風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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クリスマス記念SS ワラキア -黒と赤- - 4 -

 遺跡で『発作』を起こした九龍だったが、あの時は眼の色が真っ赤に染まってはいなかった。黒は確かに揺れていたが、まるで葛藤する九龍の意志と同じように、染まるのを拒んでいたようだった。
 後で聞いた話では、意識を持って行かれそうになるのを必死に堪えていたらしい。完全に起きていたからなんとかなったと力無く笑っていたが、遺跡から出た後の九龍は疲れ切っていた。
 本や資料を車に運び込み、山を下りる最中もずっと黙り込んでいる。顔色は悪いの通り越して土気色になり、シートにもたれたまま目を閉じている。弱っている姿を外に見せない普段からしてみれば珍しいことだった。ここにはミナもいるというのに。
 そのミナは九龍の様子がおかしいことを相当心配していたが、資料を渡して分析を頼むと任せてくださいと頼もしく頷いてくれた。他の調査員もヤツらも、正直最初は外部である俺たちと距離を置いていたようだが、九龍の働きぶりを見てかなり友好的に接してくれるようになっている。何人もの調査員から九龍の様子を聞かれた。
 大丈夫、大丈夫だからと笑い続ける九龍はほとんど高校時代のようだった。こうやって笑ってるときは危ないと知っている俺は、しばらくは遺跡に踏み込むのはやめようと決めていた。少なくともあの遺跡の……というよりあの部屋の持ち主が特定されるまでは。
 明後日にはロゼッタの科学調査班が到着するという話だ。この国の調査員が持つ土地に根付いた知識と、あいつらの科学力が一緒になればおそらく問題は色々と解決の方向に向かう、だろう。
 九龍は分析の手伝いをするごねたが、その日はそのままホテルの部屋に戻った。部屋着に着替えるとよく分かったが、痣は今朝よりも大きくなっていた。……与えられた時間は、もしかしたら思ったよりもずっと少ないのかもしれない。
「なー。俺も解析作業手伝わなきゃだろー」
「うるさい黙れ。今日はダメだ、行っても追い返されるぞ」
「……なんか、自分が役立たずになった気分だよ」
 くすんくすんと泣き真似をしてソファで膝を抱える九龍だが、俺たちにはあっちに行かなくてもやることは腐るほどある。図書館から借りた本はまだ読み切ってないし、少なくなった弾薬の補充もしなければならない。
 それに。
「休みも必要だろ。お前が潰れたら、本当に替えが利かない」
「大丈夫だヨー。そしたら、アレに気を付けてコレに気を付けてって引き継ぎして、次のハンターがもっと手際よくお仕事を勧めてくれるはずです。だから大丈夫」
「うわ三発目殴りてぇ」
「痛い痛い痛いッ!!」
 殴る代わりに思い切り頬をつねり上げると九龍が涙目になる。本当なら全力で蹴りたいところだ。こいつは本当に、どうも綺麗に壊れすぎている。
「とにかく、今日は無理はすんな。で、明日は資料探しと武器補充」
「へーい」
「返事は『はい』」
「はいはい」
「返事は一回ッ」
「はーーーーい」
「伸ばすなッ!」
 ふて腐れてしまったのか頭まで毛布を被り、目だけを出して本を読み始める九龍を見ると溜め息が止まらない。……こいつと生きる、ということを本気で後悔したことはない。ただ、こいつはどうしてこうもこうなんだという漠然とした疑問を抱くのはほぼ毎日だ。
「貧乏人を焼き殺すハナシー。伝えられる話によればヴラド串刺し公の時代には職のない者が多く物乞いや泥棒をして国の治安を低下させていましたヴラド公は乞食を用意した小屋に招き最高級の料理でもてなしたそしてほとんどのものが酔っぱらったところで小屋には火が放たれました小屋の戸には錠が掛けられておりさあ大変人々は泣き声叫び声呻き声をあげ次々と折り重なるように倒れていきます後に残ったのは黒こげの塊だけこれで貧乏人は一掃されたかと思いきや国にはまだまだ貧乏人は沢山いるのですヴラド公は今日もせっせと乞食を集め……」
