風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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7th.Discovery 地獄の才能 - 6 -

 パターンから言って、遺跡には墨木がいるはずだ。今日も潜らなくちゃいけないんだろうけど、じゃあバディは誰にしようって考えて、真っ先に甲太郎は脳内から除外した。
 あんなこと言われて、遺跡で顔を合わせるのは気まずすぎる。仕事に私情を持ち込むなって怒られそうだけど…嫌なもんは嫌なんだもんよ。
 自室でシャワーを浴びながら押さえられた腕を見てみると、うっすら鬱血。跡になるまで力入れんなっつーの。
 それから、皮を裂いた浅い銃創。触れるとチリッとした痺れみたいなのが走って、同時に、別の感触まで思い出してしまう。
 アレ、軽く嫌がらせだったりする?何も言わなかった俺に対しての。だったら、それってもの凄い効果を発揮してると思う。俺の頭ン中、かなりボロボロだもん。
 性格、悪。
 心中悪態つきながら部屋に戻って新しい制服に着替えて、パソコンに向かった。ロゼッタのサイトに行ってみると、あらま、ハンターランキングが上がってる。『超常現象研究家』だって。面白げ。これまでの依頼人の信頼度はマックスになってるから、新しい人の依頼をいくつか受けてみる。
 金も随分貯まったなー。田舎だったら家が一軒建ちそうだ。武器を揃える以外に使い道がないんだから当然っちゃー当然か。
 石油王サンとか皇太子とかは、パトロンになってくれるとか言うけど、別に贅沢する気はないから今の稼ぎで生きていきます。
 弟を楽にしたいからステンレス包丁を送ってというホープちゃんに少し物資を送る手続きをしてから、PCの電源を落とした。まだ学校内が静かになるまでは時間があるから、折角もらった校舎の鍵を使ってみようかと思って部屋を出る。
 男子寮を出る途中でメールを受信して、見ればタイトルが『お主の身を案ずる者』ですって、素敵すぎです真里野さん…九龍、惚れそう。
『ふとお主が心配になって、このような文をしたためた次第だ。お主なら、拙者が近くにいないときであろうと、切り抜けていけるであろうがな』
 うぉー。好きだー、真里野ー!とりあえず今日のバディその一、決定。だとしたら七瀬ちゃんも誘った方がいいのかもしんないけど、七瀬ちゃんをイキナリあそこに引っ張っていくってのも気が引けるしなぁ。取手か肥後あたりでも誘おっかな。
 面子を思い出しながらロビーに出ると、そこには見慣れた黄色い制服でチラシ配りをする舞草ちゃんの姿が。
「おっつー、舞草ちゃん」
「あ~ッ、葉佩くん!今からお出かけですか?」
「舞草ちゃんに会いに来ました♪」
 手を振りながら近付いていくと、舞草ちゃんたらオーバーリアクション。
「ええぇぇぇ~ッ、あた、あたしにッ!?も~、葉佩くん、お姉さんをからかっちゃダメよォ~。……本気にしちゃうぞ?」
「どうっぞー」
 それから猫のラベンダーの話や新メニューの話、コスモレンジャーの話をして、
「それじゃ、チラシ配り終わったんで~、お店に戻りますねッ」
 っていうから丁度いい、一緒に外に出た。
 でも、その途中で不審人物発見。プールの方から歩いてくるあれは。
「ゴメン、舞草ちゃん。俺、ちょっとあっちに用がありまして」
 舞草ちゃんに先に行ってもらって、今日も派手な格好してる隠密宇宙刑事アムロさんに声を掛けた。
「こんばんは、アムロさん」
「よォ、葉佩君」
 近付いてきたアムロさんは、まるで内緒話でもするかのようにこそこそと俺の肩に腕を回してくる。そんなことしなくても充分目立つし怪しいのにね。
「ちょ~っと、お兄さんのお願い、聞いてもらえるかな?」
「聞けるもんなら、聞きますけど…何スか?」
「おッ、いいねいいねェ。お兄さん、素直な子は大好きだぜ。よっしゃ、ご褒美にこれをやろう」
 って、牛乳を頂いたんですが…アムロさん、話を聞くって言っただけで素直って…どんだけ周りから虐げられてるんだろ…可哀想に。
