風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery 六番目の小夜子 - 3 -

 教室へ戻り五限を受けている間に、気が付けば皆守は姿を消していた。また保健室かもしれない。次の六時限目は自習になり、俺は八千穂に誘われてマミーズに向かった。舞草に「またまたいらっしゃいませ」なんて言われながら席に着き、水でいいと言おうとしたら目の前でメニューを開かれた。
「あのッ、無理矢理引っ張って来ちゃってごめんね、九龍クン。その代わりここは奢るからッ。えーっと、あたしのオススメといえばこんなところだけど……何がいい?」
「……この中から選べと」
 八千穂らしいといえばそういえなくもないメニューだ。プリン、杏仁豆腐、オレンジゼリー、ハンバーガー。どれも甘いものばかり。ハンバーガーは単に好物なのだろう。この選択肢なら、俺は自分で作れないものを選ぶ。
「杏仁豆腐」
「ハンヤンダウフー?杏仁豆腐のこと?」
「ああ、そうか。発音が違うのか」
「へー、渋いね~。やっぱあんまり甘くないところがいいのかな?」
 ……充分甘いと思うが。やはり女の味覚というのは分からない。
「あたしはどうしよっかな~。やっぱりハンバーガーかな。よし、決まりッ」
 注文を済ませてからの少しの間、八千穂は所在なさげに視線をさまよわせていた。教室ではなくこんな所に呼び出したのだから何か話があるのかと思ったのだが。話し出すまでは待とうと、水を口に含んだ。
「………九龍クン、あのね……笑わないで、聞いてね?」
「ああ」
 いつになく神妙な面持ちだった。落ち込んでいるようにも見えなくはない。
「あたし、ずっと仲良くなりたいなあ、って思ってる女の子がいたんだ。その子はいつも一人で、なのに寂しそうってわけでもなくて、だけどどこか辛そうで、いつも一人で何を見てるのかなって。あたしたちには見えない、他の何かをいつも一人で見つめてるのかなって、ずっと気になってて……」
 俺は、その女を知っている。知っているはずなのだ。八千穂の言葉を聞いて、なんの疑問も抱かないのだから知っているはず。それなのに人間像の部分だけがすっぱりと抜け落ちている。気分が悪い。
「友達になりたい、って思ってたのに……今は、その子が誰だったのか、どうしても思い出せない……。おかしいよね、こんなの」
「いや……」
「それともあたし、夢でも見てたの?」
「夢……ではないはずだ。お前も俺も、夕薙も雛川教師も誰かを確実に記憶から欠落させている。それは確かだし、たとえ夢だとしてもこんな大人数で同時に同じ夢を見ていたなんてことは有り得ない」
「うん……うんッ、そうだよね!」
「それに、学校が終わったらその『誰か』を捜すつもりだ。だから心配するな。見つかったらその誰かと、ちゃんと話をすればいい」
 俺は話を切った。注文したハンバーガーと杏仁豆腐が運ばれてきたからだ。昼食がまだだったという八千穂は、それをにやにや笑いながら食べている。
「えへへ、そう言ってもらったらちょっと……安心した」
「そうかよ」
「あ、ね!九龍クンの杏仁豆腐、一口食べてみたいな~。ほら、あたしのハンバーガーもわけてあげるから!」
「……食っていいから別に分けなくていい。あーん?誰がやるか」
 そんな事をしている間に、授業終了のチャイムが鳴った。放課後が、始まる。(どうでもいいが俺の杏仁豆腐は八割方、八千穂の胃袋に収まった。)
「あ、授業終わったね。あたし、部活行かなくちゃ。付き合ってくれてありがとね、九龍クン」
 付き合って俺が何をできたわけでもないが、気が晴れたならそれでいい。皆守も言っていたが、八千穂明日香の湿気た顔など見ていたいものではない。