「朗読せんでいいッ」
 毛布の塊は目だけで俺を見る。ぶすっとした顔だ。そんな顔してもダメだ。ダメなモンはダメだ。
 俺は九龍の機嫌を取るために昼食を部屋に運んでもらったのだが、あいつは結局ほとんど食べなかった。聞けば食欲があまりないという。朝飯も大して食わなかったくせに、やっぱり疲れているようだ。
 この仕事がきたときにはこんな大事になるとは思ってなかったが……まったく厄介な調査だ。九龍が参ってるというのが一番の問題だ。
 結局、この日は働きたがる九龍をなだめて、部屋で過ごさせた。大量の本を読み、H.A.N.Tと睨み合いをし、時折拗ねて毛布の塊になる。それが遺跡の中とは大違いの穏やかさで、俺はやっぱり思ってしまう。
 こうして、ずっと穏やかに過ごすことができたらどんなに楽だろうか、と。そうじゃなくてもいい、せめて九龍には余計なものを抱え込まないような生き方を選んでほしい。まあ、願いなんてもんは叶う見込みがあるなら元から願ってもいないんだろうが。
 九龍は夕食もほとんど食べず、また別々の部屋で眠った。

*  *  *

 図書館、調査員詰め所、ホテルの部屋、時折滞在している集落の古い建物や老人の話を聞きに行く。あれから二日ほど、そんな生活を続けた。山麓の小さな村に娯楽施設などはほぼ皆無で、気晴らしに連れて歩くこともできない。
 悪いことに、この国では戦争と政策の問題で消滅してしまった資料が多く、いくら調べても足踏みせざるをえない状況になることが多い。九龍もルーマニア語を読むことはできるが、古い言葉になると手が出なくなることもある。(あいつは高校時代、日本の古典が苦手だった。)俺たちだけでは、如何ともし難い壁があるというのが実感だ。
 今日、ようやくロゼッタの科学調査班が到着し、合流したことで状況が好転すると九龍は笑っていた。
 ……あれから発作は一度も起きていないが、九龍の様子は日に日に悪化しているのが分かる。科学班のヤツら、そんな九龍を喜々としてサンプルと言ってのけ、全身の検査をしやがった。で、異常なしとつまらなそうに言うと、今度は目が赤くなったときに連れてこいとほざくマッドサイエンティストっぷりで調査員たちを驚かせていた。
 それでもあいつらがプロだってことを俺たちはよく知っている。人道踏み外したことを平気で言うが、そうして集めた情報は他のハンターのために使われているのだ。次に他の誰かがこういう状態になったときに対処できるように、と。
 信用が証明されたのは、俺たちが司書と顔見知りになるほど足を運んだ図書館から帰ってきたときだった。興奮気味のミナに出迎えられて、とりあえず俺たちの部屋で話を聞くことになった。コーヒーとアロマパイプを用意して、聞く準備は万全だ。
「ロゼッタ協会の方が、ヴラド・ワラキア公の『血統』について面白い分析結果を出してくれました」
「血統?」
「はい。精神的な問題や苛烈な性格などは、遺伝する場合があるということです。生まれつきのことだけではなく、育った環境も関係してくるようですから遺伝というのもおかしいかもしれませんが……」
「それで?」
「例えばヴラド・ツェペシュ、彼がドラキュラと呼ばれた者なのですが、『串刺し公』とも呼ばれる。その父ドラクルは『悪魔』の名で呼ばれることもあったようです。他にも血族に『小串刺し公』、『悪党公』と呼ばれていた者がいる。……それを踏まえて資料を当たると、なるほど、色々と性格的な問題を抱えていたということが分かりました」
 ミナの話は興味深いものだった。ヴラド・ワラキア公の紋章に酷似した紋章が刻まれた棺桶。性質の受け継がれる血統。なんとなく、話の輪郭が見えてきた。
「今、挙げた者は男子直系子孫のみです。けれど血縁者は他にも沢山います。私、図書館と集落の長の家に残っていた資料から、血縁者の資料を当たってみたんです」
 ミナに手渡された書類は、おそらくそれらを彼女がまとめたものなのだろう。よくよく見れば、眼鏡の下にはくっきりと隈ができている。無理をしているのは九龍だけではないのだ。
「そのリスト、この集落付近に居を構えたことのある串刺し公の血縁者の名前です」
