風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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5th.Discovery 星の牧場 - 8 -

「やっぱり来ちゃったんでしゅね」
 部屋に入った早々、長い長い嘆息と共にそんな言葉がやってきた。
 奥から現れたのはもちろん肥後大蔵。ポテトチップス、よっぽど好きなんだね、こんな時にも持ってるなんて。
「キミはそうやって悪い魂のいいなりになってしまうつもりでしゅか?」
「…確かに、俺は悪い魂を持ってるかもしんない。でも、ここにいる理由は『そいつ』じゃない。逆だぜ?」
 何で俺はこんなに自信持ってこんなコト言ってんのかって、不思議に思ったけど、でもこれ、今の俺の本当の気持ちだから。
 肥後は、目を見開いて、それから俯いて首を振る。
「キミは……本当に悪い魂の持ち主なのでしゅか…?解らないでしゅ…」
 あ、それはね、本当。間違いないよ。
「それでもボクは、この場所を知ってしまった人を、見過ごす訳にはいかないのでしゅ。《生徒会執行委員》として、キミをここから排除するでしゅ!それがみんなの幸せのためなのでしゅ!!」
 戦闘態勢に入りました、というアナウンスを聞きながら、何だか軽く混乱。
 片っぽでは大事だよ、とか言われて、こっちではお前消えろ言われて。なんというか、肥後からは本当に『敵』って括りにされてんだなーって、ちょっと実感。敵として見なされることは慣れているけれど、こっちが敵だと思ってないのに一方的にっていうのは、珍しい事態でしてね。
「さて、と。拡散仕様でいきまっしょうかね」
 肥後が大きく後退し、分断するように現れた蛇の集団が、妙にざらついた音を立てながら近付いてくる。俺は正面、朱堂と取手は側面に回り込み、集中砲火で肥後が間合いを計る前に蛇共とは短期決着といこうか?
 三人で囲うように回り込んだのを確認し、蛇の中心に一発爆撃。熱で一瞬揺らいだ景色の中に、9パラ弾を有りっ丈ブチ撒いた。蛇は猛り狂って俺の方へ移動してこようとするけど、その足を止めるように朱堂がダーツを飛ばし、取手の超音波攻撃が蛇に襲いかかる。
 集団は混乱し錯綜し始める。そうなればノクトビジョンに頼らなくったって、殲滅は簡単だった。
 あんまりにも呆気なく片付いて、拍子抜け。
 俺は部屋の中央に走り込み、体熱反応から肥後の位置を把握した。
 問題は、肥後の攻撃方法が分からないことだ。取手、椎名ちゃん、朱堂と、三人はなんとなく、起こした事件の中で攻撃の雰囲気とか把握してたんだけど…。まさか、ウイルス攻撃とかじゃねーよな?
 俺の持つ二挺拳銃の特性から考えてもCQBレンジに持ち込みたい。CGBってのは近接距離戦てことなんだけど、銃使いだからって遠距離戦が得意かっていったら、そうじゃない。二挺の有効射程距離はそれほど長くないし、ハンドガンだし、取り回しのイイって特性を考えれば一気に飛び込んで致命打を撃ち込んで離れるヒット&アウェイで戦うって方法も結構有効でして、それを活かすために自分の運動能力上げようと、血反吐を本当に吐いて訓練をしたりね、したんだ。
 だからもし、肥後の攻撃レンジが遠距離有効だったら、俺は迷わずに突っ込む。
 決めて、様子を窺ってたら、……なんつーかな、歩くスピードが、とってもゆっくりでね。咄嗟にスカラベ装甲車を思い浮かべちゃったりして。
