風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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2nd.Discovery Brew - 旋律は、追憶を廻り -

 大切な宝が再び自分の元へ戻ってきてから、数日。
 宝を取り戻してくれた葉佩君にどうしてもお礼がしたくて、そして少しでも彼の傍にいたくて、僕はC組の音楽の授業でピアノの講師をさせてもらえるよう頼んだ。
 音楽の先生は、異例のことだけど、と言いながらも了承してくれ、晴れて、僕はもう一度葉佩君の前へ出ることができた。彼が取り戻してくれた僕を、僕のピアノを、全てを、見てほしかったんだ。
 初回の授業は、滞りなく終了することができた。難しい音楽史などを勉強するよりは、よりたくさん、ピアノという楽器に触れてほしいと思ったことが、幸いしたようだ。
 授業が終わり、音楽室の管理を任された僕は片付けをしていた。さっきまでは賑やかとも言えるほどに音色で溢れていた音楽室も、授業が終われば静寂に包まれる。でも、今の僕なら、その静寂すらひとつの音色、旋律として感じることができるんだ。
 それは全て、葉佩君のおかげだと思っている。
 時計を見ると、まだ休み時間が終わるにはしばらく間がある。僕は、ピアノの前に座った。思いついた曲を取り留めもなく弾き続ける。弾ける曲にクラシックが多いのは、きっと姉さんが好きだったからだと思う。
 そうして、思い出に浸りながら弾いていたせいかな。誰かが、音楽室に入ってきたことに気が付けなかった。
 僕が彼の存在に気が付いたのは、一通り流すように弾き終わったときに響いてきた、ひとり分の拍手の音で。
 驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはさっきまで教室で顔を合わせていた葉佩九龍君、その人だった。少しだけ吊り気味の大きな瞳が特徴的な、猫のような容貌を今は笑みで彩って、教科書を脇に挟んで手を叩いている。
「今日から取手をピアノの魔術師と呼ぶ」
「は、葉佩君…」
 あの一件以来、彼とふたりきりになるのは初めてだった。
 思い出したように緊張が湧き上がってきて、何か話さなければと、慌てて口を開いた。
「あ、あの…今日の授業は…どうだった?」
「どうもなにも、すっげ、楽しかった」
 曇りなんて欠片もない笑顔で僕を見つめるその目は、あの日、暗い墓場の下で見せたものとは正反対だった。力に囚われた僕を取り返すため、自分の身の危険も顧みずに僕を想い、そして呼んでくれた彼の目は、記憶の中では朧気ではあったけれど忘れることなど到底できない。
 今の彼の視線には、険しさなんて微塵もないけれど。
 そのまま葉佩君は、僕の傍まで歩いてくると、鍵盤を覗き込む。僕の指はまだ鍵盤の上に乗ったままだったから、咄嗟に手を引っ込めてしまった。何だか、恥ずかしくて。
「踊ってるみたいだよなー、お前の指。鍵盤の上で、ぽろろん、て」
「そうかな…?でも、姉さんはもっと、上手だったんだよ」
 姉さんの生み出す旋律は…一度聴いたら忘れられなくなる、そんな音だった。僕なんて、まだまだ。
「ね、なんか弾いて?」
 葉佩君は、近くにあった椅子に馬乗りになって、そう言った。
「それとも、時間ない?だったらいいんだけど、全然、」
「大丈夫、大丈夫だよ!」
 葉佩君の申し出を、断る事なんてできるわけないじゃないか!