「さて、それじゃ早速本題に入らせてもらうぜ。実は、な、この學園みたいな閉鎖空間で潜入調査なんてことをやってるとよ、ど~も、世情ってヤツに疎くなっちまうんだよな。そこで、だ。《外》の情報が得られるような、そんなものがあったら、俺に渡しちゃもらえないもんかね?」
「外の情報?あ、雑誌なら部屋に行きゃありますよ?来ますか?」
「おッ!葉佩君の部屋か。お招きに預かれるのかい?」
「その代わり一応非常階段から入ってくださいよ?見つかって怒られっと困るし」
 この人を学校の敷地内でふらふらさせておくのもなんとなく不安で、成り行き、アムロさんを部屋に呼んだ。片付けてあるし、見られてまずいものは隠してあるし。
 俺が玄関から入り、人が捌けたのを見計らって非常口の鍵を中から開けた。
「狭いっすけど、どーぞ」
「お邪魔しまーす。おぉ、片付いてるじゃないか、最近の高校生にしては」
「ヤ、片付けできるできないは最近の高校生とか関係ないんじゃ……あ、雑誌はそこに積んでありますよ。ベッドの下にはエッチな雑誌とかないんで、悪しからず」
 添え付けの簡易キッチンから言うと、そうかー、と明らかに落胆したような声が聞こえてきた。残念でした。
 もらったばかりの牛乳を使ったミルクティーを出すと、見計らったようにアムロさんのお腹が鳴った。
「メシ、食ってないんスか?」
「いやー、何せ隠れて調査しなくちゃいけないもんでよ。人が多い時間にはマミーズにも行けねぇんだ」
「カレー、食います?昨日の残りなんスけど」
「何ィ!?は、葉佩君、君ってヤツは、本当に良い子だねぇ、お兄さん感動して涙が…」
 残り物のカレーで本当に涙ぐむんだ…。ホント、この人の生きている環境が知りたい。
 アムロさんが雑誌を読んでる間に鍋でカレーを温めて、化人から分捕った海藻でサラダを作って出したら……泣きながら食ってる。
「旨いよ葉佩君!これは良い嫁さんになれるね。俺が保障しよう」
「……俺は嫁さんが欲しいっす」
 物凄まじい食いっぷりに半分呆れながらお代わりをよそってくると、その間にアムロさんが雑誌のある記事を見つけていた。
「『練馬区で子供たちに大人気の戦隊、テレビ番組化決定!!マミーズが提供に名乗り』うぉぉぉ!ついに映像化か!!見てぇ~ッ!!って、放送開始は年明けかよ!!」
「あ、コスモっすか?」
「そうそう。く~ッ、それまでに終わるのかな、この調査……」
「俺もコスモレンジャー好きっスよー。格好良いっスよねー、練馬区のヒーロー!ほら、あそこポスターあるし」
 窓に貼ってあるコスモレンジャーのポスターを指すと、振り返ったアムロさんの目がきらきら輝き始めた。
「あれは!非売品の限定ポスターじゃねぇか!!」
「マミーズでもらったんすよ」
「く~、良いモン持ってるな、葉佩君。君は俺の仲間だ。カレーの礼もあるしな、これ、よかったら使ってくれや」
 ジャケットのポケットから取りだしたのは、大きめのサングラス。ちょうど、アムロさんが着けてるようなヤツだった。
「いいんスか?貰っちゃって」
「へへへッ、なかなかイカしてるだろ?それ。また何かあったら、よろしく頼むぜ」
「ありがとうございます」
 お、しかも掛けてみるとなかなかイイ感じ。ちょっとデカいけど。俺の頭が小さいせい?うるせぇ、どうせ俺は規格以下だよ。
 って、二人でコスモについて語っていた後ろで、扉を叩く音がしてきた。
 ……もしや。
 アムロさんに部屋の隅に寄ってもらってからほんの少し、扉を開けると。
 案の定、そこに立っていたのは甲太郎だった。
「何か、ご用?」
「中に誰かいるのか?」
「え?何で」
「声が聞こえてきた」
 うーん、でも、ま、甲太郎ならアムロさんのこと知ってるから別に問題はないか、と思った途端。いきなり半開きだった扉を、甲太郎が全開にして部屋に乗り込んできた。
 その先でカレーを食ってるアムロさんを見つけるが否や…
「……この野郎」
「え、えぇッ!?」
 何故かキレ気味な皆守さん。俺が驚いてる間に、あっと言う間にアムロさんの胸ぐらを締め上げた。
「てめぇ、何で九龍の部屋にいやがるッ!!」
「ぐぇぇ、苦しい、苦しいって、少年!」
「いいから答えろッ」
 よくないよくない!な、何で?こないだ校舎で会ったときは、甲太郎のヤツ、アムロさんのこと逃がしてやってたじゃん!?それが何で今はこんなに怒ってるんだよ、オイ!
