風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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11th.Discovery ねらわれた学園 - 1 -

 顔色を無くして、ベッドに横たわる姿。
 まるで死んでいるようで、見ていて酷く不安になる。
 辛うじて胸が上下することだけで生きていることを確認。
 生きている。大丈夫。そう思うことで、頭の中の自分の声を、相殺。
 おまえが、ころしたんだ。
 脳内で囁き続ける自分の声は、ふとした瞬間に周りに聞かれているのでは、と怖くなる。
 ハッ、と辺りを見回して、ルイ先生の柔らかい視線とぶつかって、安堵する。
 大丈夫。まだ、大丈夫。俺は、狂ったりなんて、していない。
 大丈夫、ここではまだ、誰も、殺して、いない。

 夕薙は、昏々と眠り続けている。

*  *  *

「ふむ……これでいいだろう。激しい脱水症状を起こしていたが、処置をしておいた」
 ルイ先生が、額にうっすら滲んだ汗をぬぐい、振り返ってそう告げた。
 最初こそ緊迫していたけれども、途中からは普段のルイ先生だったから、俺もそこまで深刻ではないって、分かっていたけど……それでも、言葉を聞いてようやく身体から力が抜ける。
「そう、っすか……」
「おいおい、大丈夫か?君の方が衰弱していてどうする」
「……ですよね」
 笑ってみせるけど、それは甲太郎のよく言う「気にくわない笑い方」だったというのが自分でも分かる。でも、今の俺にはこれ以上は無理。すぐに口の端が下がってくる。
 夕薙が倒れてからここまで、麻痺していたらしい神経がようやく戻ってきて、同時に色んな感覚が襲いかかってきた。
 加減をする気のなかった拳、躊躇わない指先、息をするように、殺してしまおうと頷いた自分自身。じわりじわりと背筋を貪る薄ら寒い気配。昼間はあんなにも和やかに笑いあっていたというのに、戦いあえば、呆気なく殺意の背を押してしまう。
 ……そう、ずっと、そうだっただろ。そうしてきただろう。
 自分の邪魔をした者は、誰であろうと―――殺めてきたじゃないか。一番、大切な、人さえも。
 俺の目的を邪魔しようとした夕薙を、殺しの対象として見るのは、至極真っ当な反応だ。
 そうだ、よな?
 頭の中で何度も何度も問いかけるけど、返る答えはただひとつ。
『お前が、殺した』
 俺自身の声で、俺を責める声が、響き続けている。
 ルイ先生に分からないように、頭を振る。まだ……まだ、殺していないだろ。夕薙は、生きてる。
 眠ったままの夕薙に視線を落とす。頭の中が混乱を通り越して錯乱寸前。
 夕薙は、俺を倒そうとして、俺は、夕薙を殺そうとして、ギリギリのところで殺さずに済んだはずなのに、結局また殺しかけている。俺が呪いの鍵を、夕薙から奪い去ったせいで、こんな。
「しかし、夕薙のこの異常な有り様―――話してもらおうか?何があったのかをな」
 ルイ先生に矛先を向けられて、ようやくわずかな正気が戻る。知らず、ずっと止めていた呼吸を再開して、大きく息をついた。
「……何、って。俺にも、よく分かんないんすけど……」
「分かることだけでいい。話してくれ」
 脳ミソの整理がついていない状態のまま、それでもどうにか、今日、あったことをかいつまんで説明する。ルイ先生にはほとんど知られているけど、一応、隠すところは隠した説明で。
 ダンナのプライベートも、この際関係なかった。あったことを、ただつらつらと。
 以前に、ハイチで民間信仰からくる呪詛を受けたこと。
 それが、ダンナをこの學園へと向かわせた原因だということ。
 そして、月をスイッチとして呪いが発動するらしいという予測。
「呪いだと?」
「忌まわしい呪い、そんなふうに言ってました。月が出ている……それで、光に当たった途端、いきなり水分なくなってって」
 呼吸も弱くなって、身体には全然力が入っていなくて、まるで、死んでしまいそうだった。……もちろん、普段から『あの姿』で墓地を徘徊していたというんだから、死ぬはずはなかったんだけど、あのときは本当に焦った。呪いが、夕薙を連れて行ってしまうんじゃないかと思った。
「……月の光が精氣を吸い取るか。なるほど、興味深い話だな。確かに、月の光には魔力があると伝えられている。人狼伝説もまんざら御伽噺ではないさ」
 ルイ先生がこういう話を始めるってことは、夕薙の容態も大丈夫、ってことなんだろう。内心で胸をなで下ろして、ふわふわ浮かぶ煙管の煙に視線をやる。
