風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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龍の玄、影の黒 - 5 -

 甲太郎から今までの経緯を説明され、真っ先に九龍は顔を青くした。
 甲太郎が落下した際、気を失ったのを介抱してくれたのはさっきまで殴る蹴る斬ると散々やってしまった彼だったのだという。あわわわわ…やっちゃったすいませんすいませんと、頭が地に着かんばかりに謝り倒したのは言うまでもない。
 その上、勘違いして飛びかかったのに自分の処置までしてもらってしまって。話を聞く耳を持たなかった自分は相当余裕がなかったんだなぁと、更に九龍は青くなる。
「スミマセン…ホントーに、スンマセン!!」
「いや…そこまで言われると逆に困る」
 壬生紅葉と名乗った彼は、最初のカランビットでの襲撃を言っているのか、綺麗な顔を僅かに顰めた。甲太郎よりは数センチ高い位置にある目元は切れ長で涼しげで、改めて見て鼻血が出そうになるほど格好良い。この顔を俺は容赦なく蹴り飛ばせていたのかと思うと、更に青くなりそうな心持ち。
「………なんか、もう、ホントスミマセン…」
 できることならここから消えてしまいたいほどだ。
 壬生の所属機関は《M+M機関》だというが、ロゼッタとしては対立関係にあっても、九龍たちが今まで築いてきた人間関係から言えば協力関係にある組織である。高校時代に世話になった養護教諭や自称宇宙警察を思いだして、少し懐かしくなったりもした。
「とは言っても、先に襲撃してきたのはそっちだろう。反撃されても仕方ないと思え」
 甲太郎の言い方は僅かな敵意とあからさまな毒を含んでいた。くみ取った九龍は首を振って見せた。
「でもさ…もし俺が逆の立場だったら絶対同じことしてたと思うよ」
「そうかぁ?」
「相手の目的とかがはっきりしてないなら気絶させたり拘束したりして完全にこっちの優勢に持ち込んでから尋問した方が手っ取り早いんだもんよ。こういうのはセオリーだから」
 その通りだ、と壬生は思う。至極その通りだ。
 だがそれは普通の人間の考え方ではない。軍隊や、それに類する何かしらの戦闘集団の中にいなければ身に付かない考え方。この甘い面構えの少年じみた青年が、一体どこで何をしていたのか。当然壬生には知るよしもない。
「……で、壬生さんはこれからどうするんですか」
「どうもこうもない。まずはここから出る方法を考える」
「でも上に戻る階段はなし……だとさ」
 聞いた九龍はしばらく考え、口を開いた。
「上に戻る方法なら、あります。ワイヤーフックに鉤をつければ、穴の開いた天井から上に戻れると思うんですよ。……でも、」
 壬生の目的は『墓守を顕現させないこと』であり、それにはハンターである自分たちが先に進むことは有り得てはならないはずだ。けれど、九龍は進まなければならない。意見が相違となれば、……譲れないが故にまた、傷付け合うしかない。
 九龍達の任務は遺跡の調査であり、秘宝を手に入れることではない。しかし、今までも化人が現れたことを考えれば、遺跡の最奥まで進めばおそらくは墓守は現れるのだろう。
「一応、俺たちの今回の目的は秘宝の奪取とかそういうことじゃないんスよね。中国の黒社会から、人が入っていったきり戻らない遺跡の調査を依頼されたんです」
「………それで?」
「でも、秘宝とか求めなくても墓荒らしには死を、が遺跡の基本なんで…」
 言い淀む九龍の二の句を、甲太郎が継いだ。
「つまり、あんたが戻っても俺たちが進めば墓守は現れるってことだ」
「そして、そっちには戻る意思がない、というわけか」
「…です」
 壬生は、小さく嘆息した。物憂げな表情がよく似合う。いい男は何をやってもどんな顔してもいい男なんだな、と、改めて九龍は思った。
「ならばさっさと行こう。僕もそれほど暇なわけじゃない」
「…へ?」
 長身が黒いコートを翻し、そのまま出口へと向かっていく。その背中は「何の問題もないだろ」と言っているようにも見える。
「だ、そうだ。行こうぜ」
「…は?」
