風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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龍の玄、影の黒 - 3 -

 気を失っていたのはほんの数秒だった。
 落下中の記憶はないが、どこかに叩き付けられたことで意識は戻ってくる。
 九龍は無意識に受け身を取っていたことで怪我らしい怪我もせず、無事だった。落ちた先には酸もない。普通の床だった。通路も続いていて、先にも進めるらしい。
「甲太郎……?」
 その姿が見当たらないことに気が付いて、名前を呼んだ。
「甲太郎、甲太郎ッ!!」
 上を仰いでみても、先は暗闇。消えたはずの床の盤面は、今は天井となって穴を塞いでしまっている。
「こうたろ――――ッ!!」
 絶叫は壁に跳ね返って木霊するばかり。彼の人には、届いた気配すらない。頭の中の混乱は頂点を極め、どうなるわけでもないのに周囲の壁を叩き続ける。爪を立てたせいか、指先から血が滲み出していた。けれど構わず、甲太郎を呼ぶ。
 冷静な判断ができないのは当然、皆守甲太郎がいてこその葉佩九龍だ。一瞬でショートした思考を機能させるには、しばらくの時間が必要だった。一通り叫んで、それだけで喉を潰して、荒れるだけ荒れた呼吸を整えながら、自分に言い聞かせた。
 落ち着け、俺。
 それからゆっくり、記憶を手繰る。
 落下の瞬間、確かに甲太郎も抜けた床に落ちていくのが見えた。しかも、あの黒尽くめの男と一緒に。落ちた先が自分と同じような場所ならば……生きている可能性は高い。
 だが、酸だったら…?考えて、ぞっとした。おそらく跡形もなく熔けてしまっているだろう。
 携帯電話は当然圏外、電波が飛ばないせいで無線も通じない。H.A.N.Tからメールを送ってみるが、携帯電話が圏外である以上、届く可能性は明らかに低かった。
 生きている可能性と死んでいる可能性、それは半々に思えた。そして、絶望的な方の可能性を想像するだけで膝から下の力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまう。壁に身体を預け、呆然と虚空を視線が泳ぐ。恐ろしい想像だけが脳内を侵蝕し、止め処がない。
 甲太郎が、死ぬ?また、大切な人を失う?
 指先が岩肌を掻いた。赤い線が走るほど強く。その指を握り締めて拳にし、壁を叩いた。
 ―――そんなの、認めない。絶対に、許さない。
 甲太郎の死など有り得てはならない、九龍は思った。それが例え、自分の意思を越えたところで起こった出来事であっても。
 仕方ない、諦めろと言われようが土台無理な話なのだ。この世に起こるほとんど全ての事象は許容するし、諦めることもできる。けれど皆守甲太郎は別だ。あの存在だけは、自然の摂理に飲み込まれることも消滅することも、許容できない―――諦めない。
 生きている。俺が生きている世界に甲太郎が生きていないなんて不自然、認めてやらない。
 無意識に引き抜いていた二挺のマズルに、それぞれそっと口付けた。願い、祈り、希望を越えた絶対的な確信を託し、甲太郎と必ず合流するという思いだけで立ち上がる。
 落下の衝撃で故障箇所がないか試射し、上の階で投げつけたコンバットナイフ以外のナイフの点検も忘れずに行う。異常はない。
 知らず、九龍は嗤っていた。普段浮かべる朗らかな笑い方ではない。牙を剥き出しにした獣、例えるならばそんな笑いだ。
 俺から、アレを奪おうとする奴は何であっても許さない。神だろうが、運命だろうが、カランビットの男だろうが。
 ―――潰してやる。
 甲太郎と共に落下した男。自分と同じ黒の装束、髪、眼。
 何者かなどと言うことはもう関係なく、九龍の頭にはその危険な男から甲太郎を奪還することしかなかった。

*  *  *

 通路の先の区画には化人が待ちかまえていた。今度こそ、人型ではない異形の者。侵入者に気付き、一斉に襲いかかってきた。
「邪魔を、するな」
 ぎり、と奥歯を噛みしめた九龍は、飛び掛かってきた二体の首をナイフで呆気なく刎ね、残りが動く前に二挺拳銃をそれぞれホルスターから引き抜いた。
 ベレッタは確かなリコイルと威力を持って、化人たちを屠っていく。蛇のような姿をした化人は細切れになるほど穴だらけになり、獣の姿をしたものは頭が綺麗に無くなるほどの銃弾を食らって消え去った。
 戦闘が終わることを確認する前に、すでに意識は石碑へと向いていた。
