風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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クリスマス記念SS ワラキア -黒と赤- - 7 -

 九龍がよこしたフックを半ばまで降りたとき、部屋から声が聞こえた。叫び声……というよりは、獣の咆吼に近い。もしくは戦の勝鬨とでも言おうか。
 聞こえた瞬間に、俺は飛び降りていた。聞き馴染まない激しい咆吼だったが、声には聞き覚えがあった。九龍のものに違いはなく、普段あまり大声を出したがらない質のあいつの絶叫なら、何かしらの異変の証拠だ。
 部屋に降り立ち、暗さに目眩み、ようやく目が慣れた頃に闇に立つもう一つの黒を見つけた。低い呻り声を零す人影は九龍に違いなく、けれども様子が明らかにおかしいのは見て取れた。
 今までの『発作』とは違う、激しい何かが九龍の身に起きている。
「九龍ッ!!」
 目を凝らし、名を呼ぶ。駆け寄ろうとした次の瞬間、呻り声が止んだ。同時に俺の視界から人影が消える。
 咄嗟、上を向いた野生の勘に感謝したい。
 真上に跳躍していた影。真っ黒い中、辛うじて捉えることができたのは燃えるように赤い眼と、銀色に煌めく長い刃。振り下ろされる寸前に身体を捻り、一撃をどうにか避ける。
 そのまま後ろに跳び退さり、距離を取った。いつでも攻勢に出られるように構え(つっても俺は基本的に白兵戦時、ポケットから手は出さないが)、着地した場所から俯いたまま動かない九龍を見据える。
 九龍は、ゆっくり顔を上げた。口元には艶笑を湛え、真っ赤な眼差しが真っ直ぐ俺を刺す。溶けるように甘い表情なのに、視線だけが痛いほどに鋭い。
 右手に握られている細身のサーベルには見覚えがないから、おそらくここに置かれていた物だろう。なぜ、九龍がそれで斬りかかってくるかは……今の状態なら、分かる気もする。
 落ち着くためにカートリッジを取り換え、アロマパイプに火を着けた。
「……ここに来て、かよ」
 今度はこっちが呻るように呟くと、九龍には聞こえたらしく殊更にっこりと微笑まれた。ふふふ、と息の漏れるような笑い声が響く。今はそれが薄ら寒い。
「コータロー」
 ねえ、避けないでよ?
 小首を傾げられてゾッとした。何がへろへろのお前には負けない、だよ。九龍が本気になればおそらく、俺など数秒で殺せるのだろう。今だって、隙だらけのはずの九龍に飛び掛かっていっても返り討ちにされるのが容易に想像できた。
「俺ねぇ、やっぱり、コータローがいいなぁー」
「そりゃどうも」
「へへッ」
 見た目だけなら、可愛らしいと言ってもなんとかなりそうな気もするが、得物は物騒すぎる。普段のベレッタのがまだ可愛らしい……でもないか。
「だ、か、ら。ね?」
 ね?の意味が分からん、と言う間もなく九龍が突っ込んでくる。速い。やっぱりこいつはとんでもない。数日まともに食わず寝ずだとは思えない動きで一太刀くれてきた。
 警戒していたから避けられたものの、左手に持っていたらしいタクティカルナイフが閃いたのはかわしきれなかった。右の頬を薄く削られたのが痛みで分かる。
 目の前をすり抜けていく九龍が肩越しに流し目を向けてきた。傷付けた手応えがあるのだろう。喜色満面の笑みだ。小さく、やった、と言ったのが聞こえる。
 サーベルの刃を地面に刺して軸にし、くるりと回ることで勢いを殺した九龍は、着地した足でまた踏み込んできた。俺はまだ体勢を崩したままだ。避けられないのは明確で、咄嗟に目の前に出したH&Kのアサルトライフルがサーベルを受ける。ガキィンという音がして、暗闇に火花が見えた。
