風云-fengyun-

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10th.Discovery 七瀬ふたたび - 6 -

 図書室は、それはもう、理科室とは比べものにならない寒さだった。俺はもちろん、八千穂まで歯の根が合わなくなっている。寒がりなはずの隣の男は、……顔こそ顰めているものの平然としている。解せない。普段なら、回れ右だろうお前。いや、違う、今はそんなことを言ってる場合じゃない。寒さで、思考が普段の斜め上辺りをすっ飛んでやがる。
「月魅ッ―――。あれ……。いない、のかな……」
「書庫室が開いてる。行ってみよう。九龍、無理そうならここで待ってろ。指先が異常に冷たい」
「だろうな。クソみたいに寒い。……だからって、ここでじっとしてたら凍死する」
 違う。分かってる。これが気温の寒さではないことは。凍死ではない。もっと酷い、そんな死が待ち受けている気がする。
「無理、するなよ」
「分かってる」
 先に書庫室の扉に手をかけていた八千穂に追いつき、中に踏み込む。
 ―――もう、尋常じゃない気温だ。トトのいた区画より尚寒い。それなのに吐く息は白くもないし、他の二人は、耐えられない、という顔はしていない。
「月魅ー?」
「七瀬、いないのか?」
 俺は踏み込んだ先、歯を食いしばって見慣れた本の海に潜っていく。一歩、一歩、踏み出すたびに身体が重くなっていく。そんなへたれた男を案じてか、甲太郎は腕を支えていてくれる。その部分だけが、確かな温度を伝えてきた。
「七瀬、七瀬月魅、いたら、返事をしろッ!!ここは危ない、さっさと、」
 不意に、背後に不穏な気配を感じる。振り返ったが、遅かった。音もなく書庫室の扉が閉まった。俺は、背骨が軋むのを感じる。
「扉がッ……」
 罠、ということだったのか。七瀬の奇行も、生徒たちの変貌も。邪魔な害虫を、まとめて始末するための。
「……飛んで火に入る、とでも言いたそうだな」
「ふふ……」
 現れた神鳳の姿に、推測が確信に変わる。こんな異様な空間だというのに顔色一つ変えない、どころかにこやか極まりなく微笑んでいやがる。
「やはりここでしたか、葉佩君。ずいぶんと、間抜けな様を晒していましたね」
「……盗み見なんて趣味が悪いな。どっから見てた?」
 自分の立ち位置と、はっきり線引きされて対岸にいる人間が目の前にいれば。それだけで俺は頭痛や寒気など知らないふりをする。これはもう、長年の生活で染みついてしまった癖のようなものだ。
 神鳳はわざとらしい嘆息をしてみせる。
「そういう態度を、アレが真似するんですよ」
「反面教師のつもりだが?」
「……君が教師という柄ですか」
「それもそうだ」
 挨拶代わりの応酬を終わらせて、神鳳は間髪入れずに本題に入る。
「さて、葉佩君。―――僕がどうして来たか、もうお分かりでしょう?」
「しばき倒しに来たんだろうが。それともぶっ飛ばしに来たのか」
「君が蒔いた種ですよ。これ以上勝手に行動されるのは迷惑なのです」
 ……間違いなく、この異常現象の原因は神鳳充だった。ヤツが顔を顰めたり眉間にしわを寄せたり、表情を不快に歪めるたびにキィィィンと耳鳴りが響く。脳の奥に、直接すり込まれるような強烈さで、邪魔だ邪魔だと呪う真っ黒な思惑が。
 平気なふりができなくなり、膝を折りかけた俺を甲太郎が強い力で支える。
「なるほど……大和の言ってた墓荒らしってのはお前だな」
「荒らした?僕が?……とんだ誤解ですよ、皆守甲太郎君」
 ああ、そうだ、甲太郎、墓荒らしは俺だ。神鳳は墓守で、だから俺を駆逐したくてこうして。
 怨念の声はさらに加速した。何度も反芻され、怨嗟は出口をなくして俺の中で蠢き回る。
 まるで呪詛のようでもあり、詩のようでもあり、よどみなく紡がれる神鳳の声はすべての真っ黒い意志を指揮しているようだった。
「僕には聞こえるんですよ。彷徨う霊魂の嘆きが……。あの墓地に眠る霊たちが墓荒らしに裁きを下せと呪う声が。だから僕は葉佩君に恨みの声を上げる霊たちを解き放ってあげただけです」
「じゃあ、みんながあんな風になっちゃったのは……キミのせいなんだね!!」
「悪いのはこの地に土足で踏み込んできた彼の方です。おかげでこの地に眠っていた多くの者たちが迷惑しているのですよ。君は、本当に自分のしてきたことの責任を取れるつもりでいるのですか?」
「……責任の取り方を教えてくれるんならな」
「その気はないということですか。無責任な方だ」
 神鳳は面白くもなさそうに鼻を鳴らす。それから、へばる俺と、対照的な八千穂、甲太郎を交互に見比べて首を傾げた。何か、呆れたような素振りで、
