風云-fengyun-

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10th.Discovery 七瀬ふたたび - 5 -

 六限が始まるギリギリ、階段を駆け上っていると踊り場のところで危うく人とぶつかりそうになった。
「お、っと、ゴメン、―――って、砲介!?」
「九龍隊長!?」
「悪りぃ、もうちょいで授業始まっちゃうんで急いでて」
「そ、そうでありますか」
 手を合わせながら駆け抜けようとして俺の背に、
「あの、九龍隊長……!!」
 控え目でいて、ちょっと切実な声が投げられる。立ち止まって振り返ると、ガスマスク越しに真っ直ぐ、砲介がこっちを見ているのが分かった。視線がぶつかって、ちょっと下を向いて、また見つめ合う。……隊長って部活以外のとこで呼ぶなー!ってツッコミを入れるような雰囲気ではない、断じて。
「どったの?」
「実は……、隊長に折り入ってお願いがあるのでありマスッ」
「ハイな、何でしょう」
「戦場に《お守り》を持っていくのは軍人のたしなみでありマスッ。ですが、自分にはこれといって《お守り》になるものがないのでありマス」
 お守り。確かに、軍人にはそれを持って戦場にいくヤツらがわんさかいる。そりゃそーだ。何が起こるか分からない戦地では、何でもいいからすがれるモノがほしいのだ。俺も、気持ち、分からないでもない。一応お守りっていえそうなモノ、持ち歩いてるんだから。
「どんな死地にあっても《再生》を約束してくれるような《お守り》……。もしよかったら自分に何かそれらしい物を、譲ってはもらえませんカッ!?」
「……お守り、ねぇ」
 うーん。困った。何が困ったって、俺はそんな大層なモンを持ってないんだから。再生を約束、ってんなら遺跡で手に入れた《心臓の護符》とかがいいんだろうけど……。
「だってさー、砲介、知ってる?戦地に持っていくお守りって言ったら、アレがお決まりなんよ?」
「ア、アレ?」
「そ。ア・レ♪」
 砲介ったら、真面目な顔で考えてやがる。つっても顔は分かんないんだけど。それでも悩んでるのは伝わってくるんだよねぇ、砲介、イイ子ちゃんだから。可愛い可愛い。
「アレとは、えぇと、……何でありますでしょうカ」
「あっれ、分かんないかなー。ダメだぜぇ、砲介、軍人たるものそれくらい知っておかなきゃ!」
 困り果てたようにツンツン頭を掻く砲介ににやりと一発笑って見せて、指先でその顔を近寄せる。ガスマスク越し、間近に顔を寄せて、正解をささやいてやる。
「それはねぇー……」
「―――!? な、ななななッ……!!」
 あれま。本当に知らなかったと見える。思いっきり首をのけぞらせてマジ焦りしております。愛いやつ。
 そうかー、知らなかったのかー。だよなー、健全な高校生男子が好きな子の『陰毛』持ち歩くなんて、ねぇ?俺だってやったことねぇっつーの。
「あっはっは、そんな驚かなくてもいいじゃんよー。その辺の傭兵さんたちは実は結構持ってんぞ?」
「そそそそそそうなので、あり、マスカ……」
「そーそーそうなのであります。というわけで、砲介、好きな子のところへゴーだ!告白して一発かましてもらってこぉぉぃ!!」
「く、隊長、ソレハッ……」
 おろおろとガスマスクの向こうの視線をさまよわせているのがなんとなく分かる。きっと、顔とか真っ赤なんだろーなぁ。
「自分には、その……そういった相手がいないのでありマス……。ですから、できれば違うものガ……」
「あらまー。お守りっていったらそういうのが一番効くんだけどね?残ァ念」
「ゥ……」
 からかいが過ぎたのか、直立不動のまま砲介フリーズ。どうしたらいいのか悩む、って感じかな。お守りなんて、そんなに真剣に考えるもんでもないと思うけどね?自分の想いの拠所ってのが、そのままお守りってもんになるんじゃないかな。
