風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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8th.Discovery 月光の底 - 3 -

 授業の終わりと同時に、H.A.N.Tがメールの着信を告げた。誰からだろーって見てみればあれま、二人分。最初のはさっき話をしたばっかりの石博士から。
 『この石は僕以外の誰かを探してるみたいなんだよね』
 ……博士の「ざわざわ」は結構当てになるからなー。どういうことなんだろう。
 で、もう一通が砲介から。あら、居残り勉強?どうやらあんまり勉強は得意じゃないらしい。サバゲーばっかりやってるからだって。……英語とかだったら教えてあげられるんだけど…、数学、物理は専門用語を日本語にすると俺にもワケ分かんなくなるしなー……。
 二通読み終えて、ぱたんとH.A.N.Tを閉じると……俺の横で夜会の話をしていた二人の視線がいつの間にか注がれていたことに気付く。甲太郎とダンナだ。
「夜会ねえ……マナーだのなんだのが五月蝿そうで、俺は嫌だな。《生徒会》の連中も、人を呼びたいと思うなら、夜会じゃなく《昼会》にでもして、午後の授業を全部中止、ついでに、気軽な立食パーティにでもしろっていうんだ」
 ダンナは、どうやら行かないっぽい。生徒会の計画になんて乗ってやらんよ、って、そんな感じ。
 なあ、九龍?と同意を求められて、確かにその通りだから俺も頷く。
「堅ッ苦しいと、確かに物食った気にならないんだよなー。旨いメシは気ぃ使わないで食べたいし」
「ハハハッ、やっぱり君も堅苦しいのは嫌いか。ま、俺は不参加決定だ。夜会なんて行きたいヤツだけが行けばいい。もっとも―――」
「ん?」
「違う意味での《お楽しみ》もあるかもしれんが、な」
 ……一体、ダンナはこの學園のどこまで知ってるんだろ?たぶん、俺のことはバレちゃってる、そんな気がする。で、生徒会に俺を焚き付けてみて……ダンナの得る物は?
 分かんないなー、もぅ。でもさ、あの余裕たっぷりな顔でにっこり笑われたら、どっちでもいいかって気になるんだよねー。年上マジック?何だそりゃ。
「くだらねぇな」
 むー、と考え込んでた俺の横で、机に脚を投げ出した甲太郎が吐き捨てる。手元にちゃんとカレーパンがあるのって、休み時間にでもゲットレした?
「そんなもんに出掛けて無駄な体力使うくらいなら、寮のベッドで微睡んでる方がよっぽど有意義な時間の使い方だと思うんだがな?」
「それ以上寝たら、ホントに脳味噌溶けちゃうよ?甲太郎」
「……これ以上、お前と話すことは何もない」
「あー!ウソウソ!そうだよね、昼寝の支配者だっけ?惰眠の代名詞だっけ?そういうのだもんね」
「…………」
 うわ、ジト眼。お前なんかどっか行っちゃえ的な眼差しが痛いです。
 確かに暖かい布団て魅力的なんだけど……俺、今、睡眠に嫌われてるから布団とも仲悪いんだよね。ベッドに歓迎されないのよー、なーんて。
「ヤ、……実際は、行くのもどうかなーって思ってるんだ」
「行かないのか?なら、前に行ってた手料理、食べさせてほしいもんだな」
 そういや、ダンナとそう言う約束をした。最初は白岐ちゃんと三人で食事、だったのに、なぜか白岐ちゃんと食事、ダンナと食事、みたいな分担作業になっちゃってさ。俺、料理はできる子だからいつか手料理でも、って誘ったんだ。
「……九龍、こいつとそんな約束したのか?」
「うん、した」
「……そうかよ」
 な、何。その質問を投げかけておいてどうでもいい、みたいな態度。しかもちょっと目つき怖い。俺が何したっちゅーねん。何だよ、別に変なモン作ったりしねーよ!!
「何だ、甲太郎。くっついてくるとか言わないのか?」
「あァ?」
「甲太郎にバレたら絶対入ってくるから内緒にしておこうという話だったんだが、なぁ?九龍」
 ……なんか、さっきの博士との話の流れに似ているような…。てか、甲太郎って一体周りからどんな風に思われてるんだよ。
 まさか、俺とセットにされてた?