「……よく調べたな」
 感嘆から思わずそう零すと、ミナは照れたように眼鏡を掛け直す。
「だって、ハンターのお二人がこんなに一生懸命お仕事してて、頼んだ方の私たちが見てるだけなんて、何だか情けないですもの。私だって調査員の端くれです。役に立ちたいと思えばいくらだって頑張れます」
「ミナさん……」
「遺跡に立ち入ることができないのなら、それ以外で頑張るのがサポートの役目ですしね」
 九龍のヤツはそれだけで感動しきっているようだ。自分が誰より働いてるのを完全に忘れている。阿呆め。
「とりあえず、まだリストアップしたに過ぎません。これからそれをロゼッタの人が持っているデータベースに取り入れて、遺跡にあったような魔術関係に傾倒していた人間を捜そうと思います」
「じゃあ、よろしくお願いします」
「はい、お任せを」
 それからミナは別の紙束を俺たちに渡してきた。まだ話は終わっていないらしい。もしかしたら彼女のハイテンションは徹夜明けの影響かもしれない。
「それは今から二百年ほど前、この集落でのある奇病の記録です」
「奇病?」
 俺と九龍は同時に嫌な顔をしただろう。ミナは構わずに先を続ける。
「ハバキさんと同じ症状が記録されていました。まずはそれを見て下さい」
 随分と古い資料……カルテの、コピーだ。しっかり英訳も横に載せられているが、俺には分からない専門用語もある。九龍に聞きながら読み進めていくとだんだんと奇病の正体が見えてきた。
「患者はこの集落の男で、山師だったようです。ある時に突然奇行を見せるようになり、衰弱していったとか。精神的に病んでいたというような記述もあります。もちろん当時は精神的な病というよりは悪霊に憑かれた、という解釈をされたようですが」
「それでもカルテはあるんだ」
「ええ。奇行は徐々に酷くなっていたようで、そのカルテは初期の頃のものです。後の症状は別紙に載せてあります。それは滞在していた祓魔師が記録したものです」
 俺たちが目を通しきる前に、ミナは説明を始める。もうこの内容は全て頭に入っているらしい。にしても、祓魔師…エクソシストが登場するあたりが相当きな臭いな。
「身体的な特徴としては、右の肩の痣。心臓部にもあったようです。それが日を追うごとに大きくなっていって、最後には痣同士が繋がってしまった」
「げーろげろ、俺と同じじゃん」
「酷似する特徴はそれだけではありません。彼の症状はそちらにも記してあると思います」
 言われた通りの記述に目を通した俺は、思わず息を呑んだ。
 医者の証言と周囲の人間からの聞き取りだというそこには、まるで今の九龍の状態を表すようなことが列挙されていた。
 瞳が赤くなる、周囲には聞こえない声が聞こえる、不可思議な痣、吸血衝動、それから実際の吸血行為。
「ほぼ、九龍と同じってワケか」
「その通りです。結局、祓魔師でも治すことは不可能だった」
「えーっと、そいつは、こういう症状出しただけ?なワケないよな?」
 九龍が首を傾げてみせると、ミナは一瞬言葉を失った。それから躊躇う素振りを見せ、ゆっくりと告げた。
「彼は、家族を……妻と子どもを殺しています」
 次に絶句するのはこっちの番だ。九龍なんか口半開きの間抜け面のまま、手元から書類が抜け落ちても固まったままだ。どうにか先に立ち直った俺は、聞きたくないが聞いておかなければいけないことを聞く。
「……で、本人は」
「記録では、自ら命を絶ったことになっています」
 それを聞いて思わず、アロマパイプの端を思い切り噛みしめてしまった。聞かなきゃよかった、とも思った。んな事を聞いたら、追い詰められた場合に九龍がその方法を選ぶ可能性が格段に高くなる、最悪だ。どうにかしないと間違いなく九龍が死ぬ。しかも自分で。
「ですが、発症した原因があるなら必ず解決方法も存在すると思います。それを探し、あの遺跡の謎を暴きましょう!」
 常より熱っぽい女の弁論に、俺と九龍は押されるように頷くしかできなかった。そりゃ、確かにミナの言う通りだ。……だが、ルーマニアに入ってHIVに感染する子どもたちの話を聞いたばかりだ。あれは、発症した原因は分かっているが、未だ完治の手立てが見つかっていない。そんな病気が、この国のストリートチルドレンの中で蔓延しているという、そんな話。なんだか縁起が悪いというかなんというか……。