 月の光。魔力。確か、ライカンスロープという精神疾患も月に関わっていたはず。自分が狼になってしまうと思い込む病。人の脳は『ミクロコスモスの月』であり、月の輝く晩は狂気が悪化すると言った中世医師がいたはず。
「君は、バイオタイドという言葉を知っているか?」
「アーノルド・リーバーの仮説でしたら。月の引力は、地球に潮汐をもたらす、それと同じことを人体にも引き起こしている……でしたっけ。『オセロー』にも、そんな一説が。―――月がいつもより地球に近づいたから、人間どもが狂いだしたのだ、って」
「ほう、なかなか博識だな。バイオタイドとは、月の魔力を表した理論だ。つまり、それが夕薙の体内水分に何らかの異常をもたらしているとしか思えない」
「人体の水分が、満ち引きしている……でも、仮にそうだったとしても、月の影響でここまで体内水分が減るってのも考えづらくはないっすか?」
 ルイ先生は頷き、今はもう普段通りの姿に戻ったダンナに視線を移す。
「人は、身体の65%が水分で、その10%が失われると不快感を感じ、20%が失われると死に至るとされている。しかし、調べたところ、夕薙の身体からは約40%の水分が失われていた」
「って、それじゃあ……」
「ああ。普通なら死んでいてもおかしくない状態だが―――皮膚の乾燥以外、呼吸器や内臓系に何ら障害が出ていない。大学病院にでも診せようものなら、研究材料にされて学会にでも発表されかねないだろうさ。まさに、神の奇跡か悪魔の業か……」
「その、どちらでも……ない」
「ダンナ!」
「おや、気がついたか?」
 いつの間に目を覚ましたのか、ダンナはぼんやりとした視線を天井に向けていた。
 その眼が、ゆっくりと俺を見ようとする。反射的に逃げたくなり、けれどそうしてはいけないことは分かっていたから堪えて、見返す。
 夕薙の眼は、不思議な色をたたえていた。
 殺そうとして、殺されかけた関係って、もっと張り詰めた空気が漂うものだと思っていた。なのにダンナは、酷く穏やかな眼をしている。俺は……どんな顔をしているのだろう。
 その目の中に自分を映したくなくて、そっと視線を外す。夕薙はそれを感じたのか、小さくため息をついた。
「この身体を蝕む病は―――救えたはずの女の面影が俺に見せている夢さ。もっと、俺に力があれば、彼女は、今もあの笑顔を見せて暮らしていたはずだ……」
 遠い目。後悔と、痛恨だけがゆらゆらと辺りを漂っているようだ。
 それは、きっと俺と同じもの。救えたはずの女の面影。今も、笑っていたはずの人。俺の場合違うのは、物理的な強さの問題ではないということ。あいつがどうしてあんなことをしたのか、戦う以外に向き合えなかった弱さのせい。
 黙りっぱなしの俺に、何か声をかけようとしたらしい夕薙は、けれどすぐに、苦しげに胸元を押さえる。
「くッ……」
「まだ応急処置をしたばかりだ。横になっていた方がいい」
「いえ……もう、大丈夫です」
 胸を喘がせながら、いつもとはかけ離れた力のない声で肯定されても困る。
 もしかして、俺は、ここにいないほうがいいんじゃないかと思って、半歩後ろに下がった。すると、夕薙は俺が逃げだそうとしたのを察したのか、今度は名指しで引き留める。
「九龍、君に話しておかなければならないことが……」
 呼ばれて、なお逃げだそうとしたら、もう二度とダンナとまともに話ができない気がした。
 そう思ったら、足が動かなくて、じっとこっちを見てくる目を見返すしかない。
 俺の思惑が伝わったわけでもないだろうに、ダンナは困ったように顔を歪めて、けれど意を決したように言った。
「九龍……、君は……喪部をどう思っている?」
「喪部……?」
 全然関係のない人物の名に、答えを言い倦む。何か探られているんだろうか、と感じるのは完全に俺が俺自身を見失い、信じるべきものが分からなくなっているから。
 大丈夫。夕薙との命の遣り取りは、もう終わった、はず。殺し合わなくても、互いに生きていくことを選べた、はず。
「……あいつとは、間違いなく、仲良くはなれない。たぶん、」
 あいつと俺は、いつか、殺し合う。
 言葉を飲み込み、確信めいた何かを胸の中に落とす。
「何があったのかは知らんが、君がそう思っているならまだ安心だな」
「……何でまた喪部の話を?」
「奴も君と同じようにこの學園に隠された《秘宝》とやらを探している。君が自分の探索の邪魔になると思えば始末しようとするだろう。くれぐれも奴に気を許すな」
 それはもう、言われなくても。今はもう、……自分自身にすら、気を許せないんだから。
