけに熱い。
「俺は正しくお前のこと信じてやる。絶対に、俺を撃ち殺したりしない。何があってもだ。もしそうなりそうな瞬間があったとしても、最後の最後まで信じ抜いてやる」
 皆守甲太郎。信じると言っている。嘘だ。信じる、ということはもっと優しい。こんな脅迫めいた。まるで前科を咎めるような信用は信用じゃない。そんなのは嫌だ。ほしくはない。
「全部認めてやるし、何やったっていい。お前の阿呆なとこも頭悪いとこも無茶ばかりするところも、諦めるんじゃなくて認めてやる」
 欲しくない。要らない。止めてくれ。
 頭の中で繰り返しながらも、無意識はいつの間にか甲太郎のコートに引っ掛かっていた。崩れないよう踏み締めていた足の力の全てが指先に。嫌だ駄目だと理性は無駄なことを喚いている。
 そう、無駄なのだ。だって、俺は。
「だから、ここから逃げるな」
 あんなにもここから離れたがっていたのに、今は、こんなにも。
「だから、お前は諦めるな」
 こんなにも、この手を取ってしまいたい。
 許されてると思いこんで、理性の声を振り切って、温度の中に落ちてしまいたい。
 願い、を自覚したらもうダメだった。俺は自分で思っていたよりも限界のところにいて、張りつめた線の上から落ちるはずのない側に転げ落ちたのだ。
 ―――ここに、いてもいいとでも?
 脳裏を『逃避』という言葉が過ぎった。
 この選択は間違いなく選んではいけない類の逃げで、俺にとって罪もなければ罰もなく、傷痕さえも見ないフリのできるもの。
 俺にそれは選べない。俺はそうしてはいけない。
 ここにいて、もしもあの時と同じ涙と、同じ笑顔と(それも泣くように笑う)、そんなものを見せつけられたとしたら……?俺はもう、同じ世界にいられないだろう?何もなくなってしまう。今度こそ真っ赤な雪の降る廃墟に閉じこめられて、二度と出ては来られない。
 あいつの仮面を貼り付けたままそこから抜け出しふらふら世界を彷徨うか、与えられた温度を取って本当に外に出てみるか。
 選ぶことのできない俺の背を、皆守甲太郎という存在が強く引き寄せている。まるで俺自身を選べない俺を、あいつが選んでいるかのように。
 たとえ俺が俺を信じることができなくても、俺が俺を選ぶことができなくても。
 それでも。
「ここに、いろよ」
 声にまで熱が灯る。まるで懇願するように、いっそう強く腕には力が籠もった。
 抗う、意志はどこにも宿らなかった。いっそ全てを諦める―――いや、委ねるように、額を肩先に押し付ける。その行為を実行することは、ほとんど恐怖に近かった。止めることのできない小刻みな震えはきっと甲太郎にも伝わっている。
 恐怖の、震えている、その意味が、分かるのだろうか?
 甲太郎はあやすように俺の背を柔らかく叩く。怖かった。本当に。心臓がすっぽり、持っていかれてしまったような絶対的な恐怖がある。
 近付いたそのあと、離れるとき、離れられるのか。自分に自信が持てない。
 それでも。
「んな、怖いことでもないだろうさ」
 ―――俺という人間を、それでも、選んで、くれる?
