風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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9th.Discovery Brew - 猫はひとりで死んでゆく -

 その顔を見たとき、唐突に横っ面を引っぱたきたい衝動に駆られた。
 一瞬目の合ったその男は、素知らぬ顔をしてあたしから目を逸らしたけれど。あたしは目に険を込めたまま彼を見ていた。廊下に、別の誰かか見れば睨み付けているように見えるほど強く。
 そいつ―――皆守甲太郎は、そのままあたしの横を通り抜けていった。彼ほどの男が、あたしの威嚇に気付かないはずもないのに、気付いた上で無視をした。
 それがまた、気に障るったら、もう。
「ちょっと」
 基本的には、一対一の時、あたしは彼との接触はしない。控えるように言われているし、あたしもその方がいいと思っている。彼は今、『あたしたち』とは反対側にいるのだから。
 けれど今日は、呼び止めてしまった。我慢できなかったのかもしれない。彼の態度と、それから、個人的な感情の問題で。
「なに無視してんのよ」
「……何がだよ」
 あたしが振り返ると、皆守甲太郎は面倒くさそうな顔をしてこっちを見ていた。その顔も、腹立たしい。あたしには、まるで興味がないって顔だわ。
「気付いてて素通りって、あんたって本当にイイ性格してるわね」
「そっちこそ、どういうつもりだ。必要以上の接触は避けたほうが賢明なんじゃないのか。少なくともあいつは、そう考えてるはずだが」
 あの方を『あいつ』呼ばわりする態度も頂けない。
 ……つまるところ、今のあたしにはこの男の全てが気に食わないの。
「あら、それじゃああたしは同級生を呼び止めることもしちゃいけないのかしら?」
「………で、何なんだよ」
 トレードマークのアロマパイプを口に挟んで、ほとんど同じ高さの目線から(あたしの履いているヒールが高いせいでわずかに下かもしれない)、やる気のない目がこっちを見てくる。
「話があるなら手短にしてくれ。こっちは急いでんだ」
「……急いでいる理由って、あの子でしょう?」
「誰だよあの子って」
 口調からはいい加減にしてくれよ、という雰囲気がありありと伝わってくる。本当に急いでいるのね。あの子が、待っているから。
「しらばっくれてんじゃないわよ。あなたの隣にいるっていったら、一人しかいないじゃない」
「…………」
「葉佩九龍が下で待ってるんでしょう」
 何にも興味ない、って眼が、その瞬間強い力を宿した。それだけじゃない。背負った雰囲気が燃え上がるように変わったのが分かった。
「……だったら何だよ」
「ふぅん、認めるのね」
 途端、忌々しげな舌打ちが飛ぶ。その態度が、あたしには新鮮に見えた。
 何も心に留めず、學園の屋上で流れていく時間を傍観していた男が、今は起こっている厄介事の渦中にいるんですもの。それもこれも、葉佩九龍という存在が引き起こしたこと。彼は、まるで起爆剤のよう。
 あたしが今日、皆守甲太郎を見つけて、食って掛かっているのも彼が原因なのよね、実は。
「この間、遺跡に行ったわ」
「そうかよ」
「二人きりで。真夜中に」
「……そうかよ」
「葉佩ったら、あたしが二人きりがいいって言ったら、喜んで一緒に行ってくれたわ」
 ……なんていうのは、ウソだけど。あたしはウソを舌先で転がしながら、鼻歌を唱うように次々に言葉を吐き出した。
「真夜中に二人で遺跡なんて、それはそれでロマンチックだとは思わない?」
「……何が言いたいんだよあんたは。用件は手短に話せ。言ったろう、急いでるんだ」
「あたし、あの子のこと好きよ」
 皆守甲太郎の苛立ちが、空気を震わせるように伝わってくる。そしてその空気は、あたしをも苛立たせる。この男から立ち上るラベンダーの匂いが。本当なら心を落ち着かせるはずの匂いが。心の端の方を、ささくれ立たせる。
「あたしの周りにはいなかったタイプ。ああやって軽く見せていながら、簡単には落とせなそうなところもいいわ。しかも、強いのよね」
 薄い唇がアロマパイプの端を噛みしめる。
「ちょっと女顔だけど、逆に変に男臭くなくていいし」
 眠たげな眼が鋭くなっていく。
「いい男って言ってもいいと思うわ。ま、阿門様ほどじゃないにしても、ね」
 流し目をくれてやった、その瞬間。あたしは、自分の挑発が思ったより相手に効いていたことを知った。あたしには、もう潜んでいない黒い闇。あいつには未だ宿り続ける暗い影。西日が射していたはずの廊下が、澱んだような空気に包まれる。
 この場所は、こんなにも暗かったかしら。
 訳の解らない悪寒を背筋に走らせながら、それでもあたしは引くことなんてまったく考えてはいなかった。両脚を開いて踏ん張り、腕を組んで、ほとんど仁王立ちのように皆守甲太郎を睨め上げる。