「しかし、この死霊達の渦巻く中で、君たちはよく無事でいられる。大した意志の強さですね。……もっとも、彼が脆弱すぎるとも言えますが」
「それって……、どういう事なの?」
 説明されなくても何となくは分かる。精神が貧相だって、脆いって、そんなことは言われなくても自覚してる。H.A.N.Tの能力を数値化した項目でも、精神の項目が抜きん出て低い。その低さは自分で見て呆れるほどだ。
 だが、現在の俺の不調はそれだけが理由ではなかったらしい。
「彼は、そういう体質のようだ」
「体質?」
「呼び寄せやすい、とでも言いましょうか。人の魂に、引きずられやすいのでしょう」
 ぎくり、とした俺の考えが伝わったわけでもなかろうに、なぜか支える甲太郎の腕の力が強くなった。
 甲太郎は知っている。俺が、今でも死んだ人間に引っ張られていることを。……というよりは、俺が引きずり続けているということを。
「霊的障害とは、死霊・生霊に関わらず、強い念を引き起こすものです。故に不安や不満、絶望といった闇を心に抱えれば抱えるほど干渉を受けやすくなります。君は普段の笑顔の裏で、ずいぶんと暗いものを背負っているようだ」
 死霊共を繰る神鳳と、絶望的に相性が悪いのはよく分かった。クソ、だから、幽霊だの心霊現象だのという類は嫌いなんだ。
「この様子では、あの場所に行かせるまでもない。ここでケリをつけてしまいましょう」
 瞬間、背中が軋んだ。視界がブラックアウトして、俺は声も出せずに膝をつきかけた。支えているはずの甲太郎も小さく呻いている。
「ッ―――!!」
「やッ……、あッ、頭がッ!!」
 意識をごっそり持って行かれる、最悪に気持ちの悪い感触。何度も繰り返される怨嗟、殺意の声。……本当に、なんて相性の、悪い……。
「ここで大人しくしていなさい。やがて霊たちが君を迎えに来ます。罪深き墓荒らしを黄泉へと連れて行くために―――」
 俺はもう神鳳に焦点を合わせることもできずに、甲太郎の肩から離れかかる。
 それでも、頭のどこかがこの状況を打破する方法を弾き出そうとしていた。二人のうめき声がどこか遠くの方で聞こえて、やっぱり、なんとしても、二人だけは逃がす算段が導き出せるはずだと、考える。
 運でもいい。偶然でもいい。何かが二人を、守ってくれれば。
 縋るように、視界の先の床に手を伸ばす。誰も掴むはずのない、その手に。
 ―――誰かが触れた。
 暖かくて柔らかい、知った感触の優しい何か。俺の腕を掴んで、すくい上げるように身体を支えてくる。
 吐息のような風が耳元にかかり、……声。
『―――大丈夫』
 ゆらゆらと、実態のない感触だった。けれど確かに俺の身体から、悪寒が抜け落ちていく。
 誰の声だったのか、定かではない。あいつ、のような、けれどなぜか、甲太郎のような気もする、不思議な。間違いがないのはひとつ、俺を、守ろうとしてくれる力。
『守って、やる』
 意識が指先にまで行き渡る。視界が定まり、熱が戻る。顔を上げ、神鳳に、眼光を投げつけた。
 ふらつく八千穂を引き寄せ、頭を押さえる甲太郎を支える。神鳳は何かに驚愕したような顔をして、俺を見ていた。
「こいつらには、手を、出すな」
「……君は、一体、誰を……」
 形成がほぼ互角にまで戻ったかと感じた、その時、書庫の奥で物音。本が崩れるような。
 反射的に俺と神鳳は物音の方を振り向き、気配を察することに神経を向ける。
「この気配は……」
 神鳳は音の方へ駆けていく。俺は追いかけて、……抱えている二人の重みに足を止めた。
 二人して同じ色、真っ青に顔色を染めている。
「二人とも、大丈夫?」
「うん、……なんとか」
「頭痛が酷いがな。まったく、何だったんだ」
 脱力したように座り込む二人からは疲弊した色がありありと見て取れる。俺がへばった分、無理をしてくれたんだから、当然だよね。申し訳なさで頭がいっぱいになる。
「……ごめん。俺、今からみっちゃんを追うからここで待ってて、」
「あほ。ここまで来ておいて何言ってやがる。あんな変なもん湧いて出たとこに置いていく気か。怖すぎる」
「え!?皆守クン、そんなに怖かったの?もしかしてお化け屋敷とかダメなの?」
「……阿呆」
 甲太郎の言葉が、俺を一人で行かせないための方便だと言うことは分かっている。だから八千穂ちゃんの反応に思わず笑ってしまった。
「あ、九チャン笑ってる!九チャンも大丈夫だった?かなり辛そうだったけど」
「……ん。もう、平気」
 八千穂ちゃんがまるで子どもにするように頭を撫でるから、俺は困ったように笑ってみせるしかない。
 もう、平気。でも少し前は、全然平気じゃなかった。俺はそれを二人に見せつけたのに、二人とも逃げ出すことも罵ることもせず、逆に、俺を助けてくれた。
 当たり前、……なのかな。これ。
