風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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龍の玄、影の黒 - 4 -

 不覚だ。
 壬生紅葉は思う。
 突然の落下と、目の前で気を失っている青年。どちらも予想外の事態だった。床が抜けたこともそうだが、何より自分は、のびている青年に庇われたらしい。
 落ちる一瞬の間に、頭を包まれた妙な感覚があった。おそらくは青年のものだ。当の本人は人を庇ったきり自分のことを考えなかったようで、受け身を取ったようには見えない。
 見上げれば、先ほどまでは床だった天井まではかなりの高さがあった。だが、壬生ならば例え不測の落下でも着地はできていた。結果とすれば青年のしたことは無駄だ。その上、自分が気を失うなどお人好しもいいとこだ。
 ―――それも、自分は彼らを襲撃したというのに。
 不覚だ。その上、厄介だ。
 表情には出さずにこんな事態に陥った自分に呆れ果て、何をしようか考えた後にとりあえず青年の生体反応を確かめた。
 生きている。脈も呼吸も正常だ。ただ、気絶してることから頭を打ったことも考えられる。
 不覚だ。厄介で、しかも面倒だ。
 何が一番て、こういう状況で放っておこうという選択肢の浮かばなくなった自分の思考がだ。
 しばらく考え、溜め息をひとつ付いた後、倒れている青年の氣の流れを視た。淀みはどこにもなく、至って正常だ。本当にただの脳震盪なのだろう。ならば放っておいても何の問題もない。
 ……問題は、ない。
 はずなのに、脳内で様々な情報が錯綜し、―――ここは得体の知れない遺跡で、人ならざる者もいるようだしおかしな罠も仕掛けられているし―――、結局は置いていくのは危険なのではないかという結論に辿り着く。
 いやだがこの男はロゼッタの人間だ人ならざる者に襲われたとしても承知で遺跡に潜っているのだろうということは放置するのが正解だ正解、という思考が生まれて二秒後に消え去った。消えるなと願ったが無駄だった。
 起きろという意味で頬を叩いてみるが、目を開ける気配がない。もしかしたら寝てるのではなかろうかと思って少し強めに叩くがぴくりとも動かない。起きろ、と念じてみるが無駄だった。
 眠ったように気絶する青年と、悩む壬生。端から見ると死体を検分する検死官のようにも見えるが本人にそんな気は全くない。
 また、溜め息をひとつ付いた。そして青年の腕を肩に回した。
 青年からは、何やら甘い匂いが漂ってくる。

*  *  *

 壬生紅葉は任務の最中だった。
 チャイニーズ・マフィアの私有地で遺跡らしき何かが発見された。衛星などを使ったのではなく、所属する《M+M機関》の人間が中国広域に張った印の中に、突如として不穏な気配が混じったのが決定打だ。(こういった文明の利器に頼りきらぬ活動が機関の特徴の一つでもある)。
 その遺跡(らしき場所)に派遣され、調査を開始しようとした矢先、《ロゼッタ協会》所属のハンターと思しき二人組がその場所に潜っていったのだ。ロゼッタはM+M機関が片付けて回っているあやかしの類をこの世に呼び戻す厄介な連中だ。
 しかも信念を持っているから更に厄介だ。遺跡の調査をやめろと言って聞く連中ではないのだ。端から問答無用で叩き出すことに決めていた。秘宝だのなんだののために、妖魔が解き放たれてはならないのだ。
 だが、簡単に片付くだろうと思って掛かったのが最初の間違いだった。
 一人ずつ昏倒させ、運びだそうと思っていたのだが、黒尽くめの、まるで少年のような甘さを残した方は予想していたよりも格段に技量が高く、もう一人、つまり今抱えている青年の方はやたらに気配を察する術に長けていた。
 図式は、完全な敵味方。しかも黒尽くめの方はこちらの得物を冷静に分析した。壬生が持つのは暗器とも言える短身ナイフ、カランビット。それに対して最も有効なナイフコンバットに持ち込み、しかも持っていたのは刃止めの付いたタクティカルナイフ。身につけていたのは(ムエタイなのかカポエィラなのかテコンドーなのか)、しなやかな猫を思わせる格闘技。中国拳法のにおいが少しだけした。
 ―――だからといって負ける壬生紅葉ではない。
 陰の龍を宿す身、その蹴りで黒尽くめの華奢な身体を吹き飛ばすのは簡単だった。
 一人倒しても息つく間もなく次のがやってくるのが厄介だったが、二対一でも有利は壬生。もう一人は格闘戦に特化しているのか携帯するSMGも使う気配なく鋭い蹴りを繰り出してきた。
 二人ともまだ若いのに(壬生もまだ組織の中では若い方だが)、殺人を前提とした蹴り技を使うのが少し、気に掛かる。だからだろうか、目の前にいる二人組がいつかの自分と少し被って見えた。
 