 続いて、甲太郎がSMGを抱え直し、アロマパイプを銜えて出口へと向かっていく。その背中も「何の問題もないだろ」と言っているように見える。
 何だか、自分だけ付いていけてないようだ。
 順応性の高さはかなりのものだと自負していたが、この状況はよく掴めない。自分の順応性を過信していたのか、前を行く二人が高すぎるのか。
 九龍は首を傾げながらも二人の背を追った。

*  *  *

 よく分からないながらも一応先頭に立った九龍の後ろ姿を、壬生は不思議な面持ちで見つめていた。隣を歩く甲太郎は、零れた小さな呟きを聞き逃さない。
「全然違うんだな」
「何がだ?」
「……今の、雰囲気と」
「ああ、九龍か」
 視線の先の九龍は、石碑を読むためにしゃがみ込み、H.A.N.Tと情報を照合させている。日本語と中国語を呟きながら頭を掻く姿が、戦闘時の姿とどうしても重ならない。
「ああ見えて感情の波が荒いからな。一度キレると人が変わる」
「らしい、ね」
 その、キレるスイッチが他人だというところがまだ可愛らしい点か。今は秘宝を二つ並べて唸っている。
「……えーっと、河…禁水に住むもの…トラップかな……。な、甲太郎、ちょっとこれ持っ…」
「『持ってて。俺、ちょっと行ってくるから』とか言うんだろ。お前の言うことはお見通しだっていうんだよ、阿呆」
「う゛ッ…」
 手に持った秘宝を差し出した体勢で九龍が固まった。図星である。
「ほら、行くぞ」
「あ、ちょ、甲太郎ッ!壬生さんが…」
 と、声を掛けた途端に部屋の中に身体が飛び込む。自主的な行動ではない。蹴り入れられたのだ。九龍と、伴うように甲太郎も。ということは蹴った本人は壬生なのだが、部屋の扉が閉まった瞬間にはしっかり部屋の中にいた。
「あ痛~…」
 腰をさすった九龍の下には、呆れたような顔で下敷きにされている甲太郎。視線の先は九龍ではなく、薄暗がりの中に佇む壬生に向けられていた。
「……やるのはいいが、一言断ってからにしろ」
「気が向いたらそうするよ」
「…………」
 どうやら《M+M機関》の連中というのは皆、性格が偏屈らしい。(自分を棚に上げて)、甲太郎は高校時代に知り合った人間を思い出した。
 その間に立ち上がり、暗がりに目を凝らした九龍は、視覚が機能するより早く嗅覚と聴覚が異状を訴えていることに気が付いた。ざらざらと水の流れる音、それから、苔のような青臭い何か。
 足下を見れば、そこは今にも朽ち果てそうな木造の足場だった。さらに下では、水が揺らめいていた。
 H.A.N.Tが、反応する。『罠が作動しました』。分かっている。
 その罠の正体が、見る間に迫り上がってくる水かさだけではないのは、次の瞬間に何かが飛んできたことで分かった。
 声を掛け合う間もなく、三人は三方向に跳び退った。その一瞬の間に、九龍は頭の中で碑文の内容と罠の解除法を照らし合わせ、構築する。
 おそらくは禁水という河に住む化け物、鬼弾のこと。河を渡る者に物を投げつけるという伝説の化け物だ。その力は当てられた木が折れるというほど。そのせいで河川工事の際には甚大な被害が出た……その事を指していると、判断。
 着地の瞬間までに考えを纏め上げ、追って飛んできた二弾目も身を翻してかわす。
 視界の端と端で他の二人の無事を確認し、それからゴーグルをノクトビジョンにスイッチ、部屋の最奥にある一段高い足場を確認した。
「二人とも、ちょっと、待ってて」
 散弾のように放たれる礫をかわしながら、九龍は長く続く足場を駆けた。時折腐った箇所を踏み抜き掛け、その度に礫が飛んでくるが何とか回避し、水が迫り上がってくるのを掻き分けるように高台足場の手前まで一気に突っ込んだ。
 思った通り、高台に掛かる天井にはワイヤーフックを掛ける突起が見つかった。九龍はワイヤーフックも改良している。綱の部分を渡っていくのではなく巻き取る反動で一気に向こう岸まで渡れるのだ。
 まだ疾走の途中でフックを構え、止まる前に射出する。…一気に行けるとはいっても、渡っている最中は無防備だ。バリスティックコートの防弾能力を信じて行くしかない。
 決めて、足場から跳びだそうとしたその無防備な一瞬間。
(!!!)