「ほら、行くぞ。気味の悪いことはさっさと終わらせるに限る」
「甲太郎の場合、面倒ごとは何でもさっさと終わらせたいんだよね」
「当たり前だろ」
 笑って、そうしてトンとひとつ背中をたたいて、早く行こうぜと促された。その手の温度が、さっき俺を引っ張り上げた腕を思い出させる。

*  *  *

 書庫室はまた、面白いくらいに寒かった。絶対なんか変なのいるヨー、と思わせる温度で、甲太郎じゃないけど、さっさと終わらせてここからトンズラこきたいと、胸中。
『ない……。どこだ……』
 奥の方から、物っ凄く低い声が聞こえてきて、俺は一瞬で「死霊のはらわた」を思い出す。ホント、あんな感じの声で、もう。
 一番奥を覗き込んでみると、
『どこにある……。あの《鍵》さえあれば……』
 現れたのは、死霊のはらわたを想像していた俺を心底ほっとさせる普段通りの七瀬ちゃんの姿。(&みっちゃん。えらく険しい顔をした。)……だけど、やっぱり妙だ。彼女のその後ろに、重苦しく渦巻く何かが見える。影、のような。誰、アレ。
『……どこだ……、。《鍵》だ……。《鍵》はどこだ……』
 七瀬ちゃんは、ジッと真っ直ぐ、俺を凝視している。みっちゃんをガン無視決めて、俺しか見えてないってくらいのイキオイで。
 朝、言っていたとおりだ。《鍵》を探している。それが書庫室にあるとも思えないが、複数人がこの霊障の被害に遭ってるとしたら、彼女がここの担当ってことなのか、ね。
『人の子よ―――墓荒らしの子鼠よ。貴様はもう、見つけたのか?』
「鍵、なんて、知らん。鍵は、墓守、じゃないのか?」
 歯をガチガチ鳴らしながら答えると、得体の知れないものin七瀬ちゃんはフン、と思いっきり鼻で笑った。
『あれだけ《墓》を彷徨って未だ見つけられぬというのか』
 禍々しい、とでもいうのだろうか、ああいうの。普段の七瀬ちゃんの清廉さは微塵もない声音。体感温度とは別のところで、背筋が寒くなる。アレは絶対に、確実に、七瀬ちゃんじゃない。流行りの、憑依現象ってヤツでしょうか。憑いてます、って。トトかっつーの。
「月魅ッ!?一体、どうしちゃったの?」
「これは―――。僕の呼んだ霊とは違うようですね」
「じゃあ他に誰が喚ぶっつーんだよ?また別に誰か降霊屋でもいるって?勘弁してよォ……」
「いえ、誰と言うよりは………あなたは、一体何者ですか」
 開眼細目でキッと七瀬ちゃんを睨み付けて、みっちゃんが問いかける。
『……ククク……、《魂》のない者がいるな。さては《墓守》か』
「ッ―――!?」
『忌々しい《墓守》ども……。よくも永きにわたって我をあのような場所へと封じてくれたな』
 ……これは、《王》か?小夜真夕コンビが、封じていると言った。だとしたら、最後、辿り着いた先にいるのはこいつみたいな、空寒い、ワケの分からない思念のようなもの?そりゃ困るぜまったく、どういうこっちゃ。
『だが、それももうすぐ終わる……。もうすぐだ―――』
「おい、あんたソレ、一体どういう、」
「……どうやらあなたは、ここにいるべき存在ではないようですね」
 俺の言葉を遮って、みっちゃんは、何も番えていない弓を構えた。
「去れ、悪霊よ。あるべき場所へと還るがいい―――」
 射、瞬間、部屋の空気が一瞬にして沸騰した、ような感触。寒さが吹っ飛んで、幻覚のように目の前が眩んだ。
『むうッ!?《墓守》の小僧が……なかなか面白い技を使う。だが我を貴様の操れる低霊どもと同じと思わぬことだ』
 七瀬ちゃんに憑いていた影が、一気に存在を薄めた。ゆらゆらと数度揺らめいて、フッとかき消える。
『ククク……、待っておるぞ、人の子よ。お前たちが我の元へと辿り着くのを―――』
 捨て台詞を空気に滲ませて、気配は完全に消えて無くなる。
 途端、糸が切れたように七瀬ちゃんの身体が倒れ込むのを俺とみっちゃんでどうにか支えて床に寝かせた。……呼吸に問題はなし、見えるところに外傷もなし。ひとまずホッと、胸をなで下ろす。
「月魅!?しっかり―――!!」
「大丈夫ですよ。気を失っているだけでしょう。……あれが、僕たちの守ってきたものなのか?我々《生徒会》の、いや―――あの方の……」
 みっちゃんはスッとまた眼を細めて立ち上がった。これ以上は、ここでやり合う気はないと言いたげに、背中を向ける。
「あッ、ねえ、どこ行くのッ!?」
「……僕の―――在るべき場所へ。たとえそれが何であろうと、僕は守らねばならない」
「ここは休戦、決戦に備える、って?」
「どうやら、あの強い念に惹かれて、魂たちもみな墓地へ戻ってしまったようですし。葉佩君―――、例えこれ以上どんな警告を発したとしても、君はあの場所へ来るのでしょう?」
「それが、この場所にいる俺の意味ですから」
