風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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5th.Discovery Brew - Calling -

 あの遺跡で何があったのか、俺は知らない。
 部屋に戻ってきた九龍は何も話さず、少しだけ泣いて、それから俺を「甲太郎」と呼んだ。
 硝煙と血の匂いがラベンダーの領域を侵犯してきたこともまったく不愉快にならず、それどころかあいつの体温がやたらと心地良くて、気が付いたら九龍を腕に抱えたまま寝っこけていた。座ったまま寝たせいで起き抜けは腰痛が酷かったぜ。九龍のヤツも珍しく、生きてるかってくらいに深く寝入っていて、起こすのを躊躇ったほどだ。
 あの遺跡で何があったのか、俺は知らない。
 ただ、次の日から取手のヤツが九龍を名前で呼ぶようになっており、便乗するかのように八千穂まで。別にそれがどうというわけではないが、呼ばれてへらへらしながらそれに答える九龍の姿を見ることが何故か気に食わない。
「皆守ー、メシ行っこうぜ!」
 しかも、これだ。阿呆に磨きがかかったような晴れやかさ。昨日は半泣きだったくせに、今日はそんなのが夢だったのかと思うような顔のまま「皆守」だと。
 これが朝から何度目か、俺はずっと苛々しっぱなしだった。自分自身で何でこんなに苛ついているのか分からないから余計に始末が悪い。よほど葉佩って呼び返してやろうかとも思ったが、意味がないから止めた。
「八千穂ちゃんもどう?今日は俺らカレーパンだけど」
「んー。どうしようかなー」
 八千穂が顎に指を当てて考えてる間に、俺は九龍の首元を引っ張った。
「迷うくらいなら来るな。そういや白岐が弁当持って美術室行ったぞ。そっち誘え」
「えッ、そうなの?」
「てワケだ。行くぞ、九龍」
「えーーーッ!?」
 藻掻く九龍をド突いて蹴飛ばし、問答無用で引きずって、屋上まで連れて行く。人目を思い切り引いてる気がするが、それに構う気はなかった。
「ちょ、ちょっと、ちょいちょい、皆守サン?」
「……るせぇ」
 小柄なヤツを抱え込むようにして、階段を登って、屋上。誰もいない空間に、強めの風が吹いていた。
「すいまっせーん、いい加減荷物みたいに持つの止めていただけません?」
「ああ、悪かったな」
 手を放すと、まるで猫のような身のこなしで着地しやがる。それから取りだしたカレーパンを俺に放り投げてきた。今日もあの売店のパン争奪戦に勝利してきた戦利品だ。
「……なんか、怒ってない?」
「別に」
 梯子を登って給水タンクの前に座ると、後から梯子を半分ほど登った九龍がコンクリに肘だけ掛けて、見上げてくる。
「なーんですかー。怒ってますよねぇ」
「怒ってねーよ」
 九龍はその返答が不満だったのか、膨れっ面をして肘に頬を埋める。うわ、不細工。
「あのさー、まさか、とは思うけど」
「…何だよ」
 苛つきの原因を嗅ぎ当てられたかと、思わず九龍の真っ直ぐな視線から目を逸らしてしまった。
 けれど。
「昨日、変な格好で寝たせいで腰痛酷くて機嫌悪いとか?」
「……違ぇよ」
「あー!そうだ、そうなんだ!でもアレ、別に俺のせいじゃねーかんな!?」
 知ってるよ。勝手に待ってた俺のせいだろ?んなことは分かってるっての。
『バディは俺じゃなくてもいい』
 そうは言ったものの、あいつが穴の中に消えた後は無性に落ち着かなかった。もし、この瞬間にもあいつは化人の群の中に突っ込んでいるのかと思うと、『あの時』感じた寒気にも似た胸の痛みに襲われた。
 空洞。昏い、胸に開いた穴は日増しに広がっている気がした。食い止める術は知らず、それを必要とは感じず、ただ侵蝕されるに任せていたのが、九龍がやってくるまでのことだった。
