風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery 六番目の小夜子 - 1 -

 不思議な夢を見た。
 女がひとり、こちらを見ている。
 黒い髪で、黒い眼をした。
 切れ長の瞳はなぜか感情をむき出しにして揺れていた。
 そして、ゆっくり、こちらに、手を伸ばして、震える指先は、黒く、冷たく、
 
 ざらざらと、視界が崩れ始める。
 黒髪黒目の女は消え去る瞬間、哀しげに微笑んだ気がした。
 覚えているのは、それくらい。
 
 朧気な意識を、端から浸蝕されていくような夢だった。

*  *  *

 不愉快な臭いで、目が覚めた。
 甘ったるい、胸のむかつく臭いだ。花のような果物のような、それも、熟れすぎて腐った。
 目覚めは当然最悪。おまけに頭痛までしている。一体何の臭いだ?
 最近、起きるたび近くにあった匂いとは違う……あのラベンダーよりもっとキツくて胸糞が悪い。しかも誘発された頭痛のせいか、頭の奥が呆けている。機能がまともに働いていないような……記憶を溶かされたような。
 辿れば確かに昨日のことは思い出せる。學園での出来事も、昨晩の装備も、どうして暗い遺跡の硬い床の上で寝ていたのかも、何もかも。なのに何かが欠落しているような気持ち悪さがある。その欠落部分が分からなくて……更に気持ちが悪い。
 思考を深くしようとしても臭いが邪魔をする。頭を振ってみても深呼吸してみても臭いが消えるわけはなく、ただ溜め息を吐くしかない。寝起きのクセで煙草を一本吸ってみるものの、その臭いはまとわりつくように消えず、煙と混ざり合い返って酷い臭いになって思わずむせた。仕方なく、火を消して吸い殻を携帯灰皿に放り込む。
 H.A.N.Tを見れば時間は朝もまだ早い。冬の空気のせいで身体は痺れるように冷たかった。まだ、あいつも眠っているだろう。俺もこれ以上眠る気にはならなくて、深い睡眠で固まった関節をほぐしてから地上へ戻った。
 外は暗い。存在を殺すように静かに、まだ目覚めていない學園の朝を歩く。墓地の中を、道を、寮の廊下を。誰かが部屋の中から出てきてしまったら咄嗟に逃げ出したくなるような緊張感と恐怖を隣に置きながら自分の部屋に入った。
 臭いは遺跡の中よりは薄いものの、それでも部屋の中にまで漂っている。馴染まない臭い。まだ、火薬の臭いの方が身体にいい気がしてくる。
 俺はベッドに身体を投げ出して、煙草に火を着けた。この學園の良いところは部屋に火気探知機が付いていないことだ。煙草は吸いたい放題。アルコールは我慢できても煙草はそうもいかない。一度は治ったはずの病気が再発すると、元より悪化しているのが大抵だ。俺の場合もそう。授業中、ボールペンの端を咬むクセまで付いてしまった。
 大体、喫煙など不治の病なのだ。俺はかなり幼い頃からこの魅惑の病に取り憑かれている。
 昔、「これは病気だ、絶対に止めろ」と言われた事がある。けれども隠れて吸っていて、気が付いたらどっぷりだ。そうなってから確かに病気だったと実感する。治したいと思っても、指の間にはいつだって一本。
 ……っと、これは、病気だ……そう、言われた、が……誰に?隻眼の銃工に?寡黙な行商人に?傷だらけの胸をはだけさせた娼婦に?いや、薬物を手放せなくなった露天商にだったか?
