風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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7th.Discovery 地獄の才能
Night observation - 未確認浮遊感覚 -

 火種が生まれていたのは、一体いつからだったのだろうか。
 自分でも気が付かないうちに芽生えた何かは、次第に圧倒的な支配力で俺を動かし始めた。
 それは欲望だ、久しく忘れていた本能の覚醒だ。求めるという単純な行為を抱いた自分を少しばかりおかしいとは思ったが、しばらくすれば身のうちに納めることも覚えた。
 餓えと共に生きる、それは苦痛であり、快楽だ。

*  *  *

 遺跡でのことだ。
 タマネギの花粉だか何だかを浴びて、不覚にも俺は戦闘中に眠ってしまった。強制的な睡眠というものの威力を体感しながら、それでも落ちきる手前で俺の意識を繋ぎ止める声がある。
 俺の眠りを妨げることのできる存在などそうあるものではない。だが、その声は俺の名を必死に呼びながら、意識を夢まで持って行かせなかった。
『…た…ろ……』
 その声は、何故か震えていた。
 それから、髪や頬や額に、誰かの体温を感じる。柔らかくて、温かい。微かに火薬の匂いがする、でも、嫌いじゃない。
 無意識に声と体温を求めて伸ばした腕は、何かに触れた。
 目を開けた、そこにいたのは、ボロボロの顔をした九龍だった。今にも泣く、という寸前の。
 頭の中からその時の九龍の表情が離れない。あいつは酷く無防備だった。防壁も嘘もなく、ただ俺を呼ぶ声。今まで鉄壁の仮面みたいに貼り付けてたへらへらした笑顔も、それでいて人を遠ざけようとする雰囲気も素振りも、何もかもが消えていた。
 堪らないと思った。あんな顔して触れられて、どうもするなというほうがどうかしている。でも、具体的に何をどうしたいのか、自分自身でも分からなかった。九龍がそこにいる、それだけでは満たされない何かがあるのは事実で、それこそが餓えなのだと気が付いたとき、俺は九龍の部屋にいた。
 風呂上がり、という風体の九龍は部屋着の下だけを身につけ、ベッドに寝転がっていた。ぼんやりと天井を仰ぎ、口元には見慣れないもの―――煙草を、銜えていた。
 気配を怪しんでか、一瞬部屋の空気が張りつめたが、それでも入ってきたのが俺だと分かるといつものように、微笑った。
 それから一言二言会話を交わした後、煙草を消そうとする九龍の腕を止めた。童顔で煙草なんて似合いそうにない九龍が喫煙する姿ってのが、どうにも似つかわしかったからだ。
 俺の手は、意思するより先に動いていた。考えで、というよりは触れたいから触れるという、ただそれだけのこと。
 九龍に触れて、自分でも打ちのめされるほどの確信がほしかった。どうしたいのか、九龍に対して抱いているものは何なのか。
 それに、気付いたのかもしれない。
 他ならぬ九龍自身が、俺に歯止めを掛けた。それ以上近付くなという言外の警告が身を刺した。
 ―――いくら、払う?
 まさかそんなセリフが飛び出すとは欠片も考えていなかった。
 朗らかでも無機質でもない、艶笑。
 背筋を寒気が走った。回された腕も合わせた胸も、嗅ぎ慣れない煙草の臭いも、俺の知らない九龍のものだった。
 初めて、俺の中でブレーキが掛かった。
 九龍に対する感情からではない。このまま触れた後の、自分の行き先が不安だったのだ。
 まるで知らない九龍を目の前にして、果てがないのではないかという思いが生まれた。近付こうとすればまったく違う存在に変貌する。俺は、その全てを追ってしまうのではないか。風のように捕らえ所のないものを、愚かにも追い続けるのではないだろうか。
 まるで邪気などないように、けれど妖しげな笑みを浮かべた九龍から、俺は手を離した。そして、いつもの笑顔に戻って手を振る九龍を背に部屋を出た後、自室で頭を抱える羽目になる。
 ベッドに倒れ込み、眠気が来ないことを不思議に思いながら、傍らで九龍を想う。
 最初は、ふざけたヤツだと思った。女には甘く、男にもそこそこ甘く、いつも笑ってばかりいた。その裏で自分自身にはゾッとするほど厳しいということに気付き、いつもの笑顔も人と等間隔を取るための防衛壁だということに気付き、その向こう側に行きたいと欲する自分にも気が付いた。
 過去に、何があったかは知らない。だが、深い傷に苛まれていることは分かる。時折その傷が開き、苦しんでいることも知っている。誰にも見せようとせず、血を垂れ流したままそれでも戦い続けるあいつに、俺はどうしたい?どうしてやりたい?
 自分の想いの正体が見えない。九龍の真実も見えない。俺に出て行けという顔をしながら、鼓動だけは早鐘を打っていたことには気がついた。何が本当で、何が嘘なのか……そのまま眠ってしまった俺の見た夢は、そのどれでもなく。
 九龍が砂のように崩れて消える夢だった。