 けれど、温厚なダンナが、こんな時に、こんな厳しい口調で言うんだ。あいつの危険さは俺でなくても感じ取れるレベルらしい。
「この學園は戦場だ。生き延びるためには、いつでも戦える準備をしておけ」
「それは、大丈夫、だよ。だって、俺だし」
 学ランの内側に収まっているハンドガンを、指先で確かめる。たぶん、この學園でもっともその忠告が似合わない男が俺だ。
 横で黙って成り行きを見ていたルイ先生は、煙管でぷかりとやりながら、
「何かを知ってそうな口ぶりだな?」
「知っているといえば知っているし、知らないといえば知らない」
 曖昧な答えを返したダンナは、少ししんどそうに上半身をベッドから起こした。
「喪部について語る前に、出雲と津軽を治めていた豪族について説明せねばなるまい。九龍、君は出雲がどういう場所か知っているか?」
「どうって、色々な日本神話に関係してくる土地だとしか……一応、その辺の書物は読みあさったから、話くらいは分かる。続けて」
「分かっているなら話が早い」
 話が長くなりそうだと思ったのか、ルイ先生が妙な臭いのする飲み物をダンナに差し出した。おそらくは漢方を煎じたお茶か何か。ダンナは一口、口を付けて話し出した。
「俺が、この身体の秘密を解く鍵探して、神道に所縁の深い出雲を訪れたときのことだ。知っての通り、出雲とは神道だけでなく記紀神話にも深い関わりを持つ場所。その地を巡るうちに、俺は興味深い話を聞いた」
 ダンナは目を閉じて、何かを思い出しているようだった。俺も、ルイ先生も黙って続きを待った。
「今から1700年ほど前の話だ。日本の歴史が示す通り、当時、この国を支配していたのは畿内大和地方を中心とする古代王朝―――大和朝廷だった。広大な版図を持つその王朝は、勢力を当方にも伸ばそうとしていた。しかし、一見容易にいくと思われた東征にも大きな障害があった。それは、当方を支配していた荒吐族という土着の豪族の存在だ」
「荒吐神を信仰するという《まつろわぬ民》か。確か、この国では《蝦夷》とも呼ばれていたな」
 日本の歴史が苦手な俺でも、あの遺跡に潜り続けてればその辺りの神話や民俗には詳しくなる。もちろん、神武東征のことも、《蝦夷》のこともちゃとお勉強済み。
「君は『宋書』は知っているか?」
「そりゃ、一応は」
 宋書とは、中国の宋時代について記された歴史書のこと。日本の歴史よりはこっちのが詳しいです。
「宋書に編纂された倭国伝の倭王武―――つまり、畿内の王国の王の上表文に「東は毛人を制すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」「渡りて海北を平らぐること九十五国」とある。その《毛人》のことさ。この国では、強大な力を持っていたとされる存在だ」
「夷蛮、のことですね」
「その通り―――。そして、その《蝦夷》と呼ばれていた荒吐族を率いていたのが長髄彦という男」
 それも、分かる。日本書紀やその系統の書物は大体把握した。しかし、荒吐族だって?なんか、引っかかるな……。
「長髄彦は、元々は邪馬台国の国王であった兄の安日彦と共に、天孫であった邇芸速日命に仕えていた者だ。しかし、大和朝廷に逆らい、東方の地―――津軽に落ち延びたといわれている。当時、津軽地方には中国から流れてきた阿蘇辺族という民族が住んでいて、同じように中国から渡ってきた津保毛族と混血を繰り返していた。そこに長髄彦と安日彦がやってきて、津軽を統一し、荒吐族を立ち上げたというわけだ」
「で、朝廷と、闘った……」
「大和朝廷に対抗しうる勢力を持つに至った荒吐族だが、東の地で抵抗を続ける長髄彦の力を危惧した邇芸速日命によって殺されたことで、一気に衰退への道を辿る。この邇芸速日命の子孫の名が物部―――。どうだ?喪部の名前と似ているとは思わないか?」
「似てる、っていえば、似てるけど……普通ならただの偶然だ。でも、この學園でとなると、そうもいかないだろうね」
「そうだ。物部氏は、大和朝廷の祭祀を任されていて、神道でも重要な位置を占めていたらしい。荒吐族を率いた長髄彦を殺した邇芸速日命と、邇芸速日命の子孫である物部氏。そして、神鳳の口を借りた者が告げた《アラハバキ》という言葉と―――この學園に転校してきた喪部という男」
 ……だとしたら、あの《アラハバキ》が何者であったとしても、喪部は仇、ということになるんじゃないのか?そして、《アラハバキ》が眠る遺跡に、求める《秘宝》がある……。なんか、ちょっとした作為を感じるのは、気のせいか?