「ん、……まぁ、でも、ほら、大丈夫っぽいし?」
「なら、今日は部屋にお邪魔しても大丈夫かな?」
 わざとなのか何なのか、甲太郎をチラッと見てから俺に問い掛けるダンナ。何だか挑戦的な物言いのようなのは気のせいか?その相手も俺じゃなくて、甲太郎っぽいし。すっげ、空中で火花散ってそう。
 だから、必死に割って入って、
「……でも、たぶん俺、《夜会》に出ると思うから」
「なぜだ?気は進まないんだろう?」
 気は進まないっちゃーその通りなんだけど。
「だってさ……八千穂ちゃん、行く気なんだぜ?で、ダンナも甲太郎も行かないんだろ?八千穂ちゃんの仲良い子は招待状来てないって言うし、だとしたら、一人で行かせらんないっしょ」
 それに、《生徒会》の頭目がわざわざ屋敷にまで俺を呼んで何するつもりなのか、ちょっち気になるし。それが罠でも、秘密を暴くのに必要な罠なら踏み込んでいく他ない。
「だから、今日はゴメン!!後で、いい肉用意しておくから!」
「ま、そういうことなら仕方がないか。確かに八千穂一人というのは些か心配だしな」
 もう一回ゴメン、と顔の前で手を合わせて、俺は席を立つ。どこにいくんだ?ってダンナが聞いてくるけど、まさか真っ正直に保健室、とも言えなくて曖昧に笑って誤魔化す。
 その時、教室にふらっと誰かが入ってきて。それが真っ白い顔をした白岐ちゃんだと分かったから、近付いて声を掛けていた。
「白岐ちゃん、調子、ど?顔色悪いけど」
「……ええ。葉佩さんはもうお昼ご飯は済ませたの?」
「うーん、まぁ、微妙に」
「私は瑞麗先生にちゃんと食事を摂るように言われたのだけどあまり食欲がなくて……」
 ヤ、白岐ちゃんはちゃんと食べなきゃダメでしょ。つっても、食欲ないなら無理に食わせるわけにも……あ!
「ちょ、ちょい待ってて」
 俺の今日のベントー、主食と別に、ちっちゃいタッパーにサラダ入れてきたはず!……材料、化人経由だけどさ。
「甲太郎、俺の鞄から弁当入った袋取ってくんね?小さい方!」
 八千穂ちゃんの席にふんぞり返ってる甲太郎に言うと、鞄の中ごそごそやって何も言わずに投げてきやがった!人の弁当を投げるな!!
「っと、ほい、コレ。白岐ちゃん野菜党だったよな?これ、中身海藻サラダだから、食べて」
「葉佩さん……いいの?これ…」
「おぅよ。俺、普通の弁当の方、もう食ったし。それ、腹減ったら食おうと思ったけど別に俺はカレーパンあればいいし」
「……ありがとう。とっても、美味しそう…」
 よっし!白岐ちゃんの笑顔ゲットレ!!これだけで俺はご飯三杯食べた気分です。美少女はやっぱりいい。笑ってると更にいい。
「こんな事もできるなんて、葉佩さんは本当に器用なのね」
「イエイエ、サラダくらいなら」
「あの、これは、ほんのお礼。温室で育てたの」
 差し出されたのは、青い花。ツユクサっぽいんだけど、何だか、不思議な感じがする。
「え、いいの?」
「何か、使い道があればいいのだけれど……」
 使い道も何も、女の子から花をもらうなんて、ちょっとイイ。ありがたくいただいておこう。
「それから、葉佩さん」
「ハイな?」
「夜会に行くなら、気を付けた方がいい。この學園で特別扱いされるとうことは、危険なことでしかないのだから……」
 何だか、最近の白岐ちゃんは前とちょっと違う。言葉とか態度とか、そういうところから本当に俺のこと心配してくれてることがあるって分かるようになってきた。前はもうちょっと、あんまり騒がないでっていうニュアンスが強かったんだけど。
「うーん。そりゃ、分かってるんだけどさ。白岐ちゃんさー、それ、八千穂ちゃんにも言ってやってくんない?白岐ちゃんが言えば多少は聞くだろうからさ」
「八千穂さんも、行くのね?」
「つーか、八千穂ちゃんが、行きたがってるの」
 肩を竦めてみせれば、白岐ちゃんは困ったように口元に手を当て、首を小さく傾ける。心配、してるんだろうなぁ。コレ、白岐ちゃんが「あらまぁどうしましょう」って時にやるポーズなんだよね。たぶん。
「だから、どっかで八千穂ちゃん見かけたら釘刺してやってくれる?」
「……聞いてくれるかは、分からないけれど」
「ダイジョーブ、白岐ちゃんの言うことならちゃんと聞くと思うよ、俺は」
 ぽん、と肩を叩いて、俺は教室から出た。とりあえずもらった花を保たせないと。