「皆守!やめろって、ホントに絞まってるから!」
「お前もお前だ、何でこんなヤツを部屋に入れるんだッ!」
「えぇ!?」
 矛先が何故か俺に向いて、じりじりと詰め寄られる。
 こっちは甲太郎が怒ってる理由が全然分かんなくて、困惑。
 その間にアムロさんはこそこそと二杯目のカレーを持ったまま窓の方に移動してる。それから窓の桟に足を掛けて、こっちを振り返った。
「葉佩君、友達は選んだ方がいいぞ。人生の先輩からのアドバイスだ」
「余計な世話だッ」
 なんで甲太郎が答えるんだというそこはかとない疑問がふつふつと。首を傾げてる間に、アムロさんは窓の外へと消えていった。
 少しの間、呆然と取っ組み合った姿勢のまま窓の方を見遣っていたんだけど、我に返った甲太郎は苦々しげに舌打ちをして俺の胸ぐらから手を離す。
「……皿、持ってかれちゃった」
「そういう問題じゃないだろうが…」
 静かになった部屋で手持ちぶさたになった俺は、とりあえずテーブルの片付けを始めた。甲太郎は出て行く気配もなくベッドに腰かけてる。
「おい」
「ん?」
「あんな、どこの馬の骨かも解らないようなのを簡単に部屋に上げるなよ」
「……それ、年頃の娘に父親とかが言う台詞なんじゃねーの?別に怪しい人じゃないし、アムロさん」
「充分、怪しいだろ」
 滅茶苦茶トゲのある言い方。ホント、何でそんなに怒ってんだろ。
 シンクで皿を洗いながら横目で様子を見ると、アムロさんの読んでた雑誌とかをぱらぱら捲ってた。
「何か、飲む?あ、メシは…」
「要らない。それより、今日のバディは決めたのか」
「あぁ、…うん。真里野、誘おうかなって」
「そうか。なら行くぞ」
「へ?」
 皿洗いもまだ途中、さっさと行くぞって、甲太郎にバディ要請は出してない、なのに、もう決定事項らしいよ、甲太郎と一緒に潜るって。
「ちょ、ちょっと、えぇッ!?」
「早くしろよ、俺はさっさと戻って寝たいんだからな」
 だから、まだ誘ってないんだってば。なんて、心の中でぼやいてみても効果なし、当然か。
 問答無用、エプロンして前髪を髪留めで上げてる間抜けな格好のまま、俺は外へと連れ出された。

*  *  *

 結局、装備は遺跡の中で揃えた。
 あの後、急いで真里野にバディ要請を入れて、練習が終わったばかりだというのに文句も言わず出てきてくれた奴に、ひたすら頭を下げた。隣で欠伸なんぞしている甲太郎にも責任はあると思うんだけど、本人は至って我関せず。
 墓に潜って北北東、光の差す方の扉を開ける。途端に、ムッと、湿った空気で噎せ返りそうになった。
「何だろ……木の、におい?」
「らしいな」
 って言っても、隣でラベンダーぷーかぷかやられてるとそれも半減するんだけど。
 二人と一緒に落差の激しい坂を降りて、先の扉を開けると、その先は少し開けた場所。そして……紫色の羽撃き。
 江見メモのじゃなくて、揺らぐように飛ぶ蝶がいた。
 迷わずに手を伸ばすと、蝶は俺の指先に口付けるように止まった。そして、霞の中で人の形に変わる。
「いらっしゃい……」
「こんばんは」
「また会えたわね。若き探求者よ……」
 グラマラスな美女の、突然の登場。真里野は驚いて言葉も出ない様子。
「その様子ではまだ本来の目的に、辿り着いてはいないようだけれど……どう?あなたはこの先も進んでゆく自信がおあり?」
「……よく、分かんないっす」
 本来の目的って言うのが何なのか、それすら分かんないんだからたどり着く場所がどこにあるのかも分かるはずがない。
「疲れ、失い、ついには姿ごと何もなくなってしまった者を今まで幾人も見てきたわ……」
 それは、あなたのことじゃないんですか、って。聞きそうになって止めた。ふわっと、マダム・バタフライが微笑んだから。
「自信がないのなら歩みを止めなさい。わたくしには見える。あなたの情熱は、一時留まればすぐにでも飽和する───、枯れることを知らない泉のようでいてよ……」
「何で……そんなに俺のこと、分かっちゃうんですか?」