 俺は深く深く溜め息をつき、ついでのようにラベンダーの匂いを自分の中に入れてから、再度書類に目を走らせた。その、奇病を発症した男の症例欄に、ある一文を見つけて目が留まる。症例など九龍と一緒だろうと思って流してしまいそうになった文だ。
 そこに書かれていたのは睡眠障害や味覚障害という単語。元から不安定な睡眠のことはともかく、九龍に味覚障害など……待てよ。
「九龍、お前、こないだコーヒーに味がしないとか、言ってなかったか?」
「………うん」
「それから、どうした。お前まさか食事量が減ってんのは味がしてないからか?」
 詰め寄ると、九龍は観念したように溜め息をついた。溜め息吐きたいのはこっちだ。
「……コーヒーの後くらいから、どんどん味がなくなって。何食っても段ボール噛んでるようにしか感じなくてさ。でも食べなきゃだから、なんとか食ってたけど」
 そろそろ喉を通ってくれなくなっちゃった、と。
 苦く笑う九龍。嫌な予感がした。それがおそらく確信だから嫌なのだ。
「吐いてたのか?」
「……多少」
「いつから」
「ちょっと、前」
「いつ」
「……日記、持ち帰った日から」
 ここにミナがいなかったらキレていたかもしれない。こいつは、本当に、どうしてこうも、一番大事なことをひた隠しにするのか、慣れた、つもりでも、この秘密主義は、突き付けられると、腹にたまる。
 俺は荒げそうな声を必要以上に抑えて聞いた。
「他に、なんか、隠してんじゃねぇのか?」
「え、……うぅん」
「あるんだな」
「…………」
「まさか寝てもないとか言わないだろうな?」
「…………」
「……お前ッ」
「だ、だって、寝たりすると声、聞こえそうで、そしたらまずいと思ったから……」
 ついに俺は頭を抱えた。頭痛がしてくる。こめかみに浮いた血管が小刻みに動くのが手の平から伝わる。
 夜、九龍に異常がなかったのは部屋を分けていたからだと思っていた。引き金になるような要因が排除されたからだと。それが根本的に寝てないからだと言われたのだ、頭痛どころか眩暈すらしてくる。
「……ミナ、ちょっと説教する。席を外してくれないか?」
「え?あ、……はい」
「終わったら呼ぶ。調査員のとこにいてくれ」
 おそらく俺の顔には笑顔が貼り付いてるだろう。ミナはそれに騙されて、部屋を出て行った。九龍に「あんまり心配掛けちゃダメですよ」なんて言い残して。
 まったくその通りだ。俺はアロマパイプに替えのカートリッジを差し込み、火を着ける。九龍はふて腐れたようにソファで膝を抱え、また毛布の塊になっている。だが、今回は機嫌を取ってやる気にならない。
 問答無用で襟首をひっつかみ、猫のように持ち上げたまま寝室まで引っ張っていく。暴れてもまったく気にしない。ベッドに放り投げると、俯せのままの九龍の腕と脚の関節を押さえつける。けれど、声だけは殊更優しく。
「……なあ、何だったら食える?どうすりゃ寝るんだ?」
「放、せよッ!ぜ、全部終われば、……終われば元に戻るってッ」
 その終わりまで、あとどれだけかかるか見えてないというのに、どうしてこういうことが言えるのか。解決の前に飢えて死んだら笑い話にもならない。
「何でこうなんだろうな、お前は。もっと寄りかかりゃ楽だろうに、全部独りで抱え込みやがって」
 耳元で囁くと、抵抗はいっそう酷くなる。けれど、飲まず食わず寝ずでまともに力が入るはずもない。何ヶ国語もの罵詈雑言を凄まじい勢いで吐きつくすと、すぐにぐったりと脱力する。呼吸だけが荒く、肩が弾む。
 肩越しに振り返った眼は怒りに揺れている。案の定だ。俺が何か悪いことをしたか、という開き直り。これ以上ないほど黒い眼が、淀みなく俺を見据える。
 ああ、やっぱり黒がいい。昏すぎるくらいの色が、こいつにはちょうどいい。
「そういうとこが心底嫌なのか、そういうとこに心底惚れてんのか、今はもうよく分かんねえけど……」