 そこに来て、秘宝と同じ名前を持つ俺が、揃うなんて。
「どちらも奇妙な符合だが、もし、喪部が物部氏の末裔であるのなら説明もつく。だとしたら、荒吐に関係するかもしれないこの遺跡について喪部が何も知らないはずはない。俺が、君に気をつけろと言った意味が分かるだろう?」
 ……ゴメン、ダンナ。俺が喪部を警戒しているのは、遺跡に関してじゃないんだ。俺の、過去を、それも、誰も知らないはずの真っ黒い過去を、知っているから。殺し屋の本能として、あいつを危ないと思うんだよ。
「俺は、……っ、く…」
「ダンナ!?」
「大丈夫か?回復していないのに無理をしすぎだ」
 再び苦しげに顔をゆがめたダンナを、ルイ先生が半分無理矢理ベッドに押し込む。相当辛かったのか、ダンナは胸で息をしながらうっすらと開けた目で俺を見上げた。
「これが、俺の知っていることのすべてだ」
「分かった、分かったから、」
「九龍、俺は……君の役に、立てたか?」
「ッ―――……」
 その言葉は、衝撃だった。
 どうしてそれを俺に言うのか、喪部と衝突させて夕薙に何か利があるのか。
 そんなことを考えていた、俺の疑心を思い切り抉っていった。
 ……何で、俺に、そんな。分かってないのか?俺はあんたをうっかり殺しかけたんだ。なのに、どうして。義理?詫び?止めろよそんなの。俺は、……俺は、何にも返せない。何もしてやれない。なのに、何で。
 俺の役に、立ったか、なんて。
「九龍?」
「……うん、ありがと。教えてくれて、ありがと」
「そうか……。それならば、よかった。これが俺の―――君に対するせめてもの償いだ」
「償い……?」
「君は俺を信じていると言ってくれた……。だが、俺はその信頼を裏切ってしまった……すまない」
「んなの、俺だって、……ダンナ?」
「すま……ない……」
「ダンナッ!!」
 譫言みたいに謝罪の言葉を繰り返した後、事切れたかのように、目を閉じて沈黙する。
 一瞬、心臓が止まるような冷たさを味わったが、ルイ先生が脈を診て、微笑んだことで安堵する。
「安心しろ……。眠っただけだ」
「……そ…ですか」
「あれだけ衰弱していたのに大した精神力だな。君の力になりたいという気持ちだけが、夕薙を支えていたのだろう。いい仲間を持ったな」
 その言葉に、俺はうまく頷けない。
 仲間なら、殺し合ったりはしない。生きることを、否定しあったりしない。なのにどうして、仲間だなんて言えるのだろう。その上、夕薙をこんな目に遭わせた張本人なのに。
「仲間……」
「どうしてそんな顔をする?仲間とは失い易く、得難い存在だぞ?特に、これ程までに仲間を思ってくれる相手は……」
「思いやってやれなかったから、こんなことになったのだとしても……?」
 もし、俺が、本当に思いやって正しい選択をしていたなら、転がっているのは俺であるべきだった。転がされるのなんて、慣れてたのに。 今頃、夕薙の呪いは解けていて、こんなふうに弱ってしまうこともなかったかもしれない。苦しむこともなかったかもしれない。
「……だがな、葉佩。夕薙は、君を仲間だと思った。友人だと思った。だからこそ、君の力になりたいと願ったんだろう?」
「もしもそうだとしたら、この人は、馬鹿ですよ。……大馬鹿」
 呪いに蝕まれた、大馬鹿で、清らかな魂の持ち主。
 頭の中で鳴く声。人殺し、と。俺がいなければ、助かって、笑っていた誰かがいたのだと。何度も何度も、繰り返される。
「まあ、なんだかんだ言って、君も彼を思いやっている。立派に仲間だと思うがな。……何にせよ、これからは今まで以上に用心した方がいいだろう。君の敵となる者がどこに潜んでいるか分からない。それに、君が死んだら悲しむ者がいることを忘れないことだ」
 悲しむ者がいる。それは分かる。きっと悲しんでくれるであろう人を、何人も思い浮かべることもできる。
 ……でも、それ以上に、喜ぶ人が多いと思うのは、気のせいなんかじゃない。俺が今まで殺めてきた人の数は、……両手両足どころか、バディ全員の指の本数でもまだ足りないのだから。そして、彼らにも、想ってくれる人がいて、きっとその人達は俺が死んだら狂喜だ。
 そういう、生き方をしてきたんだ、俺は。
 唇を噛み、夕薙を見下ろした俺の耳に聞こえてきたのは鳥の声。外を見れば、うっすら白み始める空。
「……おや?もうこんな時間か。夕薙のことは私に任せておけ。目が覚めるまで、傍に付き添っていてやろう」
「でも、」
「君も、少し仮眠を取れ。その顔色で登校してみろ。周りの連中が黙っていないぞ」
「そんな、酷いっすか?」
「控えめに言って、最悪な顔だな」
「……はは」
 養護教諭であるルイ先生に、そこまで言われて首を振ることはできなかった。のろのろと、寝不足の頭を振って立ち上がる。ここのところ安眠が続いていたから、少しばかり堪える。
「それじゃあ……戻ります」
「ああ」
 ルイ先生に見送られて、俺は保健室を出た。
 一人になって、息をつく。一体、今、どんな顔色しているというのか。このまま、学校に行き、周囲の連中に対して笑うことができるかどうか。
 ……頭が、痛い。
 葉佩君、と声を掛けられ、針の先のように尖りきった精神が声の主に向きそうになるのを、ぐっと堪えた。笑え、俺。
 そこに立っていたのは、昨晩俺が知らない間に殺し合った人影。
 みっちゃんは、俺の周りに何が見えるのか始終剣呑な顔をしていた。あの眼はただの目ではないから、何か、よくないものでも見えたのかもしれない。いいもののはずはない。
 とにかくその場は無事にやり過ごし、ついでとばかりに弓道場の鍵まで預かる。これまでに預かった鍵の重さがそのまま、肩にのし掛かる學園のこれからのようで、少し鬱々しい気分にはなる。それでも、悟られないように笑い返して、寮に向かった。

*  *  *

 笑いながらその裏側からじっとりと黒い何かが這い出してくるような錯覚に陥る。誰かが笑いかけてくれるたび、それに笑い返すたび、粘度を持った黒い塊が今にも飛び出しそうになる。
 嘘だ。これは嘘だ、と。耳元でじりじりとした囁きが聞こえる。笑っているけれど、それは嘘だ。偽物だ、周りをすべて騙しているのだ。本当の顔を見せてみろ。できないくせに。当たり前だ、お前は、人殺しなんだから。
(そんなこと、分かっている。分かりきっている。言われなくとも、自分のことだ。)
 本当は、こんな學園のことなどどうでもいいくせに。學園の、そして墓守たちの秘密を暴き立てて踏み荒らすことを、躊躇などしないくせに。偽善ぶって笑っている。
 すべて、嘘なんだろ?知ってるさ。希望を躙ったあと、胸に落ちた罪悪感でさえなにもかも、お前のものじゃない。―――あたしの、真似事でしょ?

