風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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クリスマス記念SS 想色アンバランス - 7 -

 意識の端くれを掴んだとき、最初に思ったのは指先の冷たさ。末端神経が氷に変わってしまったかのような錯覚。
 普段ならばすぐに覚醒する意識も深く、重たい場所に停滞したままなかなか上がってこない。
 この感覚には、覚えがあった。
 おそらくは薬を投与されたのだろう。呆けた頭では種類までは特定できないが、麻酔か、それに類するもののはず。意識どころか、身体まで重いのがその証拠だ。
 薄く目が開いた。天井がなぜか臙脂色に見えることに弱冠の不安を覚えながら首を横に動かそうとしたとき、身体に何かが覆い被さってくるのを感じた。
「お目覚めかな?」
「………?」
「おっと、まだ目が据わってるね。大丈夫かい?」
 『モノベ』と言おうとしたが、声が出ない。唇は動いたらしく、喪部は頷いて見せたけれど。
「久しぶりだね、葉佩。元気だったかい?と、今の君に聞くのは酷かな。ククッ」
 喪部の手が、喉元を這う。衣擦れの音と共に、タイが抜かれるのが見えた。
「言い方を変えよう。気分はどうだい?」
「……最悪だ」
 掠れてはいるが声が出たことは喜ばしいが、安心している場合ではない。何せ、状況が全く解らないのだから。
 喪部がいる、ということはレリックドーンも競売の情報を知っていたのだろう。それで、ここに来たということか。…潜入調査のはずがこうも簡単に見つかるともう笑うしかない。
 すぐにでも目の前の男を蹴り飛ばしたいところだったが、生憎と身体には力が入らない。
 ……狙いは、何なのだろうか。こうして身体の自由を奪う意味が解らない。M+M機関ならともかく、レリックドーンならば邪魔者は即排除するはずだ。
「殺さないのか」
「殺してほしいのか?」
「どちらでも」
 おかしい。もしも、俺が喪部の立場なら確実に昏倒させたときに殺している。いや、最初から殺すつもりで接触する。
「悪いが有益な情報は何も持ってない」
「みたいだね。別にこっちとしても情報がほしいワケじゃないさ」
 四つん這いになって俺の服を弄っていた喪部は、俺に顔を近づけてきた。
 次の瞬間、顎を掴まれて唇に噛み付かれた。…頭が反応するのも遅ければ、身体はもっと酷いことに抵抗することもできない。ただ背筋に怖気が走るだけ。
 送り込まれる唾液も嚥下することができず、顔を背けようとしても押さえつけられてしまう。唇に押し付けられるピアスの感触も執拗に押し込まれる舌も、突き放したいのに逃げられない。
 息苦しさに喘ぐと、満足げに鼻を鳴らした喪部は唾液の残滓を残したまま俺から離れた。
 …おそらく、今の俺は機嫌が悪いどころか殺気すら放っているだろう。
「抵抗できなくても屈服しないんだねェ、君は……憎たらしいな」
「……どういうつもりだ」
 睨み付けたところ、盛大にシャツのボタンを飛ばされた。
「君を組み伏せて、屈辱に喘ぐ顔が見たかったんだけどなァ」
「ふざけろ」
 吐き捨てると、抜いたばかりのタイで口から溢れた唾液を拭われた。
「ま、それはまた今度、かな」
「…………」
「君を、もっと気に入った人がいるから、今日はそちらに譲ることにしよう」
 喪部は俺から離れ、甘ったるい匂いの香を焚き出した。そして、ついでのように口付けられたが……舌が入ってきたときに、何かを一緒に流し込まれる。吐き出そうとするが、喉に指を突っ込まれ無理矢理飲まされた。
 薬用シロップのような甘味が残る。まずい、これも薬か…?
「それじゃあ、葉佩。精々愉しむといいよ」
「な、に……?」
 俺の問いに答えることなく、喪部は部屋から出て行った。
 息を吐いてその背を見送り、部屋の中を転がされた状態のままで見渡した。俺が乗っているのは、どうやら寝台の上らしい。部屋には高そうな調度品が並ぶ。装飾は派手だが、趣味は悪くない。
 時計は見当たらず、この部屋に運ばれてどれだけの時間が経ったのかも分からなかったが、俺は薬が効きにくいタチだ。というよりは、効いてから抜けるまでが早い。ということは、丸一日が経つ、というようなことではないだろう。
 身体の力を抜いたとき、ゆっくりと頭痛が襲ってきた。痛覚は戻るか。最初に打たれた薬は抜けているのかもしれない。
 手と脚に拘束具はない。あと一時間もすれば普通に動けるようになるだろう。こういう体質になったのも……あのゴミ溜めスラム街のお陰か、感謝する気にはなれないが。
 だが、あの喪部の言葉を思い出すと、ただ転がされておかれる訳でもないのだろう。愉しむ……サンドバッグにでもされるか?