 それは、まるで愚問だとでも言うように、彼女は溜め息のような笑い声を漏らした。壮絶に色っぽくて、妖艶で、なのにどこか、俺の知ってるあいつに似ている気がする。
「ここは人の心が惑う泡沫の迷図……」
「…………」
「あなたは求め、そして───わたくしも求めている。わたくしたちは見出すだめに向かい合っている……また、会いましょう」
 言い残して、彼女は消えた。違う、蝶の姿に戻って、ふわふわとその場を舞い始めた。
 俺は軽く一礼だけして、そこから離れた。
「九龍、い、今のご婦人は…」
「遺跡の神秘。綺麗な人でしょ?」
「う、うむ……あ、いや、だが拙者は…」
「ハイハイ」
 七瀬ちゃんが一番、ってんでしょ?分かっております。言われなくても。
 顔を赤くした真里野の肩を数回叩いて、それからすぐ近くにおいてあった石碑の解析に入った。
「えっと…『《葦原中国》へ降り立たった天若日子。《下照比売》を妻とし《天上》へと帰ることはなかった』……葦原中国への秩序と統治の話ってワケね」
「お前、歴史、苦手なんじゃなかったのか」
「最近お勉強してますから。ただ化人を斃すだけじゃハンター稼業、やってられません」
 大国主神の統治する地上は、神々が好き勝手に飛び回る混沌の場所だった。天若日子は、そこに秩序をもたらすための二人目の使者なんだよな。でも、大国主神の人柄に惹かれて、結局地上で奥さんまでもらって、それっきり。
 さて、それじゃあこの石碑は何を意味するんだろうって考えて、通路の先を見た。
 そこはだだっ広い大広間。入ったら、化人が出て来るとか?
 考えて、俺が先頭に立って、通路を抜けた、その瞬間。
 事態は急変、化人が湧いて出たとかそういうんじゃなくて、罠。H.A.N.Tの音声ナビと、重たい何かが動く不気味な音を認識したとき、俺の身体は咄嗟に後ろの甲太郎を通路の方へ突き飛ばしていた。
「ッ…―――九龍!!」
 甲太郎と真里野の声がユニゾンで聞こえたのを最後に、通路が封鎖された。
 目を凝らせば、前の通路も塞がってしまったようだ。
 そして、不気味な音の正体は、壁が動く音。ごりごりと、左右の壁が中央に迫ってくる。
「……古人曰く、八方塞がり、ってヤツ?」
 こうなるともう、苦笑いしか出てこない。キてますねー、俺のパッシブスキル:疫病神。絶好調じゃねーか。
 壁の迫る速度を考えれば、あと数分でぺしゃんこ。解除を急がなければならないけど、その前に。
「二人とも、いる?そっちは何ともないか?」
「九龍!?おい、無事かッ!!」
「こちらは何ともないが……お主の方は如何いたした!?」
 なんだか俺よりあっちの方が切羽詰まってるような声してるけど、大丈夫なんかな。
「不要緊、無事無事ー。だけどさー、あと十分経って、俺が出てこなかったら、上に戻って。な?」
「なッ――――…おい!!」
 後はもう、もの凄い罵声の嵐。ふざけるなだの馬鹿野郎だの、散々。
 あっちには聞こえないだろうけど、ゴメンな、とだけ呟いて。俺は何とか生き残ることに必死になってみる。
 とりあえず蛇のスイッチを入れようとしてみるけど、まったく動く気配はない。でも、解除の鍵はこの部屋にあるはずなんだ。
 あの石碑がヒントになっているとすれば葦原中国、天若日子、下照比売、天上辺りがキーワードなんだろうけど…部屋にそれらしきモチーフはない。壁は迫ってくるばかりだし、何が描いてあるのかとか判別もできない。
 と、見れば床に何やらスイッチがある。等間隔に三つ設置されていて、試しに一番近くのを踏んでみたけど、手応えはなし。すぐに元に戻ってしまう。
 じっくり考えてる時間は、もうあまり無いらしい。壁の幅は、もうかなり狭まっている。さっきまで通路から声が聞こえてたんだけど、もう壁でふさがれて何も聞こえない。
 必死に頭を働かせて、さっきの石碑の文章を思い出す。
「葦原中国……下照比売、天上……?」
 最初に中央、それから下、最後に上?