「君の目的、というわけですか」
 いきなり、みっちゃんは俺に向かって弓を向けた。空の弓、けれど反射的に俺はベレッタを引っこ抜いて構えてしまう。矢なしの弓、安全装置かかりっぱなしの銃。殺る気のない殺し合いの合図。一瞬だけ、殺す気だけが二人の間で爆ぜたような錯覚の後、馬鹿馬鹿しくなって俺は銃をおろした。
「君さえ来なければ、僕にはこれ以上争う理由は何もない。―――それだけです」
 弓をおろして、みっちゃんは書庫室の扉に手をかけ。
 ふと、思いついたように振り返る。
「葉佩君」
「なんでしょ」
「先ほど、君は希望の《光》に満ちていると言いましたね」
「ええ。……違うって、分かった?」
 鋭い視線で睨め付けられる、けど、気になるのは何度も視線が動くことだ。俺と、その、背後?一体、何を視ているんだろう。
「君は、確かにこの學園の閉塞を解き放つかもしれない。けれど、断じて、《光》などではない」
 厳しい声で断言して、ぴしゃり、と扉が閉められる。緊張感が一気に溶け出していって、ようやく、力を抜く。
 それを待っていたわけではないだろうけど、背後では七瀬ちゃんが起き出す気配。
「う……ん…」
「っと、七瀬ちゃん?」
「はッ―――!!わ、私は何を……」
 起き上がって眼鏡をかけ直した七瀬ちゃんに、コトのあらましをかいつまんで話す。學園の異変と七瀬ちゃんに憑いていたもの、それからみっちゃんがそれを祓ってくれたこと。
「そう、ですか……」
「いやでも、無事でよかったよ。……だから言ったっしょ?無茶はしないでって。こーんだけ、みんなが心配したのです。そのことをよく考えるように」
「……すみませんでした。あ、あの、でも、今回のことでひとつだけはっきりしたことがあります」
 懲りない彼女。転んでもただでは起きない。何やら憑かれている間に情報を掴んだらしい。その根性に、敬服。
「『我の元へと辿り着くのを待っている―――』、あの声はそう言いました。あれは遺跡に眠る何かであることは間違いありません。《鍵》というのが何なのかはまだはっきりしませんが、おそらく、私の他にもその《鍵》を探させられている人がいると思います」
 俺には心当たりがあった。妙に《鍵》に執着しているヤツが、一人。白い仮面のアレ。俺に鍵を探せとのたまって、協力するような、挑発するような言動を繰り返す。ファントム。學園の幻。あいつ、だろうな。今度会ったら聞いてみよ。
「《鍵》……か。それはおそらく、あの遺跡の最下層に至るためのものだろうな……」
 甲太郎がアロマパイプに点火してから、気怠げに呟く。俺にはまだ、《鍵》ってのが何なのか分からない。本当に、それだけのものなのかも。
 と、そこで現れた人影。
「よォ、無事か?」
 余裕綽々、ピンチなんて何にもなかったようなこの感じ。
「ダンナ!」
「夕薙クン!?大丈夫だったんだね!!」
「ああ、どうやらみなも正気に戻ったようだし、正直、拍子抜けしたよ。そっちは何があった?……九龍がまた面白いくらい白い顔してるんだが」
「あー、いやー、まあ、気にしないでください。いつものこって」
 まだ、指先が微かに震えているのを後ろ手にして隠す。夕薙は本当に、どこも、なんともないようで、俺ばかりが振り回されたようで、ちょっと悔しい。
「……分かった。詳しい話はまた後にしよう。ともかく今は九龍が無事でよかった」
 頭に手を乗せられてくしゃくしゃ、っと。ついでに鼻をつままれたところで、いつものように甲太郎に引っ張られる。ほんで異変の終了でも告げるみたいに、チャイム。
「今日もまた日が暮れる……。九龍、今夜も行く気なら十分気を付けて行けよ」
「お、おぅ」
「妙に嫌な予感がするからな」
 とても気になることを言い残して、ダンナは図書室から出て行った。
 こっちも解散することになって、七瀬ちゃんはルイ先生に一応看てもらいに、八千穂ちゃんはその付き添いに、甲太郎はふらぁっと消えちゃって、俺は下校時刻が過ぎた頃に校舎内をうろうろ。
 学校内は、まるでさっきの騒ぎがウソのよう。下校していくクラスメイトに、『殺してやる』と告げられた同じ声で、明るく『じゃーな、また明日!』と手を振られる違和感。引きつらないように笑顔で手を振り返しながら、すれ違った瞬間に襲われやしないかと、咄嗟に身体が強ばるのはどうしょもできなかった。
 やがての、放課後。誰もいなくなる校内。
 窓の外、夕闇がすぐそばにいる。下校の合図と共に蛍光灯が消された廊下には、非常灯ばかりが自己主張しているみたい。誰もいない、そんな、さっきまでとも違う冷たさ。寒さ。
 怨嗟の声が、消えない。
 ―――お前を、許さない。
 あいつの声で再生された、あいつの発したことのない言葉。嘘か本当か、怨霊の聴かせた幻か、俺が記憶から排除した真実か。