「ま、あんまこだわらないで、自分の大切な物とかを……」
「九龍隊長ッ!!」
「ハイッ!?」
 それまで黙っていた砲介が突然大きな声を出す。ちょっと驚いてこっちまで直立してまうってもん。敬礼とかまでされそうな緊張感の中、砲介が口にした言葉。
「な、な、ならば、自分は、―――九龍隊長を所望するでありマスッ!!!」
「……はい?」
 一瞬、この子はどうしてしまったのかと、呆然。あなたが欲しいって、阿呆、それじゃあ告白だ、する相手が違う。
「えーっと、砲介?俺は、一応取引禁止といいますか、人身売買は道徳上、法律上の問題があるといいますか、さすがにここで身体は売りたくないといいますか……」
「あ、いえ、け、決してそそそそいった意味ではなく……言葉が足らなかったでありマス!!ただ、隊長の所有物をいただければと……」
「なんだ、そういうことか。ナニ、俺なんかのでよいの?」
「自分は、九龍隊長のことを大切に思っているでありマスッ!ですから、隊長の持ち物をいただけたら心強いと思ったのでありマスガ……図々しいお願いでありましたでしょうカ……」
「……………」
「あの、無理ならば、よいのでありマスガ……」
 いや、そうではないのですよ、砲介君。ボクは今ですね、数十秒ほど前の君の状態でしてね。いやいや、まさかそんな真正面からそんなことを言われたら、そりゃ絶句して赤面しますよ。ええ。こんな心中で色々言ってんのに、口からは何の言葉も出てきやしねぇ。
 俺は、何か言おうとして、できなくて、砲介が困り果てるのを見ているしかできなかった。仕方ないから、……そんなこと言われちゃったら、仕方ない。だって俺にできることなんて何もなくて、物を渡してもいいけどすぐに渡せるものなんて思い浮かばなくて、でも砲介には、そこまで言ってくれる砲介にはどうしても何かを渡したくて、だから、階段の段差の関係で少し下にあった砲介の頭を引き寄せる。
 そうして、額に寄せる額。ガスマスクの、ひんやりした感触が伝わってくる。
 いつか、俺に、あいつがしてくれた、祈りの儀式。
「大丈夫。心配すんなよ」
 ―――不要緊。不擔心。
 まだ、戦いに脅えて、銃を持つたび竦んでいたころの俺を抱き寄せて囁いてくれた。
「俺がお前を守っちゃる。神様にだって触れさせない」
 ―――我也護,不受神的危害給看看。
 目を閉じて、祈る。本当に、思いっきり、祈る。砲介が幸せでありますように。こんなにも柔らかくて綺麗な魂が、二度と傷つきませんように。
「お前が知りうる中で一番強いと認めた俺が、守ると決めた」
 そういえば、俺がこんなふうに言われたのがずいぶん昔なのに、意外に覚えているもんだな、と頭の隅で考える。同時に、
「だから、―――大丈夫。心配すんな」
 これじゃあ祈りじゃなくてただの宣言文句だろ?とも思う。
 けれど、……俺はこれで安心したんだよなー。あの頃人類最強と本気で信じていた女が、大丈夫、って言ってくれれば本当に何もかもが大丈夫に思えてきた。
 つまるところ、やっぱり俺にとっては最強の祈りの儀式だったわけで。
 ふ、と目を開けてぶつかった砲介の視線に苦笑いを返してみる。効能は、俺にしかなかったかも、ごめん、の意味で。
「お守りじゃ、ないかもしんないけど」
「…………」
「少なくとも俺には効果絶大だったんだよねー。案外効くかもよ?」
 モノは後でね、と呆けたままの砲介に手を振って、階段を上がろうとする。
「九龍隊長!!」
 呼び止められて振り向けば、砲介は手本通り、教本通りという敬礼を決めていた。それが何を表わすのかなんとなく分かって、俺は、笑ってへにゃっと敬礼を返して見せた。

*  *  *