 甲太郎。
 俺の選択を丸ごとすべて認めて、そうして俺を。
「…………」
「あ?」
 声は掠れて潰れて消えた。問い返されて、だから黙って首を振る。何でもない、と。何でもないから何も言わないのだと、勘違いをしてくれ。
 甲太郎は黙り続ける俺をどう思ったのか、軽い溜め息を吐き出した。決して、暗いものではない。何かを安堵したような明るさを伴った嘆息。
「とりあえず、今日明日いなくなったりはしないって約束しろよ」
「………」
「それから何にも言わずにってのもやめろ」
「………」
 答えず、ただ軽く頷くことだけで応える。甲太郎はまた、笑うように呼吸を漏らした。なぜだろうか、やたらに楽しげだった。その楽しさが、数時間前に俺を追い詰めた暗さとは別物のような気がして、俺は更に解らなくなる。
 けれどもう、今日は考えるのは無理だ。脳味噌のキャパシティを軽々飛び越えて、ここに皆守甲太郎がいて俺がまだいることだけでいっぱいいっぱいの状態。
 脳味噌の中に馴染んだ煙草ではなくてラベンダーの匂いが充満しだした頃、俺はいつの間にか自分の意識と現実の境界が滲み始めていることに気が付いた。まずい、と認識したときにはすでに目蓋が満足に上がらなくなっていた。大変なことだった。完璧なまでに抗いがたい眠気だ。
 力が抜けた。甲太郎に寄り掛かる。耳元で何かを言っていた。おい、とかなんとか。妙に慌てた声だった気がする。もうよく分からない。理解できないことだらけでパンクした脳味噌が、きっと強制終了を要求したのだろう。
 ここがどこかだとか、状況がどうだとか、すべて放棄した俺はそれから数秒後。
 完全に、落ちた。

*  *  *

『なー、クロウ』
 違法建築のマンションの上で、時折通り過ぎていく巨大な飛行機の影を見送りながら、黒いコートをはためかせた女が言った。
『ここは世界の糞溜まり』
 両手には二挺の銃。さっきまで火を吹いていた。ここしばらく伸ばしっぱなしの黒い髪は、まるで意志があるかのように強い風を追っている。
『なくなっちゃったら、ここにいる糞共ってどーすんだろーな』
 足下はよく見分けの付かない色に染まっていた。夜の血溜まりなんて黒にしか見えない。ただ臭いだけが正体を晒しているばかり。
『……どうも、なんないんじゃない』
『他の場所に流れて?糞のまんま?』
『俺たち、たぶん、そう』
 後ろ姿を見ながら、俺は僅かに呼吸をしている死体なり損ないに一発ぶち込む。サプレッサーの先が僅かに輝く。やっと動かなくなった。
『クロウ』
 黒が振り返る。少しばかり飛んだ返り血が頬に飛び散っていた。白い頬に、赤い刺青が走ったようだ。
『ここがなくなって、全部流れ出て、自由になってもいいよって言ったら』
 下から吹き上げた風が、いっそう強く女の髪を乱して逃げた。
『違うところへ、行きたい?』
 何を言ってんだか。俺は思った。
『お前さんがもし、他のところに行きたいなら、』
 パァン、パァン。終わりかけの夜をつんざく轟音が響いた。響かせた。サプレッサーを外して発砲。冷たい空気の中、何度も銃声は木霊して、静かになった。
『……よく、聞こえなかった』
『クロウ……』
『早く帰ろう。朝になる』
『なあ、クロウ』
『帰ろう。……それでちょっと寝て、準備をする』
 不思議なことに、あいつはなぜか、泣きそうだった。錯覚かもしれない。あいつはいつも、泣くときですら気丈だから。
『帰ろう』
 俺はもう一度言った。随分と身長差のある女に近寄って、銃を持った手を引く。
『……そうだね』
 銃をしまって、あいつは微笑んだ。屈んで、俺を抱き締める。
 まだ紛れもなく子どもで、殺しを覚えたばかりで、この街にも馴染んだばかりで、全部失って彼女に出会ったばかりの俺を、やはり子どもで、俺より少し長くこの街で殺し屋として生きていた彼女が。
『そうだね、クロウ。……帰ろうか』
 
 子どもの頃の、朧気な記憶の海で、これだけは確かな輪郭を持った思い出。
 あれは、そう、九龍城砦解体の前、最後の仕事の日。
 あいつは確かに、俺を見て、微笑っていた。
 幸せそうに、笑っていた。

*  *  *

 身体が同じ温もりを感じている。抱き込まれているような、包み込まれているような、いずれにせよ人の体温のようだった。あんまりに心地良くて、俺は意識を開くのを止めようとさえした。見ていた夢も心地良くて、それなのに目覚めまで気分がいいなんて何か悪いことの前触れのようだ。幸せすぎる以上の幸せはない。