 あいつが来てからは、今まで完全に忘れたと思っていた感情の起伏が俺の意識とは関係なく戻ってきやがった。それは必ずしも持っていて楽だと感じる感情ばかりではなく、大概が喜怒哀楽の中の怒、時折の哀くらいなものだった。何か行動を起こすたびにこっちは怒らされたりハラハラさせられたり苛立たせられたり、……心配させられたり。負の感情のようなもの、それでも、空虚さは無く、ほんの少し前までは自分の中に何もなく、凪いでいたなんてことを忘れてしまうほどだった。
 ただ、それはほとんど、俺がこいつの隣にいて起きる事に対してだ。昨日初めて、姿の見えないあいつがもしも戻ってこなかったらという想像の中で、昏い穴を見た。手を放した事を後悔した。他の誰かにあいつの命を任せた事を、後悔した。
 だから、きっちりあいつが帰ってきたのを実感するために、部屋で、手を伸ばしたんだよ。
 だから、そこであいつが「ただいま」って言った事で、実感したし、何より。
 俺の名前を呼んだときに、あいつの中に俺が居るって事も、実感した。
 ってのに、一夜明けたらこうだよ。
「腰痛しんどいってのは大変だと思うけどさ」
「いい加減腰痛から離れろ」
「あ、そういや甲太郎、寒いの苦手とか言ってたよな?それも腰痛のせい?」
「違ぇっての!……って、何?」
 思わず襟首を掴んで九龍を引っ張り上げると、コンクリに座らせて顔を覗き込んだ。
「今、何つった?」
「…お、怒った?」
 九龍は口元を引きつらせて不格好に笑った。理由はアレだ、目の前の真っ暗な眼の中に居る俺が、眉間に皺を寄せているからだ。
「怒ってない。何度言ったら分かるんだよ」
「じゃ、その眉間の皺、理由、何?」
 近すぎるという意思表示なのだろうか、俺の肩を手で突いた。それでも、視線は逸らさない。
 真っ直ぐ見据えられて、だから仕方なく、朝からの引っ掛かりを口にするしかなかった。
「お前の呼び分けの基準は何なんだよ」
「呼び分けの基準?」
「……上と、下の、名前の呼び分け」
 そう言ってもパッと分かるわけではないらしく、九龍は少しの間考えてから、思い当たったのか身を乗り出してきた。
「あぁ!皆守、ってのと甲太郎、ってのだ!」
「…………」
 頷くこともできずにいると、九龍はなんだか嬉しそうな、それでいてどこか困ったような様子で、
「俺、呼び分けてた?じゃあクセが抜けてないんだー」
「癖?」
「そうそう。ほら、クラスの奴で雛川センセのこと、ヒナちゃんとか呼んでるヤツ居るだろ?でも、授業では雛川先生とかヒナ先生って、ちゃんと呼んでんじゃん」
 そりゃそうだが。
 だが、根本的に俺と雛川では違うだろう。あれは教師で、だからこその区別であって、俺には当て嵌まらない。それに、朝もさっきも、授業中だの関係なく「皆守」だったじゃねーかよ。
「で、俺は何で」
「大勢が居るときはけじめ付けて上の名前で呼べって教わったんだ。だから、たぶんソレ、無意識」
「は?」
 九龍は何やら思い当たったんだろう、自分一人で納得して、晴れやかに笑った。
 勝手に納得されても意味の分からないこっちからすれば困るのだが、考えてみれば俺以外に、こいつが下の名前で誰かを呼んでいるのを見たことがない。
「変な癖だな、そりゃ。いつもそうやって呼び分けしてたのかよ」
「ヤ、いつも、っつーか…」
「何だよ」
 即決即答の九龍が、珍しく口籠もる。
「……だから、その、なんつーの?えっと、さぁ…」
「普通はンな面倒くさいことしねぇだろ。本当に、どっかズレてるっつーか、変つーかおかしいっつーか」
 別に、責めようと思ったわけじゃない。追い詰めようとか、そんな気もない。ただ理由が分かったことで安堵して、言わなくていいことまで言ってしまっただけだ。