「―――のように、金属ナトリウムは単体でも水と激しい反応を起こすため、取扱には十分注意が必要です。決してビタミン剤や水を加えたりしてはなりません」
 教師の説明を聞きながら、グループに分かれて実験をする。俺はいつも通り八千穂ちゃん、甲太郎、(あと顔を出せばダンナと白岐ちゃん)とグループを組んで実験実験。
「ねぇ九チャン、ビタミン剤と金属ナトリウム混ぜるとどうなっちゃうの?」
「んー、それだけじゃどうにもなんないけど、ナトリウム系炸薬の元にはなるやね。危ないことには変わりないっちゃ」
「へーぇ、……やってみたりとかはダメかー」
「ダメですーぅ」
 実験結果のレポートも書かなきゃだから、無駄口を叩きつつちゃっちゃと実験を進めていく。八千穂ちゃんは率先して色々やってくれるけど、甲太郎は本当になぁんにもやらねぇでやんの。時折欠伸をしながら、「火気がそばにあったら危ねぇだろうが」とか言ってアロマパイプを銜えたまま足を投げ出して座りっぱ。
「……にしても、ちょっと今日、みんな静かだねぇ」
「んー、午後授業だから眠いんじゃないのかね。俺りゃーそれよりもこの教室が寒くてしょうがない方が気になるけど」
「確かに、な。暖房は入っているはずだろう。―――いやに寒い」
 甲太郎、嫌な眼をしている。苦々しげな、虚空を睨みつけるような。
 この教室、授業が始まってからどんどん空気の温度が冷えていっている気がする。それに、周りの生徒の様子も変だ。みんなどこか虚ろな目で実験を……てか、実験してないで俯いてるやつとか……、
「―――こら、よそ見しながらの実験は危険ですよ」
「………」
 注意されたというのに、そいつは俯いたまま。顔を上げることなく、……何か、呟いて、いる?
「どうしました?聞こえないんですか?」
 呟きはだんだん大きくなっていく。
 ―――なんかヤバい。
 そう思ったとき、そいつは椅子から立ち上がる。口元には形容しがたい、不気味な笑み。目は笑ってないのに、くつくつと笑い声をあげている。
「先生、あんたこそ、聞こえないの?」
「え………?」
 にたり、と口角を吊った仕草に共鳴するように。
『お゛ぉぉお゛おおぉぉォォォ……』
 背筋を絞られるような呻き声が教室を支配した。一気に、先ほどとは比べ物にならないレベルで温度が冷える。隣では八千穂ちゃんが「ひッ!」と小さな悲鳴をあげて立ち上がる。俺と甲太郎はそんな彼女を後ろ手に、教室の隅で状況を確認。
 声は響き続ける。意味を成さない呻き。
 言うなれば、怨嗟。
『あ゛あぁぁあ゛あああぁぁぁぁぁぁあ゛ああ』
 生徒が発している、のではない。生徒には別の異変が起きている。
「うッ……頭が、痛ぇッ……」
「い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い――――!!」
「うう……、うぐァァァァァ!!」
 ほぼ全員が、頭を押さえて痛みを訴えている。何人かは、意識すら失ったようだ。
 ―――大がかりって、これか!?
 俺を始末するのに、學園中を巻き込むってか。ただ、生徒に何かが起きてるのは分かるけど、その何かが何なのか、全然分からない。怖い、とても怖いことが起きていることだけが、把握している事実だ。
「な、なんだよ、コレ」
「どう考えても只事じゃないな……」
 頷き合う俺たちの後ろで、今度は八千穂ちゃんまでもが。
「な、何がどうなって……、あ、いたたたッ……」
「八千穂ちゃん!?」
「大丈夫か、八千穂」
「ん……、なんとか。急に頭痛が……」
「九ちゃん、お前は何ともないのか?」
「たぶん。異様に寒いけど。つか、これ気温が低いとかの寒さじゃないだろ」
 俺は冬に強い。気温が低いのには耐性があるし、多少の寒さじゃ動じない自信がある。その俺が、歯の根が合わないくらいの寒気を感じているのは、どう考えてもおかしいだろ?