 本体の動きが鈍い、ってことは小回りの利かない近接戦は無理だ。だから遠距離砲だと、俺は想定して、右、左と肥後の視界を振ってから一気に射程に飛び込んだ。
 それが大きな間違いだと気付かされたのは、思いっきりデカいの一発喰らってからだった。
「たー、でしゅ!!」
「が…ッ……!」
 げふん。
 そう来るか!?
 てっきり回避行動なんて取らないだろうと思ってたら、そんな、とんでもない、思い切り回転体当たりをされた。
 咄嗟に受け身を取ろうとしたものの、恐らく体格差は体重だけでも三倍はあろうかって巨体からの体当たりは、予想を遙かに超えたインパクトで俺を吹き飛ばす。
 今まで色々やってきたけど、体当たりでこれだけ喰らうってのは初めての経験だ。初体験、イヤン……とか言ってる場合じゃねぇ。
 吹っ飛んで、丁度突き出ていた壁に背中から激突し、肩にいやぁな感覚が走る。
「っ……マジか!?」
 肩が外れた。元から右肩に脱臼癖がある。よく外れ、その分自分で嵌めることも簡単だけど、この状況で、そんな余裕はない。へたり込んだ壁際から顔を上げれば、すぐそこに肥後の姿が。
「いくでしゅー!」
「うぉッ!!」
 咄嗟に横に転がって回避したけど、肩が痛い、マジで。呻いて転がった俺の元へ暗闇から駆け寄ってきた朱堂と取手に助け起こされて、何とか肩を入れようとしたんだけど、
「早く終わりにしてご飯にするでしゅ!」
「マ、ジ、かよ!?」
 突っ込んできた肥後に分散させられて、飛び退いた。
 これじゃあマトモに体勢を立て直すことすらできない。いつまでも逃げ回ってたら、持久戦に弱い俺の勝ち目はどんどん薄くなってく。
 そんな、歯噛みして肩を押さえた俺の前に、朱堂と取手の背中が立ち塞がった。
「おい!」
 そこ退け、という言葉は遮られて、
「ダーリン、一旦下がって!」
「僕らで何とか、保たせてみせる…」
 さらに攻撃を加えてくる肥後の注意を逸らせるように二人が動く。まるで囮だ。息の詰まるような光景だった。止めろ、と叫びたくても、お荷物状態の俺が言えるはずがない。
 状況を見れば、俺は後退するしかなかった。けど、気持ちが許さなかった。
 咄嗟に俺は、近くの壁に右半身を思い切り叩き付けた。ごきり、という嫌な音が身体の中から聞こえて、同時に、違和感の抜ける感覚。滅茶苦茶痛かったけど、なんとか、肩は嵌った。
 瞬時に、体勢を立て直して、落とした銃を拾い上げて駆け出す。
「二人とも離れろ!!」
 肥後の攻撃態勢を見て、退避の指示を出す。二人は両脇に一気に引いて、肥後の攻撃が空回りしたところに突っ込んだ俺は、着地したヤツの側頭部に跳び蹴り。体重が無くても、蹴るポイントと体重の乗せ方でどんな巨体でも吹っ飛ばせる、誰かさんの必殺技。綺麗に決まって、肥後が転がる。
「肉弾戦なら、負けねぇってんだよ!!」
「うぅぅうぅ…」
 痛みに呻く肥後に、二挺拳銃を有りっ丈撃ち込む。
 ……出てきたぜ、例の、《黒い砂》。
「な、何でしゅか、これは……か、身体がおかしいでしゅッ。ボクの身体が――――!!」
 叫んだきり意識を失ってしまった肥後の代わりに、現れた化人は……上下、逆?
「ねぇ、あれってやっぱり下の方が急所だと思う?」
「あれが男の人だったら、やっぱり下なんじゃないかな…」
「んなコト言う前にこっちを手伝えぇッ!!」
 出てきた化人を見て股間か頭かって話題の朱堂と取手を呼んで、どうにか部屋の隅に肥後の巨体を運んだんだけど、その時にはもう蜘蛛が周囲にびっしり。
 下だか上だかの化人の前に、まずこっちをなんとかしないと…。