 出て行く後ろ姿を舞草が見送って、
「……あんなに元気のない明日香ちゃん、初めて見ましたよ~。何だか心配です~」
「元気がないくらいが丁度いいのかもしれないけどな」
「まーたまた~、九龍くんたら照れちゃって~」
 別に照れてない。
 言い返そうと思ったのだが、その前にまたあの臭いが強く漂ってきた。
「あ―――これ、何だか分からないけどいい匂いですよね」
「……そうか?」
「うーん、でもなんて言うのかな~。リラックスしすぎちゃってあたしはあんまり好きになれないんですよね~。実はこの匂いよりはカレーの香辛料の匂いの方が好きかな~なんて。九龍くんはどうですか?」
「比べるまでもない。カレーとこれを並べて判断したくない」
「うわッ……そんなに愛しちゃってるんだ。いや~、九龍くんもホンットにカレー好きですよねッ」
 好きで悪いか。俺は鼻を鳴らしながらアロマパイプを吹かす。煙草と違って肺に直接落ちてくるわけではないが、匂いの印象は強烈だ。
「そもそも同じ花の香りなら温室で本物の花でも眺めてる方がいいかもですね」
「温室……か」
 そういえば、夕薙大和が温室という単語に反応していた。甘く熟れた臭い、窓から外を見ていたという女、集団記憶障害。それを繋ぐ何かが温室にあるというなら、行ってみるべきだ。
 ……だが、調査は皆守甲太郎が手伝うと言っていた。ここにはいないが、あいつが何かを知っているなら一緒に行った方がいいのか?いやでもいちいち呼び出すのもどうかと思うしそもそも午後は教室から消えていたしどこかでサボってんのか?まさか授業終わったからって教室で待ってたりしないよな?
 って、何で俺があいつの都合を考えなきゃいけないんだよ……。
「九龍くんはこれからどうされるんですか?」
「……教室に戻る」
 結局皆守のことが頭のどこかに引っ掛かっていたらしい。知らずにそう返答していて焦った。
「ではでは、また来て下さいねッ。ありがとうございました~!!」
 舞草に見送られてマミーズを後にする。俺はなぜか溜め息を吐く。そうだ。こんな気分になるのはアロマパイプを銜えているからだ。立ち上る煙の匂いが、否応なしに存在を脳味噌に刻みつけている。皆守甲太郎の、匂い。
 苛立つのとは違う、けれど無性に胸の辺りがざらついてきて、俺は口に出さずに悪態を吐いた。カートリッジは残り少ない。このまま消えてしまえばいいのだろうけど、……積極的に消そうとしない俺は一体何なのか。自分のことなのに分からないという自己分析力の無さは昔からだ。
 ぼんやりと考えながら歩いていると、不意に。あの臭いが弱くなった。ふっと頭の中を色々なことが過ぎって足を止める。そこは―――温室だった。
 温室。やはり何かあるのだろうか。花の匂いが強くなるならまだしも、はっきりとここではあの臭いが弱い。黒髪にツリ気味の黒い眼。誰かの影が脳裏を行ったり来たりしている。
「ん―――?」
 意を決して中に入ると、そこには先客がいた。夕薙大和だ。図体の割に、『温室』が妙に似つかわしい。
「九龍か……」
「邪魔したか?」
 何か考え事をしている風だった。だから邪魔をしたかと声をかけたが夕薙は首を振る、横にだ。そして逆に問い掛けられた。
「いや。君もこの場所に何か思い当たることがあって来たのか?」
「臭いが、な。ここは少し他と違う」
「それはまた、大した根性というか嗅覚というか……」
「鼻は犬より利くぜ」
 利きすぎのせいで臭い一つで頭痛までしてくる有り様だ。別に俺は普通に返答したつもりだったが、目の前の男はなぜか困ったように眉尻を下げる。