「おい、大丈夫か?そんなに寒いかよ」
「……ちょっと、痛いくらい寒い。よく平気だな二人とも」
「九チャン!?ねえ、すっごく顔色悪い……きゃぁッ!!」
 寒いの通り越して気分急下降、腰を折った俺の背を撫でようとした八千穂ちゃんが叫ぶ。気持ち悪さを堪えて顔をあげると。
 一瞬で、俺はある映画を思い出した。斃れていく人々と、やがて起き上がる人でなくなった何か。呻き声をあげながら立ち上がり、 生きている人間に襲いかかる……。まるで目の前の光景は、ゾンビ映画のワンシーンだった。
「葉佩……、お前か……。お前が、すべての、元凶か……」
 そうして、立ち上がった生徒が発するのは俺の名前。昏い気持ちだけがふんだんに籠められた怨嗟。
 身体の自由が利かなくなる。空気がどす黒く染まっていくような錯覚の中、恨みの声だけが教室に響く。
『葉佩九龍……』
『墓荒らしには死を……』
 いくつもの声が重なり合い、不協和音となって直接脳ミソに滲んでくる。
 視界がぶれる。気分が悪い。吐いてしまいそうだ。立っているのすら苦しい。どこか遠くで、誰かが、正しく俺を呼んでいる。それなのに、応えることができない。身体が揺さぶられる。ダメだ。声が。声、声が、聞こえる。声―――、

*  *  *

 世界が狂った。
 薬品の臭いなんてどこにもない。あるのは火薬と、腐った汚泥と、血と内臓の臭い。嗅ぎなれた、臭い。いつの間に夜になったのだろう。夜目が利くはずの俺にすら、何も見えないほどの闇。
 異様に大きな心音を感じながら、側頭部に押し付けられた硬い感触に視線だけを上げる。
 見上げた先にいたのは、真っ黒い影。闇と同化する色を持った誰かだった。顔は分からない。ただ、ぼんやりと浮かぶ顔の輪郭が、似つかわしくなく白いのだけは分かった。
(……誰だ?)
 そうして、頭に押し付けられているこれは、何だ?
 思考が定まらない方向へ霧散しそうになる直前、ようやく視界が周囲の光景を捉え始めた。
(人……だろうか)
 俺の視界の端に腕が見える。それから、髪だろうかあの黒い塊は。俺はゆっくり手を伸ばし、人らしき物体に触れた、途端。
 強い死臭が、他のすべてを押しのけて鼻をついた。手のひらに触れた液体。色は分からないが、おそらくは血だ。次いで開けてきた視界の中には、……屍体が。
 おびただしい数の、屍。まるで絨毯のように、無造作に転がっている。
 闇に慣れた目がすべてを捉え、そして、状況もを把握した。死体に開いた穴の意味。そして、頭に突きつけられているもの。
 恐る恐る、相手を刺激しないように、俺は再度視線を黒い影に戻した。それが誰か、見たかった。
 真っ黒い影。白い輪郭。物騒な物を持つにしては、小柄すぎる体躯。
「――――ッ!!」
 童顔、それに似合わずつり上がり気味の鋭い眼。まるで、ゴミでも見るような。
『葉佩、九龍』
 俺は、俺を、見上げている。間違いなく、目の前にいるのは葉佩九龍。今よりもっと、幼い俺。冷たさすらない、無関心な眼をして俺を見下ろしている。
 瞬時に、俺はあの頃自分に向けられた『無表情無愛想無感情』の意味を把握した。そこに立つ少年に、感情なんてものは一切ないように見えた。
 俺は、しゃがみ込んだままの俺は、俺の意思を無視して何かを呟く。概念だけは伝わってくるが、その言葉はおそらく俺が普段操る言語ではない。東欧圏の響きを持つ言葉。意味は、―――殺さないでくれ。