 思い出そうと、記憶に潜ろうとする入り口でまたあの臭いだ。思考が腐っていく。手繰ろうとする糸が切れたまま、それ以上先へ進めなくなる。
「ああ、―――クソ」
 何かを忘れている。何を忘れているか分からない。ただ、『何か』が酷く重く大きなものだったことだけは分かる。……俺はまだ寝呆けているのだろうか。
 それからきっちり煙草七本分考えを巡らせた。けれど、それ以上何も、記憶は動き出さなかった。

*  *  *

 臭いにまとわりつかれたまま、ホームルームの時間になる。何かが引っ掛かったままの苛立ちと、嫌な臭いの相乗効果でかなりキていたところに、追い打ちを掛けるように怖気が走った。
 教室の喧噪はいつもと変わりない。はずなのに、俺の掌には脂汗が滲み、脇に引っ掛けている銃を制服の上から握り締めてしまう。
 一体、何があったというのか。何があるというのか。今日はワケの分からないことだらけだ。
 怖気の原因がやってきたのはそれから数秒後のことで、「みんな、静かに」という雛川教師の声は脳味噌を素通りしていき、代わりに意識が隣に立つ男に注がれる。
「今日はまた一人、転校生を紹介します。今日からみんなと一緒に勉強することになった喪部銛矢君です」
 紹介された《転校生》の視線は、教室中を彷徨った後、俺の所で留まった。すぐさま感情を殺した俺とは逆に、その視線には複雑すぎるほど様々な感情が入り乱れていた。その全てが、どす黒い。
 その時ばかりは雛川教師を素直に尊敬した。あんな男を隣に置いて微笑んでいられるのだから。
「喪部君も外国暮らしが長く、ご両親の希望で本校を選ばれました。一日も早く學園に慣れるようにみんな、色々と教えてあげてくださいね」
 雛川教師が話している間、俺は頭の中でこの男の始末の仕方を組み立てていた。もし、『喪部』がこの場で雛川教師を人質に取ったとしたらどう動けばいいか、無意識に思考が動く。無感情な目で奴に視線を返しながら、自分が銃を抜く速さまで計算する。臭いは、その思考だけは加速させる力を持っていた。
 喪部は僅かに口元を歪めた。射殺すように俺を見据えたまま、
「はじめまして。……よろしく」
 それが俺には、殺しの宣告のように聞こえた。
 凄い男だ。存在だけで教室という空間を制圧した。それは軍隊の指揮官に必要な資質だ。威圧感、とでもいうのだろうか。この學園にはまともではない人間が多いが、こいつは群を抜いている。存在の力だけで言えば《生徒会》の人間と同等、あるいはそれ以上。
 チャイムが鳴り、教室の空気が緩んでも視線だけが刺さってくる。ただ、発散させていた真っ黒い感情だけは形を潜めている。まるでさっきまでは誰かを挑発していたように。誰か。……まさか、俺か?
「びっくりしたね~。また転校生だって」
「………」
 八千穂明日香は心底驚いたように大きな目を更に丸くしている。だか、口調に嫌悪や恐れは混ざっていない。喪部の負にあてられてはいないようだ。
「確かに人の入れ替わりの激しい學園だけど、こんな立て続けに二人も転校生が、しかも外国から来るなんて初めてだよ」
「だろう、な」
「どう、九龍クン。同じ外国暮らし同士仲良くなれそう?」
「興味がない。どこで暮らしていたなんてそれこそ関係のないことだ」
 すると八千穂は両手でほおづえを付き、頬を膨らませる。
「そうだねえ。……喪部クンって、ちょっと難しいタイプかな」
「………へぇ」
「な、何よー!その意外そうな顔!」
「いや、別に」
 八千穂が他人から悪印象を受けることがあるということも驚きだし、ましてやそれを口に出すなど。やはり喪部は他人をおかしくする何かを持ち合わせているのかもしれない。
 俺たちがそんな話をしていたからだろうか。向けられていた気配が近付いてくるのが分かった。
「キミ……」
 来た。
