風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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クリスマス記念SS ワラキア -黒と赤- - 9 -

 遺跡の中で九龍が意識を失い、ほとんどパニックになりかけていた俺を救ったのは、バックアップとして外で待っていたはずのミナだった。
 九龍のH.A.N.Tと連動していたコンピュータが、九龍の心肺停止を告げたため、科学班に連絡を取ってから独断で遺跡に乗り込んできたのだ。危ない行為だったが、結果として助かったと言わざるを得ない。
 九龍は失血性ショックを起こしていて、かなり危ない状態だった。ミナは傷口が極端に小さいにもかかわらず、服に付いた大量の血液に驚いていたが、すぐにその疑問をどこかへ吹っ飛ばして、まずは九龍を遺跡から出すことだという結論に辿り着いたようだ。
 彼女が地下に降りてくるときに使ったロープとフックを使って九龍を上層へと運び、遺跡の外へ出たときには科学班が到着していた。俺はミナに遺跡にあった本を手渡し、九龍と共に麓の病院へと向かった。
 真っ白な顔に、血が通ってないのかと思うほど冷たい指先。触れながら、それでも信じていた。一緒にいると、始めてあいつから約束を求めた言葉を。生きることに消極的だった九龍の、生きたいという思いを。ただ信じることしか、俺にはできなかった。

*  *  *

 出ていったら入れ替わるようにまた同じ患者が戻ってきたと、医者は大袈裟に溜め息をついた。
 九龍が危ないということは覚悟していたが、医者の溜め息の中に深刻な色も読みとって俺も一緒に溜め息をつきたくなる。
 致死量に近い出血量なのに相当する傷口が見当たらない、と医者は首を傾げ、科学班のヤツらは何があったのか興奮気味に聞いてきた。こんなときに、とも思ったが、こんな時でも仕事に打ち込めるこいつらはある意味本物のプロなのだろうと思い直す。
 九龍が一度死んだと言うことも科学班には伝わっていて、そのことについても散々問い詰められた。げんなりしながらも俺だってプロだ、目を覚まさない九龍の横で洗いざらい話して見せた。
 話してみせりゃー意気揚々と検査だ検査と躍り上がった連中だったが、唯一の良心である最年少が全員を蹴飛ばし黙らせ病室の外へ連れ出してくれて助かった。
 静かになった病室で、色んな計器に繋がれて辛うじて生きる九龍の手に触れる。冷たい。けれど、輸血のせいか遺跡で触れたよりはずっと温かい。
 脈が静かにふれ続けていることに安心してから、俺は病室を出た。九龍ほどではないが、俺もボロボロの状態だったからだ。九龍に蹴りを食らったときなのか壁に叩き付けられたときなのか、道理で痛むと思っていた肋にはヒビが入っていて、首筋の傷はもう少し深ければアウトだったと言われたり、無茶撃ちをした肩は酷い打撲傷で腫れ上がったりした。
 手当を受けて九龍の病室に戻ろうとしたとき、ミナと出会した。
「コータローさん、酷い格好」
「男前上がったろ」
「……それだけ言えれば心配ないですね」
 廊下に置かれた長椅子に座って、ミナは病院に飾られた柊のリースを見上げた。
「私、こんなクリスマス・イヴは初めて」
「普通はそうだろ。……俺はこれで三度目だが」
「……ハンターって、本ッ当に、大変なんですね。ダイ・ハードみたい」
「つーかこれでブルース・ウィリスに並んだぞ。来年こんな目にあったらマクレーン越えだ」
「あら、でも四作目、作られるみたいですよ?」
「じゃ、俺らは再来年もかもな」