 その言葉を発しても無駄だと、俺は知っている。俺は、そんなことでは引き金を引く指を止めない。決めているから。殺す、と。
『助けてくれ』
 俺の身体は、俺の意志とは別の場所で救いを求める。助けてくれと繰り返す。葉佩九龍は意味を分かって、すべてを無視する。あるいは、耳にねじ込んだイヤホンと音楽のせいで何も聞こえてないかもしれない。
『助けて、くれ』
 俺は乞う。命を、乞い続ける。無駄だというのに。
 ―――そういえば、俺は、どうして俺に殺される。
 途端、一気に思考が回転しだした。人、人、人。この學園に来て出会った人間の顔が、脳裏をよぎっていく。八千穂明日香、白岐幽花、夕薙大和、七瀬月魅、雛川亜柚子、劉瑞麗、取手鎌治、椎名リカ、朱堂茂美、肥後大蔵、舞草奈々子、黒塚至人、真里野剣介、墨木砲介、トト・ジェフティメス、双樹咲重や夷澤凍也も。出会って、言葉を交わして、触れ合って、……失いたくないと、願うほどに。
 瞬いていく思考の向こうに、誰かが立っている気がした。知覚しなくても、感情の深いところで、それが誰か分かっている。
 皆守甲太郎。背中を見せている。こちらを振り返った。ダルそうにアロマパイプを銜えて、少し首をかしげる。どうしょもねぇなあ、お前、とも言いたげに苦笑して、ゆっくり手を伸ばしてくる。
 ―――失いたくない。
 それは、同時に、俺すら、消えたくないと願うという意味。死にたくない。死にたくない。俺は、―――消えてしまいたくない。
 自覚した瞬間、恐怖した。知らない顔が次々に脳裏をよぎる。人種も性別も年齢も様々で、誰もが皆、俺に向かって微笑んでいた。けれどそれが俺に向かっての微笑みでないことがなんとなく分かる。  俺ではない。おそらくは、銃を向けられている誰かに向けて。
(ああ、そうか)
 俺は、今、俺に殺された誰かなのだ。大切な人を想い、願い、最期まで祈り続けた誰かなのだ。
 大切な人を持つ、そんな誰かに向け、目の前の少年―――葉佩九龍は、すべてを無視して引き金を引く。
「……て、くれ」
 俺は、今度こそ、俺の意思で呟いた。
「助けて、くれ」
 生きたい。死にたくない。諦められない。共に在りたい。
「殺さないでくれ」
 ただそれだけの願いを、俺は、葉佩九龍は、簡単に撃ち砕く。
『…………フン』
 脳味噌の奥に響き渡った音。痛みはなく。熱が、一瞬爆発して、冷え切る。視界が暗転。見えない。何も。

*  *  *

 何かが聞こえる。甘やかなアルトヴォイス。囁くように、俺の名前を呼ぶ。
『クロウ……』
 冷えていく指先。途切れていく呼吸。けれど、視界だけが揺らいで、僅かに蘇る。その、向こうにいるのは、また、俺。
 顔をぐしゃぐしゃにして、泣きじゃくる葉佩九龍。俺、は、俺に手を伸ばした。
『こうするしか、なかった』
 聞きなれた声が、なぜか俺の中から発せられた。『あいつ』の、低めの柔らかい声。
『……あたしは、願って、祈ってる。あんたのことを……』
 俺は、泣いていた。目の前の俺も泣いている。
 この光景を、俺は知っている。あの日の、あいつの、最期。俺がトドメを刺した、あいつの。
 これは、あいつの記憶なのだろうか。俺に撃たれた、あいつの最後の記憶。最後に、何を想っていたのだろう。俺のことを、想ってくれていた?
 消えていく視界。聞こえなくなる声。真っ暗に塞がれた闇の中、あいつの中に残ったもの。
『葉佩、九龍』
 ……え?