「わッ―――!」
 八千穂は大袈裟に驚くが、俺は視線を上げるだけでその存在を視認する。
「あ、え~と……喪部クン、何か用、かな?」
「キミ」
 喪部は八千穂の呼びかけを無視して俺を見下ろす。まるで、人を見下げることを当たり前としたような立ち姿だ。
「確か―――葉佩九龍、だね」
「………」
 さて、どうしたもんだか。バレてるのは過去か?それとも現在の素性か?俺に狙いを定めて話しかけてくる辺り、本当に曰く付きの《転校生》のようだ。
 八千穂は怪訝そうに喪部を見上げている。無意識だとは思うが、目の中には警戒と僅かな恐怖が滲んでいた。
「この學園には、余所ではお目にかかれないおもしろい場所があると聞いてたんだが、よかったら今度、案内してくれないかい?」
「……俺に頼むのは門違いだ。そういうことは学級委員だの、こういう、他人の世話焼くのが趣味みたいな人間に頼め」
 喪部から視線を外し、八千穂を親指で指す。
「酷ぉい!九龍クン、それってアタシのこと!?」
「他に誰がいる」
 途端にふくれ面を晒す八千穂だが、それもすぐに引っ込む。喪部が、俺の肩先に顔を寄せてきたせいだろう。耳障りな笑いが耳元で聞こえる。首元が泡立っているのが悟られないといいが。
「キミ、……悪くないね」
「……どうも」
 そりゃてめぇよかな。
 喪部の呼吸がすぐそこにある。距離は二十センチ足らず。
「そのうち、ゆっくりと話を、」
「―――触るな」
 肩に置かれそうになった手は、言葉に滲ませた殺気で止めた。この位置ですでに俺の領域侵犯だ。喪部にもそれが伝わったのか、肩の上数ミリで手を止めた。だが。あの笑いをもう一度耳元で繰り返す。
「本当に悪くないな。キミとはゆっくりと話がしたいよ。ゆっくりと……ね」
 この瞬間に何度互いを殺し合ったか。それくらいの殺気の応酬だ。漂ってくる熟れた臭いが拍車を掛け、俺から冷静を奪っていく。
 一触即発、けれど何事もなく終わったのは授業開始のチャイムが緊迫した雰囲気を壊したからだ。
 喪部は冷えた空気だけを残して俺から離れると、喉の奥で笑いながら自分の席へ戻っていった。
「……喪部クンって……、なんていうか、ちょっと雰囲気怖いね~」
「雰囲気ね……」
「でも、せっかく同じクラスになったんだから、仲良くなれればいいなッ」
 ……この瞬間、俺は雛川教師に感じた尊敬と同じ念を八千穂明日香にも抱いた。この絶望的なまでの前向きさ。他人と信頼関係を構築しようとする意志。凄まじいとすら思える。
 この『友達になりたがり』ならば、きっと本当にどんな人間ともコミュニケーションをとろうとするのだろう。そういえば、誰か、彼女が近付こうとしていた人間がいたはず。いた、はず……だが。
 っつ……誰だ。まただ、またあの臭いだ。思考を鈍らせて、記憶を蝕む臭い。何だ、誰だ、俺は何を忘れてる?
「なんだか、今朝からずっといい匂いがしてるんだよね」
「いい匂い?」
「なんだろう……なんだかちょっと、頭の奥がぼうっとするような……」
「それだけか?」
「うん」
 俺は頭痛がするほどこの臭いに悩まされているというのに。それはもう、脳髄を指で掻き回されてるような不快感だ。
「あ、先生来た!座んなきゃ!」
 ガタガタと教室中が沈黙の前の喧噪の中に落ちる。席に着く直前、俺は逃げるように隠した銃に触れた。確かにここにいる、俺の魂。

*  *  *

 臭いはずっと昼休みになっても漂っている。いい加減うんざりだ。昼休みのチャイムが鳴る頃にはすでにグロッキーで、鬱陶しい前髪を掻きながら額に手を当ててしまう。
「よう、九龍」
 その声に視線だけ持ち上げれば、焦点が合う前に顔の真横に腕が伸びてくる。机に腕を付き、俺の頭の上から広がったままのノートを覗き込んでいる体勢だ。……身長差があるからこういうことになるのか?