「……もう一度、聞く。端的に答えろ。何が、言いたい」
「何よ、その命令口調。あんたはいつからあたしに命令できるような立場になったのかしら?」
「立場なんてのはどうでもいい。聞いたことに答えろ。でなけりゃ行くぞ。……あいつが、待ってんだ」
 ……むかつく、わねぇ。
 無意識に踏みならした踵は、カーンと硬質な音を廊下の向こうまで響かせた。
 下校の時間はとっくに過ぎている。校内には誰もいない。あたしは、ともすればひきつりそうな顔の筋肉を堪えて目を閉じた。
 簡単に思い描くことができる。下駄箱から外に続く階段の手すりに腰掛けて、目の前のこいつを待つ、男。妙に長い黒コートを着て、マフラーに顔をうずめて、異国の歌を唱う。輪郭も歌声も、漂わせる匂いまで思い出すことができる。
 葉佩九龍。阿門様とは別の意味で、酷く興味をかき立てられる。
 ……それ、なのに。
「あんたもうまくやったわよね?どうやって手懐けたんだか」
「ありゃ猫か」
「他の人間には懐かないくせに、あんただけにはべったりじゃない。どういうことよ」
「知るか」
「知るか、ですって?そんな事言える立場だと思ってるの?あの子が《執行委員》の連中にどれだけ慕われているか知っている?皆があなたの居る場所を望んでいる。隠していた闇まで全て見られ、殺そうとすらしたのにあの子は、……笑って、受け入れるのよ?それが、どれだけ得難いことか。どれほど、《墓守》たちの想いを支えているか」
 知るか、なんて言わせない。あんたはその場所を、欲しくても誰も手に入れられなかった場所を独占している。葉佩九龍の、笑顔以外の何かを向けられている。
 全て隠したあんたが、そこにいるというのは。
 なんたる欺瞞。
 虚偽よりも尚酷い。
 あたしは飛びそうになる右手を、左手で押さえることで堪えた。―――すでに手の平は拳を作っている。平手では済みそうにもない。
「何だ、そりゃ。んなの、俺だけのせいじゃない。俺じゃなくて、あいつが……九龍が選び取ったことかもしれないだろうが」
「!? よくもそこまで言えるわね」
「じゃあ、なんだよ、あんたはあいつが俺が言う通りにホイホイ付いてきてるとでも思ってんのか?それこそ、馬鹿にしてるんじゃないのか」
「そういう意味じゃないわよ。あんたが図々しいって、そういう話でしょう!?」
「別に俺はあいつに何の強制もして……ないぞ、たぶん」
 いや、した?いやいや、してない、よな?
 って、何なのよその自信のない言い方は……。
 あたしは溜め息をついた。こぼれ出しそうな苛立ちを吐き出すにはそれしかないような気がしたのだ。ふと、今にも真っ黒い砂があたしを覆い隠すんじゃないかという錯覚に襲われる。
「とにかく、俺と九龍の付き合いをあんたたちにどうこう言われる筋合いはない。今のところ、俺の出番はまだのようだからな」
 挑発され返された、と感じた。あたしからたち上る香水の匂いは狂暴な強さで空気を支配し始めている。きっと皆守甲太郎は『匂い』を肌で感じているだろう、顔をしかめている。
「……ねぇ」
「んだよ」
「一発、殴り飛ばしてもいいかしら」
「はい?」
「あんたの、顔」
 皆守甲太郎が、ざっと後退る。代わりにあたしはカツカツと音を立てて近付いた。互いの距離はさっきよりも縮まる。
「な、んで殴られなきゃいけねぇんだッ」
「当然でしょ、当然。安心なさい、女の腕で、ただの一発だから」
「安心、じゃねぇッ!!殴られる理由がないだろうが!」
「あるわよ。葉佩よ、理由はそれよ、文句ないでしょ?」
「阿呆かッ!んなの、ただの八つ当たりだろうがッ」
「……分かってるわよッ!!」
 思いがけず、大きな声が出た。溜め息で逃がしきれない苛立ちが暴発したようだ。廊下の向こうまで声は飛んでいき、わずかに木霊してから消えた。
 皆守甲太郎は口を噤んで、あたしを見据えている。その目はほんの少しだけ、哀れみを帯びていた。優越かもしれない。どちらにせよ、見方は上から下、だ。視線は更にわたしの声を荒げさせた。
「でも、……でも、腹が立つのよ仕方ないじゃないッ!!だってあの子、……!!」
「?」
 唇を噛んだ。口紅の味がする。……嫌な顔をしているんでしょうね、今のあたしは。決して、葉佩には見せたくないような顔を。
 鏡に映したくないような顔のまま、あたしは吐き捨てる。
「……ラベンダーの匂いがするのよ。いつだって、そう」
「……は?」
 その時の、皆守甲太郎の顔。葉佩にも見せてやりたい。
 呆けて、困惑して、悩んで、思い当たって、……あろうことか、赤面。
「遺跡で、近付こうとしたら、ラベンダーの匂い、これ見よがしに漂わせて、あたしがそう言ったら、移り香だろうって、……笑うのよ、あの子」
 口元を押さえて盛大に照れている皆守甲太郎は、あたしの区切った言葉に小さく頷いているけれど相づちは適当だ。
 ふざけるな、よ。
 何、喜んでんのよ。あたしはあんたを喜ばせるためにこんなことを言ったんじゃないのよ?