 とりあえずは窪みから脱出すべく、ずきずきと疼く肩を黙らせるように押さえて、二挺拳銃。ベレッタのリコイルがモロに肩を揺さぶって、その度にぎりりと唇を噛む。
 目の前の二、三体の蜘蛛を吹き飛ばして唇を舐めたときには、もう鉄の味しかしなかった。
 ただ、朱堂と取手で残りの蜘蛛を蹴散らしてくれたおかげで、一息だけつく間ができた。深く呼吸して、痛みに支配されないよう、集中する。
 ゴーグルの中の体熱反応を見れば、もうすぐ近くまで逆さ男はやってきていた。
 とにかく広間に出ない限り窪みの中でいびり殺されるだけだ。ガスHGを一発投げて怯ませ、その隙に飛び出し、後は残りのガスHGを全部投げつける。弱点?知るか。そんでも野郎、結構喰らって、一気に蹌踉けだした。
 逆にそれで躍起になったのか、突然腕を振り回し始めえる。手の先の鈎爪が、間一髪、制服の表だけを裂いていく。避けたそのまま、スタンドで左手だけ付いて後方跳び、すぐに銃を構えてショット。それが決定打になるかと思った、けど。
 アレが火事場の馬鹿力って言うんだろうか。死に、他者を巻き込もうとするあの引力だろうか。もう実体もないくせに、化人の野郎、ぐらぐら揺れながら、その鈎爪の矛先を俺とは反対側にいる取手に向けようとしやがった。
 まずい…!!
 銃を向け、攻撃しようとしたんだけど、なんとその瞬間、目の前に一匹の蜘蛛。一匹だけ生きていたのを、俺が捉え切れていなかったんだ。
 咄嗟にそいつの首根っこに残弾を撃ち込んでしまって、銃が弾切れた。
 消えていく蜘蛛の向こうで、取手が、後方の肥後を守ろうというのか、まったく動こうとしないのが見えた。朱堂の怒鳴り声がどっか遠くで聞こえて、それで、俺は。コンバットナイフを投げつけ、同時に距離を詰めた。
 逆さ男が不格好に振りかえるのを、目の端だけで捉えて、鈎爪の攻撃を伏臥で回避。その体勢から左腕を軸に、脚を跳ね上げ、ヤツの下の頭から上の頭を一気に蹴り上げた。
 逆さになった世界の中で、一瞬だけ下の頭を捉える。目が合って、そいつは凄まじい憎悪を滾らせて、それから消えた。
 何度でも死にやがれ、バーカ。
 片手倒立で、いきおいのまま身体を回転させて着地すると、今の今まで逆さ男さんがいた場所には一冊の聖書が。拾い上げたとき、側面から朱堂の熱~い抱擁を喰らった。
「ダーリン!勝ったわ!愛の勝利よッ」
「あはは、そうだね」
 なんだかそのままチューされそうだったけど、途中で取手が入ってきてくれて何とかセーフ。ヤ、ほっぺチューとかならいいけど、さぁ。
「相変わらずアクロバットみたいだね、九龍君の格闘技って」
「『I win !』とか言ってガッツポーズしようか?」
「フフ。でもすごいな、僕もちょっとだけやってみたいかもしれない」
「取手ならカポエィラは向いてるかもよ。ムアイとかラウェイは背が高い人ってあんま見ないけど」
 挙げた格闘技が分からなかったらしくて取手は僅かに首を傾げたけど、とりあえず今はそれを詳しく解説してる場合じゃない。
 聖書。それから《汝の隣人を愛せ》という言葉。たぶん、これが肥後の《宝》なんだと思う。
「肥後ちゃーん、生きてっか?」
 舞草ちゃんが触りたがっていた柔らかいほっぺを軽く叩くと、次第に肥後が覚醒してくる。
 ぼんやりと俺を見つめてきたから、その手に聖書を握らせると、その目には見る見るうちに潤んでいって、あと一回瞬きしたら涙って具合。
「そ……れは、ボクの聖書? そう…あの子がボクにくれたんでしゅ。あの時―――…」
 後は、俺もよく覚えていない。
 また、取手や椎名ちゃんの時のように意識が強引に引きずられていく感覚に、身を任せるだけだった。