 ミナは小さく声を上げて笑った。随分と、乾いた笑い方だった。そういえばこの女も睡眠不足だったはずだ。おそらく端から見れば顔色悪い上に隈を作った、不健康な並びだろう、俺とミナは。
「……例の書物ですが、解析に回しました。書かれていた文字は古スラヴ語やラテン語だったようです。内容については、まだ」
「そうか」
「ええ」
 廊下から見えるガラス窓の向こうには重い雲がたれ込めている。今日から明日に掛けて、寒波が押し寄せるのだという。雪は降り止むどころかますます積もっていた。
 暖房が効いているはずなのに、外の景色を見ているだけで冷えてくる気がして、俺はそっと視線を外した。アロマパイプを銜えると、ミナは僅かに顔を上げたが、いつぞやのように禁煙です、なんて言ってきたりはしなかった。
 二人して黙り込んで、廊下の重苦しさが最高潮に膨れあがったとき、ミナがぽつりと呟いた。
「私ね、コータローさん」
「なんだよ」
「H.A.N.Tの反応……クロウさんの反応が、心肺停止になったとき、本当に心臓が止まるかと思いました」
「………」
「不思議だと思いませんか?私があなたがたに会ったのは本当につい最近なのに、死んでしまったと思ったら……泣いてしまった」
「そう、か」
「そういうのって、自分の心の持ちようだったんですよね。私は、今までここまで全力で仕事や一緒に働く人に向かい合うことをしてこなかったんです。けれど、今回は違った。自分の限界なんてほとんど無視して、やれることをやろうって決めていた」
 言う通り、ミナは本当によくやってくれた。最初に会ったときは頼りない姉ちゃんかと思ったが、腹を括ってからはとんでもなかった。今回、九龍があんなことになったから、歴史書や調査資料の解析解読、俺たちの手が回らないところは全てバックアップの連中に任せてしまった。……おそらく、彼女がいなければこの調査はもっと面倒なものになっていたはず。
「たかが数日ですけど、今の私にとって、あなたやクロウさんは大切な戦友です。……だから」
 ミナは真っ直ぐ俺を見た。目には薄膜が張り、引き締められた薄い唇は僅かに震えていた。
「毎年クリスマスには一つ、願い事をしてきました。その願いは、今までずっと家族に向けられていた。けれど、今年は……クロウさんが戻ってくるよう、祈らせてもらってもいいでしょうか?」
 俺は、……おそらく九龍が最初からいなくて、そうして今のミナを目の前にしていたら間違いなく抱き締めていた。こういう眼をする人間に、俺は弱い。
「……そうしてやってくれると、あいつは喜ぶだろうよ。いい女には滅法弱いからな」
「いい男、の方にはもっと弱いみたいですけどね」
 笑って見せて、彼女は静かに目を閉じた。目尻からはずっと堪えていたらしい涙がこぼれる。俺は、もう声を掛けるのは止めて九龍の病室に向かった。
 彼女の神は、神すら殺した九龍を想ってくれるだろうか。今日くらいは、信仰のないものにも慈愛を与えてくれたっていいだろう。あんなにもいい女が祈るんだ、救世主だって絆されてくれるかもしれない。俺は、それを祈るばかりだ。
 病室の九龍は様々な人間の思いを知ることもなく、昏々と眠り続ける。
 前にこうして眠っていたときとは、状況が違う。胸の痣はどこにもなくなってしまった。棺から飛び出してきたミイラを撃ったときには真っ赤に腫れていたのだが、遺跡を出るときには消えていたのだ。それを、俺は解決だと受け取りたいが、九龍が目覚めるまでは何とも言えないのが現状だ。
 目覚めたとき。もしも真っ赤な眼をしていたら、俺はどうすればいいのだろう。もしかしたら、同じ病室にいるということはしない方がいいのかもしれない。分かっていて、それでも。