 動けないことには逃げるのも不可能で、諦めて目を閉じた。
 どうして、こんなことになったのか。
 リックならば、こうなる前に回避できたのかもしれない。俺が、仕事を安請け合いしたせいか。
 ……思考で遊んでいると、地雷を踏んだ。思い出してはいけない人間を思い出して、それが、どんどん脳ミソに侵蝕してくる。
 甲太郎。
 ……今頃、眠りこけてでもいるのだろうか。
 離れて数時間しか経っていないのに、脳裏に描いたら最後、実物を思い浮かべてしまう。
 ラベンダーの匂いや、カレーを味見してるときの顔や、化人と対峙したときのどこか気怠げな、けれど真剣な眼差しや、抱きしめてくる腕の強さや、俺の名を呼ぶ掠れた低い声…、
『九龍…』
「!?」
 途端、背筋を駆けたのは下半身に直結する甘さ。
 異変に気付いたのはその時だ。
 元来、…というか育った環境のせいか、性的なことに対しては酷く淡泊なきらいがある。しようと思えばできるが、しなくてもいいと思えば一年何もしなくても問題ない。好んで行為に及ぶことも少ないため、そのせいで甲太郎に文句を言われたこともあったか。
 それなのに、だ。想像の中でだけでここまで反応するはずがない。
 考えをまとめようと思っても甘い匂いに邪魔されて思考が散ってしまう。そして、熱だけが、上がっていくようだ。
「く、ッ…」
 喪部の野郎、何が目的で……。
 飲まされた薬と、香が何かの作用を及ぼしていることは明らかだった。背中にじわりと汗が滲むのに焦って指先を動かそうとしていたその時、部屋の扉が開いた。
「王、老大…」
 紅花会の賽主が入ってきたことで、霞掛かった頭の中のピースが組み合っていく。
 要するに、完全につるんでいたという訳か。秘宝、レリックドーン、競売、紅花会……全てが噛んでいた。
 ……待て、俺だけが、当て嵌まらない。ロゼッタだと気付かれたなら、喪部が消している、はずだ。それが何故生かされて、こんなところに転がされている?
 その理由だけが分からず、混乱する。
 入ってきた王老大は、俺の無様な有様を見て口の端を吊り上げた。
「良い格好だな、龍君」
「……本名は、もうご存じなのでは」
「葉佩九龍というそうだね。九龍、か」
 『ガオルン』という広東語の発音をしてみせ、老大は俺の寝転ぶ寝台へと歩いてきた。
「すっかり騙されたよ。まったく、君の演技力は素晴らしい」
「それは、どうも」
 褒められるのは構わないが、じわじわと腰の辺りを呵む熱量だけはどうにかしてほしい。……いや、この人にどうにかしてもらいたいという意味ではなく。
「どうしてこうなったかは、解っているだろう?」
 潜入がバレて、レリックドーンが絡んでいたせいだろう。殺されないでいる理由は解らないのだが。
「あなたの目的が、解りませんが」
「ああ、言わなかったのか、彼は」
 質の良いスプリングが、軋んだ。その音を聞いた途端、頭の中に、死ぬ、とは別の意味でヤバいんじゃないかという考えが浮かぶ。
 そういえば……紅花会賽主は、正妻こそ女だが、愛人は男女、入り乱れてるん、だったか?