 体重全てをサーベルに乗せた九龍の一撃は、それだけでは防ぎきれず、俺は後方に仰向けのまま倒れることになった。
 倒れた次の瞬間には左耳のすぐ脇にサーベルが突き立てられ、それは動くなという無言の脅しのように思えた。
「つぅかまーえたー」
 語尾にハートマークが飛んでてもおかしくないような口調だ。目の前にある顔は無邪気さを装った邪気に溢れていた。(普段の九龍はどっちかと言ったら逆だ。本人は気付いてないだろうが。)
「へっへー、鬼ごっこ、終ぅわりー」
 完全に俺の上に乗り上げて、ご褒美頂戴と嗤った九龍は、喰われるのかと青ざめた俺の思惑とは裏腹に、唇を重ねてきた。深く深く、食い尽くされそうな口付け。逃げようと歯を立てるのは、血を欲している九龍にはまずいと思ってやめた。
 代わりに辛うじて自由になる下半身を捻り、膝で腰骨を蹴り上げ、離れたところで腹に一撃。互いに後方に跳んだところで俺の方が先手で蹴撃を見舞う。消音ブーツは九龍の頬を傷付け、身体をふらつかせた。
 やはり体力が落ちているのだろう。笑みを落とし、タクティカルナイフを握ったままの手の甲で擦り剥けた頬をぬぐった。
「痛ったーぁ……」
 さっきまでの声よりワントーン低い声で呟き、俺を見上げる。顔も笑ってなければ目も笑ってない。怒っているわけでも、まして痛がっているわけでもなさそうだ。
 ただ無表情。とりわけ眼の中の赤が冴えたように光を失っている。
「普っ通ー、蹴るかな顔」
「男前上がったんじゃないか」
 それにおあいこだろ、と軽口を言いながら内心かなり焦っていた。今まで、外部から刺激を与えればどうにか元に戻っていたのだ。だがあれだけ派手に蹴りをくれて変化がないと言うことは、もしかしたらそれだけではダメな次元に来ているのか。
「反撃する獲物も面白いんだけど、やっぱ狩られてくれないと」
「……誰が獲物だ」
「コータロー。他に誰がいるっていうの」
「喰われる気はねぇぞ」
「でもダメ。俺は空腹が限界なのデス。だから、本気で、イキますよ?」
 九龍は刃を構え直す。右手にサーベル、左手にタクティカルナイフ。高校時代、剣道では二太刀を操っていた。二本持たせた九龍と対等に戦えたのは剣道部主将のイノシシ侍だけだったか。チクショウ真里野、こいつを強くしたことを恨む。
 突っ込んできた九龍、けれどそれがフェイントだということを俺は知っている。真っ直ぐに見せかけて左右に振る。視界から一瞬外れるほどの揺さぶりの後、……上だッ!
「っつ……!」
 二本差しだと分かっているからといってかわせるほど、九龍の攻撃は楽なモンじゃない。肩を掠めた一撃は強い血の臭いをもたらした。まるで剣舞でも舞うかのように繰り出される連撃に、俺は防戦一方。アサルトライフルはかなり表面を削られてしまっている。
 何度か振り上げた脚はなますにされそうになり、致命打を与えることができない。俺は真里野のついでに、こいつにナイフコンバットを仕込んだリック・オコーネルも恨んだ。
 黒いロングコートはひらひらと俺の眼を眩ますようになびき、陰から繰り出される刃がこっちの身体を削っていく。タクティカルベストを着ていなかったら危なかっただろうという一撃を、紙一重(しかも薄紙一枚)ほどの差でかわしたところでもう一発。
 今までこなかった上段蹴りが、甘くなったガードを突き破ってきた。アロマパイプを噛みしめてなかったら舌を噛んでたかもしれない。よろけたところで後ろは壁、降ってきたタクティカルナイフが、着ていたコートを壁に縫い止めた。これで、動きが封じられた。
 首筋にはサーベルが突き付けられる。呼吸が荒れに荒れた俺とは対照的に、九龍はまったく乱れさせぬまま俺の前で嗤っている。
「今度こそ、捕まえたー」