 勢い込んで返事をすると、葉佩君は驚いた顔をしたけど、それも一瞬で、すぐにまた、眩しく笑った。
「ど、どんなのが、いいかな?」
「どんなの……んーと、曲名が分かんね!なんかね、流れる感じのチャラリラリラ~って…」
「クラシック?」
「たぶん」
 流れるような旋律…思い当たる限り、有名な曲を弾いていくと。
 ある一曲の冒頭部分で、葉佩君が「それだ!」と叫んだ。ドビュッシーのアラベスク第1番。確かに葉佩君が口ずさんだように、流れるようで透明な旋律が特徴的な曲だ。
「この曲…好きなのかい?」
「好き……うん、好きなのかもしんないな。つーか、耳慣れしててさ」
「そうか…」
 ゆっくり、僕はアラベスクを奏でる。葉佩君は、椅子を抱くような格好で、しばらくピアノを聴いていた。
 視線は僕の手元だった、けれど、彼の目はどこか遠く、ここではない場所、まるで思い出のどこかにでも飛んでいるようにも見えた。思い出の曲、なのかな?
 中程まで弾いてキリの良いところでやめると、葉佩君は少しの間、ぼうっとしていたけど、すぐに我に返ったように拍手をしてくれた。
「ブラボーハラショー、おーいぇー!」
「ありがとう」
 あんまり葉佩君が喜んでくれたものだから、僕まで嬉しくなってしまう。葉佩君の笑顔には、そんな力があるんだ。
 だから、思ったんだ。葉佩君の奏でる音楽も、きっと素晴らしいんじゃないかって。彼のピアノを、聞いてみたいって。
「葉佩君は、ピアノを弾いたことは?」
「触る程度なら。辛うじて猫踏んじゃったとか、後は…」
「何か、弾ける?」
 僕が椅子から退いて席を譲ろうとすると、葉佩君は大きく首を振った。何度も。
「ヤだよ、俺なんかカスに毛くらいしか弾けねーもん」
「でも……聴いてみたいな。ダメかい?」
 やっぱり…僕の前で弾くなんていうのは嫌なのかな?
 そう思ったのが顔に出てしまったのか、通じてしまったのか、葉佩君はちょっと困ったように笑って、ピアノの前に立った。
「タイトル知らないんだけどさ、耳で聴いて覚えたのが、これ」
 葉佩君の指が、鍵盤の上で踊り始める。その曲は、僕もよく聞き知ったものだった。まだ幼い頃、クラシックの曲に馴染めなかった僕に、姉さんがよく弾いてくれた曲。
 テオドール・オースティンの、『人形の夢と目覚め』、その中の『人形の夢』の部分だった。僕が、姉さんにせがんで何度も繰り返し弾いてもらった旋律。
 それを今、葉佩君が弾いている。もちろん(と言ったら失礼かもしれないけど…)、姉さんの方が格段に上手だったけど、けれど、伝わってくる音色は、同じように感じたんだ。技術ではなくて、奏者の想い。心。そういうものが、同じだと。
 所々つかえながら、それでも軽快なリズムだけは失わず、次の『人形の目覚め』の前で、演奏は終わった。
「ってなヘタクソ具合」
 葉佩君は、照れたように笑う。
「そんなことないよ」
 本当に。
 音楽は、技術じゃない。技術があるに越したことはないけれど、それ以上に大切なのは感性だと、僕は思ってる。譜面だけを追って指を動かすというのは、ただの作業に過ぎない。音符を、どんな音楽にするかは奏者の感性に、かかっていると……あくまでも、僕の持論なんだけど…。
「すごく、良かった。すごくありきたりだけど……心が、こもってたよ」
「よせやい、照れるべ?」
 そうやって戯けてみせるけど、譜面無しに記憶だけで弾けるということは何度も弾いたということだし、相応に、思い入れもあるんじゃないかな?
「この曲は、僕も、僕の姉さんも、昔、よく弾いていたんだ…」
「じゃあ比べられちまうじゃん!やんなきゃよかった」
 ピアノの蓋を閉めて、葉佩君はそこから離れた。僕はピアノに鍵を掛け、今度こそ本当に戸締まりと片付けを始めた。葉佩君も手伝ってくれるけど…高い窓に手が届かないのが彼には少し、不服みたいだ。
 僕が高いところにある通気窓を閉めていると、後ろからじっとり視線を向けられるのが分かる。
 ……そんなに気になってるのかな?身長のこと。
「あの、葉佩君、あんまり背が高くても、いいことは…」
「ほっとけ!!慰めになんねー!!」
 あんまり露骨に拗ねるから、可愛らしくて、思わず吹き出してしまった。葉佩君は、僕を、真顔で見返してきた。気を、悪くしたかな?