 声が、背中にずっしりのし掛かっている気分。
 本当に、そう思っていたとしたら、俺はもう死んじゃってもいいかもしれない。苦しい。辛い。泣いてしまいたい。……俺を、そういう感傷に陥れることが目的なのだろうから、作戦は大成功ですよみっちゃん。
 俺が、幽霊ダメなこと、色んな人が知っている。事あるごとに自分で殴れないものはイヤー!って言っているから。
 でも、それは軽口のような冗談のような、そんな程度のもの。この仕事に就いてからは年中この世に在らざる者と対峙してきたから、実のところ口で言うほど幽霊ってものを怖いと思ったりしなかった。
 だから、今日が初めて。幽霊が、本当に怖いと思ったのは。
 真っ黒なものが、皮膚を抜けて自分の中に入ってくる感じ。きっと抗弾ベストもタクティカルアーマーも、何の役にも立たない。人の負の感情を煮染めたような圧倒的な絶望感に侵食される。あの怖さは、絶対的だ。抗えない。思い出すだけで足がすくみそうになる。
 ああ、マジ、ダメかも俺。
 数分、無人の廊下の片隅で膝を抱えて落ち込んでみる。凹んでうじうじして、でも誰も見ていないから思う存分。止める人がいなければ止めどなく落ちていく俺の思考。見えもしない、勝手に線引きした底辺まで落下を確認。このまま今日は何もしたくなかったけど、ここで何もしないと、明日も明後日もみっちゃんがこれを続けるかもしれない。《王》はずっと、《鍵》を探して彷徨い続けるかもしれない。
 それだけは、勘弁して。
 のろーっと、立ち上がって落ちたままテンションで生徒会室に向かう。どうせ今日はあいつがいる。あんなモンが出た後なら絶対だ。賭けてもいい。心底落ちた精神を無理矢理持ち上げて、その部屋の扉を開ける。
「うぃー、っす」
 ほれ、見ぃ。いると思ったぜ。
 静まりかえった生徒会室には、人影が一つ。白い仮面にかぎ爪。殺伐とした雰囲気だだ漏れの、噂のファントムさん。
「いよぅ。お久しぶり、……じゃなくて、会ったばっかり、だったりして?」
「……葉佩九龍」
 今日の怪異で遭遇した謎の黒い影、七瀬ちゃんの証言から、そいつとファントムは同一人物何じゃないかとアタリをつけていた。《鍵》を探せって言ったり、墓守を疎んじていたり、どうも共通点が多すぎるような気がして。
「なあ、ちょっと聞きたいことが、」
「―――お前は、この呪われし學園に何を求めてきたというのだ?」
 俺の話ガン無視。有無を言わせない、って感じで、ファントムはかぎ爪を俺に向けてきた。
「あぁ?何を、って、そりゃ……」
 《秘宝》だよ、って言おうとして、ふと考えた。俺の目的は本当に《秘宝》だったのだろうか。そもそも、目的なんてあったんだろうか。
 これは仕事で、だからここにいるんだけど、でもあの遺跡には俺の記憶がそのまま住み着いているような。何かを確かめに来た?ここで分かるわけもないのに、……あいつ、の、真実とか。
 ぐるぐると数秒考えを巡らせて、分からなかったから、
「分かんね」
「何故だ。お前は―――」
「分かんないんだよね、正直。分かんなくなってしまいました。まあ、最終目的は《秘宝》なんだろうけど。俺、自身が何かを、って聞かれるとうっかり分かんない」
 分かんない、といえば、こいつの正体もなんか分かんなくなってきた。
 なんかさ、立ち振る舞いとか雰囲気とか、さっきの禍々しさがない。妙に人間くさいって言うか、俺も寒気を感じないっていうか。七瀬ちゃんはがっつり取り憑かれてた感じなんだけど、こいつは……。
「なあ、俺、あんたはさっき出くわした遺跡の《王》かと思ってたんだけど、もしかして、全然見当外れてた?」
「…………」
「あんたが王様で、遺跡の一番核なのか、って考えたんだけど、違う?」
 沈黙。
 ファントムは何やら思案したらしく、しばらくしてから口を開いた。
「まもなく《刻》が来る。……それまで、せいぜい足掻いて見せろ。《転校生》よ―――」
 そういうと、突然視界が一気に悪くなって、晴れたときにはファントムは消えていた。
 ……やっぱり、変だ。だって、さっきの影は俺のことを墓荒らし、とか人の子、とか呼んでいた。ファントムは転校生、って呼んでいた。もしかして全然別物なのか?でも明確に否定もしていかなかった。
 まもなく《刻》が来る……。まだ、俺は真実に辿り着くには遠いところにいるらしい。

*  *  *

 謎が謎ならば、謎の正体を知っている人に聞くのが一番の近道。近道は時に一番危険な路でもあるんだけど、俺、遠回りってのは好きではない性分。
 というわけで、カイチョーのお家前。いくら何でも短絡的すぎ?まあ、いいでしょ。
「ごめーんくーださーい」