 目覚めたとき。本当のこいつなら、俺がいないと知ったらまた何かを我慢してしまうだろうから。
 死んでいるように真っ白な顔。けれど、手首の浅い脈に触れれば鼓動が分かる。静かに刻みを続ける生命の音を聞いているうちに、猛烈に瞼が重くなってきた。昨日の徹夜が効いている。
 俺は九龍の手首を握ったまま、椅子の背もたれに眠気を預けた。

*  *  *

 (……寒)
  眠りが浅いところに入ったとき、ふと感じた寒気に頭が反応した。入れ替わるように眠気が掬い上げられ、同時に上がる瞼。
 ぼんやりと目に入ってきたのは、黒と白。白は、外の雪と壁とカーテン、ベッドにシーツ、血の気をなくした顔、首や胸に巻かれた包帯。黒は、額を流れる髪と小刻みに震えた睫毛、それからゆっくりと開かれた真っ黒い瞳。
 目を開けてからすぐは呆けたように天井を凝視し、何度か緩慢な瞬きを繰り返す。やがて、視線が俺へと移ってきた。
「九龍……」
 呼べば、僅かに微笑んで見せる。それから細く深い息を吐くと、今度はしっかりと笑った。
 いつの間にか離れていた手をこちらに伸ばし、ほんの少し届かないせいか手招きすらしてみせる。その指先を捕まえ、真っ黒い眼の中を覗き込んだ。九龍の腕が、首裏に周り、力が籠もる。引き寄せられ、耳元で、
「コータロー」
 掠れた婀娜っぽい声に、一瞬心臓が強く鼓動した。
 まさか。だって、さっき見た眼は、九龍の色だったはず。
 首筋を冷たいものが下がっていくような嫌な感触をなぞるように、九龍の指先が滑る。鼻を鎖骨の辺りに擦り寄せてきて……俺は思い切り身体を引き剥がした。
「くろ、」
「なぁんちゃって!……あれ、結構笑ってくれると思ったんだけど」
 よく揺れるガキっぽい眼差し、その真っ黒い色に心底安心したのだが、頭に血が返ってくるまで優に三十秒、俺は九龍の肩を掴んで見定めたまま固まり続けた。
「あれれ、甲太郎さん、……目、据わってますが」
「どういう、つもりだ」
「いや、たまにはこんな葉佩君もどうですか、と。ええ」
 お色気版でーす、と笑っているが、俺が欠片も笑ってないせいかその笑顔も直に引っ込んでいく。最後に貼り付いた作り笑顔は、口元が盛大に引きつっていた。
「……えー、っと」
「なぜだろうな、俺の目の前にサンドバッグが見える」
「あぁわぁぁあ、ストップ、殴るダメデスヨー!」
 一発くらい殴っておきたいところだが、正直俺だって肩が痛い。痛むから、仕方ない。代わりには抱き締めるしかない。片腕は吊っていて伸ばせないから、もう片方だけでも力一杯。全力で、有りっ丈で。こいつが目を覚ましてこうして笑っている『奇跡』とかいう胡散臭い代物に感謝を込めて。
「阿呆か。病人、殴ったりしねぇよ」
「殴らないのは病人だから!?酷ぇ、もっと他に理由ないワケ?」
「……うっせー野郎だな」
 うっせーから、黙らせた。黙らせ方に関しては九龍の個人的心情を加味して伏せておくが。貧血中のやつが一気に血圧を上げてベッドに倒れ込んだことだけは言っておく。

*  *  *

 目が覚めて容態が落ち着いてからは俺も九龍も共に怒濤の検査攻め。素っ裸で危うくケツの穴まで調べられそうになったほどだ。あそこで蹴り飛ばしてなかったらどこまで調べられたか分かったもんじゃない。
 着替えてから病室に戻ってみると、九龍は布団を頭から被ってさめざめと泣いていた。「俺はもうお嫁に行けない」だそうだ。一体何をされたのか。聞かないでおいてやるのが俺の優しさだ。
 科学班、病院、共に検査結果は異常なし。俺の方は無茶さえしなければ退院してもいいらしい。だが九龍の方は異常がないとはいえ血が抜けすぎた。加えて、食わず寝ずが祟ったのか基本的な健康状態が芳しくないため入院を言い渡されていた。