《九嬰は九つの頭、蛇の体。首が八方へ飛び散ったとき、血で汚された地は、なみなみと溢れる水で清められた》
 部屋の中央には九つの頭に蛇の体を持つ九嬰の像が置かれている。首は人間の頭部のようになっていて、それぞれ動かすことが可能だった。
「九嬰…洪水の……」
 その化け物は、河川に洪水を起こすと言い伝えられている。太陽の間で三足烏を打ち落としたとされる弓の名手に葬られた、それが九龍の持っていた知識だ。
 名手は化け物の首を八方へ吹き飛ばしたという。丁度いい具合に部屋にはこぢんまりした台座があった。
「あれか」
 口の中だけで呟き、首を全て違う台座へ動かすと同時に開錠音が響いた。
 九嬰の胴体像の場所には何かが嵌め込まれていて、手に取ってみるとそれは《秘宝》の一種のようだった。矢束の形をしている。
 またこれはどこかで使うのだろう。それをH.A.N.Tに登録してからアサルトベストにしまった。
 開錠された横の扉から出ればまた下る階段に繋がっていて、何も考えずに階段を降りていく。
 いや、何も考えていなかったわけではない。身体と神経は戦闘態勢を保ったまま、漠然と脳内では皆守甲太郎を想った。スライドを引き、安全装置を解除した銃を手の中で弄びながら、さっきまでそこにあったはずの甲太郎の腕を想った。
 ―――こんな時だというのに。
 階段を降りきった先にあった扉を押しながらも、その向こうに甲太郎がいるといいと思う。開けた先には饐えた臭いと化人の群衆が待っていたのだけれど、今の九龍を止めるには何もかもが足りない雑魚の群だ。
 流れるように標準を合わせていき、息をするように引き金を引く。二挺はほぼ交互に弾身を撃ち出し、あまりにも的確に弱点を抉る。侵入者に死をもたらすはずの墓守は、侵入者の手によって呆気なく消えていった。
 ただ、数が多すぎる。背後まで囲まれ、九龍はそこで素早く銃をしまい、格闘態勢に入った。構えた前脚を猫足に、蹴り上げる準備を整えたそこに化人が飛び込んできた。九龍のブーツは三日月の軌道を描いて、化人の柔らかい部分を抉った。降ろした足を軸足に、今度は逆の足で首に当たるであろう部分を蹴り飛ばした。
 威力の高い後ろ回し蹴りを食らって、化人は吹っ飛ぶ途中で空気に溶ける。その向こうと後方から別々の気配が迫るのを感じて、九龍は跳んだ。黒いコートを翻した中からナイフを抜き、一振り、二振り。着地の場所から脚を振り上げ、二体を巻き込むように蹴り殺した。
 消音加工された踵が硬質な床とぶつかる。普段より一段荒い呼吸を整えてしまえば、部屋に残っているのは世界が終わった後のような静寂だった。
 甲太郎が本当にいなくなったら、世界はこんな静けさかもしれない。そんなことを思いながら、九龍は振り返る。
 静寂のはずのそこには、音もなく佇む影。薄暗がりの戦闘中では化人と間違えた姿も、直視すればしっかり人間だ。サングラスもなく、切れ長の涼しげな眼は揺れもしない。
 黒いコートの中には暗器が仕込んであるのだろう。隙のない立ち姿は戦闘に特化した人間の特性だ。僅かに片脚を後ろに引き、格闘戦の臭いを漂わせる。
 まるで、俺だ。九龍は影のような男を見て思った。―――相手の方が数段いい男だけれども。
 だからといって皆守甲太郎を連れて逝かせるわけにはいかない。
 男の横に甲太郎がいないことを見て、九龍はタクティカルナイフを構えていた。甲太郎をどうしたか、など聞かない。どうしたって始末しなければいけないのなら、始末してから遺跡の中を探す。どこか部屋に取り残されているなら急がなければ。
 急がなければ。
 確認のようにウン、と頷き。事前のモーションも無しに突っ込んだ。
 殺意の刃が翻る。身体がよく動く。きっと準備運動をしたからだ。相手がカランビットを抜くのを確認する前に首元を狙った。刺さ、らない。咄嗟に受け止めるよりかわすことを決めた男の判断の方が早かった。首の皮、一枚だけを裂いてナイフは空を斬る。
 だが、九龍の追撃は緩まない。大振りの腕のフォローに後方回し蹴りを繰り出し、自分より頭一つ分ほど背の高い男のこめかみを狙う。直撃、そう思った脚は、硬いガードに引っ掛かった。もう少しウェイトがあったら蹴り破れていたのかもしれないのに、と、一瞬だけ、残念。
 ほっ、と息を吐いたタイミングで今度は男が蹴りを繰り出してきた。速い。避けきれずガードを上げて、思う。重い。なのに、見かけは軽やかな脚。厄介だ。
(古流空手……違う、何だ?…古武術…)