 狙ったようにトラップが襲う。顔面狙いの直撃コース。
(避けらんね…ッ!!)
 脳裏に、頭蓋の砕ける痛みの感覚を焼き付けられた気がした。
 しかし、予想もしなかった方向に身体は傾ぎ、激痛とは別の何かを感覚したのが二瞬間後。大腿の辺りまで迫り上がっていた水の中に倒れ込んでいた。呼吸が詰まり、けれどそれは水ではなく誰かの身体が押し付けられているからだと知る。
 水を飲む手前で強引に身体は浮上させられ、目の前にいるのが甲太郎だと知った途端にどうしようもなく安堵した。
 死ぬ、って思っても実感湧かないのは、絶対に背中に甲太郎がいるって知ってるからだ。
 だから俺、こんなにも簡単に無茶ができる。
 言葉も交わさず、立ち上がった九龍は再度フックの巻き上げに掛かった。間髪入れずに次弾が飛んでくるが、今度のそれを弾いたのはカランビット。ちらりと視線で、「さっさと行け」と壬生が告げる。
 迷わず、九龍は跳躍した。一気にワイヤーが巻き上がり、あっと言う間に身体が浮遊する。高台に難なく着地し、ワイヤーフックの解除よりも先に目に付いたレバーに手を伸ばした。
 解除音を聞いて下を見れば、濡れ鼠になっていた二人の腰の辺りから水が見る間に引いていく。ホッとして、そこから飛び降りた九龍の体重は、しかし朽ちた足場を踏み抜いた。
「うぉ!」
 バランスを崩した九龍の腕を、双方向から伸びた腕が掴んだ。不自然な体勢で落下は止まり、九龍に手を伸ばした二人は同じ体勢のまま顔を見合わせている。
 引き上げてもらえるのかと期待をした九龍だったが、なぜか突然腕は離され、いっそ見事なまでに水の中に落ちた。
「うそッ!?」
「「あ。」」
 飛沫を立てて水に落ちた九龍を見下ろし、二つの声が重なる。黒いコートは水を含み、ぶくぶくと沈んでいく。
「…どうして放したんだ?」
「いや、あんたが引き上げるのかと思って」
「………」
 甲太郎は足場の縁にしゃがみ込んで「おーい、九龍ー」などと呑気に呼んでいる。それに応えるわけではないだろうが、ゴボッと一際大きな泡が浮かび、同時に九龍も浮上してきた。
「あ、無事か」
「無事か、じゃねぇだろがッ!何で二人して手ぇ放すわけ!?どっちかせめて引っ張り上げてくれてもよくね!?」
 正論だ。だが、二人は綺麗に流した。コートの端を絞ったりウージーの点検を始めたりしている。「畜生、上から下まで濡れちまったじゃねぇか」「いつもこんなことをしているのか?君たちは」「いつもって訳でもないがな。いつもこんなじゃ命がいくつあっても足りないぜ」そりゃそうだはははは、などという朗らかさはないが、二人は未だに足場に上がれずにいる九龍をほっぽって先の出口に向かっていってしまった。
「……何なの、あの二人」
 どうにか自力で這い上がった九龍の呟きは、当然の如く届いていない。

*  *  *

 水没して使えなくなったものは甲太郎の持つウージー、予備弾薬、九龍のバックアップガンであるグロックアドバンス二挺。防水加工を施したM92FSMAYAコンバットと砲介九式、防水ケースに入っていた弾薬は無事だったものの、被害は甚大だと言える。
「乾かせば使えるんじゃないか?」
「それで暴発なんかしたら元も子もねぇじゃん」
 散々二人に悪態を吐いてスッキリしたのか、九龍はあっさりした様子で甲太郎からミニウージーを取り上げると自分の腰に掛けた。
「甲太郎、丸腰心配?」
「いや、別に」
「これ、一挺貸しとこうか?ハンドガンは扱いが難しいけど」
「やめとく」
 以前にハンドガンには酷い目に合わされている。
 いや、普通のものならどうということはないのだが、九龍の持つ特注ベレッタは酷い。軽いくせに反動が強いものだから、撃った途端に腕を「持って行かれ」そうになるのだ。
 あの嫌な感覚を思いだして、知らず顔を顰めてしまう。 「そ?……ま、甲太郎なら足技だけでなんとかなると思うけど」
「元々、そのサブマシンガンだってお前が無理に持たせたんだろうが」