 水道でティッシュを湿らせて、根本に当てておく。これで一日くらいはなんとかなるといいけど……。
「九龍ドノ?」
「おぅ、砲介ー」
 振り向くとガスマスクがこっちを見ていた。3-Dの教室から、顔だけ出している。俺が近付くと、でかい身体を窮屈そうにしてドアの端に立って敬礼してきた。
「その花はどうしたでありマスカ?」
「へっへー、いいだろ、女の子からのプレゼント」
 って、ただのお礼なんだけど。砲介はそんなこと知るはずもなく、おぉぉぉ!とか大袈裟に驚いてる。
「じょ、女子からのプレゼントでありマスカッ!?さすがは九龍ドノ……」
「…ヤ、そういうんじゃないんだけど、でも、綺麗っしょ?」
 掲げてみせると、まるで未知の何かを見るように砲介。しばらく眺めた後、こっくりと頷いた。
「まー、たまにはてっぽーばっかじゃなくてこういうのもいいかな、と」
「仰る通りでありマスッ!……あ、けれども自分はやはり銃器の方が向いているでありマス」
「あー。それは俺も思う。こういうのって、握ったらすぐ潰れちゃうしね」
 しなっとなっている花を振っていると、砲介は何を思い立ったのか、むー、と唸って、
「武器の扱いは、兵士として当然修得すべきスキルでありますが、兵士とて人間、得手不得手や好き嫌いがあるわけでありマスッ。九龍ドノは、やはり銃器が一番好きなのでありマスカッ?」
「そーだねー。銃だね。それが一番落ち着くし」
 今も学ランの下にはグロックアドバンスが一丁ぶら下がっている。それを示すように脇腹を軽く叩いて硬い感触を確かめた。―――うん、落ち着く。やっぱり銃はいい。腹の脇に、もう一個魂が引っ掛かってるみたいだ。
「でも、俺の場合は同等に、体術」
「むう、体術でありマスカッ」
「そ。一応軍隊式も入れてるし、足技主体の格闘技なら大体使える。こうなると、もしも戦場で銃の不備が出ても生きて帰れる可能性が高くなる」
「自分の肉体が武器ということですなッ」
「そーゆーこと」
 俺の蹴りは、あっさり人を殺す。たぶん、一人で化人だらけの部屋に丸腰で放り込まれても―――生きて帰れる。
「自分はコンファイトが正直苦手なのでありマスッ」
「そんなイイ身体してるのに勿体ねぇなー」
「今度、是非一手御指南願いたいでありマスッ!!」
「……その前に居残りさせられないようにお勉強からですね、墨木クン」
「……ハイ、でありマス…」
 居残り勉強のせいでGUN部の昼休みミーティングに参加し損ねた墨木クンでしたとさ。
 そのままちょっと、そこで雑談してたんだ。でも、すぐに背筋にぴりっとした感覚が走って。何だろうと振り返ったら、……トトが階段を上がっていこうとしているところだった。ちらりと俺を見て、まるで誘ってるみたいに。
 だから砲介と別れて後を追った。別に、放っておいてもよかったんだけど。
 今日辺り夜会だ何だって言って結局墓に潜ることになりそうだったから、一体何を無くしているのか見ておきたかったのかもしれない。
 十一月の屋上は、俺がこの學園に来たときと比べればだいぶ風が冷たくなっていた。吹き抜けるたびに乾いた音がする。
 トトは、フェンスから外を見るように立っていた。そこから俺を振り返った、その目こそ、乾いた音そのもの。
「《墓》ヲ暴ク者ニハ死ノ呪イ、待チ受ケル……」
 近付いて、声が聞こえるかどうかという距離で。投げかけられたのはただの呟きか、問いだと分かったのは次。
「アナタニハ ソレ受ケ入レル覚悟、アルト イウデスカ?」
 いつもと同じ、墓守の言葉は警告に似てる。俺を遠ざけるための警告は、でも、たぶん。
「じゃ、逆に聞くけど、そっちはあんの?覚悟」
 自分が罪を重ねたくないという意志の裏返し。
「エ……?」
「墓荒らしを、殺す覚悟。ある?」
 トトが、切れ長の眼をまん丸くする。あ、チクショウ、こいつよく見るとえらい顔が良いな。
「俺はねー、いつだって仕方ないと思ってる。」
 トトの背中の向こうは、呆気ないほど綺麗に晴れてる。どうよ?そんな空の下で殺すとか殺されないとか、真っ暗な穴蔵の下での話してんの。物騒。
「俺よりもちょっと強い墓守がいて、俺にちょっと運が足りなくて、俺がちょっとでもドジ踏めばあっという間に死ぬんだと思うよ。ここでの摂理の違反者は俺だしね、淘汰されるのは仕方ないと思う」
「…………」