 人より大きめの犬歯を剥き出しにして呻る九龍は、狂暴そのものだ。なだめすかすように髪を撫で、それでも拘束している腕は解かない。
「……どっちにしても、気に食わないんだよな」
「気に食わない、なら、放って、おきゃ、いいだろうがよッ!」
 暴れて怒鳴ってようやく血の気の戻る九龍の頬。それを見て、内心で安堵の息を吐く。放っておけと返されるのは分かっていたことだ。つまるところ、こうやってずっと生きてきた九龍は、これからもその秘密主義と他人に弱みを見せないというスタンスを変えるつもりがないのだ。
 人慣れした上っ面の下に隠れてるのは、手負いの獣。傷は外側に見えるものではなく、内面を抉っている。自分でももうどうにもできないくらいに複雑に絡まった心情を、どうにもできないならば隠してしまえというのが九龍の在り方だ。
 それを腹立たしく感じ、けれど九龍と共にあると決めた自分にできることは、認めて受け容れる他にない。事あるごとに責めてみせるが、否定など、できるはずもなく。
 僅かに拘束を緩めて仰向けにすると、さっきまで俺を睨んでいた視線が今度は逸らされる。
「放っておけりゃ楽だって、分かってるさ」
「ならッ……」
「でも、できないんだよ。それでも放っておけないから、ずっと、ここにいるんだろ」
 長めの前髪を柔らかく掻き上げて、懐かない猫を扱う手付きでそうっと触れてようやく、黒い眼はこっちに向いた。その眼がうっすら膜を張っている。怒りなのか感情が高ぶってるのか、むしろ眠いのではないかという気もしている。
「大丈夫だ」
 九龍の口癖を、今度は俺が吐いてやる。
「襲われても諦めてやるよ」
「……でも」
「それに、へろっへろのお前にはどう考えても負けないからな」
 戦闘力という意味で、九龍に勝てる人間は少ない。ロゼッタでも皆無かもしれない。だが、俺なら、抑止力になれる。九龍の背中を預かる。そこには、何かがあったときに九龍を止めるという意味も込められているというのは、高校時代から分かっていることだ。
「だから、とにかく寝ろ」
 拘束は完全に解いた。髪から頬に手を滑らせると、僅かに、手のひらに頬をすり寄せられる感触があった。
「……分かったよ」
 やっと九龍が全てを投げた。俺は投げつけられた全てを受け止めればいいだけだ。
「その代わり、そこ、退けよ……。これじゃ、余計に……心臓に、悪い…」
「はいはい」
「……ハイは一回じゃ、ないのかよ…」
 苦く笑ったのを最後に、充血した目がそっと閉じられる。そのまぶたに、一つ口付けを落とす。すぐに深い呼吸が部屋の空気に刻まれ始めた。
 まったく面倒くさいヤツ。閉じたまぶたに触れながら、次にこの眼が開くときはどんな色をしているのか考える。あの赤がよくないものだということは、九龍ではないが感覚ってヤツで分かる。あんまり見たいもんじゃないが、寝かしつけた以上、顕れる可能性も高い。
 俺はベッドから降りた、……降りようとしたら裾に抵抗が。何かと思えば服の裾を九龍の手が掴んでいた。起きた気配はない。それなのにしっかりと、指が握り締めている。
 思わず吹き出しそうになりながら、固く閉じた指を一本一本解いていく。赤ん坊のようなその様子に、あんなことを言っていても、やはり九龍自身も不安で仕方なかったのしれないという思いが過ぎった。
 ……だからこそ、そういうときにもっと周りに頼るべきだと思うのだが。
 離れてから毛布をかけてやり、部屋を出た。ミナの報告も全て終わったわけではないようだ。調査員の詰めている部屋に向かいながら、アロマパイプを銜え直す。途中で通った科学班詰め所からけたたましい高笑いが聞こえてきたが、全て聞こえないフリをした。
「あ、ミナカミさん。どうでした?ハバキさんは」
「寝たよ。本当にここ数日寝てなかったようだ」
「そうですか……」
 眼鏡を掛け直した彼女の元に、調査員が一人書類を持ってやってきた。彼女はそれを受け取り、ルーマニア語で指示をして俺に向き直る。充血した眼を眼鏡の下で何度か瞬かせた。
「あんたも、少し休んだらどうだ?」
「いえ、大丈夫ですよ」