「だって心配なんだもんよー」
 九龍の頬が膨れる。ぶつぶつと文句を言いながらもハンドガン二挺を、手にして誰もいない方向へと構えた。スコープやサプレッサーを備えたフル・チューンのベレッタ、そして威力を極限まで上げるよう改造を施された方介九式は、どちらも一見すると拳銃には見えないほどだ。それを甲太郎からすれば細いとしか言い様のない腕に一挺ずつ。
 銃声とは言えないほどの音と共にマズルフラッシュが閃く。僅かに跳ね上がった九龍の手は、しかし狙いに向かってブレることはなかった。
「うーっし、快調快調。問題なーっし」
 銃をホルスターに収めて、そこで九龍は自分を見る視線に気付く。
 壬生は、まるで珍しいものを見るかのように九龍の姿を注視していた。まさか、銃を見るのが初めてというわけでもあるまいに。
「……えーっと、何か」
「いや。何でもない」
 よもや壬生が自分とメキシコ人を重ね合わせていたことなど知るよしもない。
『HAHAHA、タノシーネ!』
 ふと蘇ってきた記憶に頭を抱えた壬生の姿を、先行く二人は見ていない。
 ホルスターを叩き、ナイフの点検もした九龍は、通路の先の扉を開けた。
 次の区画に化人の姿はなかった。しかし、部屋には床がなく、対岸は遥に向こう。その間にも足場が僅かにあるだけだった。
「うわー…これは、どうしろっつーんだろうねぇ…」
 一番手前の足場まででさえ、優に六、七メートルはありそうだ。走り幅跳びならば軽く飛べる距離でも、助走のつけられない状態では不可能に近い。
 九龍の運動神経は異常だ。けれど、きっちり人間なのだ。
「スンマセン、誰かスパイダーマンになれ…」
「なれねぇよ阿呆たれ」
「だよねぇ…」
 なんとなく、壬生ならば行ってしまいそうな気がしたが、渡った先には石碑が建っている。おそらくは九龍でなければ解読は不可能だろう。となれば、やはり行くしかない。
 溜め息をつき、とりあえず自分たちの建つ足場に設置されていた石碑と、何かを模した彫像について調べることにした。
「《大風の息吹はすべてを吹き飛ばした。木、家、人。勇者が弓矢で射殺すその時まで》…で?この像が勇者って?」
「秘宝、嵌められるんじゃないのか」
「弓の方?ああ、そうかも」
 人物像の手の部分に弓矢を握らせるように嵌めると、突然横に通路が浮かび上がる。どういう手品だと目を見張る、その先には例のレバーが設置されていた。
「あれ入れれば足場ができるとかじゃないのか?」
「なぁる」
 調べて、木の絵が掘られた壁にあったスイッチを入れたその時、部屋の中にファンの回るような音が地鳴りのように響き渡った。対岸までの空間にひとつ、足場が浮き上がり、次いで、髪を巻き上げるような向かい風が吹いてくる。
「……これくらいなら跳べるか」
 ベレッタに装着したスコープで距離を測り、助走を付けなくても行けると判断し、跳ぶ。
 向かい風に僅かに煽られながらもなんとか足場に着地する。
「九龍、大丈夫か?」
「おうよッ!」
 手を上げて応え、最初からあった足場へと跳ぶ。
 そこに置かれていたレバーを見ると、今度は足場全体に人家のようなものが描かれていた。次は、これだ。
 確信はあった。そして、それは正しかった。
 だが、対岸への足場が浮かび上がると同時に、ふわりと身体も浮き上がる。
「九龍ッ!!」
 身体が浮くほどの突風、それも向かい風が吹いている。飛ばされかけた九龍だが、どうにかワイヤーフックを飛ばしてレバーに引っ掛けることに成功した。そのまま足場まで戻るが、そこから一歩も前に出られそうもない。
「最後には人が飛ぶって…このことかよ畜生がッ」
 腕で目元を庇いながら前を見るが、その足下からずるずると後ろに下がっていってしまう。
 その様子を見守る二人も、突風に目も開けられないような状態だった。
「クソ、あれじゃあ進めねぇじゃねーかよ」
「…軽すぎるんだ」
「あ?」
「彼じゃ、ウェイトがなさ過ぎるんだよ」