「いや、これでも褒めてるつもりなんだがな」
 どうやら嫌味に受け取られたと思ったらしい。まあ、確かに褒められることには慣れていないが悪意のない言葉尻を勝手に後ろ向きに受け取るほど人生悲観しているわけでもない。
「別に嫌味を言われたとは思ってねぇよ」
「そりゃあ良かった」
 夕薙が苦笑し、僅かに緩んだ空気のその隙間からまたあの臭いが漂ってくる。ここはマシかと思ったが……気休め程度だったようだ。
「またか」
「何かがおかしくなったのは、おそらくこの臭いを感じるようになってからだ」
 身長差のせいか、僅かに屈んだ夕薙が俺の口元からアロマパイプを引っこ抜いた。
「そこで少し調べてみたんだが」
「……返せよ」
「九龍、君は《抱香師》というのを知っているかい?」
「人の話聞け」
 俺の視線など聞かないというように、夕薙は匂いを漂わせるアロマパイプを二、三度軽く振った。それだけでラベンダーの匂いが強くなる。邪魔されたように甘い臭いは薄くなった。
「《抱香師》というのは香りを作り出す職人のことだ。特に天才的な技術を持つ者だけが《抱香師》と呼ばれるそうだ。そして《抱香師》は独自の調合技術とセンスで、自在に目的の香りを作り出すことができるらしい」
「……で?」
「匂いというのは人の中枢神経を刺激して、あらゆる症状を起こさせる。優秀な《抱香師》が目的に合わせて作り出した臭いがこの混乱の原因だとしたら?」
「でも、記憶だぞ?いくら中枢神経に働きかけるとしてもそんな簡単に人間の記憶操作ができるとは思えない」
「気付かないか?……他の匂いが強くなると、何かを思い出しそうになる」
 つまり、他の匂いの混ざるところでは完璧に計算された《抱香師》とやらの作った臭いが僅かに崩れる、そういうことなのだろう。臭いで人の記憶を操作する……信じられないことだが、この學園では信じられないことなどない。
「……凄まじいカラクリだな」
「だがこれほどまでに完璧な情報操作を行うのは《抱香師》といえども容易くはないはずだ」
「これも《生徒会》絡み、ってか?」
「彼らの持つ力の正体が一体何なのか……どうだい九龍、君も興味があるんじゃないか?」
 まるで挑みかかるような視線だ。俺が敵だとでもいいたげな。まさか本当に敵だというわけでもないだろうし。敵だとしても戦りあうのは今じゃないだろうに。
「興味?いや、興味はない。興味、じゃない。知る必要があるだけだ」
「だが、その《力》がここで生まれた以上、ここにはそれを解く鍵があるはずなんだ。」
「…………」
「君はそうしてこれまで《執行委員》を解放してきたはずだ」
 口元に、アロマパイプが返された。火は、もうすぐにでも消えそうだ。夕薙の顔がすぐ近くまで降りてくる。たぶん、俺はそれを無表情に見返している。
「あんたが何に近付きたいのかは知らない。だがそれ以上『こっち』に近付くと、俺はあんたを詮索しなくちゃならなくなる」
「俺はテリトリーに入れたくないか?甲太郎は、簡単に入ったようだが」
「勘違いすんな。俺は、余計な面倒を背負い込むのが嫌なだけだ」
「と、言いつつ厄介事に自分から首を突っ込んでいく君が気に入っててね」
「……好きでやってんじゃねぇよ」
 夕薙は豪快に笑い飛ばして俺の頭に手を置いてきた。もう払いのけるのも面倒で、代わりに大きなため息が出た。確かに、こいつの隣じゃ俺は子どものように見えるのかもしれない。
 昔は、こうして頭に手を置かれるのが酷く嫌だった。触られるだけで振り払っていた。そうされるのを子ども扱いされているからだと思っていたのだ。だが、子ども扱いを嫌がることこそが子どもの証拠。そう言って笑っていた……女?