 飛び起きた。

 口の中が、からからに乾いている。数秒、息をするのを忘れていた。指の先が、動かない。
 しばらくして、ようやく呼吸が戻る。止まっていた分、吐き出す息が荒い。首筋が凍ったように冷たく、押さえるために伸ばした指はさらに冷たかった。
 夢。
 ただの、夢だ。
 ほんの些細な、悪夢。
 真っ黒い出で立ちで、殊更きれいな笑顔を貼り付け、こちらを向いた影。
 ―――あれは、俺だ。
 朝になればへらへらと笑いながら、夜中になれば地の底で誰かの希望を踏みつぶす。
 あれは、俺だ。
 何もかもが俺だ。俺の、せいだ。


 あの瞬間。
 俺は、真っ当に正しく夕薙大和を殺そうと……壊そうと、して。
 頭の中では、殺意が冷静に回っていた。人を殺すために必要な手順を、理性ではなく本能でもって、正しく踏み抜こうとしていた。
 理性などが止めようとする隙など、ほんの一ミリたりとも存在しないただの凶器な狂気。
 自分に暴走癖があるなんてことは、もうずっと前から分かっていた。ただでさえ感情に波があるというのに、完全に頭に血が上ったら最後、周りが一切見えなくなる。
 暴走し、する必要のない暴力まで振りかざした俺を、止めてくれるのはいつだってあいつ。ひとしきり暴発した俺に手を差し伸べて、あっさり精神の強ばりを取り去ってくれた。
 あいつが、いなくなってしまってから、俺は笑うようになり。一度も殺意を固めて他人を攻撃したことはなかった。
 昨晩、までは。

 一体、何が俺の感情を逆撫でたのか。あの場に夕薙が出てきたからといって、どうして。
 あの、昼からの声が俺を狂わせたのか。正気に戻してくれる存在を暗く塗りつぶして、俺が……友人、だと、そう思った人間を、殺させようとしたのか。
 ……違う。そうじゃない。あれは、正しく俺の殺意だった。俺が持つ、俺の抱いた、俺だけの殺意。
 お前が殺した。
 何度も、何度も、俺の選択を責める声が聞こえる。
 信じる?友人だって?笑い合い、同じ場所で生きている者を、
 お前が  俺が    


 また、息が詰まってどうしようもなくなる。……壁に、頭を預けた。隔てた向こう側には、甲太郎が眠っている。はず。音も気配もないけれど、ほんの少しだけ、精神をこすりつける。依存。そんな言葉がよぎる。いけない。歯を食いしばるようにベッドから這い出て、頭を振った。時計を見れば登校してもいいような時間だ。
 ちょうどその時、H.A.N.Tが振動する。見れば、八千穂明日香からのメール。どうも、愛用の鏡が割れたらしい。考えて、少し前に遺跡で手に入れた鏡があることを思い出して、引っ張り出す。気に入るかどうかは分からない。けれど、これで気が済むのなら。
 手渡すときには、笑っていないと。鏡を覗いて、笑ってみる。どこか歪んだ笑い方で、思わず目を背けてしまった。

*  *  *

 寮を出ると、この早い時間に八千穂ちゃんからメールが来た理由が判明。
「よぉ~し、いっくよー!」
 八千穂ちゃんの、朝っぱらからハイテンション炸裂な声がテニスコートの方から響いてくる。部活も引退したというのに朝練に付き合うなんて、そんだけ暇なんですか八千穂さん。……て、入部してないのにGUN部やら石研やらボクシング部の練習に顔を出す俺も、どっこいどっこいのの酔狂だったりして。
 にしても、冬の早朝に思い切り足を出して、見ているこっちが空寒い。調子に乗って風邪でも引かないといいんだけど、なんで考えていると。
「いや~、若いってイイねぇ」
 どこからともなく、声。
 こんな時間にこんな場所では、心底出くわしたくないんですけど?うろうろされて見つかりでもしたら、後始末に困るのは主に俺か俺かルイ先生なんですよ?