「どうやら君は毎日、真面目に授業に参加しているようだな」
「見りゃ分かんだろ」
「ふむ……。勉強するのはおもしろいか?」
 夕薙は俺のノートの英字部分を指でなぞった。欠席のかさむ夕薙にはよく貸しているノートだ。他の人間には判別不可能でも、夕薙には理解できるのだろう。
「つまらなすぎて毎時間居眠りなんて事態にはなってない」
「そうか。確かに、寝食の心配をせずに勉強に打ち込めるのは学生の特権だからな」
 そりゃ、『日本の』学生の特権だな。平和と富が飽和してる国の、特権。
「後で後悔しないよう、今のうちに堪能しておくのも悪くはないだろう」
「……だな」
 指の先で叩かれていたノートをしまいながら振り返ると、夕薙大和は相変わらずの立ち姿だった。俺の視線を受けると、顎に手を当ててすっと目を逸らせた。
「どうも君らより二年も長く制服を着てるせいか、つい説教臭くなってしまったな」
「年数どうこうより性分じゃねぇのかよ…」
 俺の呟きは聞こえなかったのか聞いてなかったのか、夕薙は二年という言葉を反芻した。
「俺にはもう時間がない。この學園に来たことが無駄ではなければいいが……」
「時間がない?」
 それは、どういう意味だ?前々から含みのある人間だと思っていたが、元よりこの學園にも目的を持って転校してきたということか?……狙いは秘宝か、遺跡か、生徒会か?俺はこの男の事を、何一つ知らない。
「きっと無駄なんかじゃないわ、夕薙君」
 さっきまで教壇にいたはずの雛川教師は、いつの間にかすぐそこに来ていた。花が飛ぶような雰囲気は、甘すぎる臭いを少しだけ和らげたようにも感じる。
「今からでも遅くはないもの。これから真面目に授業に出ればみんなと一緒に卒業できるわ!だから諦めちゃ駄目よ。一緒に頑張っていきましょう?」
「いや、その……卒業のことを言った訳じゃなかったんだが……」
 夕薙は誤魔化すように視線を逸らせる。この男は自分の目を覗きこむ人間を苦手とするきらいがあるようだ。
「先生も夕薙君が授業に出てくることが多くなって本当に嬉しいのよ。後はあの子も、もう少し顔を出してくれるようになるといいのだけど」
「あの子って、甲太郎のことですか?」
「皆守君……?そうね、皆守君も以前よりは―――葉佩君が転校して来てからは、教室にいることが多くなったものね。ひょっとしたら葉佩君のおかげなのかしら?」
「……別に、あいつの動向に俺は関係ないと思いますが」
 顔を上げずに言った一言は、自分で思うより冷たく響いた。まずいか、と思ったときには雛川教師の顔が曇っていた。
「葉佩君……」
「やれやれ、そこまで言うことはなかろうに」
「………」
「まあ、案外九龍のそういうところが放っておけないのかもしれないな、あいつは」
 軽く、肩に置かれる手。すぐに離れた体温に、なぜか責められているような気分になる。
「でも……他にも誰か、いたような気がするの。けれど出席簿をいくら見返しても思い当たる名前がなくて」
 その一言。合図にするように、場の空気が一瞬止まった。
「……雛川先生、それはひょっとして女の子じゃないですか?」
「そうなのッ。いつも窓際で一人、外を眺めていた女の子がいたように思うのだけど……」
 突如、脳裏をイメージが走る。黒い髪、黒い瞳、遠くを見るようにいつも佇む、女―――。
 だが、出かかった形も、組上がらずに端から崩れていく。……あの臭いだ。
「何かしら、いい匂い……。そういえば今朝からずっと何か香ってるわね。温室で何か咲いたのかしら」
 本当に温室だというのだろうか。普通の花の匂いには到底思えない。どころか、俺にはいい匂いと感じられない。
 夕薙にとってどうかは分からないが、何か引っ掛かるものがあることだけは確かなようだ。
「温室……」
「どうかしたの、夕薙君」
「いえ、何でもありません。ちょっと……用事を思いだしただけです」
「温室に、か?」
「ま、そんなとこだ。それじゃ、俺は行きます」
「あ、夕薙君。午後もちゃんと授業に出るのよ」
「ええ、なるべくそうしますよ。じゃあ、またな、九龍」
 俺が頷くことだけで返事を返すと、ひらりと手を振って夕薙はさっさと教室を出て行った。
「なるべくじゃなくて!―――もう~」
「……あいつにはあいつの、やらなければいけないことでもあるんでしょう」
 それに納得がいかないのか、困ったように眉尻を下げ出席簿を抱きしめた。