 返事なし。誰もいない?勝手に上がるのはまずいわけで、とりあえずもう一度声を掛けてみた。
「ごめんくださー……うわッ」
「これはこれは九龍さん」
 ……俺が驚いたのにはワケがある。ひとつは、マスターが気配もなく現れたこと。もうひとつは……マスターの格好が非常に似つかわしくない格好だったこと。つまりは、家政婦さんのような出で立ち。
「マスター、その格好は……」
「これには事情がありまして。それはそうと九龍さん。あなたは―――《比類なき家事の達人》でいらっしゃいますね」
「へッ!?」
「ふふッ、数十年以上《人》を見てきたこの私の目はごまかせません。そんなあなたを見込んでお願いしたいことがあるのですが……失礼ですが、今、お時間はございますか?」
 マスターの格好からして何を頼まれるのか、なんとなーく、分かったような気もするんだけど……、まあ、まだ暗くなるには時間もある。頷いてみせると、マスターは渋い渋い笑顔をこちらに向けた。
「おお、それはようございました。先日の夜会で騒ぎが起きましたことはご存じかと思いますが、実は―――、あの騒ぎで荒れてしまった屋敷の片付けが、未だに終わらないのです。これだけの広さの屋敷でございますから、それはもう大変で大変で……」
「ハイハイ、お片付け、でいいんなら。お手伝いしますよ。……つっても、夜まで、ですけど、いいっすか?」
「これは有り難い。それではお手数をおかけいたしますが、《清掃用具》の手配をお願いいたします」
「あら、調達してこなきゃなんすね。じゃあ、ちょっくら借りてきますから」
「よろしく頼みましたよ、九龍さん」
 へーへー。マスターの頼みとあっちゃね、断るわけにはいきませんがな。にしても《比類なき家事の達人》て……、男が呼ばれて嬉しい称号?マスターに言われるのは嬉しいけどね、もっと雄々しい称号をいただきたい気がしなくもない。
 俺は一旦お屋敷を出て、そのまままた体育館へ向かった。モップを拝借しようというわけ。すると、入り口のところに見覚えのあるシルエットが佇んでいるのが見えた。
「あれ、鎌治?なにやってんの?」
「やあ、はっちゃん」
「はっちゃ……まあいいや。何?部活見てんの?」
「そう。今日はね、この体育館にお別れを言いに来たんだ。いや、正確にいうと、バスケットゴールに、かな」
 鎌治に促されるように中を覗くと、おー、やってるやってる。バスケ部が練習中。いいねー、若いね青春だね。俺もちょっと前は助っ人とか頼まれてよく顔出したりしたんだよね。これでもバスケ、上手いんすよ、チ……背は高くないけど。
「君は天香へ来てまだ三ヶ月くらいだから、よく顔を出してもらったとはいえあまり印象深くはないかもしれないけど、僕にとって、ここは―――音楽室と同じくらいに大切な場所なんだよ」
「そういや、前言ってたもんな。ピアノもバスケも、両方やりたい、って」
「フフ、そのときもはっちゃんが背中を押してくれたんだったよね」
「……そーだったっけか?」
 練習中の部員が俺たちに気付いて、律儀に集合なんかしようとするのを手振りで制する。あんなでかい連中に囲まれたら泣けるしね俺。またアップと筋トレに戻った後輩をじっと見ながら、鎌治はぽつりと呟いた。
「はっちゃんにも、こんな風に大切に思える場所ってあるのかな……?」
「大切に思える場所……ああ、うん、まあ、あるっちゃーあるよ」
 もうどこにもないけれど。失いたくない場所は、俺にも確かにあった。願ってばっかで結局無くした、俺の居場所。
「そうなんだ……。君にも、忘れられない大切な場所があるんだね。それがいったいどこなのか、興味があるよ」
「そんな、大したモンじゃないって」
 今考えれば、それって特定の地域のコトじゃなくて、俺が生きていてもいいって言われた場所のコト。あいつの隣。失っていなければ、今でもそこにいた。この學園に来ることもなく、世界の裏側で、暗いところで、たった一人と一緒に。
 こんなに明るい世界を知ってしまった後で、さてどっちが良かったのかと聞かれると即答なんてできないのが正直なところ。
 だって、今、失いたくないと思っている場所がもう一つできたのに、そこは仮初め、期間限定。一番最後に辿り着いたら、お終いになっちゃうんだもん。
 ……なんだかずっしり重い気分になってしまったのと、部活中で入りづらかったこともあって、少し足を伸ばして武道場へ行ってみた。武道場なら掃除用具入れは入ってすぐのところにあるし、真里野の剣チャンに断ればすぐに貸してもらえそうだ。
「どもちゃー」
 武道場を覗くと、……おろ、珍しい、誰もいないでやんの。薄暗い道場の中で、剣介が一人で瞑想?してるだけ。面胴小手が綺麗に並んでるってコトは、外回りでも行ったかね?