 俺は九龍が働けない分、事後調査はきっちりやろうとホテルに戻ったのだが、九龍が脱走騒ぎを起こしやがったせいでとんぼ返りの強制送還だ。ちなみに三階から逃げようとしたらしい九龍は、二階から一階へ飛ぶ途中で貧血を起こして失敗したらしい。阿呆だ。
 何で逃げようとしたのか聞いたところ、この世の終わりのような顔で、「カレーを食いたいってごねたらカレー出してくれたんだけど死ぬほど不味かったんだよぉぉぉ」と言いくさった。阿呆だ。仕方ないから次の日、ホテルに戻ってカレー作って持っていったら半泣きしながら食っていた。
 その日の午後、昼寝から目覚めた九龍の元に、ミナが見舞いにやってきた。がっつり寝ました、という顔で入ってきた彼女は、入室早々メリークリスマス、と喜色満面。ケーキを片手に踊り出しそうだ。
 どうしたのかと聞けば、本の解読は難もなく終わりそうだということで、久しぶりに仕事から解放されたのだという。
「やっぱりあの本、内容は悪魔秘術の物だったようです。半分以上解読が終わりましたけど、全部終わったらロゼッタ教会のハンターさんの所に送られることになりました」
「ロゼッタのハンター?って、……まさか」
「なんでも古書に精通している方だとか」
「ああ。あいつか」
 顔は良いが皮肉屋で陰険な男だ。……売り飛ばされなきゃいいがな、その本。
「クリスマスにこんな話もなんですけど、遺跡に潜んでいたという男、やはり本家から生贄のように差し出された人間を殺しては秘術のために使っていたようです。遺跡にあった拷問道具はそのためのもの、飾りになっていた頭蓋骨は被害者のものでしょう」
「本ッ当に、クリスマスにする話じゃねぇな」
「まったくです。でもですよ?午前中、科学班の人たちが遺跡に行きまして、私はケーキ作ってたんですけどね、例の絵、紙自体から血液成分が検出されたみたいで、あ、クロウさん、ケーキは食べて大丈夫ですか?ああよかった、それで、その向こうの屍体、かなり損傷していたらしいんですが持ち帰ってきましたよ。今日いっぱい掛けて調べるそうです」
「……さいで」
 かなりハイテンションで喋り倒したミナが、事もあろうに来がけに見たという屍体の様子まで説明したもんだから、俺も九龍もケーキを食う気を力一杯失った。凄い女だ。酷くもある。
「でも、屍体が蘇ったりする兆候もないですし、とりあえずは一件落着、ということかなと思います。クロウさんのお身体の方、何か変化はありました?」
「いいえ、何っにも。貧血気味だけどそれくらいかな?寝ても変な声聞こえないし、痣も……ほれ、この通りです」
 左胸には、痣の代わりにうっすらと傷痕ができている。これだけが九龍が一度死んだ証拠だ。傷を見るたび、俺は手に嫌な汗をかく。
「……本当に、心臓に異常はないんですか?」
「きっちり動いてますよ。ちゃんと、破れたはずなんですけど。不思議ですよね」
「双の心臓、双の魂……クロウさん、あの屍体はミイラ状態なのに、内臓はほぼ体内に揃っていました。保存法についてはまだ不明ですが」
「色々ズタボロだったでしょうけどね」
「確かに銃痕は見られましたし、吹き飛んでしまっているものもあったようです。ですが、同じ傷付き方でも少し違っていたのが―――心臓」
「心臓……って」
「そのものは丸々残っていました、けれど、傷は……そう、まるで刃物で一突きされたような」
 思わず、俺と九龍は顔を見合わせた。
 そう。九龍はサーベルで左胸を一突きした。普通はそれで即死のはずだ。だが、死ななかった。いや、一度確実に死に、還ってきた。今でも心臓は正しく鼓動している。
 代わりに、屍体の心臓が破れている?……代わりに?