 俺からは自分でも分かるほど強く血の臭いが漂っている。吸血衝動がてっぺんまできているのか、九龍の赤眼は鮮やかすぎるほどだった。
「もう逃げちゃ、めー、ですよ。今度逃げたら殺すよ?マジで」
 眼が、今は嗤いすぎてて怖い。ああ、恐ろしいまでに壊れているなと焦りの脇で考えた。
「首、深く斬ると一気に逝っちゃうよねぇ。浅めに少しずつ削ろっか」
「……胸糞悪い話だな」
「だって俺、全ッ然メシ食ってないんだよ?飢え死にさせる気?」
 唇を尖らせる様は子どものようだが、その実まったく子どもらしくない艶やかさ。
「ずぅーっと、考えてたんだ」
「どうせロクでもないことだろう」
「そんなことないよー。コータローはどんくらいおいしいかなーって」
「……ロクでもねぇじゃねえか」
「そ?でもねでもね、一番のヒトが、一番おいしいんだから」
 んなこと、満面の笑みで言うことじゃねえだろうが……。って今のこいつに言っても無駄なのは分かっている。
 一センチでも首を動かせばすっぱりいくのを分かって、けれど消えたカートリッジに火を着けるためコートのポケットに手を伸ばした。
 そこで、別の硬さに触れる。密着した九龍の腰元に引っ掛かっているのはベレッタ。ハンドガンはあまり得手ではないが、この状態で文句は言えない。
 ベレッタを引き抜き、片手でセーフティを解除、撃てる状態にして九龍の腹に突き付ける。
「あらまー」
「撃たれたくなかったら、離れろ」
 脚を撃ち抜けばこっから引きずって行くこともできる。タクティカルベストの上からでもバーストにセットすれば肋骨を折ることぐらい易い銃だ。
「何だよ、嘘吐きぃ」
「黙れ」
「いつもは身体に傷付くの嫌がるクセに。自分が餌になりそうになったらそういうことするんだ」
 九龍は離れるどころかいっそう距離を近づけて、吐息が掛かりそうな位置まで顔が迫る。
「離れろって言って、」
「いいよー、撃てばいいじゃん。……できるなら、ね」
 誘うように、タクティカルナイフから離れた手がベレッタを握る手に重なってきた。それから、引き金に掛かる指に。
「ッ……!!」
「撃つんじゃ、ないの?」
 思わず出た舌打ちが、俺の敗けを決定付けた。引き金を引けなかった手は九龍に銃を引き渡し、逆に向けられてしまえばホールドアップをするしかない。
「……じゃ、喰われる前に一服させろ」
「申請は却下します。あの匂い、ダメなんだよねぇー俺」
 元の九龍はあの匂いを酷く気に入っていた。やはり、こいつは九龍じゃない。
 俺が顔を顰めるのを面白そうに見つめて、九龍はサーベルを滑らせた。首筋に小さな痛みが生まれる。細い傷には、おそらく血が滲んでいるはずだ。
「これで、繋がる。コータローもずぅーっと、俺の傍にいる。生命の円環、繋がり続ければ永遠と同じ」
「それは、どういう、」
「ふたつの心臓、ふたつの魂」
「……おい」
「それに、愛し者の血潮。足りない最後が、これで揃う」
「おい、おいッ!」
 赤い眼が、一際強く輝いた。口元を歪ませて、鎖骨に軽く噛み付いてきた。舌が肌をなぞり、傷になった首筋に、噛み付こうと口を開けた。犬歯が血管を傷付けるのはすぐだ。瞬間を想像して、俺は顔を背けた。
 最後の足掻きに、絞り出すように「九龍」と呼んだ。
 ―――一瞬、動きが止まった。
 歯が首に触れる微妙な位置で、小刻みな痙攣を繰り返しているようだ。それから、サーベルを再度壁に突き立てる。だが、脅しの意味ではないらしい。震えたまま、数歩後退った。
「……九龍?」
 ガリガリと、サーベルが壁を削る音が耳元で聞こえる。逆の手からはベレッタが滑り落ちたらしい。硬質な音が聞こえる。
 さっきまで息一つ乱れていなかったはずなのに、今はどうしたことか。俺以上に荒れた、深い呼吸を繰り返すばかり。
「こう、た……ろ」