*  *  *

 教室だ、でも、天香じゃない。
 俺の思い出の中に、こんな光景はない。
 これは、肥後の記憶……。
 
「あははははっ、タイゾーの奴、またこんなに食ってるぜ」
 輪の中心で所在なさげに佇んでいる体格のいい少年。おそらく、あれは幼い日の肥後大蔵なんだと思う。
「へへっ、何でもかんでも食って、ホントに意地汚い奴だよな」
「だ、だって…、もったいないでしゅ……。ゴハンを粗末にしたらいけないんでしゅ」
「そうやって残り物まで食ってるからそんな風になるんだぜッ」
 いじめっ子。その典型の様なヤツに押されて、肥後少年が蹌踉ける。追い打ちを掛けるように、トロい、グズ、ノロマ……罵声が浴びせられるが、肥後は何も言い返さなかった。
 ただひたすら耐えるように唇を噛みしめる肥後を、けれど庇いに入った少年が一人。
「やめろよッ。そいつは何も間違った事、言ってないだろ」
 強い眼をしたガキだった。真っ直ぐで、迷わない、強い視線。射すくめられたかのように、いじめっ子集団がたじろぐのが、端から見ていても分かる。
「何だよ、お前、見た事ない奴だな。どこのクラスの奴だよ」
「そんなのどうだっていいだろ。とにかく、そいつを苛めるのはやめろッ」
「ちぇッ、なんだよ。正義面しやがって」
 何やら悪態を吐いていたいじめっ子達は、言うだけ言ったのかその場から離れ、ふわりと消えた。
 二人っきりになった教室で、少年は肥後の肩を叩く。
「……お前、大丈夫か?」
「う、うん…。でも、ボクのせいでキミまで仲間はずれに……」
 どこまでもおどおどと、まるで取り返しの付かないことをしたように少年を見上げる肥後。けれど少年は、まるでそんな事気にしてないというように、笑った。
「《汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ》―――」
「え……?」
「自分の事を大事にするように人の事も大事にしろって意味さ。お前、自分のこと、好きか?」
「……嫌いでしゅ」
「じゃあ、まずは自分で自分を好きにならなくちゃ。そうじゃなきゃ、誰もお前を喜ばせてやれないし、お前も誰も喜ばせる事ができないんだぜ」
 笑う少年の手の中には、さっき肥後に俺が手渡したばかりの、聖書が。少年の手には少し余るその本を、細い指が捲る。
「ほら、ここに書いてあるんだ」
「《汝自らを愛するが如く》――――。キミは…誰なんでしゅか……?」
「へへへ、実はオレ、この前転校してきたばっかなんだ」
 転校生と名乗った少年は、聖書を閉じて、肥後を見上げる。
「そうだ、この聖書、お前にやるよっ。だから、これから仲良くしようぜ―――」
 一瞬、空間が明るくなったような、そんな錯覚さえ引き起こす笑顔。
 自分の信念で肥後を助け、そしてその行動の原動力である言葉、《汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ》。
 どうしたらそんな風に笑える?
 自らを愛しているから?
 でも……どうしても愛せない場合は、どうしたらいい?  
 答えは返ってこないまま、意識はまた、ゆっくりと途切れていった。