「どういうことかは、意見を聞かないでくださいね?きっとあなた方と同じことを思っているから。それが科学的ではないことも知っている」
 肩を竦めて、幼さの覗く笑みを見せる。
「でも、今回のことは何もかも、科学的ではなかった。何百年も前の人間が生きていたり、死んだはずの人が還ってきたり……」
「ま、現実感があるかって言われりゃ、皆無だろうな」
「けれど、それがロゼッタ流だというなら私は納得します。それだけの経験をしたと思っていますし」
 ミナは、ひらりと立ち上がった。いつの間にか自分の分のケーキは食べきっていたらしい。俺はまだ二口くらいしか食っていないのに。
「それじゃ、私は行きますね」
「あれ、もう行っちゃうんすか?」
「クロウさんが元気なのも分かりましたし、コータローさんがいれば脱走したりもしないでしょう?」
「うは、その通りで」
「だったらそれでいい。私も休日を楽しみたいですし、せっかくのクリスマスに……お邪魔虫にはなりたくないですもの」
「ぅぇ……」
 奇声に近い呻き声を上げたクロウは掛け布団に突っ伏した。耳が赤い。分かり易いヤツ。
 ミナは、今度は大人びた微笑みを見せると、九龍の後頭部を軽く撫でた。まるで、仲の良い弟を慈しむような表情。つまりはこの短期間で、彼女と俺たちはそれだけ近付いたということだ。
 俺は席を立った彼女を送るため、一緒に病室を出た。
「じゃあまた。私は明日から解析作業に加わります」
「ああ。俺もその予定だ」
「でも、できる限りクロウさんの傍にいてあげてくださいね」
「……ま、できる限り、な」
 外に出る前に深緑のマフラーを巻いたミナは、立ち止まり、腕を差し出してきた。白くて細い手。まるで何かの細工のようだ。
「何」
「握手です握手。日本ではやらないんですか?」
「……やりますよ。やりますとも」
 改めてやろうと思うと非常にこっ恥ずかしい行為だが、……仕方ない。ミナには、それをするだけの価値がある。
「サンキュ、な」
「こちらこそ。色々と勉強させてもらいました」
 握った体温は、酷く温かかった。形式の意味でなく、しっかり握りかえしてから離そうとして伝え忘れていたことをひとつ、思い出した。片手を握ったまま逆の手で頭を掻くと、いつまでも手を離さないのを疑問に思ったのか、ミナは顔を覗き込んでくる。
「どうかしました?」
「あー……あと、な」
「はい?」
「あいつのために祈ってくれて、ありがとう」
 言ってから自分でもどうしようもなく恥ずかしいことを言った自覚があったから即行で手を振り払う。ミナはしばらく自分の手をまじまじと見つめてから、視線を俺へと移した。
「……な、んだよ」
「いいえ、別に。……日本人はもしかしたらみんなこんなに可愛いのかしらと思って」
「なッ……」
「クロウさんもだけど、コータローさん、あなたも」
 それだけ言うと、握っていた手をひらひらと振ってミナは病院から出て行った。
 
 病室へと戻ると、九龍は雪が見たいとせがみだした。車椅子でならと許可をもらって、俺たちは屋上へと向かった。
 雪はちらちらと降り続けている。一昨年、去年、そして今年と、日本にいたのでは味わうことのできない「ホワイトクリスマス」ってヤツを連チャンで経験した。寒さが嫌いな俺にとっては有り難くも何ともないが、雪が降っているとなんとなく、九龍と過ごした、という気になるから不思議である。それもこれもこいつが雪男のせいなんだが。
 寒さに強い雪男は、白い息を吐きながらも震えたりすることはない。俺は歯の根が合わなくなるのを堪えながら、そういえば、と話を切り出した。雪のクリスマス。九龍が遺跡で言った、約束の話。
「お前さ、よく『次』のこととか言ったな」
「……うぇ?」
「遺跡で。言ったろ」
「な、なんでさ。俺が言っちゃーいけないですか」
「だって、あんまり好きじゃないだろ。将来の話したり、漠然とした約束したりすんのは」
 すると九龍は、少しばかり黙り込み、考えはじめた。頭に積もりそうになる雪を払いながら答えを待つ。しばらくして顔を上げた九龍は、困ったように。