 思い当たって、真ん中のスイッチを踏むと見事作動したらしく、足を離してもスイッチは入ったまま。
 もし入ってきたところが下だと考えるなら、次のスイッチは蛇の柄の前にある、アレ?
 急いで踏むと、ビンゴ、大正解。最後は一番遠い南のスイッチだ。それを踏む頃にはもう、肩幅くらいに壁が迫ってて移動にもいっぱいいっぱいだったんだけど、どうにかスイッチを踏み抜いた。
 ―――けれど、壁の移動は止まらない。
「ウソ…」
 ホント。どんどん空間は狭くなって、息の詰まるような圧迫感が襲ってきた。
「ヤバい、かな…」
 頭の中に、甲太郎の『お前は―――死を、怖れた事はないのか?』という問いが頭を過ぎる。
 俺は、もうすぐそこに死が迫ってるという状況を、怖れてるんだろうか?もちろん、望んではいない。でも……怖れてる?
 前に朱堂のエリアで吊り天井に押しつぶされそうになったときは、確かに怖かった。でもあれは、甲太郎を死なせてしまうことが怖かったんだ。
 あの場が、俺だけだったら?俺は、生きるために足掻いたのだろうか…。
 頭を必死で働かせてるのに、実感のない死という観念が侵蝕するように邪魔をする。
 もしかしたら、半ば、諦め掛けてたのかもしれない。
「クソッ……」
 悪態を吐いて、無駄だと分かっていても迫り来る両脇の壁を押し戻そうと力を込める。やっぱり無駄で、逆に腕を変な方向に捻っちゃったんだけど、もうダメかって、顔を上げた、そこに。信じられないものを見た。
 狭まる視界の向こう側、蛇の柄が付いている場所に、蝶が飛んでいるのが見えた。紫色の、まるでさっき見たマダム・バタフライの変わり身のような。
 けれど、閉じこめられたときは確かに蝶などいなかった。俺だけだった、はずなのに。
 信じられないという思いはあったけど、構わずに俺はそこへ向かって身体を捩った。
 辿り着く頃には、身体を横に向けないと動けないほどになってて、圧迫されるせいで銃やらH.A.N.Tやらが当たって痛い。ミシミシ鳴るのが壁なのか、身体なのか、区別も付かないくらいになってようやく、あと数センチで蝶に触れられそうになった。
 そこで、身体がつかえた。押された胸から、おかしな音の息が漏れ出す。とんでもない苦痛と、霞んでいく意識の中で、頭の奥から聞こえてくる声。
 誰の声なのか。朦朧としながら声を追った。
『クロウ』
 前なら、間違いなく俺を呼ぶのはあの女だった。
 なのに―――今、脳裏にちらつく紫色を纏う影。それが、もっと背の高い、手足の長い男に取って代わっている。そうして、呼ぶんだ。
『九龍…』って……。
 もう一度、あの声に呼ばれたいと、思った。
 その思いだけを頼りに、傾き掛けた意識を呼び戻す。
 まだ、死にたくない。死ねない。死んで、たまるか。
 現実なのか夢なのか生きてるのか死んでるのか、全部の感覚の境目で、紫色の蝶に向かって手を伸ばした。伸ばし続けた。
 そうして中指の先が触れる、と、感じた瞬間。
 蝶の姿は掻き消えて、代わりに指先が、蛇の柄を押し下げていた。

*  *  *

 罠が解除されて、広間に二人が飛び込んできた。
 情けないことに俺は、身体が軋むのと息が巧くできないのとで、仰向けになって胸を喘がせるばかり。胸のどこかに穴でも開いたんじゃなかろうかっていうほどの痛みがあったけど、全身が痛みすぎててどこをどう負傷したのか把握できない。