 その様子を見るたび、俺は自分の眉間に力が籠もるのを感じる。不快感からではない。端的にしか物事を言い表せない、言葉不足に対して苛立ちを覚えるのだ。
「それじゃあ先生もそろそろ職員室へ戻らなきゃ。またね、葉佩君」
 軽く嘆息して出て行く、それと入れ替わるように入ってくる騒々しいだんご頭。
「あ、九龍クンッ!えへへ~、さっきね、休み時間に部活の子からすごい話、聞いちゃった!!」
「……今度は何だ」
「あのねッ、時計台の幽霊がランニングして朝露の女の子が見た髪の長い時計台は早く目が覚めちゃって六番目の少女って呼ばれてるんだッ。しかも真っ黒な長い髪をした思い出せない知ってる子!」
「悪い。解読不可能だ」
 再度落ち着いて説明させたところ、八千穂の友人が早朝ランニングしていたところ、時計台で髪の長い人影を見かけたらしいとのことだった。そして、この學園には『六番目の少女』と呼ばれる時計台の幽霊にまつわる怪談があるのだそうだ。
 ……俺の解読が正しければ、だが。果たして正しいのは国籍不明な俺の日本語か、生粋日本人である八千穂明日香の日本語か。
「で、その女の子が誰かに似てるって話なんだよね。ええと、え~っと……、誰だっけ。誰に聞いても思い出せないっていうんだもん。確か、あたしたちも知ってるはずなんだけど。ほら、いるでしょ。あの真っ黒な長い髪をした女の子」
「真っ黒い髪をした、……いつも、一人で立ってる」
 いくつものイメージだけがフラッシュバックするかのように頭の中を錯綜する。
 黒い髪で、黒い眼。切れ長の瞳はなぜか感情をむき出しにして揺れていた。
 そして、ゆっくり、こちらに、手を伸ばして、震える指先は、黒く、冷たく、
「う~、名前が出てこない~。九龍クン、思い出せる?」
 八千穂が額を指で叩いている。俺は目を閉じて思考に集中しようとするが、できない。あの臭いとは別の甘い匂いがあるからだ。花の、柔らかな、紫で、神経を静かに滑る匂い。
 きっと、俺の後ろに立っている。
「白岐幽花―――だろ」
「あ、皆守クン」
「お前らまでこの様とはな。まったくどうなってるんだ」
「そういうお前はなんともないのか」
 まるで他人事のような言い方に引っ掛かりを感じて振り返りざま、肩越しに視線を送ると皆守甲太郎は鼻を鳴らして肯定とも否定とも付かない反応を見せた。
「しらき、かすか……うーん、確かにどこかで聞いた覚えがあるんだけど」
「おいおい、本気で言ってんのかよ……九龍、お前も、か?」
「……ということは、俺は確実に誰かを忘れていると言うんだな。で、お前の記憶には欠落がないと」
 なぜ、他の人間が忘れている事をこの男は覚えているというのか。聞き返すように放った言葉を受け、皆守が顔を顰める。
「九龍、お前……どうしたんだよ」
「どうした?何がだ」
「………」
 怪訝そうな顔をした皆守が俺の顔を覗き込む。身長差の分だけ、僅かに屈んで。一体どうしたというのか。茶色い瞳に映った俺もまた、怪訝そうに皆守を見返している。
「九龍クンがどうかしたの?」
「……いや、何でもない」
 何でもない訳はないようだ。皆守は忌々しげに舌打ちをすると教室を出て行ってしまった。
「あいつ……何を知ってる?」
「……何だろう…でも確かに、アタシ、何か―――忘れちゃいけないことを忘れちゃってる気がする……」
 八千穂は頭を抱えるようにして唸っている。俺も、彼女も、何かを頭の端に引っ掛けたままだ。
 そして、皆守はそれを知っている。
「九龍クン?どこいくの?」
「……たぶん、屋上だ」
「皆守クンが気になるんだ?」
「別に、あいつを気にしてる訳じゃ……」
「えへへッ、二人はホントにいい友達なんだねッ」
「だから、そういうことじゃない」
 と、言ったところで聞かないのが八千穂明日香だ。忘れていることを思い出せるよう努力をする、と言って手を振った。
 本当に掴み所のない女だ。良い意味でも悪い意味でも。  ……だが、もっと掴み所のない奴がいる。鬼門みたいな男だ。皆守甲太郎。訳が分からない。
 行き先だけはなんとなく分かるが、保健室かもしれない。もう冬の屋上はかなり寒いだろう。寒さが苦手な皆守は、本当にいるだろうか。
 階段を登り、屋上に続く扉を開ける。一瞬、強い風で、まとわりつく臭いが吹き消されたように感じた。風に慣れるとそれもすぐ、戻ってきてしまうのだが。
 誰も、いない。ハズレか?