「……漠然と、してるのは嫌かなぁと思いまして」
 自分の何かを吐露するとき、こいつは言葉を必死に選ぶ。時折異国の言葉が混ざったりしながらも、自分の想いが届く最善の言葉を俺に、伝えるために。
「唐突にね、思ったんだ。面倒ばっかりだったり仕事に追われてたり、……死にかけたり、しても。そんでも、こうしていたいって。
 死にかけるとね、なんか唐突にそういうことを考えるらしいよ。自分がいなくなったりしたときに、今まで甲太郎が俺に向けてたもの、全部他の人に向けるって考えたらそれだけで死にたくないって思った。死んだら、傷にはなるけど温度にはなれないっしょ?俺、自分が冷たくなってるときに、すっげー甲太郎があったかいって思ってさ。……これが他人に明け渡されるなんて、考えらんなくなったわけ。
 そしたら、死ねないじゃん。しかも、誰かに渡すのが嫌なら、ずっと一緒にいなきゃじゃん。てことは、例えどんな目にあったとしても、甲太郎には来年もその先も、一緒にいてもらわなきゃだって、思ったんだ。
 よく分かんないけど……そんなん考えてるのって、俺だけ、ですか?」
 そうして受け取る言葉は、時に酷く破壊的だ。俺は九龍の言葉の途中で、車椅子の押し手にすがったまましゃがみ込んでしまった。
 雪が積もる音がする。と思ったら、それは自分の心臓の早鐘だった。異様な速さで刻まれるそれに伴い、当然耳まで赤いだろう俺。顔なんか、上げられるわけがない。
「おっと、甲太郎さん、どうしました。……ダイジョブ?」
「……大丈夫、じゃねぇよ」
 大丈夫なわけねえだろう阿呆たれ。高さの逆転した位置、九龍が俺の頭から雪を払うのを感じながら、溜め息をついた。
 九龍は、諦めるのが得意だ。特に、自分に関してはあっさり切るような人間だ。高校時代、そんな九龍を目の当たりにした俺からしてみれば、俺と共に在るために自分を諦めなかったというのは、とんでもない大進歩だ。そのことに不覚にも感動したのと、あいつのそういう癖を食い止めたのが自分だということに泣きそうだった。
 本当に、泣きそうだ。こんな顔、誰にも見せたくない。だが、九龍の顔は見たい。猛烈に見たい。
「おーぅい、甲太郎?……熱でもあんの?コータロー、コータローさん?もーしもーし」
 声だけが耳に響いてくる。それが我慢できなかったから、黙らせた。九龍の目元を手で覆い、それから。
 黙らせ方に関しては九龍の個人的心情を加味して伏せておくが。黙った挙げ句、九龍が不整脈を勃発させて病室へ運び込まれ、俺が医者にしこたま叱られたということだけは言っておく。

*  *  *

 ルーマニアには、年が明けても飽くことなく雪が降った。本当に寒い国だ。
 医者までが検査マニアになりそうな回復力を見せた九龍は四、五日ほどで歩けるようになり、点滴も外せるようになった。だからといってすぐにハンターの任務に復帰できるわけではなく、結局療養も兼ねた休暇をもらってルーマニアに留まったのだ。
 危険がないと判断されたワラキアの遺跡にはあれから一度潜り、化人が出なくなったことも地下の部屋から墓守が消えたことも確認した。
 例の絵は、破れた破片を持ち出して調べたところ、塗料に大量の血液成分が含まれていたことが判明。……血液だけではない細胞までが検出されたということから、まあ大方内臓でも磨り潰して混ぜたんだろうと科学班のヤツは豪快に笑った。こういうことはもう笑わないとやってられん。
 その他にも、科学では説明できないような……内臓を入れたまま屍体を保存したり、死人を操ったり、血を媒体にして感染するように人に繋がっていくとか、要するに人知をちょいとばっかり越えたことが、持ち帰った本にはびっしり記載されていた。本は、禁書扱いになり、ロゼッタに保管されるという。ミナが言ったようにここから先は書物のプロに任せるしかなく、ようやく探索という意味での俺たちの任務は終了したのだ。