 やはり緋勇龍麻に似ている気がする。使う技、両者とも酷似しているのは果たして偶然の一致か。目の前に迫ったカランビットの刃を避けたついでにジャブ、ストレート。避けられるのを分かっていたから避けた先に脚を飛ばした。
 ガードの下、脇のすぐ上を直撃した確かな感触。骨まではいかなくとも、ダメージはでかいはず。
 相手は正当派拳法の使い手だ。こちとら、型などない、裏通りで鍛えた喧嘩闘法だ。だが、使う場面は半端な喧嘩ではなかった。生きるか死ぬかの―――いや、殺すか殺されるかの暴力性に特化した喧嘩だ。
 野犬を、なめんな。
 バランスを崩し、初めて表情を歪めた男に、牙を剥く。ナイフの刃が、牙の代わりだ。どんなに訓練しても鍛えようのない首筋に、刃を突き立てようとして……その前に腹部を苦痛が襲う。
「がッ、は……」
 受け身も取らず、バランスも崩した体勢から放たれた長い脚がいっそ見事なまでに鳩尾に食い込んだ。
 今がこういう状況でなかったら、胃の中身を吐きながら泣き喚きたいほどの一撃だ。身体は必死にのたうち回ろうとしているのに、できなかったのは甲太郎のせいだ。もしここに甲太郎が来たとして、そんなみっともないところを見られたら。そう考えたら、必死だ。必死に、耐えた。(涙目になったのは事実だが。)
 整う間もなく痙攣する呼吸に翻弄されながらも立ち続け、負けて堪るかと歯を食いしばる。
 一撃を繰り出せる余力はない。元より一歩も動ける感じがしない。
 喉元を逆流する胃液の苦みに顔を歪ませながら、目の前で動く気配を見せる男を睨み付ける。
「あい、つは、どうし、た」
 間を保たせるためだけに発した言葉に、けれど男は応えない。ただ、興味もなさげに冷たい視線が見据えてくるだけ。
 その視線を見て、ああ、殺しに特化した経験がいつかある人間だ、と。確信する。
「殺したのか」
 吐きそうになりながら、一気に吐くように発した言葉にも、男は応えない。殺しを経験したことのある目は、ウンともスンとも。
 ―――もし、甲太郎がこの世界から消えたら、俺は、どうするんだっけ?
 静かなままの視線に答えを見つけて、湧き上がってきた激怒に自分でも驚く。こんなに、感情の起伏が激しかったんだな、俺。凪ぐように務めていた海が、風に一気に煽られた。殺意が、廻る。
 理性の千切れる音を聞いた気がして、後はよく覚えていない。
 気が付いたら、男を組み敷いていた。
 顔に痣がないのに、男は口元から細く血を流していた。内臓をやったのかもしれない。覚えてないって、すごい。
 と思ったら、男の顔にぽたぽたと流れる血は自分のものだった。少しずつ綺麗な顔を汚していく。痛みは、あまり感じないのだけれども。
 気にせず、九龍は手にしていたナイフを首筋に向けた。逡巡したのは、情などからではない。あっさり殺してしまっていいのかという非人道的なものからだ。もう少し徹底的にいたぶろうかと迷ったその先で、自分と同じ真っ黒い眼にぶつかった。
 そこに、映っていたのは。
 感情のない男の眼よりも更に酷い、虫のような眼をした誰かだった。蜻蛉だか蝗だか知らないが、物を視るだけにあるふたつの眼球を持った人間。
 紛れもなく、それは九龍自身。
 怖気が走り、次に思ったのは早くこの姿を消さなければと言うことだった。映すものがなくなればいい。壊してしまえ。
 理性が切れたそのままで、九龍はナイフの行く先を首から眼球に変更した。そこからは迷いなく、真っ直ぐ、振り下ろす。瞬間も男は瞬きひとつしない。二つの眼に映されて、ナイフはまるで二本に見えた。
 ああ、これで片付く―――。
「九龍ッ!!」
 なのに、呼ばれて手が止まる。精密機械のように男の眼球の数ミリ手前で。
 そうして気が付いたのは、ずっと止めてもらえることを待っていた自分だ。何よりも、甲太郎に「そんなことやってんじゃねーよ」と言ってほしかったのだ。
 欲していた言葉が振ってきて、弾かれるように顔を上げたそこに、言葉よりも待っていた人間がいるなんて。頭がおかしくなりそうだ、いや、おかしくなった頭が元に戻ってくるのだ。それには確か感情とかいう名前が付いていた。
「九龍…」
 こめかみの辺りを押さえ、顔を顰めた甲太郎が確かめるように名を呼んだ。ウン、と今度は間違いなく甲太郎に頷き返して、九龍は言うのだ。
「うん。俺。」
 緩んだ指先からずるりと滑り落ちそうになったナイフは、男がすんでの所で受け止めた。だが、隙だらけのはずの九龍に反撃が来ない。ハ、と呆れたような溜め息をついて男は言った。
「僕は彼を殺していない。分かったら……そこをどいてくれないか」
 やけに緋勇龍麻に似ていると感じた男は、声まで緋勇にそっくりだった。