 顔を上げた九龍の眼、片方だけが黒、もう片方は未だ赤く染まったまま俺を見ていた。口元は僅かに吊り上がるが、艶やかさとは程遠い。痛みを堪えているような、けれどどこか皮肉げにも見える、九龍の笑い方だった。
「てめ……マジ、嘘、こいてんじゃ……ねえかよッ」
「お前、」
「ちゃんと、殺してくれる……って、言った、くせに…」
 嘘吐き、と苦しげに吐き捨て、更に数歩後ろに下がった。サーベルを俺との間に構え、近付かせないようにしている。脂汗をだらだらに掻き、完全にさっきまでと立場が逆転していた。
「も……限界、くせぇ……」
「戻れないのか!?」
「声……うるっせ、ずっと、耳元で、血、血を……って」
 サーベルの切っ先がかたかたと震える。片方だけ黒く染まった眼も、時折赤い濁りが混ざる。限界、という言葉は真実なのだろう。俺が手を伸ばそうとすると、サーベルを振って拒否された。
「九龍、さっさとこっから出るぞ」
 告げると、二、三歩後退った九龍は小さく頭を振った。ギリギリなのだ、だったら殴って気絶でもさせて連れだそうかという思いが頭を過ぎったが、そうすれば代わりに赤目の方が出てくるだろう。
 一体、どうすればいい?焦りだけが募って、頭が上手く回らない。九龍の眼が、赤く瞬く。
「逃げ、ろ……ッ、甲太郎…」
「阿呆ッ!それができたら今頃こんなとこいねぇんだよッ」
「そ、っか……。そうだ、よな」
 甲太郎、そういうヤツだもんな。
 汗だくで、目の玉に涙の膜を張って、眼の中ではなくて目尻に赤を引いて、いっぱいいっぱいのはずなのにそれでも、笑ってみせる。こんなときまで。
 酷く嫌な予感がした。予感ではない気もする。どうしたらいい、どうなってしまう?
「九龍、待て、お前、何考えて……」
 とにかく止めなくてはいけない、なぜだかそう思った。本当は分かっていたのかもしれない。九龍の、意志を。行動を。俺はあいつのことなら、何だって分かるから。
 追い詰められて、自分か俺か、どちらかを選ばざるを得なかったとして、どちらを選ぶのかも。
「―――ゴメン、な?」
 それが、九龍の最期の言葉だった。
 止める間もなく一瞬で、持っていたサーベルで自分の左胸を突き破った。
 疑う余地のない、真っ直ぐ即死コース。脱力して傾いた身体が、前のめりに倒れてくる。
 半ば呆然と受け止めながら、自分の手が生温く湿っていくのを感じていた。反対に腕の中の身体は温度を失っていく。
 ―――九龍が、死ぬ?
 いや、死んだ、のか?……まさか。九龍が、死ぬはずないだろ?どんなときだってへらへら笑いながら乗り切ってきたじゃねえか。遺跡で死にかけたって、レリックドーンに嵌められたって、イタリアマフィアに囲まれたときだって、お前は平気な顔してたじゃねえか。
 何だよ。何で、こんなことで変な事態に陥ってるんだよ。死ぬ?九龍が?ふざけんな。意味分かんねえ。
「なあ、九龍、起きろ阿呆」
 こっちまで力が抜けて床にしゃがみ込んだまま、力がなくなった身体を抱き締める。サーベルを引き抜き、コートを脱がせ、アサルトベストを引っ剥がしてシャツをはだけさせた。傷は、心臓を、それからどす黒く広がっていた痣を貫いていた。
「死んでんじゃねえよ、おい、九龍ッ!!返事しろッ」
 応答はない。当然か。死んだら、返事はしないのか。
 呼びかけている間も九龍の身体から血は抜けていく。辺りは血溜まりだ。俺も自分のコートが濡れていくのが分かる。
「……ふざっけんなよ…、阿呆だろ、お前。普通、置いていくか?」
 二年前、天香學園の遺跡でもこいつはそんな選択をした。俺だって似たような選択をした。この先ずっと生きていっても、こんな選択の繰り返しだったとでもいうのか。こうなることは、決まっていたとでもいうのか?