「でも、俺にはこれしか生きる方法がないから、どっちみち墓を荒らさなきゃいけない。別に、墓守に殺されることを望んでるワケじゃないけど。―――殺されてもそれは、仕方ないって思ってるよ」
 これはずぅーっと、対峙してきた墓守、《執行委員》に言ってきたことなんだけど。みーんな、最後の詰めの甘さがあるせいか、こうして俺はここにいる。まだね。
「けどさ、もしも《墓守》の奴らが、俺を殺すってことでどっか痛んだりするなら、やっぱ、全力で死なないよう努力しちゃうんだ」
 当たり前の話だけど、人は人を、基本的には殺せないようにできている。普通の精神では到底、無理。それが戦争状態でさえ人は人を殺したことを悔やんで悩んで中には発狂したりして。(だからとある国の軍部では戦争の後遺症で兵士が今日も病んでいる。)
 俺を殺す。それは、いくら邪魔者だからといって虫を殺すようにはいかない。―――本当はね。
「……不思議な人デス、アナタ……」
「そ?」
「ボクニハ、アナタト イウ人ガ 分カリマセン……」
 あらまぁ、言われちゃいました。俺、分かり易い方だと思うけど?
 したら、その時別の誰かが屋上に現れたらしくて。一瞬、トトの表情が硬くなって、手を合わせてきた。
「スベテハ《神》ノ御心ノママニ……」
「お、ぉう……」
 ひらひら、手を振ってトトを見送ろうとしたら、そこに。本日二回目の邂逅です、《生徒会》頭目のお出まし。
 トトは一礼して、屋上から去っていった。入れ替わるように俺の前には阿門と書記さん。迫力あるねー……なんてーか、ボインが。
「どーも、カイチョ。こんちは」
「《転校生》……」
 にっこり笑って会釈をすると、ふっ、と溜め息のような反応が返ってきた。
「何事もなく天香から出て行きたいのなら、余計な詮索はしないことだ」
「……それもね、できない相談です。まだ俺も保つし、その間は、踏ん張らなきゃ」
「過ぎた好奇心は身を滅ぼす。それだけのことだ」
 身に纏うコートが、ただ翻っただけ。それなのに気圧されてしまうのは、さすが生徒会長って事なのかも。
 そうして肩越しに、
「覚えておけ、葉佩九龍。この世には、触れてはならぬ闇があるということをな」
 って言うんだ。
 俺には、阿門とか、墓守がどんな重荷を抱えてあの暗くて息の詰まりそうな遺跡を守ってるのか、知らないし知る由もないんだけど。どうもね、その暗いところと俺は、共鳴しちゃってしょうがない。
 たぶん、このカイチョーさんは、一番奥の深くて冷たいところにいるんだよな。
「なあ」
 だから、俺は呼び止めた。
「もしその真っ黒いところに頭まで浸かってたとしたら、そういう忠告って無意味だと思わない?」
 俺と阿門は、別の場所で別の条件で、きっと頭まで真っ黒だ!なんてね。別に、阿門が抱えてるものが何だったとしても俺には関係ないんだけど。
 屋上から出て行こうとするからじゃーねって手を振ってお見送りしたんだけど、さ……。
 アレレ、なぜか書記のお姉さんは後を追わない。で、俺よりもかなり高めの視線(高いヒールのせいだ!)から見下ろしてくる。珍獣を見るような、興味深そうな感じで。
「こんにちは、《転校生》さん。確か、葉佩九龍―――だったかしら?」
「あー、どーもーぉ…」
「さっきは名前も名乗らなくて失礼したわね。あたしはA組の双樹咲重。こうして直にお話しするのは初めてね」
 げッ……その綺麗な笑顔の裏では怒ってらっしゃいますか、さっきのこと。ヤ、俺だって言いすぎたし、申し訳ないと思ってるんですが。
「……スイマセン、俺、あんなこと言うつもりはなかったんスけど。ちょっと、最近調子出なくて…」
「そう、みたいね」
「へ?」
「……酷い顔、してるもの」
 アレレ、言われちゃったよ。そりゃ、あーたみたいに綺麗な顔はしてませんがね。
 と思ったら、ちょっとニュアンスが違ったみたい。
「目の下の隈、誤魔化しているでしょう?それに肌も荒れているみたいだし」
 うへぇ……。このアレは生徒会役員だからか、はたまた女の子だからか。肌荒れ云々なんて男にとっちゃどーでもいいっての。
 でも、気付かれてたのはそんな表面上のことだけじゃなくてさ。綺麗な赤い眼が、まるで全部見透かすように。
「今までずっと感情を覆っていた殻が綻びかけている。だから、ついつい隠しておきたいはずの言葉が出てしまうのでなくて?」
 双樹姐さんは、マニキュアで彩られた綺麗な指で俺の頬に触れてきた。おいおいおいおい、何?この展開?