*  *  *

 怪我を治すため、一旦魂の井戸に戻り、それから墓地に戻ってきて。
 肥後はその間、項垂れたまま、何も言おうとはしなかったが、ようやく落ち着いたのかゆっくりと記憶をたぐるように話し出した。
「そうでしゅ……。ボクは、どうして忘れてしまってたんでしゅか……ボクは―――、ボクはただ、みんなに幸せになって欲しかったんでしゅ…」
 さっきの追憶の断片、あれを見る限り、それは本心なんだろーな。ずっと堪えてたらしい涙が、とうとう一気に零れだして、肥後はしゃくりあげながら思いを吐露し続けた。
「あの子がボクに大切なことを教えてくれたように……。だけど、《黒い砂》がボクから大切な想い出を奪っていって、気が付いたら、ボクにはこの変な力があって……そして白い仮面の人がボクに何かを――――何かを…」
 虚ろに何かを思い出そうとする肥後の前にしゃがみ込んで、俺はただ、肩を抱いてやることしかできない。
 黒い砂、白い仮面の人。気になる言葉だったけど、それを無理矢理聞き出せるような状況じゃ、ないしな。
「…駄目でしゅ~…上手く思い出せないのでしゅ。やっぱりボクなんて駄目なんでしゅ…」
「……いいよ、無理しなくて、な?」
 取手も朱堂も、心配そうに声をかけるけど、駄目。肥後は首を振って自分を責め続けた。
「こんな自分の事なんて好きになれるはずないでしゅ。葉佩くんだってそう思いましゅよね……?」
「アホたれ、お前なぁ、やり方は確かに無茶だったかもしんないけど、やってることは滅茶苦茶にすげーことだったんだぜ?自分のこと好きになれないって、んなコト言ったら、お前のこと信じてセミナー通ってた八千穂ちゃん達の思いはどーなるよ」
「葉佩くん……本当に、こんなボクにそう言ってくれるでしゅか?」
「その代わり、きっちり、八千穂ちゃんに謝れよ?」
 肥後は、涙ででろでろの顔で、何度も頷いて見せた。
 ひとしきり大泣きして、それもようやく収まって顔を上げた肥後は、なんだか憑き物が落ちたみたいに晴れ晴れとしていた。
「葉佩くんは、ボクの大切なものを取り戻してくれた人だから……葉佩くんの言うことだから、ボクは信じることができるでしゅ」
 うわ、なんかすごいコト言われてるよ、俺。さっきの聖書少年と同じ扱い?おいおい、格が違うよ格が。(なんて、そんなこと口挟める雰囲気じゃないんだけどさ。)
「もう一度、頑張って自分のことを好きになって、そしたらボクもきっと、葉佩くんやあの子みたいに心から笑う事ができるようになると思うのでしゅ」
 ……心から、笑う、かぁ。
 そう見えてるとしたら、相当俺は、なり切れてるんだと思う。でも、このまま嘘な俺でいたいと思うのも、ちょっと、本当。
 だから肥後の次の言葉に、頷けたんだと思う。
「ボクは、ボクがボク自身を大切に思うように、葉佩くんの事を大切に思うでしゅ!!」
「そっか……ありがとな」
「その約束の証に、お菓子じゃないけど、これをあげるでしゅ!!」
 お約束のプリクラと連絡先。……みんな持ってんだな。売店にプリクラ撮るヤツあったから、あれなのかね。
「ボクは、また頑張ってみるでしゅ。少しずつ……、自分の事を好きになれるように。葉佩くんのいるこの學園で、もう一度」
 ま、肥後なら大丈夫だろ。そんなんすぐだ、すぐ。
 俺にもいつか……というか、そんな『いつか』があるかどうかも怪しいけど、でも。
 そーだな。こいつらが大事だって言ってくる俺だけは、大切に、思えるのかもしんない。
 
 
 
 ここで、長かった一日がやっと終わったと、思ったんだけど。
 
 
 