『葉佩九龍。貴様さえ、いなければ』
 地の底から響くような声。膨れ上がった真っ黒い闇。あいつの思考が、黒に塗りつぶされていく。
『葉佩九龍葉佩九龍葉佩九龍……許さ、ない』
 ウソ、だろ……?あいつは、俺を?どうして、こんな。だって、俺を。
『未来すら許さない……、願われることも、望まれることも、許さない』
 幸せに、なりな、って。笑って、言って、
『お前が世界から拒絶されることを、ずっと、ずぅーっと』

 ―――愛して、いるって。

『―――祈っているよ』

*  *  *

 鋭い痛みが頬に走った。
 ぶれた視界。鼻を突く、薬品臭。肩を揺さぶられて、顔を上げる。一瞬、そこに黒い影が見えて、思わず隠し持っていた銃を自分の頭に当てる。
「馬鹿野郎、九龍ッ!!呆けてんじゃねぇッ!!」
「九チャンッ、やめて!!」
 衝撃。次いで背中に痛み。定まった焦点の向こうにいたのは、切羽詰まった顔の……甲太郎。俺の腕を持って、壁に押し付けている。
「こ…た、ろ……」
「何やってんだ!!どうしたんだよッ!!」
「あ、俺、今、おれ、おれが、」
「クソッ、お前もか。どいつもこいつも、今流行りの霊的現象ってやつかよ……」
 甲太郎が何かを呟いている。けれど、俺にはなぜか、遠くに沈んだ水音みたいに聞こえる。耳鳴り、ひどい。寒い。ここは、寒い。
「とにかく、ここから離れるぞ!八千穂、先に行けッ!!」
「え?えぇッ!?」
「九龍がおかしい。連れて行くから、お前はさっさと外に出ろ!!」
「わ、分かった!!」
 誰かの気配が遠ざかる。俺はもう、ここにしゃがみ込んでしまいたかった。重苦しい何かが全身にまとわりついて、ここにはいたくないのに、動くことができない。
「九龍、おい、九龍ッ」
「だって、あんなに、おれ、ころしたかった、じゃない、でも、ちが、しかたなく、ちがう、」
「―――九龍ッ!!」
 足元から、力が抜けていくのを、何かが止めた。痛みのない衝撃が身体の芯を支配して、熱が、宿っていく。
「しっかり、しろよ」
「ぁ……」
「ビビってんじゃねぇ。大丈夫だ。言ったろうが。……守ってやる。だから、安心しろ」
 気がつけば、俺は甲太郎の腕の中。暖かいのは甲太郎の体温、らしい。抱き込まれて、耳元で囁かれる声に、俺は酷く安堵して、なぜだか泣き出したくなる。
「甲、太郎」
「!? ……正気、戻ったか?」
「……だいじょう、ぶ。少なくとも、ちゃんと、お前はお前に見えてる」
「なら大丈夫だ。急げ、トンズラこくぞ。ここはヤバい!」
 見れば、俺たちの周りを、正気をどこかに落としたであろう眼をした同級生たちが取り囲んでいる。……いつ飛びかかられてもおかしくないような。耳にはまだ、ノイズのような不協和音が響き続けて、聞いていればいつかは発狂すると思われた。
 今だ重い身体を、甲太郎に支えられるようにして、生徒を押しのけながら俺たちは教室の外に遁走する。
 寒さは薄らいだものの、俺の耳にはまだ、あいつの発した最後の声―――呪いの声が、こびりついて離れない。もしもここに甲太郎がいなかったら、迷わずあの連中の只中に飛び込んでしまいそうな、底抜けの不安が渦巻いていた。
(あいつ、本当に、最期に俺を呪って……?)