「……イヤ、俺は、別に……さっきのが本音ってワケでもないし、今日も元気に頑張ってますし」
「そう?」
 意味深な、微笑み。あー、俺、やっぱ女の子には一生勝てないわな…。白岐ちゃんといいルイ先生といい彼女といい、イヤだわ、鋭くて。
 俺は、きっとその時かなり珍妙な顔をしてたんだと思う。双樹姐さんはくすりと息を漏らして話題を変える。
「ところで、あなたにちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「えー、何か?」
「あなたには、好きな香りがあって?」
「香り?」
 今も双樹姐さんからは綺麗な匂いが漂ってくる。女性特有の柔らかくて優しくて甘やかな。
 ……俺が知ってるある女からはそんな香り、しなかったけど。だから、俺は綺麗な意味の『香り』って言われるとこれしか浮かばない。
「よく、分かんないけど、……うーん、ラベンダーかな」
 答えた途端に「ふふふッ」って、意味ありげに笑われた。
「フローラルで、どこか荒削りな甘さをしたラベンダーは、強い癒しの効果を持つ香りよ。繊細な人の心を、様々な苦渋から守る働きをしているわ」
「苦渋から、守る……?」
 イコールで繋ぐワケじゃない。けれど、その匂いをいつも手放さない甲太郎は、無意識にでも、何かから自分を守っているのかもしれない。
「あなたがこの香りを好むのは、いつも近くにあるものだからじゃなくて?」
「……てか、ただそれしか知らないだけってハナシなんだけど」
 他にニオイって言えば、血と硝煙と煙草しか分かんないから。好む好まない関係なく、俺の傍の綺麗なニオイは、あれしかないんだもんよ。
 むー、っと目の前の美女を見上げると、またも意味ありげに笑われて、……両方のほっぺ、ぶにーって。あー、面白いですか俺のほっぺはー。クソぅ!