「……師匠、か」
「その呼び方、止めましょーねぇ。俺は剣介の師匠でもなんでもねーだぎゃ。逆に俺の方が、得物使った近接戦教えてもらってんじゃん」
「いいや、お主は拙者の心の師匠。幾多の死合いを繰り広げてきた、言ってみれば生き方の……人生の師匠なのだ」
 ちょっとこの子は俺を脳内美化しすぎる嫌いがある。こいつと、あと砲介。二人とも他のバディと違って勝負、強さってのにこだわるタイプだから、試合に勝ったら問答無用に崇拝、って思考なのかも。ぜひぜひ、俺の師匠に会わせてあげたい気もする。そしたらあいつ、二人の女神だぜ絶対。
「……頼むから普通に名前で呼んで。じゃないと俺、後輩がいるところでも剣チャンて呼ぶぜよ」
「むっ。それは勘弁願いたい。ならば、九龍」
「ほいよ」
「お主を漢と見込んで相談したきことがあるのだが、その……」
「何、なにさ。俺でいいなら何でも言ってみ?言うだけならタダだぜー」
 ずずい、っと禅を組む剣介の側ににじり寄り。真っ正面から見つめ合い、剣介はぐっと眉間に力を込めた。
「笑わずに聞いてくれるか?」
「場合によっちゃー大爆笑するけど。言われてみなきゃ分からんよ。人生相談、だと俺にはちょっと荷が重いけど。それ以外なら聞くぐらいできますよー」
「そ、そうか?そう言ってもらえると有り難い。実は、……だな……」
 もじもじもじもじもじ。剣介は言おうかどうかひとしきり迷って悩んで、結局止めたらしい。男らしくないなあ、その態度。煮え切らない男なんて俺、嫌いだわッ!!煮え切っても男はイヤですが。
「いッ、いや、……やはりやめておこう。……すまん、師匠」
「だから師匠はナシで!……まあ、気が向いたら話してみ?俺でなくてもさ、もうちょっと恋愛に関して実戦経験のあるようなヤツとかね」
 どうせ七瀬ちゃんのことなんだろ?最近、剣介なりに頑張って声かけたりしてるようだけど、どうなんだろうねぇ。常識ッ外れてるところを抜けば、剣介はかなりいい男だ。顔しかり、真っ直ぐな性根しかり。しかも古い、難しい系古文書とか結構詳しいから、七瀬ちゃんもその辺で剣介に興味を持ってるみたいだし。
 なーんてことも、男らしくない剣ちゃんには教えてあげない意地の悪い俺なのでした。
「な、な、な、何故、色恋だと……いや、拙者が言いたかったのはッ!!」
「へーへ、分かりました。あ、でさー、俺掃除用具借りに来たんだよ。すぐ返すからさ。借りってっていい?」
「あ、ああ、構わぬ。……時に、師匠、その……色事に、長じているというのは……」
 もう訂正するのも諦めた。しかも色事て。そんな大げさなことでもあるまいに。
「バディの連中で言ったら……双樹姐さんとか、あとは、うーん、雛川センセとかでもいいかも。すどりんとかって手もあるけど……」
「それ、だけは!断じて否!!」
「んー、他には、……案外、甲太郎なんかが得意かもよ?」
「……あの万年昼寝魔か」
 剣介、苦々しげ。なぜか相性が悪い二人。甲太郎曰く、頭の固い時代錯誤のへっぽこ侍、剣介曰くは今の、万年怠慢昼寝サボり魔、だそうで。端から見れば仲良さそうに見えるんだけどね?喧嘩するほど、みたいな。
 ちょうどそこに、部員がわらわらと外回りから戻ってきた。俺は軽く挨拶をして、モップを借りると屋敷に戻る。(去り際にきっちり「バイバイ剣ちゃん」と言ってみた。)
 ふと、口にしてみたことだけど、甲太郎ってアレで結構モテる子なんだよね。前からそうじゃないかって思ってたんだけど、知り合いになった色んな後輩ちゃんとかに話を聞くと、なかなかに人気者。あの、何考えてんのか分かんないところがいいらしい。不真面目なところもポイント高いとか。いや、俺絶対女の子には剣介とか鎌治とか砲介とか勧めますがね。だって、絶対大事にしてくれそうじゃん?自分が守る、と一度決めた人に対しては特に。
 甲太郎がそうじゃない、とは言わないけど、あいつはなんというか、もっと激烈に淡泊で適当、もしくは壮絶なまでに大切にするかのどっちかのような気がする。いや、後者だな。過保護だもん。ドライとか嘘くさいもん。なんか、好きになった子、命賭けて大切にする、ような気がする。想像できないけど。
 ……?? なぜだろ。俺、今、自分の想像に酷くイラついた。俺ったら、いもしない甲太郎の仮想彼女にヤキモチ?いやん。
 ちょっとゾーッとしながら、阿門邸を再訪。今度はピンポンも押さないで入っていく。
「もっどりましたー」
「九龍さん。お願いしていた品物は持ってきていただけましたでしょうか?」
「うぃ」
「それでは、九龍さん、二階の廊下のモップがけと、突き当たりの部屋をお願いいたします」
「ラジャ」
 軽く返事をして、二階に上がったんだけど……突き当たりの部屋って、カイチョー、いつもいる部屋と違う?んー、マスター、狸……?