 恨んで、憎んで、死んでいった?愛している、と。何度も言ってくれたのは、真実では、なかった?  失望よりもなお暗い、言うなれば絶望に近い何かが、じわじわとせり上がってくる。
 知らず、甲太郎の腕をしっかりと掴んでいて、それを心配したのか俺を顔を覗き込んできた。
「お前、……顔色、悪いなんてもんじゃないぞ。本当に大丈夫か?」
「……ああ」
 すぐに嘘だと見抜かれたようで、甲太郎は不服そうな顔をするが、追及することはなかった。八千穂に追いついた俺たちは、けれども廊下の真ん中で正気を失くした生徒に囲まれてしまったからだ。
「ちッ……、まさか學園中がこんな感じじゃないだろうな」
「皆守クンは大丈夫なの?」
「……まあな」
「それってやっぱり、アロマとカレーの匂いしか分からないから?」
「お前な……くだらないこと言っている暇があったら、これを突破する方法でも考えろ」
 冗談めかした八千穂も、その実恐怖で震えているのが分かる。甲太郎もそれが分かったのか、厳しい声で、けれど諭すように答える。
 状況が悪いことは分かった。そうして―――その原因が、何であるのかも。呆けた頭でも、こう何度も呼ばれれば俺にだって、分かる。
「……俺を、置いていけ」
「あァ?」
「ずっと、こいつら……俺を呼んでる。聞こえるんだ。だから……二人は、行け。俺が、どうにか、」
「馬ッ鹿、野郎!!!」
 滅多に聞かない甲太郎の怒号が廊下中に響いた。俺の鈍った神経は、それにゆっくりと反応する。見上げれば烈火の如く、という表現が似合いなほど、眦を吊り上げる甲太郎がいた。
「次に、んなこと言ったら、問答無用で、ブチ飛ばして、引きずって行くからな」
「………でも、もう、あいつら、そこに」
 手を伸ばし、呻き声をあげながら、もう、すぐそこまで。ここに残ったら、間違いなく俺は殺されてしまうだろう。
 けれど、それは仕方がない。因果だ。俺は、今まで、『大切な者』を持った人間をことごとく葬ってきた。それが例え、俺が生きることを邪魔することを目的とした人間であっても。……だからこそ、なんの容赦もせずに、全員。
 俺が殺した誰かに、大切な誰かがいたなんて、それをなくすことがこんなにも恐ろしいなんて、思ってもいなかったのだ。愚かしいことに、俺は。
『葉佩九龍、よくも……』
『死にたく、なかった、葉佩九龍―――』
『貴様を許さない。葉佩ぃぃぃ』
 やっぱり、俺が残るしか、二人を助ける術がない。情けないことに、俺は今、戦える状態ではないのだ。でも、全部放りだすことで何かを守れるの、なら。せめて、二人だけでも―――……!?
「大丈夫か、九龍!?」
 情けなさと苦しさと、……恐ろしさで、滲んだ視界の向こう、群がる生徒たちが見えなくなった。
 代わりに、大きな大きな背中が、立ちはだかっている。
「ゆうなぎ、やまと……」
「ここは俺に任せて、九龍、君は一旦どこかに身を隠せ」
「夕薙クンッ!?」
「大和、お前……」
 突然の登場に驚いたのは甲太郎も八千穂も同じ。目を丸くする俺たちに、得意の余裕に満ちた笑みを向ける。まるで危険などどうでもいいかのように。こんなもの、修羅場でも何でもないとでも言いたげに。
「クラスメートの危機を放っておく訳にはいかないだろ?それに、俺ならこの場を鎮めることができると思う」
「どういう、意味だよ……」
「今は説明している暇はない。九龍。君は俺を信じてるんだろう?」
 笑みを浮かべたまま、じっと俺を見据える。視線に、嘘は、見えない。信じているかと聞かれたら、……信じていないなど、言えるはずもない。
「ダンナ。―――ここを、頼んでも?」
「……ありがとう、九龍」
 勝算など、俺に算段がつけられるはずもない。それなのに、この戦場を、俺は夕薙に託そうとしている。正しいはずのない選択を、選び取ろうとしている。
「逃げても、いいのか?」
「君は逃げなきゃだろ?……というよりは、原因を探したほうがいい。この階に、何か強い力のわだかまりを感じる。それが何かは解らないが、この異常事態を見極めるにはそこを目指すのがよさそうだ」
「この階……?まさかッ、月魅!?」
 八千穂の引き攣った声音を聞いて、思わず内心で舌打ちをする。七瀬月魅……あいつはやらかす女だ。今頃何かに取り憑かれでもしているのだろうか。寒気からくるものとは別の頭痛に頭を抱えたくなる。
「七瀬がどうした」
「うん……、さっきちょっと気になること言ってたから……」
「《鍵》を『探させる』んだと。……クソ、図書室だッ」
 頭を押さえて駆け出そうとして、けれど、やはりここに奴を置いていくことが気にかかる。
「ダンナ……」
「俺の事はいい。君たちの方こそ、気を付けてな―――」
 まるで、余裕で、俺たちに手を振ってみせる余裕まで見せて、夕薙大和は生徒の集団に立ち向かう。まったく、これだけいるとさすがに手間だな、そんな声が背後から聞こえた。