「ふふ、それじゃあね」
 まるで子供扱い。頬を軽く叩かれて、双樹姐さんは赤い髪を翻す。そんな僅かな動きなのに、ふわりと漂うのは一体何のニオイなんだろう。吸い込んで、頭の中がボーッとなるような。
 霞掛かったような―――もっと言えば、眠気を誘発するような空気の中で、屋上を出て行く双樹姐さんの背中に問い掛けたのは、たぶん無意識。
「な、俺、そんな暗い顔してっか?」
 そしたら、髪をなびかせて肩越しに振り返った彼女は、小さく首を振った。
「……いいえ、これ以上ないくらいの明るい間抜け面よ」
 その言い種も酷ぇな…。どーせ間抜け面ですけどー。
「でも、私には分かる。あなたは、私と同じ匂いがするから」
「へ?」
 俺は、あんな匂い、知らないぜよ?だから同じ匂いがするはずないんだけど、とかなんとか。考えてる間にもう屋上は俺以外誰もいなくなってて。
 いなくなった途端に身体から緊張感が抜けて、あー、やっぱり《生徒会役員》て圧迫感あったんだなーって感じる。
 知らないうちに握ってた手には脂汗かいてて。(人は無意識にでも、危険を感じると脂汗かくんだよね。脂汗は普通のよりべとーっとしてて、相手の一部とか武器とかが滑らないような成分を含んでいるのです。人間て凄いね!)……ってそうじゃない。
 何だか、異様に疲れた気がして、ついでに何だかぼーっと眠くって。そうだ当初の目的は保健室だって思いだしたから、俺はそのまま保健室に向かった。昼休み、もうほとんどないけどもういいや。
「どもー。葉佩でっす」
 保健室の扉を開けた途端、てか、ルイ先生が俺の顔を見た途端、盛大な溜め息。
「……昨日は?」
「……ゼロでーす」
 ほんでまた、溜め息。実はこれがここ最近の俺とルイ先生が顔を合わせるたびにしている会話。
 ルイ先生の質問は、「昨日の睡眠時間は?」って意味。で、ゼロなの、俺。
「ちゃんとベッドには入ったのか?」
「あー……まぁ、ハイ、一応」
「君はただでさえ睡眠効率が著しく悪い。ちゃんと身体を休めようとしないでどうする」
「すんませーん」
 で、俺が保健室に来た理由ってのは……まあ、サボり?てか、睡眠を取るため、かな。
 ここはルイ先生の焚く香とか、施してくれる気功のお陰で眠りやすくなってる。ただでさえ、夜、寝ない俺は真っ昼間にここにきてぐーすかぴーひょろ。午後授業なんてそっちのけ。
 ルイ先生は三発目の溜め息を吐いた後、ベッドスペースを仕切っていたカーテンを開けた。寝ろってことらしい。
「まったく……酷い顔だな」
「あ、それさっきも言われました」
 全身の傷痕とかを隠す塗料を隈とかにも塗って、これでも一応誤魔化してるんだけど。化粧が日常の方々にはバレちゃうのかしらん。
「ほら」
 言われるがまま、真っ白いベッドにダイブ。あー、清潔な感触。
 横でルイ先生は何か不思議な匂いのする香を焚き出して、それがまた、何だかささくれていた神経を落ち着かせる。
「それにしても、ここ最近、まともに眠った日があるのか?」
「うーん、どうでしょ。でもダイジョブっすよ?人間は十一日寝なくても死なないって世界記録があるし!」
 俺、五日くらいまでは実体験で大丈夫だったし。今はぽつぽつ寝てるからそんな酷いことにはならない、と思う。
「……あの夜から、か」
「ふぃ?」
「君が私の家に来ただろう。あの日から、君の氣のバランスが完全に狂ってしまったように思うが?」
 そうですかねー、どうでしょうねー、なんてへらりと笑うと、ルイ先生は溜め息。今日、四回目。もう呆れちゃってる感じ。
「眠れないということには何か心的要因があるはずだぞ」
「あー、何なんでしょうねぇ、一体」
 そんなハナシしてたら本格的に眠くなって、俺は目を閉じた。ゆらゆらと、ルイ先生の声が揺らいで聞こえる。うわ、俺マジでヤバい。脳味噌の端っこまで寝ちゃうかもしんない。どうにかほんの少しだけでも感覚を起こしておかなきゃって思うんだけど……トドメのように掛け布団の上から胸の辺りをゆっくり叩かれて、撃沈。
 ダメだ、……眠ぃ。

*  *  *

 どんだけ、寝たんだろう。そういう感覚すら分かんなくなるくらい、俺は物凄く深いところに落ちてしまっていたらしい。
 何かが聞こえてきて、ようやく聴力だけが僅かに復活。でも夢なのか、現実なのか、薄く意識の表面を滑るような感じ。
 あー……どっかで誰かが話してる。
『……来…るよ』
『…て…のか?』
 誰かがいる気配?でも、俺の感覚は眠ったまま。テリトリーに誰かが入れば、飛び起きるはずの俺の探知能力。ってことは、これは夢?あれぇ?
 なんか、ふわふわしてんなー。
『かなり、参ってるようだ』
『そうらしいな』
 ルイ先生、お香の匂い変えたのかなー。元の匂いじゃなくて、これ、何だっけ?
『何か心当たりは?』
『…………さぁ、な』
 結構嗅ぎ慣れててー……煙草じゃなくてー、あんな鼻に付く感じじゃないし…。硝煙みたいに物騒じゃないし、血の臭いみたいにナマっぽくないしー。
『君は気が付かなかったのか?』
『……気付かないワケ、ねぇだろうが』
 ふわーっとした、甘い匂いだー。そう、俺、この匂い好きなんだ。
 あ、匂いが近付いてくる。
 シャッていう音が聞こえた。匂いと空気が混ざり合う。誰か来た?アレ?でも俺、起きないけど?