 永遠に共には、在ることなんてできない。そんなことは、知っていた。のに。こんなに早く、腕の中から、いなくなってしまうなんて。
「これなら、喰われた方がマシだったかもな……」
 心臓が破れたからだろう、逆流した血が口元から流れ出ている。それを指先でぬぐって、もう一度だけ起きろと呼びかけた。
 返事は、無かった。

*  *  *

 それからどれだけそうしていたかは分からない。時間の感覚が狂ってしまって、酷く長い時間のような気もするし、ほんの数分しか経っていない気もする。九龍の身体にまだ温度があるのだから、本当は僅かな時間しか経っていなかったのだろう。
 アロマパイプを銜え、カートリッジに火を着けた俺はふと、視界を横切る赤い何かに気が付いた。幻覚かと思い目を擦る、その眼前をやはり赤が逃げていく。血かと思った。だが、液体ではなく、どちらかといえば気体に近い。言うなれば、赤い霧。
 それはさらさらと九龍の身体から零れ出て、同じ方向へと流れていく。それも、どす黒く染まった痣を中心に。顔を上げて、その方向を見た俺は、驚いて思わず抱えていた九龍の身体を取り落としそうになった。
「な……何だ、これ」
 赤い霧が、暗闇に何かを形作っている。どこかで見たことがある、そんな風に考えた一瞬後、母校の遺跡を思い出した。《黒い砂》から生まれる、異形の墓守。あれは確か、俺たちに故意に組み込まれた遺伝子。ならばこの血が生み出すものは……まさか。
 無意識に、九龍の死体を抱き締めていた。生きていなければ守る意味もないのは分かっていたが、それでも。
 霧は、だんだんと輪郭を現していった。人だ。おそらくは、人の形をした何かだ。
 背が高い。細身で、あの部分は……髪か?長い髪だ。だとすると、女?
 ……いや、男だ。背が高く、細身で、髪の長い男。
 そこまで判別できる頃には、目鼻立ちまで分かるようになっていた。控えめに言って美丈夫ってやつだ。口元は不気味に歪み、切れ長の眼は―――真っ赤に滲んでいる。
「こいつ……」
 口元の歪みが、随分と壊れた『笑み』だと言うことに、気が付いた瞬間に別のことにも気が付いた。
 こいつだ。こいつが、九龍の内から囁きかけていた声だ。
 そして、この遺跡の持ち主。ヴラド・ワラキアの血統を持った、吸血野郎。証拠なんざ何にもない。だが分かる。確信している。
 この男だ。
 こいつが、九龍を殺した。
 俺の頭がそう結論を弾き出したと同時に、腕は銃へと伸びていた。駆り立てていたのは、今まで見たこともないような激情だ。自分の中にこんなものがあるなんて知らなかった。―――知りたくもなかった。これは、明確な殺意だ。世界中の全てを飲み込み、澱ませる人の意志。
 殺してやる。俺の手で、必ず殺す。
 敵討ち、など馬鹿らしいとまで思っていたのに、今では俺がその馬鹿だ。そんなことしても死んだ人間が喜ぶわけがない、などと思っていた一瞬前の自分が信じられない。そういう問題じゃない。そういう問題ではないのだ。こいつは、俺によって、殺されなければならない。
 おそらくは歯を剥き出しにしたような形相で、俺はショットガンの引き金を引いた。散弾が飛ぶ。至近距離からこれを喰らえば、普通なら上体半分くらいが吹き飛んでもおかしくはない。吹き飛ばすつもりだった。吹き飛んで粉微塵になって、血が九龍に戻って、甦ればいいと思った。
 いい加減、俺も壊れてきた。
 そんな狂人を嘲笑うかのように、散弾は男の身体を吹き飛ばした。当たり所が『悪かった』のだろう、飛んでいったのは右肩から先だけだったが。