 ああ、起きたくない。
 無意識に温度に顔を擦り寄せて、漂ってくるラベンダーの匂いを肺一杯に吸い込んで……そこで、覚醒。脳味噌がすげ替えられたように立ち上がる。
「………ぅそ」
 俺が貼り付いているというかへばり付いているというかしがみついているというか、とにかくその相手は甲太郎で、頭の中で葉佩九龍を組み立てながら失敗して焦るという傍らで腕を放してもなぜか密着状態が解除されないという事実にてんてこ舞いだよ参ったねコリャ。
 甲太郎サン、俺をがっちりホールド。しかも爆睡。硬くて冷たい床の上で、というか壁に寄りかかって座ったまま撃沈している。こんな体勢だってのに俺の肩に頭乗っけて、大変に幸せそうな寝息。
 と、その幸せさを突き破るようにけたたましい音楽が鳴り響く。携帯の着信音。電話、ということは俺のじゃない。甲太郎の携帯電話。
 かなりの音量で鳴っているというのに甲太郎は目を閉じたまま、呼吸の深さはまだ眠りが深いところにいるというのを告げている。俺は働かない頭で少しだけ考えて甲太郎の学ランを探って、音源を取り出す。悪いと思いつつ着信した相手を見て……八千穂ちゃんだと分かってうげ、っと思った。
『もしもし!?もしもし、皆守クン!?』
 八千穂ちゃんなら取ってもいいだろ、と通話ボタンを押した途端に着メロよりけたたましい声。
『ちょっと、聞こえてんの!?ねえ!!』
「……あ、のーぉ」
『皆守ク……って、九龍、クン?』
「はぁ」
 沈黙。八千穂ちゃんは携帯電話の向こうでどうして俺が甲太郎の携帯に出るのか考えているらしい。俺は俺で、何で彼女がこんな剣幕で電話を掛けてくるのか考えている。
 とにかく口火を切ったのは八千穂ちゃんで、
『九龍クン!?ねえ、今どこにいるの?皆守クンは?二人とも、一緒なの!?』
「一緒、だし、えっと、どこって、」
『まさか海外とか行ってないでしょうね!?』
「はぁ!?何で、今、学校ですけど俺ら」
 正しくは学校の敷地内だけど。天香の中にいることは変わりないわけで。
 さて、どうして八千穂ちゃんがこんなにも慌てた様子で電話をしてきてるかと言えば、まあなんてことでしょう、今はもう夕方で、俺と甲太郎は寝オチしたまま一日授業を無断でぶっちぎり、しかも俺の部屋を鎌治や砲介なんかが覗きに来たらもぬけの殻で、そんで出て行ったんじゃないかと大騒ぎになり、連絡も付かず、しかも甲太郎まで見当たらないもんだから……、
「駆け落ちぃッ!?」
『そ、そう……。だって九龍クンの部屋何にもないし、皆守クンもいないし、ずーっと電話とメールをしてたのに出てくれないし……それで、もしかして、二人で出て行っちゃったのかなー、って』
「……駆け落ち、って……ねえ、何でそう……ぅ、あッ!」
 脱力してたところ、突然背中を撫でられて変な声出た。携帯の向こうで八千穂ちゃんが「?」って雰囲気を醸し出してる。俺が顔を上げる前に携帯は取り上げられ、寝起きの掠れ声が降ってきた。
「……る、っせーな。てめ、人の安眠妨害しやがって、何が駆け落ちだ阿呆」
『皆守クン!?もぅ!そんなこと言うなら何で電話に、』
「るせー。とにかく俺はまだ寝るんだ。もう邪魔すんなよ」
『ちょ、ちょっと、皆守クン?皆守クンてば!!』
 甲太郎はそれっきり何も言わないとばかりに携帯を俺に投げてきた。向こう側からは八千穂ちゃんが怒鳴る声が響いてくる。俺は代わりに携帯を取る。甲太郎は深く息を吐き出して、また俺を抱え込む。
「もし、もし」
 ほとんど、息詰まり状態。上を向くようにしてどうにか呼吸しようとする。心臓が口から飛び出してきそうだった。
『あ、九龍クン?今どこにいるの?みんな心配しててね、』
「うん、え、っと、ゴメンね、その、ちゃんと学校に、いるから」
『本当?無事なんだね?どこにも行ってたりしない?』
「して、ないよ。ダイジョブ。いるよ。ここに」
 逃げようとはしたがな、と小声で言ったのは甲太郎。同時にぐっと腕に力が籠もって、俺は喘ぐ寸前で呼吸困難に陥る。声に籠もっていたのが非難ではなくて息の漏れるような笑いだったから。八千穂ちゃんには聞こえないような、小さな声。
「あの、ね、い、色々、あって、ちょっとまだ、遺跡に、いるんだけど」
『え!?それって、怪我したとかそういうこと?幽花ちゃんはちゃんと戻ってきたのに……』