「九龍ッ」
 血相変えて駆け寄ってきた二人に、無事だよって意味でへらへら手を振ることが精一杯。
 それでも笑顔を作るのがしんどい辺り、相当ヤバかったってこと。
 立ち上がれないでいる視界の中に、二人の姿が映る。
「大丈夫か、九龍」
 気遣ってくれる真里野とは対照的に、
「……お前はッ!」
 甲太郎に胸ぐらを掴み上げられて、一瞬息が詰まる。じわじわと胸に広がる痛みは、負傷のせいだと思いたい。特記事項:ドライです、をこんな必死にさせちゃったのが苦しいとか、そんなんじゃ断じてない、はず。
「何考えてんだ馬鹿野郎ッ」
 怒鳴られても答えられなくて、くたり。力の入らない俺を見て、真里野が慌てたように止めに入った。
「皆守殿、止められよ!」
「大、丈夫…だって、……ヘーキ。情形好!!」
 でも、ちょっと休ませてと笑うと、甲太郎はほん投げるように手を離した。落ちる、寸前を真里野がキャッチ。
「九龍、大事ないか?」
「ん……生きてる」
 けど、笑顔が相当腑抜けてるのか、真里野、超心配顔。見てらんなくって、ちらっと首だけで甲太郎の方を見ると、壁際で滅茶苦茶怖い顔してるのが見える。握り拳で思いっ切り壁叩いて、きつく口元引き結んじゃって。
 ……甲太郎は、何も悪くないのに。何であいつはあんな顔するんだろう。まさか、突き飛ばしたときに怪我でも?
 痛みに耐えて身体を起こし甲太郎に近付くと、まるで来るなと言わんばかりの眼で睨まれちゃいました。
「……どっか、痛むのかよ?」
「…あぁ?」
「なんか、怖い顔、してるから」
 言った途端、軽く胸を突かれた。俺の喉からは喘息のようなヒュウ、という音が漏れる。
「誰のせいだと思ってる」
「……スイマセン」
「悪いなんて思ってないなら謝るな」
 うわ、それ前にも言われた気がする。学習してねぇな、俺。
「じゃ、じゃあ、先、行こっか」
「その前に何とかの井戸だろうが」
「え……いいよ、別に」
 強く腕を引かれる。そんなの許さないって顔だけど、いちいち戻ってる時間が勿体ない。
「大丈夫だってば…辛くなったら言うって」
「駄目だ」
「何で」
「信用できない」
 うわ、言われた。
 その一言、結構ズシンとくる。まー、そりゃそうですよね。本当のこと、何一つ言わない野郎なんか、信じられませんよね。
「途中で倒れられでもしたら迷惑だ。戻るぞ」
 首根っこ掴まれたのを嫌がって振り払うと、阿修羅のような視線が降ってくる。怖。
「だ、だってさ、別に大した罠があった訳じゃなくて。ほら、擦り傷程度で済んだことだし」
「じゃあ何でひっくり返ってたんだよ」
「やー、部屋中走り回されて疲れたの。そんだけ」
 無傷をアピールするようにラジオ体操第二みたいな動きをしたんだけど、なーんか、疑り深そうな。本当に、信用ねぇなー。
 でも、ほら、さっさと帰って寝たいって言ったのは甲太郎だし。こうしてる時間すら惜しいでしょ?
「さー!頑張って行きましょいッ」
 イエーイ、とか言いながら片腕を上げたら、脇腹に激痛が走る。でも、顔を顰めるのだけは堪えた。大丈夫。まだ、行ける。内臓に骨が刺さってる訳じゃない。これくらいで任務放棄?冗談じゃない。
 気張れ、俺。弱みだけは絶対に見せない。
 甲太郎に勘付かれないよう小さく息を吐くと、扉を開けた。