「この阿呆が……」
 あ゛ー、髪がぐしゃってなってるー。誰だよーぅ。触んなよー。あ、でも起きないから夢なのか?夢かー。じゃあ、すぐそこにあるいい匂いも夢か?
「……無理、しやがって」
 えっと、この匂い、確か、確かね………。
 ―――ああ、そうだ、これ。
 ラベンダー、だ。

*  *  *

 突然H.A.N.Tが震えた。
 学ランのポケットに入れっぱだったから滅茶苦茶ビビって飛び起きる。凄い勢いで布団を跳ね上げて、そのままベッドから転がり落ちそうになる。
 あー、そうだ、保健室だ。
 まだ一生懸命閉じようとする瞼をこじ開けて、H.A.N.Tを確認すればなぜか差出人はアムロさん。何で夜会のこと知ってんだろ?
 『是非、手伝って欲しいことがある。授業が終わるのを待ってるからな』
 あの人、また學園内を彷徨いてるらしいですよ。飽きないねぇ。
 時計を見れば、今はちょうど放課後ってとこだった。授業が終わるのを待ってる、ってことはもうその時間だよな。
 ベッドから降りて出て行くと、そこには誰もいなかった。ただ、ルイ先生の焚いていた香と、……なんだろ、ちょっと甘い匂いが残っているだけ。勝手に出て行ってもいいかな、って考えてるところにルイ先生が入ってきた。
「ああ、起きたのか」
「オハヨーゴザイマス」
「もう夕方だがな」
 保健室は、西日どころかすでに暗くなり始めてる。気付いたようにルイ先生が電気を点けた。空気が冷たいところを考えると、先生はかなり前からここを出ていたみたいだ。人の温度が、まだ薄い。
「まだ眠ってても良かったが?」
「そういうワケにもいきませんで。放課後はさっさと帰らないと」
 午後いっぱい寝たお陰か、身体はかなり軽い。腹の辺りでもやもやしてたようなのもだいぶ楽になってた。
「ならば、帰ったら身体を温めて早く寝ることだ」
「ヤ、今日は夜会とかなんとかがあるんで行かないと」
 ルイ先生はイスに座ると煙管を銜え、火を点ける。もしかしたら、俺が寝ている間、吸わないでいてくれたのかもしれない。
「夜会か―――。今年は、一体何人ここに運び込まれる事やら」
「え゛ッ、んな事があるんですか?……何すんだろ、夜会って…」
「去年は会場ではしゃぎすぎて怪我をしたり、倒れたりする者が何人もいてな。葉佩、君はそんなことのないよう注意してくれよ?」
「先生が介抱してくれるってんなら俺、力一杯遊んできますッ!!」
「フフッ、ま、その調子なら夜会の方は大丈夫だろう。別方面での心配は募るが、な……」
 別方面て、一体どっち方向だろ。八千穂ちゃんと羽目を外すなってことか?あ、それ心配、確かに。
 なんて、ここで時間を食ってる場合じゃない。生徒は放課後になったらさっさと撤収すべし。教室に戻って鞄、取って来なきゃ。
「ああ、葉佩。忘れ物だ」
「忘れ物?……ああ!」
 呼び止められて差し出されたのは、小さなビンにささった花。白岐ちゃんからもらった、ツユクサみたいな青。
「ずっと握っていたからな。水にさしておいた」
「ありがとうございますー!」
 ちゃんと水を吸ったからか、俺が持ってたときより心なし、元気になってる気がする。良かったー。
「あー、マジで時間ヤベ!ほんじゃ、俺戻ります!」
 小瓶を握って、わたわたと保健室から出る。あ、使用者名簿にも名前書いてないや。まぁ、どうせ毎日来てんだし、いっか。
「葉佩」
「ハイ?」
「……無理は、するなよ」
 なーんて、先生ったら物凄い心配そうな声で言う。
 そしたらさ、俺は無理するつもりでも、そんなこと絶対に言えなくなっちゃうんだよね。だから、保健室に顔だけ覗かせて思いっきり、笑ってみせるんだ。
「大丈夫ですよ、センセ。俺は、まだ」