 ふと、抱えた青年を見下ろした。背は、自分より少し低い程度だが体躯はよく似ている。使っていた蹴り技は、素人に向ければ命を奪いかねないほどの威力を持っていた。
 滅多に他人に興味を示さない壬生が、自分と似たにおいを嗅ぎ付けた。きな臭く、胡散臭く、そして青臭い。数年前の自分の姿を見せつけられてるようで、ちょっと胸がむず痒い。
 むずがるついでに青年の身体を通路に降ろした。目の前には装飾の施された扉がある。トラップの可能性があるなら荷物はない方がいい。
 踏み込んだ先の部屋は、噎せ返るほど草木の匂いが充満していた。足下には木の根のようなものが床を埋め尽くすほどに生え、天井には枝や木が生い茂る。
(……何なんだ)
 さっきまでの石ばかりの場所とは明らかに違う。ロゼッタの《宝探し屋》ならば不思議とも思わないが、生憎と壬生は古代遺跡に潜る機会が多い方ではない。まさに未知の場所。入り口に石版が立つが、書いてある言葉はまったくもって解読不能だ。
 こんな得体の知れない場所に好んで潜りたがるなど、やはりロゼッタのハンターは変わっている。壬生は軽く息をついてからいつでもカランビットを握れる準備をした。一本は順手に、一本は逆手に。
 神経まで戦いの感覚を行き渡らせると同時に、それはやってきた。
 ヒュ、っと風を切る音。感覚する前に咄嗟に動いた身体のお陰で間一髪、肩を掠めるだけですんだ物の正体を、壬生は次の瞬間に視認した。
 部屋全体に蔓延る木の枝が、まるで意志を持ったかのように動いているのだ。と、判断したと同時にまた横に跳ぶ。コートが僅かに裂けた。
 思考する間もなく、次から次へと攻撃を加えてくる枝を避ける。目の前に迫るものはカランビットで切り裂きながら、身体と思考を切り離した。本能と身体能力だけで攻撃をかわしつつ、視界の端で自分の立っていた場所を見て舌打ち。
 どうやら迂闊に何かのスイッチを踏んでしまったらしい。それが何かを起動させたのだろう。
 だが、起動スイッチがあるなら解除スイッチもあるはずだ。石版の裏に滑り込み、壬生は素早く部屋中に目を走らせる。ここからでは盛り上がる木の根に隠れてすべては確認できないが、妙な形のレバーが部屋に設置されているのが見えた。
(あれか…!)
 飛び出す前に、持っていた符を一際大きな根に投げておく。数本の枝の動きが目に見えて悪くなるのを確認、コートを翻し、疾走。襲ってくる殺意は気配でかわし、一つ目のスイッチを下ろす。かちりと言う手応えを感じ、数本あった木の根のひとつが消滅した。
 同時に投げた符が消滅する。動きを取り戻した枝を跳躍の後斬り付け、視認していたもうひとつのスイッチに駆け寄り、解除。これで残るは最も太い樹、一本のみだ。
 それなのに、困ったことに残ったスイッチが見つからない。(どこだ…)と振り仰ぎ、気を抜いた一瞬のうちに身体中を枝が覆っていた。侵入者を戒めるように、ぎしぎしと締め上げてくる。
 身体が軋む。腕まで絡め取られ、符を飛ばすことも印を組むことも叶わない。辛うじて動く右手にはカランビット。どうする、と一瞬の判断。
 その時、浮き上がっていく視界の中で、木の根に隠れた最後のスイッチを見つけた。考えるよりも先に身体は動く。肘から先だけでカランビットを飛ばし、軌道は見事なまでに枝をすり抜けスイッチへと突き刺さった。
 もちろん手応えなどが伝わるはずはない。しかし、部屋中に響く解除音と共に、満ちていた悪意の気が消滅するのは肌で感じた。身体に自由が戻ると同時に地面に向かって落下するが、空中でバランスを取り、足下から綺麗に着地した。
 圧迫されていた肺に酸素を限界まで行き渡らせ、足下全面が硬質な床になっていたことにほっと息をつく。まったく、こんなわけの分からない場所を好むなんて、本当にハンターは変わっている。
 草木で覆われていた壁面から出口が現れ、壬生はそちらから出て行こうとした。そこで、気付く。さっきまで抱えていた荷物が足りない。
 一旦通路まで戻ってみれば、先ほどと何ら変わらぬ体勢で青年は横たわっていた。蹴ったら起きるだろうかと考えつつ、先程と同じように肩に腕を掛けて担ぎ上げた……途端。
 腹部に硬い物が押し当てられた。肩口にある、青年の呼吸がいつの間にか覚醒時のそれに変わっている。
「動くなよ」
「…………」
 長い腕が肩の関節を完全に押さえていた。腹部の感触は……持っていたミニウージーだろう。
「あまり銃は好きじゃないんだがな。いざってときには躊躇わないぜ?」
「…………」
 カランビットは振れる。これが命の遣り取りだというのなら相討ち程度には持ち込めるだろう。振り返ると同時に、喉元に突き立てる―――が、今はそんなことに意味はない。
「あんたの所属は」
「……《M+M機関》」
「ああ、喋れたのか…って、《M+M機関》?」
 敵対機関、のはずなのに、なぜかその名を聞いた青年は銃を下ろしてしまった。だからといって攻撃を返そうとは思わないが、解放された壬生は一応振り返っておいた。
「撃たないのか?」
「M+M機関には知り合いが何人かいる。……一人にはどうしても頭が上がらない。面倒を起こしてしぼられるのはゴメンだ」
「……?意味が分からないな」
「昔の話だ」
 銃の安全装置を作動させ、青年は辺りを見渡した。
「落下地点がここ、というわけでもなさそうだ。ここまではあんたが?」
「ここがどういう場所か分からない以上、置いていくわけにもいかない」
 壬生もカランビットを服の中にしまった。問答無用で叩きのめして、またここから担いでいくのはゴメンだ。平和的解決ができるならその方がいい。それに、壬生にも所属機関に頭の上がらない女性がいる。煙管の似合う中華美人だが、苦手といえば苦手なのだ、彼の気持ちはなんとなく分かる。
 神経を宥めてから、その場で少し、話をした。
 皆守甲太郎、と青年は名乗った。甘い匂いは、ラベンダーなのだという。