 それなのに、男は嗤っていた。何かを囁いたようだが、俺にはそれが何語だかすら分からない。響きから、この周辺で使われている言葉に似ていることは分かる。分かったからと言って、俺はそれを解さないが。
「……ざっけんな」
 がりりと、音がするほど強くアロマパイプを噛みしめ、俺は立ち上がった。九龍だったものを床へと横たえ、ショットガンと、近くに転がっていたアサルトライフルを取る。
 男はゆっくりとこっちに近付いてきた。脚があるじゃねえか。ってことは幽霊じゃない。
 九龍にはやるなと言われていたが、今となってはそんなことどうでもいい。俺は、フルオートにセットしたアサルトライフルをぶっ放しながら、もう片方の手でショットガンを撃ち続けた。アサルトライフルを撃ち、ショットガンにシェルをセットして撃ち、アサルトライフルを撃ち。肩が物凄まじい軋み方をしたが、気にしないことにした。
 いけ好かない笑みを浮かべる男が、ほとんど木っ端のように吹き飛んだ。ほんの僅か、本当に少しだけ気が紛れた気がして、ショットガンを放ってから肩を押さえた。
 だが、何とも不思議なことだが、俺の肩はほとんどまったくと言っていいほど痛んでいなかった。あれだけ無茶をしたというのに、妙な違和感がわだかまるだけ。痛むのは、肩ではなかった。
 死体に触れて、その輪郭が一気にぼやけたことで分かったのだが、痛むのは鼻の奥と心臓だったのだ。チクショウ、お前は左胸割って死んでるが、俺は痛覚なくしたお前の代わりに左胸を痛めている。こうなったらお前は今すぐ甦って胸の傷を痛がれ。そうすれば、俺だって仕方ない、痛みを半分くらい肩代わりしてやってもいい。
 なら、お前は少しはまともに、笑ってくれたりするだろう。
 痛みで顔を顰めてもいい。泣き笑いでもいい。それでも、何もかも自分で背負って、諦めるように笑うよりはいいだろう。そのために俺がいたはずなのに。
 ―――どうして、九龍は、目を開けないのだろう。
 あのどん底みたいな真っ黒い眼で俺を見てくれれば、一時死んだことなど忘れてやるのに。
 そんな事を考えていた俺は、おそらく周りがまったく見えていなかったのだろう。見えていなかったのだ、九龍以外は何も。
 だから、背後に見知らぬ気配が立っていることに気付くのが遅れた。背筋が総毛立ち、咄嗟、振り返りながらも防御の姿勢を取っていた。すぐ後には腕に衝撃。殴られた、蹴られたという類じゃない。弾けるような感触に、身体が吹き飛ぶ感覚。何が起きたのか考えだしたときには壁に背中から激突していた。
 突き上げられるような痺れに、一瞬どこか麻痺したのではないかと思うほど嫌な叩き付けられ方。肺を打ったため、呼吸もままならない。辛うじて首だけ上げて前を向くと、粉微塵にしたはずの男が九龍の脇に立っていた。
 何をするのか考えたりはしなかった。そこから離れろ、とそればかりを。だが声は出ず、指先一つ動かず、脳味噌だけが叫んでいる間に、そいつは九龍のそばに転がっていたサーベルを拾い上げ、こちらを見た。
 嗤ってやがる。それはもう愉しげに。頭のネジが吹っ飛んだ、というよりも母ちゃんの中に置いてきただろうネジ、という笑い方だ。唇を吊り上げ、顔の造作の良さそのままに微笑んでいるのに、俺には怖気しか感じられない。ホラー映画に出てきたらどんな善人面してようが真っ先に人を殺っていく役だと分かるような。
 さっき見たときより数段酷いそれに、俺の身体は別な意味でも動かなくなった。体温が妙な具合に下がっていき、耳鳴りがする。なったことはないが、もしかしたら金縛りってのはこんなんじゃないか?