 ここ数日で、彼女は少しばかり立場を変えていた。俺たちが来たときは調査員のひとりだったのだが、今ではチームとして機能する面々を統括し、指示をしているように見える。明らかに年若い彼女に、いかにも研究者然とした人間が従っているのだ。
「頑張ってるみたいじゃないか、リーダー」
「そんなんじゃないですよ!そうではなくて……ただ、今回のことについて私が一番関連する知識を得ている。だからそこを起点として調査が回っているというだけなんです」
「それもあんたの頑張りなんだろう。九龍が、感謝してたぜ」
「あ、ありがとう、ございます」
 灰色の瞳が柔らかく細められる。その瞬間の彼女は隈も乱れ気味の髪も気にならないほど、確かなまでに綺麗な女だった。
 けれど笑顔が引き締められたときには、もう調査員の顔に戻っていた。先程受け取った紙を俺に手渡し、自分は数枚の写真を手にする。
「つい今し方、遺跡の前で見つかった死体の検死結果が出ました。そちらに記してあります」
「俺たちの到着前に干涸らびてたってヤツか」
「はい。手短に説明しますね。まずは死因ですが、失血性ショックでしょう。手首や首といった部分に中南米に生息する吸血蝙蝠の噛み跡に似た痕跡が見られました」
「吸血蝙蝠か……」
「吸血、といっても普通の蝙蝠は家畜や鳥の血液を舐めます。ですがこんな事件のさなかですから念のため調べたところ……」
「ビンゴだった、ってわけか」
 ミナは頷き、俺に写真を見せた。干涸らびた人間の姿。そこに残された、牙の跡。
「吸血蝙蝠特有の唾液も検出されています。それが、ハバキさんの傷周りに残されたものと一致しました。おそらくはH.A.N.T、でしたか?あの中に記録されていた異様な大きさの蝙蝠にやられたのでしょう。……推測、ですが」
「ハンターの仕事なんざほとんど推測と非現実で成り立ってるんだ。話を続けてくれ」
「はい。そこで問題となるのがどうやってあの死体が遺跡の外にいたのかということです。これについてはまだ答えが出ていません。それから、もう一つ。これはお二人が遺跡から持ち帰った、『甦る屍体』の調査結果です。指だけだったので解ることは少ないのですが……状態は、今話した乾燥死体と酷似しています」
「何だ、そりゃ。もしかして、あの死体も甦る可能性があるってことか?」
 ミナは、目を伏せて首を振った。否定、と言うよりは分からないという素振りだ。可能性はゼロではない、ただ今はその兆候がない。おそらくはそんなところだろう。
 心底疲れた、というように、目頭を指で揉んだ彼女はアロマパイプを銜え直し、火を着けた俺に「ああ、まだあるんです」と更なる紙束を押し付けてきた。
「もう、あのロゼッタの方々、凄いんですから。……あの死体の胃の内容物が分からないからって口に入れようとしたんですよ?信じられない」
「………ヤツらはするな、それくらい」
「止めましたけどね。えっと、それで、ですね。ここからはまだ科学班の人にも話をしていない、私独自の調査結果の話になります」
「分かった。聞かせてくれ」
 彼女に促され、俺は古びた資料が積んである部屋に連れて行かれた。そこで見せられたものは、本とも呼べない装幀の書物。ルーマニア語が分からない俺には当然読むことはできないが、それでも随分と乱雑に書き殴ってあり、しかも古めかしい言葉のようだということは見て知れた。
「これは村の診療所にあったものです。数百年前、伝染病が流行ったりした際の患者の症状や処置方法などが書かれています。ずいぶん古いものなのでこの中の病気のほとんどは、現在治療法が確立されているものばかりです」
 白い指がページを捲る。所々付箋が着いているのは既に調べ終わっている証拠なのだろう。その指が、ある付箋の位置で止まった。
「古い言葉、しかも標準語ではなかったので読むのに苦労しましたが、ここにある、この症例。すいません、英語訳している時間がなかったので口頭で説明します」
「頼む」
「先程、ある男がハバキさんと同じ症状だったという話をしましたね。……これは、彼の妻と子の当時の様子を記したものなのです」