「おいッ、どこ見てんだよ?こっちこっち!」
 寝不足で頭が呆けているところに怒鳴られると、うっかり、
「グッドモーニング。よッ、元気でやってるかい?」
「どっせいッ!!」
「ぐぉッ」
 蹴りが入っちゃいまーす。
 振り向きざまの必殺ヤクザキックは、無防備なアムロさんにクリティカルヒット。案の定、げふげふ咳き込みながらキレだした。
「元気かって聞いただけだろうがッ!!ったく、最近の高校生ときたら……」
「やー、スンマセン、なんかこう、蹴っておかなきゃかと……」
「なんとなくで蹴るなッ!!」
 俺なんか万年不健康優良児にいつだって「なんとなく」で蹴られてますよ。これ、最近の高校生のコミュニケーションなんです。
 しかも何ですか、大袈裟な。軽ぅく、ちょんと、蹴っただけじゃんか。俺のへっぽこ辞書にだって手加減の文字くらいございます。
 案の定、大仰に呻いていたアムロさんは、すぐに立ち直って俺の肩に腕を回してきた。
「ここで会ったのも何かの縁だ。君に協力してほしいことがある。これは、この學園の調査に関する重要なことでな。どうだ?協力してくれるかね?」
「またっすか!?もー、俺なんか頼らないで自分でなんとかしてくださいよー。宇宙刑事なんでしょ?」
「何もタダで協力してくれとは言わんよ。ほれ、こいつをやろう」
 てれれれってれ~、ハイ、タ~コ~焼~き。
「……餌付けっすか」
 つーかどっから出した。
「どうだ?協力したくなってきただろ?」
 もういいや、朝飯食ってないし。いざとなったらルイ先生にチクればいいし。
 もらったタコ焼きを頬ばりながら、続きをどうぞ、と促してみる。
「実はこの學園を調査していてある重大な疑問がわいたんだ。ここの生徒である君の意見を是非とも聞いてみたくて、ここで待っていたというわけさ」
「重大な疑問?」
 そんなの、たくさんあるけどさ。
 何だろう?アムロさん、なんか手がかり掴んだのか?そりゃ俺だって知りたい。
「なんすか、ソレ」
「この學園に寮があるだろ?」
「ありますね」
「俺が推理するに、もしかしてあの寮―――隣の男子寮から女子寮が覗けるんじゃないかとぐふァッ!!」
 反射的に動く、俺の黄金の右脚。あ、ちなみに左は虹色ね。どっちからもスーパーキック、出ますよー。
「う、おぉ……こ、こめかみに……爪先が……」
「スミマセーン、俺ったら身体柔らかくて、ついつい脚が上がっちゃった~」
 サングラスすっ飛ばしてない辺り、ちゃんと狙ってますから安心してくださいよハッハッハー、なんて笑い飛ばして、それじゃあサヨナラ……って、おろろ?
「おいッ、待てよ」
「ん……?」
 前方に見えるのは、男子生徒の集団。あらあらまあまあ、一人に対して何人かが絡んでるご様子。
 腹の辺りまで下げていた黒いモノが、一気に喉元まで迫り上がってくる。吐きそうなほど、胸くそ悪い光景だ。なぜって?俺の一番古い記憶が、いかにも強そうな連中に、寄って集って殺され掛ける、俺の、
「弱い者イジメか。やれやれ、どこにでもああいう輩はいるもんだな」
「………」
「助けてやらないのか?」
 くっ、と、喉から出てこようとする悪意の塊を吐き出す直前に飲み込む。
 自分より弱い者を、集団で囲むなんてのは、最低。でも、それが分かってて弱いままでいるなんて、もっと最低。在りし日の自分を見ているようで、イライラする。
 強く、なれば、それで済む話なのに……と、ぼんやりと考えながら、ふと思い当たる。こんな達観したようにあの光景を見ているけれど、俺は、一人で強くなることができたっけ?