「……あいつの体重、どれくらいだったか…」
 呟いたつもりが、地獄耳の九龍には聞こえていたらしい。突風の向こうから必死に怒鳴る声が聞こえてきた。
「ろくじゅー、くらいー、ですー!!」
「嘘こけッ!!十キロもサバ読むんじゃねぇ!!年末の健康診断じゃ…」
「あー、うるさいうる、ぎゃぁぁぁぁッ!!」
 気を抜いた瞬間にまた吹き飛びそうになる。
 まるで鯉のぼりだな、と思いながらも打破する方法を考える甲太郎は、最初のスイッチを元に戻そうとするが、一度稼動したものは戻らないようだ。
「チッ…どうすりゃいいんだよ」
「……あの足場は、さっき出たものか?」
「あ?……あぁ、そういや今まで無かったな」
 二人が指したのは、九龍が最初に跳んだ足場の横にいつの間にか現れていた小さな足場だ。どうやらスイッチが設置されているらしい。
 あそこまで跳び、作動させればこの状況を打開できるかもしれない。だが、九龍が足場まで戻るのは危険すぎる。今まで向かい風だったものが追い風に代わり、一歩間違えれば奈落の底へ一直線だ。
 かといって二人がこの突風の中、あの足場まで跳べるかと言われれば答えは否だ。届く前に風に煽られ、落ちるだろう。
「九龍、大丈夫かッ!?」
「な、んとか…!」
 だが、大丈夫、ではないことは一目瞭然だった。
 唇を噛みしめる甲太郎の横で、壬生は状況を把握しながら思考を動かしていた。目の前では伏臥した九龍が今にも吹き飛ばされ、落下しそうになっている。
 一番手っ取り早いのは放っておくこと、だ。
 この状況では誰も向こうへは渡れない。九龍だって、そのうち体力を消耗しきって死ぬだろう。ならば墓守は蘇ることはない。任務は、完了だ。
 そう、思いながらもできないのは、忌々しいまでの自分の甘さのせい。分かっている、が、こんな甘さを嫌いではないと言ってくれる人がいる以上、変わるわけにはいかない。
 壬生はコートの中から一枚、符を取り出すとカランビットに貼り付けた。何をするのか、見詰める甲太郎の目の前でそれは放たれた。
 それは、気流を裂く刃。
 壬生の目の前から風が消えたことを、一吹きも靡かない彼の黒髪が証明した。
 甲太郎が驚くのを尻目に、壬生は足場まで軽い反動ひとつで跳んでしまう。着地、それとほぼ同時に風の力が舞い戻る。
 突風は壬生に襲いかかるが、彼が逃げる方が一瞬だけ、早かった。
 すぐさま横に跳んだ壬生の手はレバーに掛かり、途端、恐ろしいまでに荒れ狂っていた風が、嘘のように静まった。
 何が起こった、だとか。どうやったんだ、とか。
 甲太郎の頭には様々疑問が湧き上がったのだが、今はそれをすべて無視して九龍の元まで跳んだ。黒いコートの背は、蹲ったまま動かない。相当消耗したようだ。
「九龍、おい、九龍ッ」
「……うぃー。生きてまーす」
 ワイヤーと足場の床面に必死に縋っていたせいか、指先に血の気はなく真っ白に変色している。肩で息をし、膝も笑う。
 だが、無事だ。
 胸を撫で下ろした甲太郎は、煽られたせいで秀でた九龍の額を軽く叩き、壬生を振り返った。
 一つ手前の足場で、それ以上はその足場に乗れない、とでも言いたげに佇むもうひとつの黒い立ち姿。表情は乏しい。けれど、冷たくはない。不思議な男だ。
 甲太郎はへばった九龍を置いて、先の足場に跳んだ。九龍にワイヤーを射出させ、それを置いてあった像に固定してから、本人を渡らせる。後ろからは壬生が造作もなく跳んできた。
「あー…死ぬかと思った」
 落ち着いた足場に座り込んだ九龍の第一声だ。珍しく声に明るさがない。本当に疲弊しきっている。
「ともあれ、無事で何よりだ」
「……そういや、あんたが投げたナイフ、何だったんだ?」
 甲太郎の疑問は、九龍には意味が分からないもの。前に神経を集中させすぎて、自分の背後で起こったことなど分からないのだ。
 カランビットが風を裂いた話など、聞いてもにわかには信じがたい。甲太郎はともかく、壬生が言うのだから嘘はなさそうだが。