「会場で君を見て気に入っていたんだがね。まさかこのような形で手に入るとは」
 予感が、悪い方向へ当たり出しているらしい。
 ベッドに乗った王老大の、くたびれた指先が首筋に触れた。そういう、触れ方だ。
「……離れろ」
「そのような顔もできるのだな。ふむ」
 会場で見たときは渋い、と思ったがそれがどんどんエロジジイの顔に見えてくる。身体さえ動けば、一撃でイかせてやれそうなものだが。
「私ももう歳でね。薬などというものを使わせてもらったが、まぁ、安心するがいい。いい思いをさせてやる」
 ……今の状況なら、抜かれるまでは簡単かもしれないが。
 行為の間に身体の自由が戻る可能性は高かった。ならばそれも仕方ないかとも思うのだが……頭に浮かんだ甲太郎が、それを許さなかった。以前、貞操観念の薄さについても懇々と説教されたんだった。
 面倒くさい、とも思いながら、覆い被さってきた老大の顔が、寸前まで迫ったとき、
「……俺の正体を、聞かないのか?」
「喪部から聞いたよ。盗掘を生業としているハンターなんだろう」
「それを、信じてるのか。紅花会の賽主ともあろう人間が」
 俺の言葉に、シャツを引き剥がしに掛かっていた老大の指が止まる。じっと、俺を見下ろす眼に、言ってやった。
「中国、国家、安全部員」
 瞬間、顔色が変わる。
 紅花会のような組織にとって、国内の反革命分子の情報収集、監視、追跡、逮捕等を一手に引き受ける国家安全部は鬼門だ。筆頭敵対組織と言ってもいい。日本の暴力団と警察よりも、もっと酷い確執が両者にはある。
「ま、さか……いや、そんなのははったりだ、第一若すぎる」
「俺をいくつだと思ってる。……じゃあ、こんな話を知ってるか?」
 らしくもなく動揺を見せた老大に、畳み掛ける。
「昔、返還した後の香港に竜水幇という幇があった。ある日、そこの賽主が死んだ。表向きは事故死。真夜中に、回廊のように入り組んだ自分の屋敷の中で階段から落ちたんだったか?」
「…………」
「知ってるだろう?その話は」
「…もちろんだ。それがどうかしたのか。国内では随分報道された。誰でも、知っている。君のような若者でも調べればすぐに…」
「だが真実は違う。殺されたんだ。真夜中に襲撃されて寝ていたところを護衛もろとも蜂の巣だ」
 老大の黒い眼の中に映る若い男は、吊り眼を細めて嗤った。口元だけでの邪悪な笑みは、「普通」の人間には到底見えない。だが、それでいい。
「襲撃したとみられる犯人は、二人。若い男女だと言われている。そして、本当のことを知っているのは……大手の黒社会か、安全部の人間だけだ」
 そして……その、襲撃者本人達のみ。
 俺はマフィアでも安全部でもないが、この際利用させてもらおう。
「これでも信じる気になれないか?」
「くッ…」
 演技が巧い、と褒めておいてこんな簡単な嘘も見抜けないのだからこの男も大したことはない。
 安全部の可能性があると見せかけておけばそう簡単に手は出してこないだろう。安全部にはアンダーカバーも多い。違う、と完全にバレるには数日要する。まぁ、その間に喪部が口を出すのだろうが。
「いくら変質趣味でも、安全部の人間を抱く気にはなれないだろうが」
 鼻で笑ってみせると、それが気に食わなかったらしい。何かを合図し、途端に何人もの黒服の男たちがなだれ込んできた。
「こいつを房室へ入れておけ。厳重に拘束しろ」
「はッ」
 それからは当然、殴る、蹴るだ。薬を使われて抵抗できないのをいいことに、好き勝手やってくれる。挙げ句に細い鉄鎖で腕を頑丈に縛られてしまった。
 目隠ししたまま担ぎ上げられて、さっきとは段違いの寒くてカビ臭い部屋に押し込められ、手の鎖が頭の上で部屋のどこかと繋ぎ止められた。逃がす気はないということか。
 布で目隠しをされているせいで、本当に辺りの様子が分からない。
 ジッと、ただ待っていると、腰の鈍痛が酷くなってくる。さっさと一発抜かないと不能になりそうな気がして怖い。いや、でもあの阿呆が真っ最中にしょっちゅう焦らすせいで、慣れてるといえば慣れてる……って、何考えてるんだ、俺。
 クソ、頭の中がピンク色に変色しそうだ。耐えろ、俺の脳味噌。
