風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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10th.Discovery Brew - 彼の色は夜 -

 眠りからの覚醒は、最悪なそれ。
 頭の中に鳴り響く、「   」の声とその笑顔。美しくも恐ろしい高笑いを聞かされて、逃げるように夢から覚めた朝。
 半ば寝ぼけた眼で枕元の時計を見れば、時刻はまだ早く、朝練に向かう者もいなかろうという。
 眠りは決して良いものではなく、長くもなかったけれどそれ以上眠る気にはさらさらなれず、寝不足を抱えたまま身支度を調える。
 未だ、耳に残る声は離れることもなく。気のせいだと分かっていても滅入るものは仕方がない。ああ、と嘆いたところで放されるはずもなく、恐怖に近い声を揺り起こしてしまった己の愚かさを悔いてみることしか。
 支度も済ませ、そういえば気がかりがひとつふたつあったことを思い出し、嗚呼と嘆息をもう一つばかり。界を結んだ弓道場が今日こそは荒らされていないことを願い、そして昨晩、いや今宵倒れた知り合いの、友人を想う。
 どうしているかと部屋を出て、夕薙大和という生徒の部屋へと向かった。
 廊下は、冬に支配されている。
 朝にもなろうというのに、未だ空には月が残っている。陽の光は遙かに遠く、まだ影すら見せようとはしない。吐く息は白く、逃げる体温を儚むように指は震える。
 昨日の晩も殊更に冷えた。寒くて寒くて、凍えてしまいそうだった。それが冬のせいではなかったことを教えてくれた人は、きっとこれから行こうとしている部屋にでもいるのでしょう。
 昨晩の彼のことを思い出す。あのときから、頭の中の声が、止まない。幻聴だと分かっているのに、あの顔で、あの声で、飛び出してきた嘲笑が。彼の背負った残忍な黒。思い出すだけで、身震いが止まらなくなるような。思えばあれも背筋を凍らせる在り方をしていた。あんなものを背負って、よくもまあ平然としていられるものだと、彼を見て思ったものです。
 しんしんと冷たさを踏みしめて廊下の向こう。果たして、想像していた通りの人影が、うっそりと佇んでいるのが見えました。
 葉佩九龍という人は、空が見える窓から、外に視線を泳がせて。わずかに射す朝の気配が、青白い頬を病的に浮かび上がらせる。
 こちらに、気づいているのかいないのか。見向きもしないのをいいことに、無遠慮に近づきながら、不思議なことにふと気がつく。
 ………なぜ、か。
 近づいているはずなのに、その姿が、鮮明には見えてこない。まるで黒い霞が彼を覆っているように、輪郭がぼやけたまま。
 おかしいと思って、ようやく気がつく。憑いているのだ、と。
 彼の周りに、彼を覆い包むような黒い思念が渦巻いているのです。
 どっと、冷や汗があふれ出るのを感じました。
 呼んだはずの『彷徨える魂』たちは、すでに眠りへついたはず。それなのに、なぜ。まさか、最後に僕に憑いた者が、還らずに彼に憑いた……?
 声をかけることもできず、かといって逃げることもできない。立ち尽くしたまま、微動だにしない彼を見遣る。
 どうにも、彼には、夜の暗さが似合うようで。真っ黒な髪と身体は溶けてしまいそうなのに、わずかに持ち上がった鼻筋から顎の線は浮き上がるよう。光をまぶした睫毛が一度、二度、まばたいて、
「……あれ?みっちゃん?」
 ふっ、と、僕の方を振り向いたのです。
 振り向き、にこりと笑う。まるでそれが当たり前かのように。
 その瞬間、ざわりとした感触が背筋をなぞり、直感する。
 ―――これは、憑き物では、ない。
 彼にまとわりつく黒に、心当たりはありません。神を名乗る者でも、高慢で凶暴な者でもない。ただ闇は、当然のように彼の物なのです。笑顔の裏に隠れ持つ、彼の、暗闇。
「どったの?あ、ダンナのお見舞い?」
 無垢を体現するような面相。それは、なんて酷い嘘。平素は隠すことができても、夜の中では剥がれ落ちるまやかし。
 ざらざらと蠢く闇は、まるで僕らを呪った砂のようにも見え。彼が笑うたびに、嘲るように踊るのです。
「みっちゃん?」
 首を傾げてみせる無邪気な動作。それなのに、眼だけは深海の底のような鈍い色。いつ、その眼はらんらんとした光を湛え、牙をむき爪を立て、襲いかかってくるか分からない、ある種の恐怖さえ抱かせる。
 僕は、唾を飲む音すら聞かれてはならないような気がして、静かに深呼吸だけを。
「……どう、ですか?夕薙君の様子は」
「ん。落ち着いてるみたいだよ。今はね。ルイ先生が看ててくれてる」
「まァ、瑞麗先生が付いていれば大丈夫だとは思いましたが……」
 葉佩君が動くたび、合わせるように踊る闇。彼自身は、この現象に気づいているのかいないのか。昨日の昼間は、あんなにも過敏に、這い出ずる声に反応していたというのに、今はまるでそれと共に在るのが当たり前だと言わんばかり。
 夜のせいか、それとも僕が立ち位置を変えてしまったせいか。分からないけれど、一つだけ分かることがありました。