「あ、ご、ごめんよ」
「いんや、そりゃ、いーんだけど、さ」
 葉佩君は、腰掛けていた机から降りると、僕の横までやってきて、真っ直ぐに僕を見てきた。
「大丈夫なんか?その、姉ちゃんのこととか、思い出したん、だろ?」
「……うん」
 姉さんが死んでしまったという事実を受け入れたくなくて、僕は自ら耳を塞いだ。そのまま目を閉じれば、待っているのは深淵の闇で、その中にいれば僕は、現実から隔離されて生きることができた。そうして、逃げていたんだ。
 もう、手遅れだと、自分で決めつけていた僕に呼びかけてくれたのは葉佩君だ。忘却の彼方から、姉さんを連れ戻してくれたのも、葉佩君だ。
「思い出してからは、途方もない喪失感だったよ。けれど、事実を受け入れて、それからもう一度ピアノを弾いてみるとね、姉さんは、いなくなってなんかなかったって、分かったんだ」
「…………」
「ピアノを弾く僕の中に、ちゃんと姉さんは残っている。僕は幼い頃からずっと、姉さんの旋律を聴き続けていたからね。姉さんの好きだった曲や、弾き方の癖とかが思い出として残ってて、僕の指はそれをなぞって動く」
 そうして旋律の中で、姉さんを思い出すことが追悼になるんだと分かったんだ。
「ありがとう……本当に」
「……よせやい、おりゃーなんにもしとらんぜよ」
 そうして葉佩君は、男子高校生にしては少し華奢にも感じる手で、僕の背を叩いた。それはもう、盛大に、思い切り。一瞬、息が詰まるくらいに。
「余計なことだったら、悪かったと思ってさ」
「…それで、来てくれたのかい?」
「て、ワケでもねーけど」
 言い淀んだ葉佩君の視線が、僕の肩越しに向こうを見る。その先にあるのは壁掛けの時計だ。まずい。もうすぐ、次の授業が始まる時間だ。
「そろそろ行こーぜ」
「そうだね」
 僕は葉佩君と一緒に、教科書や譜面、タクトといった道具を持って音楽室を出ようとした。廊下の喧噪に出る、一歩手前。僕は墓場でのことを思い出してしまっていた。
「…君は僕に、『まだ間に合う』って言ったよね?」
 頭痛が酷かったのと、記憶が朧なのと。そのせいではっきりは思い出せないけれど、確かに葉佩君は、僕にそう言った。
 僕の言葉に、葉佩君は笑って応えた。
「あはは、そうだっけ?」
 にこやかにそう言うけれど、今の表情が、墓の下で見たあの表情と、重ならない。
「……あの、違ったら、ゴメンね。でも、あの…君の側には間に合わなかった人が、いるのかい?」
「さぁ、どうだろーねェ」
 葉佩君は、音楽室から一歩、外に出る。彼が僕を振り向いて、そして、その向こうのピアノを見た。思い出のアラベスク。覚えるほどに聞いた、人形の夢。
「それは、もしかして……」
「ハハ、いないよ、そんな、重っ苦しいヤツ」
 教科書で宙を扇いで否定する葉佩君がどこか虚ろに見えたのは、僕の気のせいだったらいいと思った。
 チャイムが、響いてきた。
 僕も音楽室から出る。葉佩君は僕を急かすように呼ぶ。音楽室は、また静寂の旋律に包まれるのだろう。
 願わくばこの場所に、《葉佩九龍》という旋律がいつまでも響いて欲しいと願うのは、僕の、我が侭かな?

End...