「つッ……」
 ダメだ。どうしても記憶の奥まで行くことができない。代わりに頭痛に襲われる。
「九龍、どうした?」
 夕薙が慌てたように頭から手を離す。
「いや、何でもない……」
「何か思いだしたのか?」
 思い出すのを止めようとすれば、頭痛は簡単に引いていった。夕薙の問いに、俺は黙って首を振る。
「本当に、厄介な臭いだな」
「……この學園は呪われている、か」
「あ?」
「俺は認めない。超常現象だの、神の怒りだの呪いだのッ……俺は絶対に信じない」
 この學園は確かにおかしい。けれど、夕薙の頑なさも異常と言える。なぜ、この男はそんなにも非科学的なことを否定したがるのか。こいつの陰の部分はそこに繋がっているのかもしれない。
「九龍。この學園を取り巻く呪いとやらは、人の力では覆すことのできない神や悪魔や、超常的なものの為せる技だと思うか?」
「なら、これまで騒ぎを起こしてきた連中は人間じゃないって言うのか。《執行委員》は正しく人間だ。《生徒会役員》だって人間だろうよ。他に何だってんだ?」
「そうだ。そんなものあるはずがない。君がそう言ってくれてよかったよ、九龍」
「別に、俺は事実を言っただけだろうが。……でも」
「でも?」
「……目に見えるものだけが全てではないとも思う。俺に神はいないけど、神という存在を信じている人間だっている。そういう人間には間違いなく神がいるんだ。存在だけじゃなく、概念の問題で。だから簡単に全てを否定することは、できない」
 俺は様々な人間に、そしてその人間の『神』に触れて生きてきた。神を言い訳にする人間もいれば、生きる最後の意味を神に託した人間もいた。神のために人を殺し、神のために生きる。それをすべて在るはずがないと言ってしまうには、俺は色々なものを見すぎている。
 夕薙にとっては鼻に付く発言だろう。だが、そんな素振りは少しも見せずに笑うのだ、この男は。
「いつだったかも君はそんなことを言っていたな。祈りや願い、信じることは否定するなと。人間の思いは確かにそこにあるものだと」
「……そうかよ」
「やっぱり君は優しいよ。だから、誰をも放っておけない」
「優しい?俺が?何言ってんだ」
 それこそ鼻で笑いたい。しかもそれを言ったのは俺じゃない。俺じゃないんだ。
 ……ならば、誰だ。誰が、俺にそれを伝えた?
 記憶が迫り上がる。それと共にアロマパイプの火が消える。あとは温室に漂う花の香りと、あまりに濃い、甘い臭い。
『祈り……願い……それを信じて、人は生きようと意志するんだ』
 黒い髪で。
『あたしは、いつだって祈るさ』
 黒い眼で。
『あんたが、どこまでも倖せに生きていけるように』
 一人で立ち続ける、強いようで儚い、女。
「ッ……ぁ…」
 あまりの頭痛にアロマパイプを口から落としそうになる。
 ヘマして左手の爪全てを剥がされた時のような、炸裂弾の破片が四日間体内に残って肉が腐りかけた時のようなような、地雷踏んだ阿呆の三メートル後ろにいて吹っ飛んだ時のような、……それ以上の激痛だ。内部の痛みは抗いがたい。だからこそ慣れることができない。今度のは一等酷い。背筋が凍りそうなほどの痛み。
「九龍、おい!大丈夫か!?」
「……だい、じょう、ぶ……だ」
 畜生、これならレザーフェイスに生皮剥がされた方がまだマシだ。
 頭を何度も何度も振って痛みに慣れようとする。逃げるわけにはいかない。俺は、あまりに大切な何かを忘れているのだ。
「本当に大丈夫か?顔が真っ白だぞ」
「大丈夫だ。大丈夫。俺には何の問題もない」
 歯を食いしばって答えたが説得力は皆無らしい。脂汗だらだらで大丈夫も糞もないんだろうが、心配されることは得意じゃない。引かない頭痛と闘いながら、夕薙に向かってひらひらと手を振った。精一杯の意地だ。問題ない、というポーズ。
 もう残り香しかないアロマパイプに噛み跡を残したその時、流れ出した校内放送に自分の名前を見つけた。