 ……これは後日分かったことだが、あの遺跡の周りからは何体もの屍体が見つかったそうだ。それも、古いものは数百年前、新しいものは二、三年前と時代は様々。もしかしたら遺跡の中にいた赤目の男は、今まで遺跡に近付いてきたものを餌として捕食していたのかもしれない。あくまでも仮説でしかないが、俺はなんとなくそう思う。
 遺跡に近付き、乗っ取るのに適合した人間を使って外に出、生き続けようとした。分かっている内では九龍を含めて二人、そしてその両方で失敗したのだ。一人は愛する者を殺して自らも死に、もう一人は……今も俺の隣に立っている。つまりはそういうことだ。全てが終わった、というヤツ。
 そうして調査班が一応の解散をし科学班も撤収してから、俺と九龍は年明けをミナたちと共に雪を見て過ごし、ドムニソァラ家の手料理までご馳走になった。クリスマスがゴタゴタのガタガタだった分、新年は酷く心穏やかに過ごすことができたように思う。
 そんな風に時間を過ごすのも、今日で最後だ。明日には、本部に出向かなければならない。天気が良くなったこともあり、最後にルーマニアの世界遺産を見て帰ろうと俺と九龍は一昨日くらいからあちこちの修道院や聖堂を回ってきた。
 トランシルヴァニアの要塞聖堂と周辺村落、オラシュチェのダキア王国要塞跡、それから当然、十七世紀ワラキア公国で建立されたホレズ修道院。もちろん世界遺産だけではなく、ドラキュラ城ことポエナリ城塞やクルテヤ・デ・アルジェシェの城塞、トゥルゴヴィシュテの宮殿跡にも行った。
 要塞が多いことから、いかにルーマニアが歴史の中で他国からの侵略を受けていたかが窺える。こういった遺跡一つで国の歴史が見えるということに気付いたのは、この仕事を始めてからだ。中学の修学旅行で京都に行ったが、その時は別に何の感慨も抱かなかったのだから随分な変化だと思う。
 そして今は、シギショアラ歴史地区のなだらかな石段を登っている。ここは地区が世界遺産となっている場所だ。ザクセンからの入植者が築いたという街は、なるほど家屋や教会が中世ドイツのにおいを放っている。
「あーあ、もうちょい時間があったらモルドヴァとかマラムレシュ辺りにも足伸ばしたかったなー。木造聖堂とか。中がイコンの装飾って、見てみたくね?」
「暇がないんだ、仕方ないだろうが。つーかほとんどウクライナだろマラムレシュとか」
 樹と家屋が不思議に融合した並びを少しずつ登っていくと、時計塔を囲む壁が見えてきた。(時計塔自体はかなり大きな物だから遠くからでも視認できるのだ。)
 さっきまで俺とじゃんけんして勝手に一人でグリコのおまけ、だのやっていた九龍は、時計塔を正面にして立ち止まった。H.A.N.Tとデジカメを取り出して写真を撮り出す。この城塞都市内にまだ残っていたヴラド・ツェペシュの生家の前に来たときも、こうして記録を取っていた。
「H.A.N.T出してる辺りが仕事くさいよな」
「だってさー、なんかの参考になるかもしんないじゃん?」
 一通り記録を終えて、九龍はまた歩き出す。石畳の上を歩きながら、時計塔に辿り着く前にふと振り返り、目を細めた。……何を思っているのかくらいは、分かるつもりだ。
 ここに来るまで、遺跡周辺や、乗り降りする駅ではストリートチルドレンをこれでもかってほど目にしてきた。九龍は、まるで全て見えないようにして来たが、彼らに話しかけられるたびにじっと黙り込んだことは分かっていた。そして今、何も話さないと言うことはそれを思っているのだろう。
 赤目になったとき、あの子どもたちを「食う」と言った。それをまだ、気にしている向きもある。
「お前がそんな顔して、どうにかなることでもないぞ」
「うん……。分かってる。分かってるんだよねぇ、イヤってほど」
 九龍の生い立ちは、聞いている限りほぼストリートチルドレンだ。自分の家はあったというが、ほとんど廃墟みたいなものだったという。チャウシェスクの子どもたちと少しばかり違うのは、生きるためにやってきたことが物乞いや売春だけではなかったということ。銃を使うが強盗ではない、つまりはそういうことだ。