 いいや、違う。あんな風に転がされて、ボロ雑巾みたいになっていたところを、あいつが拾い上げてくれたんだろ?それで、こんな、突き抜けるくらいに強くしてくれた。俺がなったんじゃない、してもらったんだ。
 そう思ったら、放っておくことなんて考えられなかった。昨日、暴走した感傷を自分一人で押さえられなくなった、あの薄ら寒い感触を、どうしても思い出してしまって。
 ひとつ、呼吸を飲み込んで、俺は黙って、そちらに近付いていく。
「ほう、本当に助けるつもりか。じゃ、後は任せたぜ?俺は人に見つかるとマズイんで退散するわ」
 今の、歪んだ顔を見せるのは憚られて、後ろ手を振る。アムロさんは、「それじゃ、またな、ベイビー」とお決まりの台詞を残して、気配を消した。
 それにしても、この學園ではあまりこういった誰かが誰かをいびり倒すって光景に出くわさない。もしかすると、初めてかもしれない。そういう意味では、この學園はずいぶん平和。
 少し近付いたところで、集団から一人が飛び出してきた。脇目もふらず、といった様子で一気にこちらに駆けてくる。走るときは前を見ないと、
「うわッ!」
 こうなるよ、っと、走る勢いのまま突っ込んできた身体をキャッチ。
「ご、ごめんなさいッ」
「いーよいーよ、それより大丈夫?」
「あ、あなたは……?」
 テンパり気味な被害者A君は、俺すらも苛めてくるんじゃなかろうかという怯えた眼をして見上げてきた。だから、大丈夫だよー、安心おしよー、俺は無害だよー、俺に楯突くヤツ以外にはねー、という温厚かつ和やかな笑顔を見せてやる。
「通りすがりの高校生です。ちなみに葉佩九龍と申しますよ。ヨロシク」
「葉佩、九龍さん?あ、あの……僕、2-Aの響五葉といいます」
 お。礼儀正しい。お辞儀なんかしちゃってくれるところもよいよ。名乗りもせずにいきなり拳ぶっ放してくるどこぞのワンコとは大違いだ。
 大して身長が変わらないのに、ぽんぽんと頭を撫でたくなる心持ちでいたところに、いたいけな子羊響君を追って、図体が二回り以上はデカいヤツらが寄ってきた。
「待てよ、響ッ」
「何で逃げんだよッ?」
 どうも見覚えのある三年連中は、俺なんか完全にノーカンで、響の腕を取る。
「あ……だって、それは……」
「ちょっと話をしようぜ?」
「は、離してくださいッ!!」
 パタパタと腕を振る響。その手を取って、こっちに引っ張ってやる。
 出方によっては軽く済ませてやろうかとも思ったけれど、この態度は容赦する必要なし。感情から来る電気信号が活発に送られているようで、握った指の先が微かにわななく。
「おい」
「あぁ?」
「今、この子、俺と話してんの。なんかあるなら、後にしてくんない?」
「んだとてめェ……」
 メンチ切られるこの感じ。いーなー、懐かしいなー。もっと売ってー。欲を言えばもうちょっと迫力がほしいね。じゃなきゃぶっ飛ばすのが申し訳なくなっちゃうじゃん。
「あんだてめーらやんのかこらー、って、なんか雰囲気出ねーなー」
 やっぱこう言うのは広東語でやらないと、なーんて俺は勝手にやる気満々になってたんだけど。
「おッ、おい、待てよ……こいつ……」
「ん?何だよ」
「こいつ確か、C組に来た転校生の葉佩ってヤツじゃ……」
「葉佩?……葉佩って、何ィィィッ!?」
 ……何だか、おかしな雰囲気だ。連中の顔色がどんどん青ざめていって、逆に響君がキョドって俺と連中の顔を交互に見ている。
「間違いねェ、生徒会の連中と一緒にいるとこを何度も見たことがある……」
「そ、それじゃ、こいつが、噂の……」
 とうとう、驚愕+恐怖の目で俺をガン見。こっちも、思わず「へ?」って目で見返してしまう。なに、なに、なんなのさ?そんな鬼でも見るような目で見られると、こっちが不安になるんだけど……。
「転校早々、墨木や真里野にヤキ入れたり、夷澤を毎日ボコボコに叩きのめしたり、あの神鳳さんをまるで舎弟のように扱ったり、双樹さんや朱堂を手籠めにしてもてあそんだ上、結局皆守って野郎と駆け落ちしたっていう―――」
「生徒会も怖れる不良ォォォォッ!?」
 …………は?
 今、なんつったい。てか、オイ最後。
「あ、あの、すいません、あなたが葉佩さんだとは知らずに「てめェ」とか……」
「ボ、ボクたち、決して、あなたとモメようとかそういうワケじゃなくて……」
「そ、そうッ!!そうなんです!」
「いや、あのー。そうでなくて、あのー」
「あァァァっと、そろそろ教室に行って朝の掃除をしないと」
「いやいや、ちょっと待て。話聞け」
「そうそう、そうだったなー、あッ、響くんは、どうぞ葉佩さんのご自由に!」
「おい、ちょっと、それどこで…」
「では、ボクたちはこの辺で!!」
 サヨウナラー、なんつって、ものごっつい引きつった笑いを浮かべて遁走しようとしやがる。
 ……ふざ、けんな?
 そんな、すっ飛んだ噂を言いたいだけ言って、逃げられるとか、思ってんなよ?
「快過来!!!話聞けつってんだろうがゴラァァァァ!!」
 思わず吠えてしまったら、ヤツら、蜘蛛の子散らしたように逃げやがった!!
「ひ―――ッ!!うわァァッ!助けてェェェッ!!」
「ちょ、てめ、逃げんなコラッ、話は終わってねェぞッ!!」
 終わってないどころか始まってもねェ!せめて撤回させろー!
 って、逃がした後でギャーギャー吠えてももう遅い。
 くっそー!何なんだよ今の噂!砲介、剣介にヤキ入れてワンコをフルボッコってのは、まあ、事実の範囲内だとして!!
 みっちゃん舎弟とか鬼怖いし!祟られるし!呪われるし!罰当たりだし!絶対無理!
 双樹ちゃんにも、もちろんすどりんにも(ここ四倍角)、手なんか出してないし!