『3年C組葉佩九龍くん。瑞麗先生がお呼びです。すぐに保健室へ……』
「丁度いい、九龍。ルイ先生がお呼びだ。保健室に行って調子が悪いなら診てもらうといい」
「タイミング良すぎてどっかから見張られてる気になるな」
「そう言うな。俺も行こうか?」
「ハッピーバレーに貰い煙草しに行くワケでもない。引率はいらねぇよ、“ダンナ”」
 無理矢理に口元を引き上げる。夕薙はまだ不審げだったが、
「……下校の鐘が鳴る前に急いだ方がいいだろう」
「だな」
 亡霊《ファントム》よりも怖い生徒会が出てくる前に。ったく、まるでブギーマンだ、ガキじゃあるまいし。
 とにかく早く行かなくてはならない。冬の陽は落ちるのが早い。なのに、背を向けた俺を夕薙が呼び止めた。
「九龍」
「まだなんかあんのか」
「君がこの困難を乗り越えまた一歩、先に進むのを楽しみにしてるよ」
 仕方ない、立ち止まって振り返る。
「……乗り越えられると決まったわけじゃねぇよ」
「…………」
「じゃあな」
 今度こそ、温室を後にした。

*  *  *

 下校の波に逆らって、校舎に戻る。先に教室で鞄を取って階段を降りる。皆守の鞄はなかった。もう帰ってしまったのだろうか。いい加減、返す物返さないとラベンダー欠乏に陥るんじゃないだろうか、あいつは。
 どうでもいいことを考えながら一階の廊下を歩いていると、少し向こうから歩いてくる人影を見つけた。相手も俺を見つけたのだろう。一気に破顔して駆けてきた。
「九龍サンッ!」
「トト、そこの貼り紙、廊下は走るなと書いてあるぞ」
「アァ!イケナイ! ツイ 嬉シクテ……」
 おそらく元執行委員の連中には、なんらかの勘違いによって間違ったインプリンティングが引き起こされてるに違いない。飛びつかれそうな勢いに、眩暈と同情が同時に湧き上がってくる。
「ココデ会エル 思テマシタ。ボクノ タロット、間違イハ、少ナイデス」
「カードで居場所が分かるのか?」
 そりゃ便利だ。カード一枚でそんな芸当ができるなら神のお告げってやつを聞いてやってもいいかもしれない。
「カードハ ダイジョブ 出マシタ。デモ、ボク 九龍サンガ 心配」
「俺が?」
「コノ香リ―――」
 引きずる頭痛が酷くなる。臭いを意識すればするほどだ。トトは顔を顰めた。臭いに、というより俺の表情を見て、と言った方がいいかもしれない。
「コレハ、アノ女ノ 仕業。《生徒会役員》……。人ノ 記憶ヲ 勝手ニ 変エテシマウ 香リ」
「やっぱり、臭いで記憶を操作してんのか」
 頭の中の黒髪の誰かが、一瞬にして赤毛の美女にすり替わる。背が高く、気の強そうな眼をした。夜会の夜、手を取った先から華の匂いがした。それは果たしてこんなに腐った臭いだっただろうか。
「双樹、咲重……」
 トトは頷き、小さく身震いをした。
「怖イデス。デモ―――今ハ 怖イヨリモ 許セナイ。大切ナ 思イ出 奪ウハ トテモスゴク 酷イ事。ボクハ……許セナイデス」
 感情なんてものは自分のために使うものだ。他人のために怒りを生んでも、本人にとっては利益にはならない。……と言ったところで無理なのだろう。トトは、泣きそうな顔をしている。
「ソウ思ウハ、間違イジャナイ……デスヨネ?」
「大間違いだ阿呆。お前が怒ったところで事態はどうにもなんねぇよ」
「デモッ、九龍サンガ 大切ナ物 ナクスノ 見ルハ 辛イデス。九龍サンニ 会ウ前ノ ボクミタイニ……」
「お前はこの臭いで、父親のこととか忘れたわけじゃないんだろ?なら、いい。俺だって別に生きていく上で必須なものを忘れたワケじゃないらしいからな。普通に生活できてんのが証拠だ」
 だから気にするな、そう言おうとして酷く痛んだ頭に邪魔される。空になった思い出とかいう部分が訴えてるのだろうか。大事な何か、だと。