 その日、最後のサプライズは、寮に戻ってきてから起こった。
 皆守から借りた非常階段の鍵でそれぞれ部屋に戻っていって、俺は一人、廊下を歩く。
 自分の部屋に辿り着いて、隣のあいつは起きてるかなと思って、ドアを叩こうとして、止めた。寝てたらまず怒られるし。鍵は明日返せばいいよなーって。
 そのまま部屋のドア、開けた途端に硬直した。
 そこには、いるはずのないヤツがいて。思わずまだ閉めてないドアから逃げようと思った。逃げても行く場所がないって思い当たったから止めたけど、一体この状況、どうすりゃいーんだろう。
 部屋は真っ暗で。俺のベッドに頭を預けるように、皆守甲太郎。
 俺が入ってきたことに気付いてないみたいだから、たぶん寝てるんだろーな。どこでも寝れるヤツだし。
 って、そうじゃないだろ俺。
 どうしてここに皆守が?とか考える前に、とりあえず静かにアサルトベストを外して、武器も降ろして、皆守の傍に近寄った。起きない。でも、ここで寝かせとくわけにもいかない。俺は皆守をベッドに持ち上げるなんてコトはできないだろうし。
「みーなかみー」
 小声で呼んでみた。でも目を開けないもんだから、肩を揺らそうと手を伸ばしたその時。
 捕まった。腕を引かれて、いきなりのことに、咄嗟、何にもできずに、そのまま皆守の方へ倒れ込む。
「え、ちょ、っ…」
「九龍…?」
 声が、掠れてる。ホントに寝てたんだ、で、たぶん寝惚けてるだろ。
 いや、たぶんじゃなくて絶対寝惚けてる。だって、俺、皆守の腕の中でホールド状態だもんよ。
 で。
「なん、で、ここ……」
「…あ?」
「お前、部屋、となり……」
「……待ってた」
 脳天くらくらする。まるで毒でも注がれたようだ。意味もなく手とか震えてて、全然寒いワケじゃないのに。こりゃ一体どんな状況だって、パニくりながら緊張してんの。
「ま、待ってた、って…俺?」
「他に誰がいんだよ。……そういや怪我、大丈夫なのか?」
「あ、うん、もう全然。痛いとか、ない」
「そうか」
 それから、阿呆、って、俺に後頭部の髪に、手を入れてきた。
 いちいち皆守が動く度にラベンダーの匂いが噎せ返るほど俺の周りを浮遊して、息ができなくなるかと思うくらい。
 心臓が今にも口から出てきそうで、何とかここから逃げようと身を捩った俺を、放さないとでもいうかのように皆守が抱え込んできて、そんで。
 そんで、耳元、直撃。

「おかえり」

 ぼんやりと、まるでまだ眠ったような口調だったけど。背中を軽く二度、叩かれた。
 その手付きがあんまり優しくて、状況が異常だってコトも何もかも忘れて俺は。
 色んなトコで、今日は頑張って堪えてた涙腺が一気に逝った。
「阿呆。泣いてんなよ…」
「泣いて、ねぇよ…」
 つーか誰が泣かせたんだよ!!
 もう、頼むよ。これじゃ俺、ダメダメじゃん?
 俺は、俺が死んでも誰も困らないから、だから捨て身になれるってのが強みだった。誰も傷付けないのだから、万が一があっても大丈夫だって、そう思ってた。
 なのに今日、そんなことしたら誰かが傷付く、って突き付けられて、自分をも少しは大切にしなきゃいけないことを知った。その上にこんな、待ってたって。俺のこと、待っててくれたって。帰ってきてもいい場所があるなんて言われたら、きっとどこまでも弱くなれる、俺は。
 弱いことは、悪いこと。
 でも……弱いのに無理して強いフリをする方がよほど悪い。そして、弱いって認めて受け入れることが幸せだって言う感覚を果てしなく長い間、俺は忘れてた。
 この感覚に酔うのも、きっと、悪くない。
 だから、目の前のラベンダーの匂いがする鎖骨に、額を付けて、伝えなきゃいけないことを考えたんだ。
 それは、とても簡単なことで。

「…甲太郎」

「ん?」


「………ただいま」

End...