 どうにかこの状況を打破しなければいけない。考えていると、あることに気が付いた。
 おそらくは俺が入ってきた扉の方から、定期的にキィ、パタンという金属音が聞こえるのだ。色々考えて、もしかしたら監視用の窓があるのではないかと思いついた。
 昔、ある幇に拉致監禁されたときも、閉じこめられた房に小さな窓がついていた。
 …………。
 また、キィという音が聞こえたのを逃さず、俺はそちらに向かって声を掛けた。
「……なァ」
 閉じる音が聞こえない。
 そのまま、呼びかける。
「さっきからキィキィやってるけど……あんた、ヒマしてんだろ?」
 シーンとした部屋の中に、俺と、もう一人の息遣いが聞こえることに気が付いた。
「……俺と、遊んでみる気、ない?」
 僅かに脚を開いてみせると、扉の方から生唾を呑み込むような音が聞こえた。本当に微かな、耳を澄まさなければ分からないような音だったが、確かに聞こえた。……かかった。
「向こうの部屋で、さ。変な薬飲まされていっぱいいっぱいなんだよ、俺」
 ……ゆっくりと、重い音が響いた。空調が変わる。扉が、開いた。
 気配が慎重にこちらに近付いてくるのが解る。
 もう、すぐそこにいるのだろう人間の方を、目隠しのまま、見上げた。
 途端、体重がのし掛かってきた。イキナリだな、おい。
「声を出すんじゃないぞッ」
 早口な中国語で命令されて、本当に切羽詰まってんのはどっちだよ、と苦笑したくなる。
「解ってるよ……な、オニイサン、顔、見せてくんない?」
「あ?」
「め、か、く、し。取って?」
 上海の娼館独特の、舌足らずで甘ったるい言葉遣いをしてみせると、乱暴に目隠しが降ろされる。
 戻った視界の先にいたのは、まだ年若い中国人だった。これくらいの下っ端だと、確かに色々溜まってたりするんだろう。クリスマスにこんなガキの監視をさせられれば、余計にか。
 彼は請求に口付けを求めた後、「甘い」と言って顔を顰めた。
「言ったろ?薬を飲まされてる、って。そのせいだよ。さっさと、しようぜ」
「……………」
 と言ったところで俺は薬で動けないことになってて、腕は頭の上で固定されている。手を、出しようもないか?
「腕、壁から外せよ」
「…………」
「鎖はいいから。要は、俺が自由に動けなければいいんだろ?」
 数秒、迷ったようだが、彼は壁から鎖を外し、俺の胸ぐらを掴むと床に押し倒した。まったく、よく組み敷かれる日だ。
「んな、焦んなくっても……って、無理か」
 興奮してしまったらしく、性急に脚を抱え上げてくる。ベルトに手が伸び、抜き取られそうになる、瞬間。
 両脚を目の前の男の首に巻き付けた。一気に力を込め、床に叩き付ける。身体の感覚はそこそこ戻っているらしい。立場が逆転して、ぐったりと力の抜けた男からノーリンコNP22ピストルと腕時計を剥ぎ取り、部屋を出た。
 両手を拘束されたままだというのが心許ないが、動けずにジッとしているよりはマシだ。腕時計の時間は午後十一時を指している。思ったよりも時間は経っていない。
 最優先事項は当然、競売についての調査、そしてH.A.N.Tを取り戻すこと、次に生きて帰ること……H.A.N.Tはセキュリティを掛けているとはいえ、重要事項がいくつか残ったままだ。
 老大が俺をロゼッタと把握しきっていなかったことを見れば、H.A.N.Tとハンドガンは喪部が持っている可能性が高いが、この状態で喪部と対等にやり合えるかは、非常に危うい。
 薄暗い廊下を駆けながら、今どこにいるかを頭の中に叩き込んだ建物の設計と照らし合わせて考える。大仰なパーティが開かれている本館にいるという可能性は限りなく低く、別館、もしくは更に隠された場所に隔離されていたと考えるのが打倒だろう。
 と、向こうから話し声が聞こえてきて、廊下の角に身を隠した。下っ端の数人なら、ここで片付けていく。
「……いますよ…」
「…しか知らない話だぞ。それを、彼は知っていた」
 段々近付いてくるそれは、タイミングが良いのか悪いのか、喪部と王老大。どうやら、俺の話をしているらしい。
「どこかで耳に挟んだのでしょう。僕は潜入先で彼と一緒になったこともありますし、彼の所属する盗掘グループは、中国の遺跡にも手を出しているんですよ?」