 「それ」が、葉佩君そのものだということ。あちらのものでもなく、狭間のものでもない。あの黒は葉佩君から立ちこめているのです。だからおそらく、彼はそれに気付いてはいない。自分の一部が自分の元にある。そこに、違和感を持つ人間などいないのだから。
 強烈な違和感を抱くのは、外部の、人に見えない何かを視る者のみでしょう。それが僕であり、運悪く、闇夜の彼に遭遇してしまった。
 けれど、昨日とは正反対の場所にいるがために、どうしても彼に見入ってしまう。頭の中で何かが笑い出そうとも、「それ」のあまりの濃さに眩暈を起こしそうになったとしても。
 どうにか意識を揺り戻し、僕を見る眼と視線を合わせる。
「君は、大丈夫なのですか?」
「ん?何が?」
「いえ……、ちょっと、気になったもので」
「??」
 葉佩君は、ぽかんと不思議そうな顔をし、それからにやりと口元を歪める。
「あー、もしかして……この辺に、なんかいる?」
 くるくると虚空に円を描くように指差す。そこには、というよりはそこにも、確かに影は存在していたけれど、それは彼に取り憑いたものでないことは分かっていました。
 頷いていいのか、首を振ればいいのか、逡巡していると、
「冗談だってば、ジョーダン。そんな固まらないでよー」
「………冗談になっていませんよ」
「うぞ、マジ?なんかいんの?」
 俺、幽霊ダメー、などとたわけたことを抜かしながら、肩の辺りを払う素振りをする。そんなもので、消えるようなものではないのだけれど。
「葉佩君、幽霊と呼ばれる類の者は、真っ当な生き方をしていればそれほど脅威にはならないと思いますが?」
「あらま。それじゃあ俺、一生ビビって生きていかなきゃ」
「今からでも悔い改めれば遅くないかもしれませんよ」
「悔い改める、ねぇ」
 きっと彼には、その方法すら分からないのでしょう。ふざけたように呟きながら、目だけがどこか遠くを見ている。
「……どこかで」
「はい?」
「どこかで、悔い、改めていたら、こんなことにはならなかったと、思う?」
「こんなこと、とは?」
「もう、何もかも、全部」
 面倒くさげに吐き捨てる彼の態度とは真逆に、轟々と背後の闇が咆える。無駄だ、と叫ぶ。人を傷つけ、おそらくは、殺め、それでなくては生きていけないような暗鬱とした過去は、簡単に洗い流せるようなものではない。だから、悔いることも改めることも、許さない。彼が、葉佩九龍という自身を裁く叫び。
 それを感じた途端、僕の中の恐怖が、哀れみに変わっていくのを感じました。誰でもいい、彼を許してやってほしい、と願いたい心持ちに陥ったのです。彼自身が彼を許せないというのなら、別の、彼の奥深くに触れることのできる誰かが。
 僕では無理だと悟っているからこそ、願ったのかもしれません。その証拠に、僕には彼の闇が見えても、掛けられる言葉が見つからない。彼のことを、何一つ、知らない。
 仕方なく、してあげられる精一杯を探す。これからの闘いへの助言と、ささやかすぎる助力。他には、何も。
「君に今できることは、過去を振り返ることではないでしょう」
「そう……そう、だよね」
「夷澤は、僕や双樹さんのようにはいきませんからね」
「そっか。残るはあのワンコなんだ」
 表向き、困ったように、けれど内心、狂喜するかのように。諦めの極地から身を投げかけるかのようだった彼の眼が、きらきらと輝く。千年生きたその後に、魔物にでも変わろうとするかのごときまなざし。
「彼は、危険すぎる……」
 自分の言葉に、自分で首を振る。
 違う、危険なのは、本当に危険なのは夷澤ではなく。
 その仕草をどう取ったのか、葉佩君は口の端を吊り上げる。
「大丈夫。平気」
 笑みの形は、朝を噛み殺す夜の獣。
 言い切った瞬間。彼の纏う闇が彼の意志を反映するかのように呻ったのです。
 それを見て、思いました。彼は、この世の闇と、離れることなどできないのだ、と。今まで彼に闇が見えなかったのは、僕が暗がりの中にいたから。
 僕らが飲まれた闇に、彼は飲まれることなく共に在る。あの、高笑いを響かせる野蛮な声も、当たり前のように彼の隣にいるものに違いない。
 闇と共にある者。彼ならば、あの方を、あの御方の闇を振り払ってくれるかもしれない。そう考えました。
「そうだ、君にこの鍵をあげましょう」
「何、コレ?」
「これからはいつでも弓道場に遊びに来てくれていいですから」
 葉佩君は戸惑うように鍵を受け取ってくれました。
「……いいの?」
「ええ。……では、僕はこれで。また会いましょう、葉佩君」
 さようなら、と踵を返し、廊下を歩き出しかけた、そのとき。

『大丈夫。平気』

 ちゃり、と鍵が擦れる音。
 肉声とは別の、頭に響く声。
 背筋をかける、戦慄という名の怖気。

『弱すぎたら、食っちゃうかもしれないけど』

 反射的に振り返ると、もう、彼は背を向けて廊下の向こうへ歩き出しているところでした。
 声をかけることさえ躊躇われるような、硬質な背中。
 今の、声は……?どこか、別の世界にチャンネルが繋がってしまったような声は、誰が?
   不意に、彼の背負う闇が振り返りました。
 彼、そっくりの顔をしたそれは、僕を倒した者のように、けたけたと笑い続けていました。

End...