*  *  *

 朝が来る。
 後味の悪い夢のせいで、まともに寝た気がしない。
 遮光カーテンから僅かに差す光を受けながら、昨日の事を思い出していた。九龍の言葉の意味。身体を金に換えるという意図の発言が、簡単に飛び出した真意。分からなくて、知りたいが為に九龍の過去を、捲りたくなる。
(いくら、払う―――か…)
 金であいつに触れて、すべてをさらけ出させることができるなら金くらい何とかする。だが、あいつは金でどうこうなる人間じゃない。もっと別の、何かが必要なはずだ。
 俺が持ち得る何かで、あいつに近寄れるのだろうか。
 ベッドの中でうだうだ考えていたら、何だかもう面倒くさくなった。九龍の顔もまともに見ることができないだろうし、もう一眠りして午前中の授業はフケることに決めた。
 布団を頭から被り、太陽から逃げるように丸まった俺の耳に飛び込んできたのは扉をけたたましく叩く音。
 誰だ?……こんなことするヤツはひとりしか思い浮かばないが、まさか。
「こうたっろー!」
 まさか、だ。布団をはね除けて身体を起こし、扉を凝視する。
「あーさでーすよー、学校ですよー」
 呆気にとられて返事をしないでいると、声は止み、胸をなで下ろしていると。
「甲太郎ー!起き……って、起きてんじゃん、返事しろよー」
 窓の施錠を忘れていた。
「ガッコ。遅れっちゃいますよ。早く支度しませり」
 昨日の―――昼間と。何も変わらない九龍がそこにいた。窓から顔を出し、支度を急げと俺を急かす。
「何だよ、じーっと見ちゃって。俺ってそんなにいい男?ヤだよもー、言わなくっても分かってる♪」
 下で待ってるからさっさと来いよ、と言い残してあっさりと窓は閉まる。
 …何事もなかったかのような顔をされた。昨日の朝のようだ。まるで、時間を戻したように。
 どういうことだ?考えながらも手早く支度を済ませ、潰れた鞄を抱えて部屋を出た。九龍が待つと言った『下』とは一階の玄関前ロビーのことだ。
 階段を降りながら何度も昨日の夜の艶やかな空気と、さっきの九龍を思い浮かべる。あの晴れやかな顔は何だ?一体、どういうつもりだ?
 悩む時間はそれほど与えられたわけではなく、どれほど歩みを遅くしてもすぐに一階に着いてしまう。
 階段を降りきり、妙に騒がしい玄関を覗くと、そこには九龍……と、元執行委員の連中がたむろしていた。取手に墨木に真里野か?
 近寄ると、真っ先に俺に気が付いた九龍が手を振ってきた。
「やっと来たー」
「………」
「今、漫画の話してたんだけど、剣介が漫画読んだことないとか言ってさ!今勧めてるトコなんだけど。鎌治のオススメが『スラムダンク』、砲介のオススメが『砂ぼうず』。甲太郎はどっちが良いと思う?」
 ちなみに俺は『ゲッターロボ』なんだけど。
 そう言って、へらっと笑う九龍の言葉に、何か違和感を感じた。一つ一つの単語を思い出しながら、合点する。
 名前、だ。人の名は個体識別するための手段として呼んでいる、だけだったはずの九龍が。そこにいる人間を下の名前で呼んでいた。これが九龍でなければ、普通の人間ならば違和感などないのだろう。
 だが、必要以上に他人と接近したがらなかった九龍がそうするということには何か意味がある気がした。人の名を呼ぶ、ということを怖がりさえしていた奴だ。
「な、甲太郎、聞いてる?」
「……あ、あぁ、聞いてる」
「じゃ、何がいいと思う?」
 俺の顔を覗き込んでくる九龍に、変化はない。いつものように、笑っている。
「本のことなら七瀬にでも聞けばいいんじゃないか。そこの似非サムライもそっちのがいいんだろ」
「な、何をッ!!拙者はただ単純に、漫画という物を、」
「ハイハイ」
 あんな剣道野郎のことはどうでもよかった。それよりも、こんな遣り取りを笑って見ている九龍のことが気になった。まるで笑顔のまま壊れてしまった人形のようだ。楽しげに、けれどどこも見ていないような眼差しで、九龍はそこにいた。

*  *  *

 その日から、執行委員たちやバディの連中の関係が変化し始めた。この間は椎名と黒塚がレース編みをしているのを見かけた。墨木と取手がノートを貸し借りしている姿、マミーズで集団がたむろをしていたり、何人かで図書室にデバガメしに行っているのも見た。
 九龍は度々自分の部屋に連中を呼び入れるようになり、夕飯を作ってやったり勉強会をやったりしているようだ。
 とかくキャラが濃いせいで浮きがちだった執行委員の連中が、知らないうちに居場所を見つけ、そこに馴染んでいる。過去に傷を持つ者同士、そして傷付けあった者同士でありながら、九龍の側にいるときは奴ら、えらく穏やかな顔をするようになった。
 何かが、変わっている。変わっていく。肌で感じるほどの変化の中で、けれど、変化の起点となっているはずの九龍は、いつも変わらぬ笑顔を貼り付けている。
 それを見るたびに思う。
 九龍の心裏は何なのか。何を考え、何がしたいのか、何が嘘で、何が本当なのか。
 だが、おそらく暴こうとしたところで拒絶されるのだろう。それくらい、あいつの笑顔は鉄壁だった。
 まったく変わらずに接してくる九龍の、最奥に、触れたいと強く思いながら。
 けれど俺は、伸ばした指の先で、躊躇する。

End...