 軋む全身をどうにもできなくて、音もなく歩いてくる男を見る。何をするのか、なんとなくだが分かる。声は聞こえなくても、この男の纏う雰囲気は赤目の九龍のそれだ。ならば、求めるものは―――血。
 動けと念じて動けるわけでもなく、へたり込んだままの俺はあっさりそいつに捕まった。首を片手で掴まれ、無理矢理立たされる。凄まじい怪力だ。
 男はさっき九龍が俺にしたように、サーベルを喉元に突き付けた。一突きか?と思いきやそうではない。例の笑みを浮かべっぱなしの男は、歌うようになにかを話している。
 驚いたことに、それは俺の頭には日本語で入り込んできた。時に中国語に、時に英語に変わるが、どれも全て理解できる。
『惜しいな』
「……何?」
 理解できることに驚くよりも、言葉の意味を探る方が先だ。ただで死ぬ気はさらさらない。そういう意味じゃ、俺は九龍が死んだ時点で腹を括っていた。
『実に、惜しい。もう少しだったのだ』
「不老不死にまでか」
 男は嗤ったまま。沈黙は肯定か否定か、表情からは読めない。第一俺の日本語は通じているのか。
『もう一つの心臓は壊れてしまった。魂も、な』
「………てめぇ」
『だが、ここに留め置かれることはよくない。世界は広い。ここよりもずっと』
 言葉の意味を考える。留め置かれることはよくない。ということは、だ。留め置かれざるを得ないという意味ではないのか?ここを、出られないと。
『媒体が必要だ。血によって繋がる者が』
「それが、あいつってわけだ」
 男は、薄く嗤ったまま頷いた。ちらりと、視線を死体に向ける。そうしてまた、惜しいことをしたと呟いた。
『あの男が貴様の血を得る。貴様は別の者を得る』
「その人間を媒体として、あんたはこっから出るってわけか」
『血によって操り、繋がり、繰り返していく。私は、魂を紡いでいくのだ。―――永遠に』
 不意に、俺はこいつと化人がよく似ていると思った。
 墓から出ることはできず、ハンターが出入りするに伴って甦り、消滅し、また甦る。そして、化人創成の間にいた者は、俺たちの思い出と黒い砂によって外に出ることができていた。生徒会の人間たちを媒介として。
『だが失敗だ。あの男がいなければ、貴様は何も繋げぬ』
「分かってんじゃねぇか」
『次の餌が来るまでまた眠らねばならぬ。先の者からあの男までは随分と長の時が掛かったが、仕方あるまい』
 仕方あるまい、じゃねぇぞ。眠らなければならない?ふざけるな。
 男が俺の首筋に切っ先を走らせ、血を滲ませ出したのを感じて余計に、頭の中が茹だっていく。
『次の時までの繋ぎだ。貴様の血を、餌として私は眠る』
「……ふざ、けるな、よ」
 怒りがてっぺんにくると呂律が回らなくなるらしい。吃音てのはこういうことを言うのか、最初の「ふ」が出るまで何度も空気を噛んだ。
「俺は、てめぇだけは、許さない。眠らせる気も、無い。……ここで、殺す」
 なんとしてでも殺す。甦るなら甦っただけ、殺してみせる。許せる眠らせるなんて度量は、俺にはない。
 男はさも愉しげに嗤った。何も言わなかったが、お前に何ができる?とでも言いたげなのはありありと見て取れた。
 その余裕な面が、いちいち癇に障る。
 俺は、ようやく神経の戻ってきた脚を振り上げた。不意打ちは、男の余裕を蹴り破る。こめかみに綺麗に入った蹴りは充分な手応えを伝えてきた。男が吹っ飛ぶ。間をおかずその身体に取り付き、マウントポジションから連打。加減なんて小指の先程もない。普通の人間なら脳挫傷間違いなしの殴り方だった。
 暗闇に慣れた目でも、殴りながらでは男の表情を捉えるのは難しい。何十発目かを喰らわせたときに拳に伝わってくる反応が嫌に軽いのに気が付き、手を止めた途端、背後からの気配に思わず振り返りもせず前方に飛び退さる。瞬間、着ているタクティカルベストが嫌な音を立てて裂けた。
 体勢を立て直しながら舌打ちをし、ようやく振り返ればやはり男が立っている。厄介だ。殴る蹴る撃つがダメならどうしろってんだ。
(……待てよ)