「だが彼の持っていた情報は一般市民になど到底知らされない情報だ…」
「フン……そうして嘘を吐き続け、昔も周囲を欺いていましたからね」  言ってくれる。…事実だけどな。
「ところで、彼の持っていたツールの解析は済んだのか?」
「いいえ。セキュリティはかなり高度なようでしてね。これはうちの本部に持って帰って解析しま…」
 そうはいくか。
 飛び出した俺は、不意をついて喪部の手元を蹴り上げた。狙い通り、喪部の手の中にあったH.A.N.Tは弾き飛び、廊下の彼方に転がる。
 ノーリンコで喪部に銃撃を浴びせながら、H.A.N.Tに飛びついた。
「葉佩ッ」
 H.A.N.Tを確保し、すぐ脇の角に滑り込む。
「……もう動けるようになるとは…早いな」
「生憎と薬とは色々縁があってな」
「その状態でここから逃げられるとでも?」
「……思ってるさ」
 喋りながら時間を稼いで、H.A.N.Tのセキュリティを解除、GPSで建物のデータを呼び出す。現在位置……やっぱりここは別館だったか…。とにかく、H.A.N.Tからスクランブル信号を出すことはできた。あとは、中国支部がどのタイミングで支援してくるか。少なくとも、敷地の外にさえ出ればなんとかなるはずだ。それまでに、秘宝が売買されている証拠だけでも掴まねば。
 一番近い出口を確認している暇はなかった。
 団体さんのお出ましだ。四方から向かってくるレリックドーンの装甲兵が見えた。
 決して弾数の多くないノーリンコを撃ちっぱなしにして、威嚇。一番穴のありそうな箇所を見つけて一点突破を掛ける。
 ……両手拘束されてる人間に倒されるなんて、レリックドーンの兵も質が落ちたものだ。
 数人を落として、ソーコムを一挺。心許ないがこれ以上持てないのだから仕方ない。
 抜け出した先にも向かってくる兵と、おそらくは紅花会の中国人であろう人間が。…生身の方はともかく、下半身にまともに力が入らない状態では装甲兵が蹴りでは落ちなくなっている。
 ああ、チクショウがッ、腰が重い!
 頭は朦朧としてきたし、危うくへたり込みそうになって、咄嗟に。
「甲太ろ………ッ」
 誰もいないのに。思わず背中を預けそうになって、気を引き締めた。
 ここに甲太郎はいない。俺は今、ひとりだ。
 頭の中で生き残る可能性をいくつも導き出そうとして、何度も諦める。次々に押し寄せる追っ手をほぼ蹴りだけで片付けながら、呼吸が上がっていくのを止められない。元より、持久力より機動性と瞬発力勝負なのだ、こうも畳み掛けられたら堪らない。
 ふくらはぎを、後ろからの銃弾が掠る。前後を塞がれて、倒れながら、どうして俺は生きて帰ろうとしてるのだろうか。早々に諦めてしまえば後は楽になれるだろうに、血の流れる方の脚を庇いながら、ほとんど闇雲に銃弾を散らし、廊下を曲がる。
 階段を駆け上がり、先の廊下に出たと思いこませて、非常灯に鎖を引っ掛けて換気口の蓋を蹴り破った。
 手の塞がった俺に、走る以外の逃走方法がないと思ったのだろう、下をバタバタと追っ手が走り抜けていく。血が垂れないよう、破れたシャツでふくらはぎの止血をして、狭いダストの中で一息を吐いた。
 ……立ち止まるんじゃ、なかったかもしれない。
 身体中、殴打されたせいでズキズキと痛む。だがそれより切迫した問題は、痛みすらぼやけさせてしまいそうな熱量に支配されていることだ。
 自分が生きるか死ぬかと言うときに……甲太郎のことしか、頭の中に、ない。換気口に脚を突っ張ってどうにか欲求をやり過ごそうとしても無駄な足掻きだった。歯の根が噛み合わない。意志とは関係なしに、唇が勝手に甲太郎を呼ぶ。眩暈がする。熱い。
 黙れ、と自分に課し、その代わりに呻り声が漏れる、この感覚。どこかで、そう思いを廻らせたとき、辿り着いたのは一年前。
 ――――俺が相手だ。悪く、思うなよ。
 幻影が瞼の裏に映る。呪われた學園の制服を着た、甲太郎が。俺を、殺そうとする。悪夢じゃない。あれは、現実だった。
 あいつは、俺を殺す気で向かってきた。
 俺は、自分が死ぬ気で向かっていった。