「だったらんな顔すんなよ」
「……でも、自分でも俺って人でなしだなって。あの子たちを可哀相だって微塵も思ってないから、赤目の俺は「食う」なんて言ったんだろーね」
「意識、なかったんだろ」
「深層でそういうこと思ってるからポロッと出たんだよ、きっと。家族にも国にも捨てられて、余ってる子ども。あれならいくら消えても誰も気にしない」
 だぁれも気にしない、という言い方が、どことなく正気じゃないあいつを思わせた。だがそれは、まるで自嘲するかのような響きも持っている。
「ああいうのってさ、国がどうこうしてなんとかなる問題じゃないんだよね、残念ながら。この国、まだそこまで全部手が回るほどの力があるわけじゃないし。だからあの子ら、自分の力で夜を越えられなかったら、次の日の朝には死んでるしかないんだ」
「…………」
「俺は施しもしたくないし、変に希望も持たせたくない。……もしも俺がガキんとき、そんなことされてたら一過性の好意に甘えて妙な未来とか描いて、どっかでのたれ死んでたはずだから」
 遠くを見る目。それは、ブカレスト駅を見ているわけではないようだ。もっと遠く、自分の記憶のどこかを覗くような。
 そういう目をする九龍を見るたび、まだ俺はこいつに踏み込め切れていないことを思い知らされる。溜め息が出るぜ。
「……で、お前はこうなった、と」
 遠い目の先にいるはずのチビ九龍が、そのまま成長した結果。
 将来とかに希望を持たず、その日、もしくは次の日くらいまでの希望(例えば夕飯のメニューや行きたい場所についての希望)しか持たない。それから先は幻かなんかかと思ってる。だから、私事の約束をあまりしたがらない。しかも嘘吐きだから、上辺だけなら簡単に未来と約束してあっさり反故にする。非常に質が悪いのだ。
「……希望が、なさすぎるっつーのも考え物だがな」
「じゃあ、希望を抱いてどっかで俺がのたれ死んでたのと、まったくそんなもん持たないでこうして俺が生きてるのと、どっちがマシよ」
「マシとか言うな。今のがいいに決まってんだろ」
 それに、少しは未来と約束する気にもなったらしいからな。大進歩だろ?このままいけばこれから先のずっと先までを俺と、約束してくれるようになるかもしれない。あくまでも希望的観測だが、そうなったらいいとは思っている。
「ま、安心しろよ。あの中からだって一人くらいはお前みたいのが出てくるさ」
「それ、ある意味最悪じゃねーか?」
「で、どっかで俺みたいなのとか、……お前を育てた女みたいなのに出会って、そこそこに生きていく。悪くねぇだろ」
 ほら誰も可哀相じゃねぇ、と九龍を見れば、焦点の合わない視線が俺の顔付近をウロウロする。
「ヤーダ、甲太郎さんたらこっ恥ずかしい。俺、胸がキュンキュンしちゃうですよ」
「……お前の、その照れてどうしようもなくなったときに変な言葉遣いになるの、どうにかなんねぇか」
「なりやっせん」
 きっぱりと言い切って、九龍はまた、踊るように階段を登り始めた。
 時計塔はもう目の前だ。見上げると、逆光の中で針が震えるのが分かった。大時計が、時間を刻む合図だ。
 九龍は、時計塔の門の前に立っている。少しだけ俯き加減で、こめかみを指で押さえていた。こんなにものどかな昼下がりに、気が付けば陽の当たらないところに立とうとする九龍が、憎たらしくもあり……愛おしくもある。
 その立ち位置から引っ張り出したくもなるが、まあ、仕方ない。こっちに来ないなら、俺がそっちに行けばいい。
 石段を一段飛ばしに登り、俯いたままの九龍の隣に立つ。
 九龍は気配に聡いから分かっているはずなのに、顔を上げようとしない。それももう、仕方ない。雰囲気で分かったのだろう、耳が赤い。俺は吹き出しそうになるのを堪えながら、九龍の顔を覗き込んだ。
 揺れる黒い眼。やっぱりこいつには赤よりもっと暗い色が似合う。そんな事を、呼吸を重ねながら思った。

End...