 実は結構掃除スキーな俺。言われたとおりに廊下を掃除して、いよいよ突き当たりの部屋。ノックをすると、むすっとした気配を感じた。俺だ、って分かってるっぽい。ドアを僅かに開けて覗き込むと、不機嫌さ全快で机に向かっているカイチョーが。
「失礼、しまーす」
「……《転校生》か」
「葉佩クリーニングサービスでーす。お掃除に上がりましたー」
「必要ない。出て行け」
「あらつれない」
 確かに部屋は綺麗で、別に掃除の必要なんてなさそうだったんだけど、最初はカイチョーに聞きたいことがあって屋敷に来たのを思い出した。面倒だから単刀直入に、聞く。
「ねー、カイチョ。一個、聞きたいんだけどさ」
「……何だ」
「《王》は、災厄?」
「誰に、それを」
「誰からも。強いて言うなら、……遺跡の、精霊に」
 モップの柄の先端に顎を付けて、会長の反応を伺ってみる。けど、無反応。さすが、揺るぎない。
「俺には《王》を眠らせておく理由が分かんないんだよね。どうやら起きたがっているらしいんだけど。俺は知らないうちに結構目覚めスイッチ押しちゃってるみたいだし」
「ようやく分かったか」
「んー。でも、俺、災厄ってのがどの程度か分かんねーんだ。辿り着いて、起こしちゃって、どうなっちゃうのか。仮に目覚めさせたとして、その後にフルボッコじゃダメなワケ?眠らせておくんじゃなくて、……倒滅するのはいけないこと?」
 会長はおもむろに立ち上がる。威圧するように歩み出て、俺の目の前。見下ろされるとやっぱ、迫力あんのねこの人。
「《それ》が、貴様の手に余るものだとしたら、どうするつもりだ」
「手に余る、は決定事項?」
「……手を引け。俺に言えるのはそれだけだ」
 会長はドアを開けて、俺に出て行くように示す。やり合うのは得策じゃない。だから俺は背を向けた。モップを引きずって、出て行く、直前。
「盗人の魂は、黄泉の獣に喰われ未来永劫救われる事なく、深き闇の淵を彷徨うだけだ。その運命を知って、なお進むのか?」
「……運命と喧嘩するくらいの心意気じゃないと、この商売やってられませんよ」
「望むところ、ということか」
「それに、……仮に俺が消えて、魂、っての?そういうのだけになったら、すぐに色んなのが寄って集って俺のことぐちゃぐちゃのメチャメチャにすると思うから、彷徨う暇もないって。だから、征くんだ俺は」
 そうじゃなかったとしても、遺跡を彷徨えるなら、いい。だってあそこには一緒に闇を見てきた誰かがいそうな気もするから。また闇に潜ってみるのは、―――悪くない、そう思う。
「………《勇気》と《蛮勇》は違う。真の恐怖を知らずして本当の《勇気》は得られん。それを覚えておくことだ。―――葉佩、九龍」
 近頃、会長はちょっと俺に優しい。というより、諦めたって感じ?教室とかから備品パチッてんのバレたのに怒られなかったし(こめかみを押さえてはいたけど)、生徒会の役員であるワンコを目の前で沈めても何も言わないし(ため息つくだけ)。うーん、それでもマイナスがゼロになっただけって態度だから別に好意的になったってわけではないんだろうなー。
「ああ、九龍さん」
 フロアを掃いていたマスターが、降りてきた俺に気付いて近づいてくる。
「終わりましたー、」
「フフ、お手数をおかけいたしました。坊ちゃまは何かおっしゃっていましたか?」
「ん、いつも通り。可もなく、不可もなく」
「さようでございますか。そうだ、九龍さんのお陰で、作業がはかどりました。よろしければ、これを」
 たいしたことしてないっすからー、と差し出されようとしていた何かを断りかけた俺、フリーズ。
「私が若い頃に使用していたベストでございます」
「う、そ……」
 それは、ベスト。抗弾ベストと呼ばれるもの。それだけなら俺は何ら驚いたりしない。自分でもバディに着せるように持ってるしね?
 ……でも、これは……なんつーか、使い込まれ、磨き込まれ、幾多の戦場をくぐり抜けてきた、そんな感じの抗弾ベストだった。しかも、厚めの防弾鋼鈑にはところどころ凹んだ跡が。
「少々古うございますが、しっかりと修繕しましたので十分実用に耐えますよ」
「マ、マスター、これ、若い頃に使ってたって……?」
「ええ。もう何十年も前のことになります」
「……相当、使い込まれてますけど」
「はい」
 はい、じゃない。なんか、俺の予感は確実にアタリに近づいているらしい。絶対、どこかの傭兵かなんかだったっていうファーストインプレッション。……まさか、俺、どっかで会ってないよね?この人に。
「ご安心を。―――あなたがお生まれになる、もっとずっと前の戦場ですよ」
 ……読まれてるし。
「で、えーと、なんで、これを、俺に?」
「おや、九龍さんはGUN部だと伺ったのですが、お使いになりませんか?」
「う、あ、……ハイ、使います、いただきます」
 一瞬、正体バレてるのかと思い、いや、この人は何でもお見通しなんだろうな、とも思い直した。有り難く抗弾ベストをもらって、お屋敷を出る。
 外は闇。いい感じに更けた夜。冬の風が吹いて、夏でもないのに幽霊が出るにはぴったりの雰囲気だ。