 何より、結果甲太郎と駆け落ちってこの野郎ーッ!まだあったんかその噂!そのうち自然消滅するんじゃなかったのかよ!!
「朝っぱらから、最ッ悪だ……」
 あんまりにも脳内でキレ過ぎて、呆然としてしまった俺の肩を誰かが叩く。
「あの……ありがとうございます。危ないところを助けてくれて……」
 そうだ、いけね。頭に血が上りすぎてこいつのこと忘れてた。
 どうにかこうにか笑顔を作って、「いいえー」と振り返ってみる。
「あの、助かりました。葉佩さんて、すごく有名な人なんですね」
「……今のは忘れて」
 嗚呼、俺の黒歴史……願わくばこの子が、今名前の挙がったメンツを知りませんよう……。
 ヨヨヨ、と打ちひしがれる俺とはまた違う理由で、隣の響君はうなだれている。
「僕もあなたみたいに強かったら、こんな風に怯えて過ごすことも……」
 俺みたいになっちゃったら男と噂よあーた、と言いかけたとき、H.A.N.Tが震える。マナーモードだったんだけど、なぜか響が驚いたように飛び退いた。
「ひッ!!ビ、ビックリした……。葉佩先輩の携帯ですか?」
「そうだけど、どしたの。そんなビビる?」
「すいません、驚いたりして……。僕、音とか振動が苦手で……」
「そっか。じゃあケータイ持つのも一苦労だな……っと、手、どしたの?」
 見れば、響の手の甲には擦り傷。大したことはなさそうだけど、血が滲んでいる。
「あ……何かヒリヒリすると思ったら……さっき、あの人たちに掴まれたときに引っ掻いたのかも……」
「見せてみ」
 手を取って、よく見てみる。見たとこ深い傷じゃなくて、ルイ先生のお世話にもならずに済みそう。一応、手当はしておきましょう。
 響をコンクリの石段に座らせて、救急セットを取り出す。ミネラルウォーターで軽く傷を洗って、ワセリンを塗る。その上からドレッシング剤仕様の絆創膏をぺたり。
「うし。これでオッケーでしょ。あ、もしも化膿したりしたら、すぐルイ先生んとこ行くこと」
 響は、一体何が珍しいのか、まじまじと手と俺を見る。
「あ……あの、何で僕なんかに、こんなに親切にしてくれるんですか?僕に親切にする理由なんてなにも……」
「へ?理由?……んー、特には、ないかなー。ってか、手当てできるのに無視って、そんな人でなしさんに見えますかね、俺は」 「す、すいません、せっかく、葉佩先輩が親切に言ってくれているのに……あの、いろいろと、ありがとうございました」
 ぺこ、と頭を下げてくる姿はとても愛くるしいですこと。とても、夷澤と同じ……あれ?2-A?もしかして、クラスまで一緒?夷澤って、何組だっけ?
 首を捻る俺を訝しげに見ていた響だったが、チャイムの音が聞こえてくると、はっとしたように立ち上がる。
「それじゃ、僕は行きますね。今日は掃除当番なので……」
「ん。気をつけて。また絡まれないように。もしなんかあったらお呼びー」
 ひらひら、手を振って、駆けて行く背を見送る。
 さて、と……今ので、よかったのだろうか。
 彼が、あんな連中に囲まれなずに済むほど強くなるまで、……俺は、この學園にいられない。中途半端に手だけ出して、放り投げていくことになる。
 それでいいのか、本当に。笑って手を離したその後に、何もしてやれることがない。彼のことだけじゃない。墓守の連中のことも、荒らし散らした墓のことも。
 少し前なら、「あの子を助けてやらなきゃー」と、単純にへらへら思っていたに違いない。でももうできない、そう思えない。人と関わるために、いちいち考えてしまう。上っ面だけが、できなくなっている。
 だから、だ。あんなに一歩を大きく踏み込んでしまったから、夕薙が、対岸にいたことにショックを受けた。受けてしまった。それで、回線キレて、暴走。
 もし、も。もし、次に、こんなことがあったら?
 今回は、あいつの声が聞こえた気がして、寸でのところで踏みとどまった。けれど、毎度毎度、正気を失うたびにあいつを思い出すことができるとでも?確証はない。けれど、まだ、この學園での戦いは終わっていない。夕薙が言うように、喪部の存在が気にかかる。學園の長だって立ちはだかるだろう。
 ……本当にこの學園は、危険だ。俺の中のこんなに真っ黒い物、この學園で、明るく平和に生きている人間に見られたくない。こんな世界で、晒したくない。
 脳裏を、夕薙の顔が横切る。全てが済んでしまった後の「ありがとう」という声。健全に生きていく権利を奪ってしまったというのに、なぜ?
 やっぱり、ここで生きている人たちは、俺とは違う。だとすれば、今、響を助けたのも間違いなのだろうか。
 もう、何も分からない。どうしたらいいのか。
 朝っぱらから、完全に思考が落下した。混乱。今までの人生分、何も考えずに生きてきたその代償として、優しさや親切、そういうものに耐えられない自分の闇に胸の中から喰われてしまったような気分だった。