 屋上は本当に寒かった。寒さに強い俺でさえ顔を顰めそうになるほど。雪が降る寒さとは違う、風が刺さるような寒さ。もしかしたらこの學園の空気そのものが冷たいのかもしれない。
 無駄足だったと思ったが、まったく無駄にするのももったいない。誰もいないのをいい事に、忍ばせた煙草に火を着けた。
 ―――途端。
「九龍、か?」
 気配は、無かったはずなのに。声が上から降ってきて、不覚にも吸い込んだ呼吸がおかしな所へ入ってしまった。噎せていると追い打ちを掛けるように、
「どこ見てんだよ。こっちだ、こっち。何、噎せてんだ」
「……驚かせるような声の掛け方をしたのはどいつだ」
 皆守は、給水塔の上に座っていた。俺を見下ろしている。おかしげに吊り上がった口元には、アロマパイプが挟まっている。俺は、そこに登る気はなかった。
「いい風が吹いてるぜ。ここならあの忌々しい匂いに惑わされることもない」
「………」
 忌々しい、と言った。皆守にとっても、あの臭いは気に食わないものだったのか。だが、そう感じているならなぜ、『何か』を忘れていないのだろうか。
「空と、雲と、風と、―――ラベンダーの香り。それが俺の日常を取り巻く全てだ」
「そりゃ、馬鹿みたいに平和だな」
「あァ、―――最近じゃ、傍でお前がドタバタやってる騒がしさ、ってのも慣れた光景だがな」
「…………悪かったな」
「何だよ、本当のことだろう?」
 確かに、俺がこいつを巻き込んだことがあるのは認める。だからこそ言い返すことができずに、煙草をふかすだけ。その匂いも、風に巻かれて消えてしまう。なぜかここには、ラベンダーだけがいるようにも感じる。
「九龍」
「今度は何だ」
「お前、……無愛想で無表情で無感情、ってホントだったんだな」
「ぶあ……、それが、どうした。本当も何も俺はこういう人間……だ…」
「九龍?」
 無愛想で無表情で無感情で、無駄に無茶したがる……?確かに、それを言われたことはある。もう少し楽しそうにしても罰は当たらない、と。
「お前が、言ったんだったか?」
「いや、俺は、お前から、そう言われたことがあるっていうことを聞いただけだ」
「俺が……言われて、言った…?」
 出てこない。そう、俺に言って笑ったのは、誰だ?