「あの風は、侵入者を拒む悪意の顕現だ。目に見えずとも、悪意の力なら祓うのは易い」
「そ、そういうもんですか」
「君たちハンターとは力の向く方向が違う、とでも言っておこうか」
 聞いて、言われてみれば俺たちは力押しだ、と納得する。化人を鎮めようなど、考えたこともない。この力の方向性こそが九龍たちと壬生を分けている要因になっていることを、改めて理解した。
 トレジャーハンターの目的はあくまでも秘宝だ。その過程にあまり意味はない。
 だか異端審問官は物になど固執しない。闇を祓う、それこそが目的だ。
(すっげぇなぁ…)
 遺跡に永劫、現れ続ける化人も皆、還すことができるのかもしれない。自分たちにはできないことだ。
(…ならば、俺は自分のできることをする)
 龍のような蛇のような彫像に掘られた言葉を読み込み、秘宝の矢束を嵌め込んだ。すぐ前にあった扉は開錠され、押すだけで簡単に開く。
「これで大風退治、かな」
 再度、H.A.N.Tを立ち上げ、この遺跡に入って初めての石碑から読みとった情報を見る。
「盤古の天地開闢は、風で終わり…ってことはそろそろ本命に着くかも」
「その前にお前は少し休め」
「……そだね」
 さすがに無理をする気は起きない。
 もしかしたら回復を見込める場所がこの遺跡にもあるかもしれない。通路を先に進む。
 どこからか吹いてくる湿り気を帯びた風が背筋を撫でるたび、嫌な予感のような物が走る。だがそれは同時に高揚でもあり、ラストステージに向けて階段を駆け上がりたくなるような気にもなるのだ。
 拳を握る代わりに二挺拳銃のグリップを力一杯握った。ベレッタは大きめの銃把だが、改良に改良を重ねて、今ではもう手の平にしっくりと馴染む。砲介九式は、元より自分に合わせて生み出された銃だ。あまりに馴染みすぎて意味もなく撃ちそうになることがあるが……それをしていいのは射撃場の中だけだ。今ではない。
 進む途中の通路に、先程までとは少し色の違う扉を見つけた。まるで横穴のように扉がついている。描かれた模様にも見覚えがある。魂の井戸、だ。
 警戒を解かぬまま指先で扉を押し、中を覗き込んだ途端、何とも言えない安息感が身体中を巡る。
「ビンゴー」
 おどけて、倒れ込むように部屋の中に入った。本気で、倒れたい気分だったというのもあるが。
「ここは?」
 壬生が問うた。
「あー、なんだ、回復所みたいなもんだ」
「…気が、暖かで穏やかだ」
「そんなもんかね」
 甲太郎にはその感覚が分からない。肩を竦めて、寝転がる九龍の首根っこを引っ張った。さっきの風の影響で濡れたコートは乾き掛けている。
「おい、起きろ。調子は戻ったんだろ?」
「うぃ。バッチリです」
 起きあがり、その場にしゃがみ込んだ九龍はアサルトベストから持っていた装備すべてを取りだして最終点検を始めた。
 水没して使えないと決めた銃の中から弾薬を取りだし、薬莢を分離。湿っていない火薬を取りだし、種類ごとに分けていく。
「何やってんだ」
「勿体ないから手製で爆薬造ってんの。さすがにここでハンドロードなんて無理だから」
「……銃弾用の火薬と爆薬用の火薬って違うんじゃねぇのか?」
「ダイジョーブ。そんな高性能のを造るとかじゃなくて火炎瓶程度だし」
 三連ポウチからはワイヤーの束、金属製のミニポットからは液体を取りだして、小銭入れとして使っていたフィルムケースを組み上げていく。
 その作業を手伝うことのできない甲太郎は、アロマパイプを銜えてライターで火を着けた。防水加工ライターで、多少の水没で使えなくなるようなものではない。
 甲太郎が一服し終えるのと、九龍が調合を終えるのはほぼ同時だった。その間腕を組んで壁にもたれていた壬生に、九龍は一声掛ける。
「というわけで、次がラスボス戦です。気張らないとちょっと厳しいです。……お手伝いして、もらえますか?」
 壬生は背を壁から離すと、軽く頷いた。
 僅かに微笑んだように見えたのは、きっと九龍の気のせいではない。