 こめかみを押さえる俺を見て、トトは何を思ったか自分の前で合わせていた両手を俺に向かって差し出してきた。そのままこっちの両手を取って握り締める。
「九龍サン、元気ダシテ!」
「あ、あぁ……」
「キット、ダイジョブ!!ナンテッタッテ ボク 憑イテマス!!」
 力説するのは結構だが、そんな真剣に手を握らないでほしい。俺の考えてることが伝わったわけでもないだろうが、トトはすぐに手を離すと上着のポケットから何かを取り出した。
「コレ……、九龍サンニ 渡シテ オクデス」
「鍵?《生徒会室》って、オイ…」
 こりゃシエラレオネで食われてろってことか。俺はボブ・マッケンジーじゃねぇぞ。おちおち踏み込んだりしたらどうなるか分からない場所の鍵だ。これがあるからといって立ち入ることを許されたわけではないだろうが……。
「困ッタ時、イツデモボク、呼ンデクダサイネ!!ソレジャ、マタ!」
 俺に鍵を押し付けると、トトは無駄に爽やかな笑顔の余韻を残して去っていった。生徒会室の鍵……これが俺の手にあるって事は、學園の中枢に相当近付いたって事だ。《執行委員》はもういない。本星は……あと、四人?だがそれを片付けるということと遺跡を踏破するとでは意味が異なる。俺は後どれだけこの學園にいれば……、
「つッ……クソ…」
 臭いが濃い。頭痛のせいで思考がとっちらかっていく。臭いの元はおそらく墓の下にいるのだろう。今日はさっさと帰ってさっさと片付ける。
 劉教師の用件も早く済ませてしまいたい。保健室の前まで来て、扉に手を掛けたとき、中から聞こえてくる声に気が付いた。
「用が済んだらさっさと帰りたまえ。それとも、こんな時間に校舎内を彷徨いてまた騒ぎを起こす気か?」
「まぁまぁ、そう邪険にすることないだろ?今じゃあの臭いに思考を邪魔されずに済むのはこの部屋くらいだ。それにまんざら、知らない仲ってわけでもあるまいし……」
 一人は劉瑞麗、もう一人は……鴉室洋介?宇宙探偵か?何でこんな所に……しかも二人は知り合いのようだ。そういえばあの男、學園に協力者がいるような話をしていた。それが劉教師だというわけか。
「誤解を招くような言い方はやめてもらおう。私とお前に個人的な関わりはないはずだ」
「わかった、わかったって。けど、お前だって知ってんだろ?あの夜会ってのは鎮魂祭を執り行うための反閇―――つまり、舞踏会の名を借りた足踏み呪法だ」
(………!?)
 思わず気配を垂れ流しそうになったが、なんとか堪える。夜会の前、鴉室洋介と墓を暴いた。あの時も呪法のことは話していたが、反閇……そうだったのか。
 反閇は禹歩とも言われる足使いのことだ。そこには呪術的な意味が含まれることが多く、古くは陰陽師がこれを行っていたという。だが、夜会で反閇とはどういうことだ?あの手の足踏み呪法は踏む位置や足運びが決まっていることが多い。夜会に人を集めてもそう簡単に執り行うことなどできるのだろうか。
「この學園を彷徨う幾多の霊魂だけでなく、あるいはそれさえも利用して深い闇のそこに眠る何かを鎮めるための、な。そして何より―――あの墓地に埋まっているのは本当は、所持品なんかじゃないってことだ」
 それが、夜会の夜に判明したことだ。だが、一体なぜ部外者であるはずの男がここまで學園に踏み込むのか……それが分からない。一つ可能性としてあるのは、目的が俺と同じということだ。劉教師と協力態勢にあり、ここまで呪術的なことに詳しいとなるとただの《秘宝》狙いじゃない。
「しかも彼らはおそらく生きている。ああやって大事に体を保存しているって事は、何か方法があるんじゃないのか?彼らを元に戻すための方法が」
「……それが分かったら誰も苦労しない。それよりももうすぐ生徒が来るんだ。詳しい話はまた後で―――」
「生徒って九龍君だろ?なら大丈夫だって、アイツとはちょっとした仲……」
 人聞きの悪いことを言うなと心中で突っ込んだ途端、室内の気配が膨れあがった。……殺気?