 結局勝ったのはどっちだったのか……納得したくもない想いを否が応に突き付けられた俺の、完敗だったのかもしれない。
 そして、甲太郎が遺跡と共に眠るという選択をしたとき。今と同じ思いを味わった。骨折からくる灼けるような熱、真っ白になった頭で逝くなと甲太郎を呼び、その頭の中には甲太郎しか、いない。
 結局、去年も今年も、何も変わってはいなかったのだ。甲太郎が何かを選び、俺がそれを受け容れきれずに崩れる。全てを諦めることを厭わなかったのに、あいつだけ、諦めきれなかった狭量は、結果としてこういう状況を招いた。
 解ってる、解りすぎるほど。頭では理解をする。けれど、感情は激しく揺らいで理性を踏み倒した。
 俺ばかりが、いつも、こうなる。
 普段は甲太郎の方が嫉妬深いだのいわれるが……逆だ、真逆。あいつはどんなときも感情にブレーキを踏める。何にも傾倒しない。
 俺、ばかり……。
「甲……太郎…」
 声に出しても姿は見えず。
 それでも、薬による怠さは幾分軽減された気がして、俺は首を振って、埃だらけの換気口を匍匐で進み出した。狭いせいか、すぐに血の臭いで満たされた。鉄臭さに、身体が錆びたかと指先を見ると本当に真っ黒で驚いた。ただ埃で黒くなっていただけだったのだが。
 その代わり、鉄鎖が手首に食い込んだせいで血が滲みだしていた。痛みは……あまり、ない。こんな痛みには慣れすぎてしまって、疼く程度にしか感じなくなっているのか、痛覚が覚醒しきっていないのか…。
 どちらにせよ、良い状況ではないことに代わりはないが仕方はないと、諦めて歩を進める。
 やがて、アルミニウム張りだった換気口の終わりが見えた。網目のその先に広がっているのは、暗闇、そして―――、
「ガラス……ここは、」
 別館に入ってからすぐに見つけたガラスの床、ということは、競売がこの下で行われていた、もしくは現在進行形で行われているのかもしれない。
 狭い視界の先に人がいないことを確認して、網戸を蹴り破った。
 降り立った先は、普通の床にしか見えなかったが、目を凝らすと……薄明かりの中、いくつもの人影が見えた。H.A.N.Tで様子だけとりあえず収めておく。後は、証拠となる何かがあれば…。
 どうにか自由にならないかと手首に力を入れてみるが、鉄鎖は食い込むばかりで引きちぎれそうもない。
「クソッ…」
 悪態を吐き、足を使えば引き抜けるかとその場に屈み込もうとした、瞬間。
 部屋の両端に設置されていた扉が、同時に音を立てて開いた。轟くような足音と、銃弾の装填音。アサルトライフルの銃口は、全てが俺に向いていた。
 装甲兵の間を縫って、現れたのは当然の如く、喪部銛矢。
「ちょこまかと、よくも逃げたものだ、ね」
「……だったら追ってこなければいいだろう」
 この様子では、兵は配備されていたと言ってもいい。初めから、ここに来ることが解っていたとでもいうのか。
「どうしてここが解ったのか、教えてあげようか?」
「断る」
「愛の力だよ、と言ったらどうする?」
「……相変わらず頭おかしいな」
「つれないなァ…、クク、クククッ……本当はね、君の、その血の臭いだよ」
「てめぇは犬か」
 どこまでが本当か……純正な人間ではない喪部のことだ、血の臭いで人間の居場所が特定できたとしても不思議はないか。
「さてと。その銃を降ろしてもらおうか。もちろん両手は頭の上だ」
 言われた通りソーコムを投げ捨て、縛られたままの腕を頭の上に掲げる。
 薄明かりを灯された部屋の中の、俺が居る場所は丁度中央だ。南側の扉から出てきた喪部は、ゆっくり俺に向かって近付いてくる。その目が赤く濁るのを、逸らせずに見つめた。
「あの薬は、切れちゃったのかい?」
「…………」
「高かったんだけどねェ」
 武器など必要ないくせに、手にはハンドガンを握っている。見れば、俺が使っていたグロックアドバンス。俺の前まで歩み出て、真っ直ぐ、腕を伸ばして銃を突き付けてきた。
 グロックのマズルが、俺の口元に当てられる。唇の輪郭をなぞるように動かし、口を開くように催促してきた。冗談じゃない。きつく口を閉ざしたまま、喪部を睨む。