 失言だったと気付いたのは、万年寝不足で真っ白な九龍の頬が上気して、俺を突き飛ばして立ち上がったときだった。
「…どうせ、変だよ」
「っ……おい、」
「ほとんど、人のこと名前で呼んだこと、ないから。だから今まで癖が抜けてないの、気付かなかったんだよ!いーよ、ヤなら、ごめんねーだ!ずっと皆守って呼びゃーいーんだろ!」
 どうせ変だよ、と言った、その眼が。普段は隠してる凶暴さを孕んでたことに気が付いて、不覚にも慌てた。
 九龍は唇を引き結んで、底冷えのする視線で俺を一瞥した。どうやら、かなり機嫌を損ねてしまったようだ。こいつが、他人との距離感を測るに対して神経質になりがちだということを、忘れてた。
「どうも、変なヤツでスイマセンでした。失礼しますー」
 そう言って、ここから屋上へ飛び降りようとする九龍の腕を掴んで自分の方へ引き戻した。
「何」
「……悪かったよ」
「別に。皆守は何にも悪くないよ。何にも。謝る必要なくない?」
 小首を傾げて、フン、と鼻で笑う。童顔なくせに、この、人を小馬鹿にしたような表情が、驚くくらいに似合ってた。
「…あるよ。俺が悪いと思ったんだから」
「あ、そ。」
 だからどうした、と言わんばかりの顔付きだ。おそらく、この學園に来てから九龍がこんな顔をするのは初めてだろう。……俺が、知る限りでは。
 そして、今どうにかしないと、これからずっと皆守ってのと人好きのする薄っぺらい笑顔のコンボが待ってると直感した。
「逆、なんだよ」
「逆?」
「……昨日は、下で、呼んでたのに今日は朝から今までみたいだったから、それずっと、気になってた。嫌だとかじゃなくて……むしろ逆」
 いくら焦ってたからって、一体何を口走ってんだ、俺は。
 喋れば喋るほどドツボに陥っていくような気がして、どうしようもなく頭を掻くしかない。でも、九龍の腕を掴んだ手は放せず、伺い見るようにヤツを見ると。
 さっきまでの表情はどこへやら、ツリ眼を満月みたいに見開いて、俺の顔を凝視している。
「お前、まさかそれで機嫌悪かったとか?」
「…そうだよ」
 こっ恥ずかしいついでに自棄だ。手持ちぶさたの左手でアロマを目一杯吹かす。
 そこで、突然九龍の腕を握ってた右手が重くなった。何事かと見れば、その場に九龍がしゃがみ込んでいる。
「九龍?どうしたんだよ、おい」
「………良かったぁ~」
 膝を抱えこんでしまった九龍の肩を叩くと、顔を膝に着けたまま、
「一瞬、滅茶苦茶凹んだ。ダメって言われんのかと思った。あー…良かった」
「……………」
 俺たちにとっては、たかが名前の呼び方だ。けれど、こいつにとってはあの夜の「甲太郎」呼びに、相当の覚悟が必要だったんだろうってことが伝わってきた。今までどこで何をしてきたのかは知らないが、日本の一般的な家庭や学校生活からは懸け離れてたであろうことは分かる。
「だから、悪かったって、言ったんだ。不用意に発言したことに対してな」
 すると九龍は、膝に押し付けてた顔を上げた。ったく、なんつー情けない顔で笑ってんだ。
「でもな、別に推奨するわけじゃないが、たぶんこの学校の誰を名前で呼んだとしても、拒絶するヤツはいないぞ、お前ならな」
 むしろ狂喜するだろうよ。
 バディの連中は、偏執的に九龍を慕っている。あの『呪い』から解放されたことを鑑みれば当然なのだが、それ以外の理由、つまり九龍の人間的なものに惹かれてるのは男女問わず、多いのだ。
 けれど、九龍は首を傾げてから、
「……でも、いーや、甲太郎だけで」
 微苦笑して、俺の学ランの裾を握りしめてくる。
 弱々しいその力が、解かれないように。
 静かに九龍の横に座り直して、カレーパンの包みを開けた。

 それからもあいつは。
 ふたりきりの時にだけ、まるで秘め事のように俺を、「甲太郎」と呼ぶ。

End...