 真っ黒い髪で、真っ黒い眼をした、一人で立つのが似合う、いつもどこか遠くを見ていた、女。
 そうだ、女だ。だがその姿を鮮明に思い描くことができない。輪郭が滲むように、砂が流れるように、ぼやけた立ち姿。
「―――よっと」
 俺が思考を飛ばしている間に、皆守は下に降りてきた。俯いていた俺の顎を指で持ち上げると、物珍しげに顔をじろじろと見てくる。
 無遠慮な視線が気に食わない。首を振ってそれから逃げると、煙草を取り上げられた。
「よくないぜ、未成年」
「……ほっとけ」
 取り返して火を消し、吸い殻を携帯灰皿に押し入れる。残るのは、本当にラベンダーの匂いだけになった。
「どうでもいいが顔が近い。離れろ」
「なあ、九龍、お前があいつを捜す気なら、手を貸してやってもいい」
 俺の話なんか聞いちゃいねぇ。どいつもこいつも……。
「どうする?ひょっとしたらお前にはもう顔も思い出せない女だ。それでも、捜すのか?」
「……忘れている以上、その人間の重要さがどれほどか分かりかねる。判断するには、見つけるしかないだろうが」
「……そうかよ。なら、付き合ってやるよ。お前の気が済むまで、な」
 まるで子どもにするように、皆守は俺の頭に手を置いた。その仕草をなぜだか懐かしいと感じた。誰かにいつか、こうされていたことがあるような。
「九龍―――。お前にだけは話しておく。例えこの學園の全ての奴があいつの存在を忘れ去ったとしても、俺には……、忘れることができない」
 妙な気分だった。どちらかといえば悪い気分だ。まるで他の誰かへの告白を聞かされているようだ。それも相当に熱烈な。それを聞いてどうして気分が悪くなるのかは、分からないのだが。
「そんなに大切な人間なのか?」
「あ?」
「何があっても、その女の事を忘れることはないんだろ?それだけお前にとって、重要な人間だったって事だ。違うか?」
「………」
「そうじゃないとしたら、その逆だ。その女が特別なんじゃない。……お前自身が、他の人間と違う。記憶障害の影響を受けないということの特殊さ」
 ポーカーフェイスが、僅かに崩れる。どちらかが図星と言うことだ。その女が特別か、皆守甲太郎が特別か。どちらにしても関係ないという顔をしておけないのが俺の立場だ。この學園の異変は、いつだって墓守の動きと繋がっている。
「九龍……お前の思ってることが事実かどうか……、いずれはっきりする時が来るさ。それでも俺は……」
 俺の顔の横に手を付いて、皆守甲太郎が俯く。表情は見えないが、なぜか、辛そうに見えた。ひた隠しにしていた何かに、俺は触れてしまったのだろうか。こいつは滅多に、弱さなど見せないというのに。
「俺はただ、もうこれ以上―――お前の困った面も、八千穂の落ち込んだ面も、見ていたくないんだ」
 絞り出されるような声音に、俺はまるで縛り取られたようだ。さっきまで正常だった呼吸が止まり、何かが喉元に迫り上がってくる。喫煙のしすぎか?そんなはずはない。これはそんな、簡単なものじゃない。
 いつの間にか、頭に多量の血液が巡っていることに気が付いた。さっきまで寒かったはずなのに、今はまったく逆だ。暑い。いや、熱い?なのに指の先は震えそうで、噛みしめた口から漏れた呼吸が目の前の男に届いたらどうしてしまおうと、そんな事を考えた。
「……友達想い、ってヤツか?御苦労なこった」
 苦し紛れにそう言うと、顔を上げた皆守が苦笑した。
「確かにお前のが可愛げはないかもな」
「誰と比べて言ってる。大体、男に可愛げなんかいらねぇよ」
「だ、な」
 皆守甲太郎が俺を見ている。いや、俺を見ながら他の誰かを見ているのだろうか。その目が、酷く優しいのだけはよく分かった。俺は以前、こんな視線を受けていたことがある。その目の持ち主は……誰だったか。
 思い出せない。もしかして、皆守の言う『忘れられない女』なのか?
 視線に耐えられなくなって逃げたところで、風が止んだ。また、あの熟れた臭いが漂ってくる。皆守は忌々しげに舌打ちをした。
「まあ、俺も少し色々動いてみる。だがその前に―――」
 臭いを打ち消すように、俺の周りで濃くなるラベンダーの匂い。あてられて、眩暈がしそうだ。
「まずは、腹ごしらえといこうぜ。当然、マミーズのカレーでな」