「こんな話を聞いたことがある。銃を突き付けられても恐怖しない人間に、生きている意味はないんだってね」
「…だったら、どうし……ッぐ…」
「もう、ほとんど死んでいるにもかかわらず、怖くないなんて、それはもう死んでいるのと同じだね」
 後頭部の髪を引かれ、仰け反って僅かに開いた口に銃口を押し込まれた。鉄臭い味が、一気に口の中に広がる。
 口の中に銃を突き入れると言うことは、即ち、問答無用という意味だ。逆らうことは許さないという意思表示。これをされたのは、今まででも数えるほどしかない。
「さて、嘘は吐かないでくれよ。黙秘もなしだ。いいね?」
「…………」
「バディはどうした?一人な訳がないと思って探させたが、どこにもいないんだよ。なァ、葉佩。どこに隠れているんだい?君のバディ――――皆守君は」
 僅かに、銃が引かれた。喋れと言う合図だ。
 だが。
「……いない」
「?? 何だって?」
「俺、だけだ」
 途端、喉奥まで、銃口が突き入れられる。
「嘘は吐くな、と言っただろう?」
 嘘ではない。言えない代わりに首を振る。それすら、頭部が固定されているせいでうまくはできないのだが。
「何だ…。本当に、一人でやってきたのかい?」
 頷く。この状況で突き通せるほど重要なことではないし、別に意味もない。
 納得したのかは解りかねるが、喪部は銃を抜いた。だが、髪を解放した代わりに顎を掴まれて結局は上を向かされてしまう。
「そうか……一人なのか。ククッ…」
 何がそんなに楽しいのか。問うわけにもいかず、黙っていると突如、喪部の手が破れた礼服の裾から入り込んできた。
「……ッ…」
 それから顔を寄せ、腕や首筋、顔に付いた傷を舌が舐め取っていく。……動いたら、確実に命がないことは解っていた。目を閉じて、接触に耐える。
 しばらくの後、離れた喪部の第一声は。
「ボクの元に来い、葉佩」
 絡み付くような声が耳に貼り付く。思わず手で掻きむしりたくなった。
「君はロゼッタにいるべき人間じゃない。潜入、工作、脱出……、ただの人間にしておくには惜しい。君からは常に血の臭いが、そして死の臭いが付きまとう。そんな人間が、生温い組織に収まるはずがない」
「……かも、な」
「解ってるんじゃないか。だったら話は早い。レリックドーンに…いや、ボクの元に、」
「断る」
 譲れない答えを口にして、強がりで口元を歪めて見せた。
 途端、腹に一撃をもらった。腹筋を締める暇もない。惨めたらしく泣き喚くことだけは、辛うじてなかったが、膝が崩れることだけは止められなかった。
「…残念だよ」
 床に手を突いた姿勢で見上げた喪部の眼は、ゾッとするほど冷たかった。
「その愚かしい判断を悔いるといい」
 背を向け、遠ざかっていく喪部は扉の近くまで行ったところで片手を挙げた。
 それは、合図だ。部屋の中に、一気に銃のセーフティを外す音が響き渡る。
「殺れ」
 その瞬間でさえ、俺は、判断を愚かしいとは思わない。
 愚かなのは判断ではないのだ。それ以前の、別なこと……命の見積もりに対する軽さと、こんなときでさえ一人の人物しか想い描けない腐れ脳味噌の問題なのだ。
 背中を誰にも預けることができない寂寥感の中、銃弾の発射される瞬間を待った。
 もしかしたら、甲太郎はしばらくは悲しむかもしれない。けれど、いつか誰かが癒すだろう。死ぬことよりも、俺が隣に立っていられないことが口惜しいと思うが……別の柔らかい腕が、あいつを抱いていればそれでいいと思う。
 そうして、何かを諦めて、立ち上がる。
 目の前の兵達が狙いを付ける。
 引き金に手を掛ける。
 ――――撃つ。
 瞬間。
 背中で、何かが爆ぜる感覚。
 薄暗い部屋が眩むほどの光量に包まれ、咄嗟に目を閉じて視力を守るが、耳はふさず聴覚がやられた。
 閃光音響手榴弾、と認識する前に、もっと強い衝撃が炸裂する。ガラスの床には、俺を中心として蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
 俺が振り返るのと、落下してきた何かが脆くなった床を砕くのが、ほぼ同時。
 血の臭いさえ掻き消すほどのラベンダーの匂いに抱き込まれ――――階下に、落下した。