 こいつが消えたり顕れたりすんのは、実体がないからじゃないか。いわば九龍の血から現れたまがい物だ。甦ると言ってもこいつの身体が還ってきているわけではない。核となっているであろう身体か何かを吹っ飛ばせば、あるいは。
 だが、どうやってそれを見つけ出せばいい。一旦退避?ダメだ、ここにはまだ九龍が在る。
 真っ赤な眼に見据えられながら、状況を打破する考えが浮かんでは消えていく。
 走った様子もないのに一瞬で間を詰められ、転がるようにサーベルを避ける。転がっていたアサルトライフルを拾い、距離を開けながら装填を完了。男に向けて発射……、したつもりが、乱暴に扱った上何度も取り落としたせいか標準が狂い、かなり逸れた方向へ弾丸は走っていった。
 抉ったのは男でも壁でもなく、絵。肖像画、おそらくは男の。俺はそんなこと気にも留めずにずれている分を考えて男に標準を合わせる―――が。
 今まで余裕しか見せていなかった男の表情が一変した。焦りに近い驚き、それから、身体から零れだした赤い粉末。一瞬しか見せなかったがそれを見逃すほど俺は間抜けじゃない。あの絵に、何かある。直感だが、そう思った。
 正体不明の化け物もどきには直感で対処するに限る。もうそれしか手がないというのも正直なところだ。アサルトライフルを絵に向かって構え直した。照準もそこそこに、引き金を引く。
 だが。腕に残ったのは射出の感覚ではない。ガチン、と押し切れないような中途半端さ。
(ジャムった……!?)
 乱雑な扱いをし過ぎたのだろう、射出までの過程のどこかで弾詰まりが起きていた。すぐにフルオートを解除、銃口を下げる。そうせざるを得なかった。だが、隙を作ったことも確かだった。
 余裕の表情を消した男が、いつの間にか目の前に迫っていた。サーベルが振り下ろされる。アサルトライフルで受ける。斬り付けられる。受け流す。暗闇に、削がれた火花が飛ぶ。
 手が脂汗をかいている。この期に及んで、俺の脳味噌はまだ死ぬことを拒否している。銃身と刃を噛み合わせたまま、じりじりと力での押し合い、相手の力は尋常じゃない。次第に力負けし、押さえつけられるようになっていく。
 刃が、いっそう強く押し付けられた。左手の指三本ほど皮を削られ、流れた血で手が滑る。力が抜けたところに、大振りの一撃。受け止めきれずにバランスを崩したまま、振り上がったサーベルを見た。
 のこのこ死にやがって、とか。あいつに言われそうだな。
 死んだ後の世界のことなんざ、自分の身に置き換えて想像したことはない。だが、世界の裏にある人外の奇跡なら幾度も目にしてきた。だから、ならば、死んだ後だって考えてみてもいいだろう?どうせ迎えは九龍だ。そんで、あれだ、お前まで来ちゃってんなよ、なんて言われるんだろ。
 最期の向こう側でも共に在る、そうでも思わなければやってらんねぇ。
 そんな下らない妄想に逃げた俺の耳に、
「――――――……」
 聞き馴染んだ声が滑り込んできた。
 まだ死んでないのに迎えは早過ぎるだろ、せっかちなヤツ。
 苦く笑いたい気持ちを抑えて、無意識に死の瞬間に供えて呼吸を止めていた俺は、次の瞬間思い切りラベンダー混じりの呼吸を吐き出すことになった。
 目の前でサーベルを振り上げていた男の、片腕が弾け飛んだ。
 ―――まさか。
 息を呑む俺の耳に、もう一度声が飛び込んできた。今度は言葉まで捉えられる。低く、怖気を呼ぶような怨嗟を詰めた声音。
「……そいつに、…触るな……」
 俺はもう、笑い出したい気分だった。なぜならそれが幻聴ではなかったから。
 姿を確認したくて視線が捉えた姿は、死体じゃない。少し離れた場所で立ち上がり、愛用の銃を片手に、もう片方の手は破れたはずの胸を押さえ、静かに立っている。
 九龍が。
 俯いていた顔を上げた。真っ黒い髪の間から、どす暗く揺れる黒い眸が覗いた。世界中の裏の裏まで見ても拝めないような歪んだ黒。
 九龍だ。
 あんな目をする危ない人間、あいつしか、いない。
 九龍だ。九龍が、俺の前に立っていた。