 だとしたら、本当に数百年前のものだ。残っていたことにも驚くが、見つけ出したミナという女の根性と努力に感心するを通り越して、感動……しながら呆れた。おそらく九龍が今回のことを報告したら、ロゼッタは彼女の獲得に走るだろう。案外、科学班の辺りは既に唾を付けているかもしれない。
「説明します。質問は最後にまとめてお願いしますね」
「了解」
「この資料によると、妻と子どもは、男によって斧でぶつ切りにされたようです。クリスマスの晩、祭の終わった後の広場で。村人が何人か残っていたようで、その時の様子も簡単にですが記されています」
 ……斧でぶつ切り、という言葉をまったく平然と言ってのける辺り、やはり普通の女ではない気がする。
「問題はその前。病気の症例が記された書物に、妻と子のことが書かれているということにあります」
「病気、ってまさか」
「質問は最後!」
「……はい」
 出来の悪い生徒と成り下がった俺は、大人しく話を聞くことに決めた。
「彼女と子は殺される直前、村人たちに襲いかかったようなのです」
「!!?」
「幸い、襲われて死んだ者はいませんでした。なぜなら、村人に襲いかかっている自分の妻と子を、男が斬り殺したから。男はそのあと、その場で命を絶ちます。当時の人々はこれを何かの呪い、それから病気の両面から捉えていたようです。だからあの資料に、妻と子が載った」
 直前まで普通の女と子どもだったはずの人間が、突如変貌して村人を襲う。精神疾患だったのだろうか。それにしても、当時の村は大パニックだっただろう。医学の発達もない村で、これが辛うじて病気と扱われただけでも奇跡に近い。
 ミナが言うには、妻と子どもの症状は極度の虚脱状態、痛覚の麻痺、言語能力の低下など。要するに、ゾンビのような状態。
「男が死ぬ前の言葉が、『私が二人を化け物にしてしまった。そして私も化け物なのだ』というもの。更に、妻と子の死体に残っていたのは……男のものと思われる歯形」
 そこまで言い切って、ミナは息をついた。資料を机の上に置き、まるで本物の教師のように、
「何か、質問は?」
「質問……というよりは、あんたの考えを聞きたい。これだけ材料が揃って、あんたはどんな推測を立てる?」
「……変な女だと思わないで、聞いてくれます?」
「安心しろ。もう変だと思ってるから」
 酷い、と苦笑した彼女は、自分の説を語り出した。それは、俺が考えているものとほとんど同じ。
 男は九龍と同じ症状に陥った。即ち血を求める状態だ。そして自分の妻と子に歯を立てた。結果、二人は生ける屍のようになり、村人を襲い出す。正気に戻った男は妻と子を殺し、自分の命を絶った。
 荒唐無稽。まさにそんな仮説だが、材料となるピースがあまりに不可思議すぎている。そして、俺と九龍が生きてきた世界はそんなものだ。
「……三人は、村人たちによって焼かれました。妻と子の変貌は悪質な病の可能性もあるとされ、彼の家まで燃やされた。その場所は……あの遺跡からそれほど遠くない山中でした」
「男の変貌が、遺跡と関係している可能性もあるってワケか」
「本当に、現実感を排除して考えればそうなります。まったく、これじゃあ本物の吸血鬼伝説だわ!」
 お手上げ、というようにミナは天を仰いだ。キャメロン・ディアスがやりそうな滑稽な仕草だが、彼女がやるとどうにも様になる。知的に見える分だけ得をしてるのか。
「とにかく、ミナカミさん。ハバキさんとの接触は避けた方がいいでしょう。ええっと、特に血液を介する遣り取りですね」
「咬まれるな、ってことか」
「平たく言うと。今のところあの状態のハバキさんに襲われているのはあなただけですし。他の調査員たちにはこれから伝えます。ハバキさんには申し訳ないですが、しばらくは部屋から出ないよう―――え?」
 ミナは言葉を途中で止めた。表情は驚愕。視線は俺の、更に後ろ。
「どうした?」
「後ろ、今……黒い、影が」
 降っていった、と唇が戦慄くように告げた。黒、と聞いてとてつもなく嫌な予感が脳裏を掠める。
 慌てて窓枠に貼り付いた俺が見たのは、予感を確信に帰る姿。真白い雪の中、一人で立つ黒は紛れもない。  まるで誘うように見上げられたその眼の色は―――願いを裏切る朱だった。