 あたしはもう一度、足を踏みならした。髪を掻き上げ、脂下がりそうになっている目の前の男を見る。
 そんな顔、他の時に一度でも見せたことがあったかしら?あんた……あなた、が、こんなふうになってしまってからも、その前も。やっぱりあの子が全てを変えていくのね。
 葉佩九龍。始めは厄災を運ぶとんでもない《転校生》だと思っていたけれど、一等濃い闇を持つはずの男にこんな顔させるなんて、……本当にとんでもない。
 皆守甲太郎の、あんまりに情けない、そして人間くさい表情を目の当たりにしてあたしの溜飲は一気にがた落ちしていた。さっきとはまた別の、どうしょもない、っていう溜め息が漏れる。
「……も、いいわ」
「なんだよ、その眼は」
「呆れてるのよ、色惚けしたあなたの顔にね」
「ボケてねぇよ」
「もういいから、どっか行って頂戴。その顔、情けなくって見てられないわ」
「呼び止めたのはそっちだろうがッ」
 皆守甲太郎はいきり立ったものの、あたしがフン、と鼻を鳴らせばそれ以上何も言ってはこなかった。かりり、とアロマパイプを噛み鳴らして背を向ける。
 葉佩九龍の待つ場所へと行く背中。廊下にはラベンダーの残り香。本当ならば優しい気持ちになるはずの匂いで、なぜだかどこかが苦しくなる。皆守甲太郎の隣に、小柄な姿が立つ幻を見そうになる。
 いつかきっと、そう遠くない日に、並び立つ背が離れる日が来る。必ず。その時……どうするのでしょうね。葉佩は。そして、皆守甲太郎は。
 あたしは、影を長く伸ばす後ろ姿に言った。 
「全部知られても、そこに居座るつもり?」
 皆守甲太郎は立ち止まる。何かを思案するようにその場に少しの間に佇んで、肩越しに、視線だけで振り返った。
「……さぁな」
 視線があたしから外れ、斜め上、どこか虚空を見つめる。
「ただ、その時までは、そこに、いるつもりでいる」
「……そ」
 痛んで苦しむ葉佩を、隣ではない場所で見ることになる。
 自分の手で首を絞めながら、どんなふうに視るというのかしら。あの真っ暗で真っ黒な眼の中を。
 皆守甲太郎はもう廊下の向こう、階段を降りようとしていた。葉佩九龍の待つ場所へ向かう。
「……猫は、死ぬ姿を誰にも見せないって言うけれど」
 あの猫からも、そんな匂いがする。瀕死になったら、きっとどこかに消えてしまう。
 さよならすら言わないで。
 あたしは、今度こそ本物の、憂いを吐き出す溜め息を紡ぐ。
「それだって、あたしは蚊帳の外なんでしょうけど」
 皆守甲太郎と、葉佩九龍の、問題。なんとなくそんな気がする。學園とか遺跡とか関係なくね。だからこんなこと心配するのも、
「間違いなく不毛で、無駄ね」
 皆守甲太郎の行く先とは逆、あたしは生徒会室に向かって歩き出す。廊下には、少しの残り香が漂っていた。本当ならば本当ならば優しい気持ちになるはずの匂い。吸い込んで、鼻を鳴らした。あいつらしか、思い浮かばないなんて。
 しばらくは、ラベンダーの匂いはゴメン、ね。

End...