「貴様……、生徒に手を出したのか!?」
「て、手を出すって、んな人聞きの悪い、ちょっとアイツの部屋に……」
「部屋だと!?」
「いやいやいや、そうではなく、あ、ちょっと!!暴力反対ッ―――うおおおォォッ!?」
 ガラスが割れる音が響いた。本当に協力態勢にあるのだろうか。しかも意味深なことだけを言い残して消えないでほしいものだ。俺はただカレーを食わせただけだ。
「まったく……それにしても遅いな」
 呟きが聞こえた。そうだ、呼ばれていたのだ。あまりのことに目的を忘れるところだった。
 俺は小さく呼吸を整えてから扉を開けた。途端、自分を取り巻くまっさらな何かに、頭痛が一気に引いていく。
「……失礼します」
「やあ、ようやく来たか。……何か、言いたそうな顔だな」
 バレていたか。
「いえ、別に。俺は、今来たところで、そこのガラスが割れている理由も煙草臭い理由も存じ上げません」
「……まさか君が、あの男と知りあいだったとはな」
 そりゃこっちの台詞だ。
「まったく、相変わらず運だけはいい男だ。とにかくあんなロクデナシとは関わりにならないことだ」
「別にそれほど関わりがあるわけでは。時折飢えてるのを見つけて餌付けしている程度です」
 俺の言葉に、劉教師の眉間に皺が寄った。呆れている、というには些か深刻げだ。一体、何が。
「……君は、葉佩九龍、で間違いないな?」
「は?」
「何かあったのか?今日は随分と違うじゃないか」
「……は?」
 劉教師は俺の顔を興味深げに覗き込んでくる。珍しいものでもあるまいに。
「雰囲気……違うな、氣か?いや……」
「俺が、何か?」
「それは故意にやっているのか?」
 だから、何が。俺には、彼女が言っている意味が何一つ分からない。代わりに、今まで頭痛があった場所に何かが甦ってくる。まだ完全ではないが……何かが。
「そうか。……ふむ、あの香りが原因か?」
 要領を得ない。だが、劉教師は強引に話を進めた。
「まず始めに、一つ確認しておきたいことがある。君は白岐幽花という名前に聞き覚えがあるか?」
「白岐幽花……そう言えば、皆守がそんな事を…」
「ではもう一度よく思いだしてみたまえ。ここには既にあの香りはない。今この部屋は塗香で清められている」
 あの臭いが、無い?本当だ、ここは、正常だ……。
 ―――唐突に、頭の中から声がした。
『クロウ』
「塗香は清め香……呼ばれ……粉末……のこと……」
 劉教師の言葉がどこか遠くで聞こえる。それとは別の、知っている声。
『ったく、シケた面してんなー。ほれ、顔上げな』
「祭壇に……ることで……」
 それから、黒い髪に黒い眼。ツリ気味の、勝ち気な。
『ダイジョーブ、んな顔すんなよ?あたしが、ずぅーっと、守ってやっから』
「邪気…けない……ることだ」
 凛々しすぎる立ち姿。二挺拳銃。泥のようなコーヒーとクセの強い煙草。癖の強い日本語で朗読をする、宮沢賢治。
『あたしは、いつだって祈るさ。あんたが、どこまでも倖せに生きていけるように』
 強くて脆くて短気で怖くて優しくて笑って怒って時折泣いて願って祈って、歌っている……そんな、女。
『愛してるよ、クロウ、どこにいても、ずっとだ』
「――――ッ!!?」
 突如、脳天を直撃した何か。弾けたように正気が戻ってくる。
 目の前が一瞬真っ暗になり、次いで真っ白になった。眩暈うような感覚の中で、ゆっくりと、俺は一人の女を思い出した。
 ……思い出した。
 思い出した。あいつのこと。
『ごめんな、クロウ……』
 朱。銃声。黒髪。流れる。銃弾。泣き声。廃墟。倒れたのは誰だ?俺?いや、あいつが?
『……もう、一緒には、いられない―――』
 笑いながら、泣いている、あいつ、最期の―――……、
「あ……」
 記憶の奔流に押し出されるように、眦からは水分が流れ出した。視界がじんわり滲んでいく。
 どうして、忘れたりした?忘れることなど赦されなかったのに。俺は、どうして?
 忘れていた全てが、凍えていた場所から湧き上がり、脳味噌を流れ始める。戻ってくる。還ってくる。俺が今、生きている意味そのものが、ようやく自分の中に落ち着いた。
 あいつだ。あいつだったんだ。強い煙草も煮詰まると濃いブラックを飲んでいたのも宮沢賢治も願うこと祈ることを拒まないのも、全て、あいつだったじゃないか。
 
 ―――思い出した。
 全部。何もかもを。