「えっと、詳しいこと、は、明日、話すから……今日はゴメン連絡しないで勝手に休んでご心配おかけしましたそれではまた明日失礼シマス!!」
『あ、ちょっと、九龍クン!?』
 八千穂ちゃんはまだ何か言っていたけれど、問答無用で通話終了。これ以上喋っていたら変なボロが出そうだった。甲太郎は時折背中を撫で上げたり首筋に鼻寄せてきてみたり、からかっているとしか思えないことを仕掛けてきたし、それに対して俺は何だか意味もなく焦ったし。
「な、なんか、おもしろいことに、なってますケド……」
「俺とお前で駆け落ちか?確かに、笑えるネタではあるな」
 くつくつと、まるで他人事のように笑いやがる。それから俺の手から携帯を取ると、電源を切ってポケットにしまい込む。
「これ以上の邪魔はごめんだからな」
「邪魔って、え?」
「言っただろ、まだ寝るってな」
 コテッと俺の肩に頭を置いて、「あったけー」だって、ちょっとオイ。
「さ、寒いなら上、戻って、寝れば、」
「まったくどいつもこいつもうるさいったらない。少しは浸らせろ阿呆」
「ハァそりゃどーもすいません……、じゃなくて!」
 どうにかしてこの状態から逃げようともがいてみるものの……無駄。しょうがないから、しょうがないからって自分に微妙な言い訳をして、甲太郎の学ランに額を押し付ける。もう、思いっきりラベンダー臭。そこに少し混ぜ込まれた血と硝煙と煙草。俺と甲太郎の匂いはこんなにも違うのに、でもこうしてここにひっついているわけで。
 抱え込まれたまま甲太郎の肩越しに見た両の手は見るも無惨な血の色。手の甲はグローブごと皮が破れている。思い出したように痛み出すのを、ごまかすように握り締めた。
「手、痛むのか?」
「あ、ヤ、……大丈夫」
 けれど俺の手は甲太郎に取られ、柔らかく握られる。向かい合う姿勢で、胸と胸の間。近すぎてどこを見ていいか分かんなくなってる俺とは対照的に、甲太郎はじっと手の甲を見詰めている。
「こういうの、お前、ずっと大丈夫って言ってたよな」
「……ん」
「他のヤツには、大丈夫っつって、笑ってろよ」
「え?」
「で、俺には痛いって言え。痛くて泣きたいなら泣け。俺になら、いいから」
 まるでそれは、『あいつ』の口ぶりだった。そのせいか、俺は何だかドキドキしてる。こんなこと言ってもらえるの、もうないだろうって勝手に思ってたから。完璧、目を合わせらんなくなって下を向く。
 こんな時に、こんなタイミングで、そのセリフが一番ほしかったって気が付いて、しかも投げかけられたりして。泣いていいって。しかもここで、笑わないで、いいって。
「……甲太郎」
「ハイ?」
 俺は息を吸い込んだ。下を向いたまま、声が泣かないように堪えて堪えて。一息で。
「痛い。すっげ、痛い。泣くほどじゃないけど、ちょっとまずってるんじゃないかってくらい、痛い。全然大丈夫じゃない。めちゃくちゃに痛い。死んでしまう」
「おい、それ本当に大丈夫じゃねぇな」
 降ってきた声は心配を滲ませながら、それでもどこか嬉しそうだった。
 正直なところ、痛むのは手じゃない。手も痛い。でも、それ以上に心臓付近が、ヤバイ。締まるような絞られるような、止まるんじゃないかってくらいの強い力が掛かっている。
 なのに、苦しくてしょうがないのに、なぜか、微笑みが浮かぶのを止められない。俺は額を押し付けたまま、笑いを必死に噛み殺す。甲太郎は顔を上げない俺を心配してるのか、ぽんぽんと背中を叩いてくる。
 その手付きまでがあんまり優しいから、気が付けば俺はまた泣いていた。声を上げるほどじゃない。目の前が滲む程度の涙だ。嬉しくて、苦しくて、どうしようもなく満たされた涙。
 俺を包むのは銃声でも硝煙でも血の臭いでもない。今は、甘やかなラベンダー。俺ともあいつとも全然違うものだけど―――それでも、俺が居ていい場所、甲太郎はそう言った。
 たとえ俺が、嘘を吐き続ける自分を許せなくても、ここにいることを認められなくなっても。
 それでもきっと、甲太郎が引き留めてくれる。
 だから甲太郎を信じた。俺は誰も傷付けないと、俺が何をしてもいいと、俺のことを認めてくれると、言ってくれた甲太郎のすべてを、信じた。
 もしも今度もダメだったら。学生服越しの体温を思う存分味わいながら、もしもの不安を考えてしまう自分に笑ってしまうけど、それでも、もしも。
 今度ダメだったら―――もう、しょうがないんだろうな、と。
 全部託して、何も残っていない自分を振り返ってまた少し、笑った。

End...