*  *  *

 状況を手早く説明した。
 床が落ちて落下した。もう一人とは別れたらしい。天井が高すぎて元の部屋には戻れそうにない。だから進んだ。その先の部屋では樹が襲ってきた。変な場所だ。
 自分のことも支障ない程度に説明した。
 自分の目的は、墓を暴くことで墓守が出現するのを未然に防ぐこと。そのためにハンターには多少手荒な手を使うこと。別に殺す気はないが相手が殺す気で来れば殺す気で返すこと、など。
「まァ、ここまで来ちまったら墓守を起こして、倒す方が手っ取り早いんじゃないか?」
「…………」
 壬生も、そんな気がしていたところだ。
 二人は部屋に戻り、そこで甲太郎が石碑と現れていた宝壺に目をつけた。
「…石碑はお手上げ。壺の中身は弓、か」
「どういうことだ」
「知らん。石碑はもう一人が解読のプロなんだがな」
 壺から出てきた《秘宝》を手に、甲太郎が肩を落とす。表情が暗くなるのは片割れ―――葉佩九龍というらしい―――の安否を気遣っているためだろう。こういうときに気休めは意味をなさないのを壬生は知っている。
「とにかく、先に進むしかない」
「……だ、な」
 眺めていた携帯電話を閉じて、甲太郎は顔を上げた。圏外で、メールを送ることも受け取ることもできない状況。合流するには、先に進むしかないようだ。
「そういや、今までに遺跡に潜ったことは?」
「今回が初めてだ」
「なら、部屋に入ったらヘタに動かない方がいい。それだけは注意しておくんだな。今はヒントの石版も読めない。滅多なことをすれば人間なんて呆気なく消えて終わりだ」
「……覚えておこう」
 もっと早くに聞いておきたかったとは口に出さないでおく。さっきのは、明らかに自分のミスだからだ。
 部屋を出た先は、またも薄暗い通路だった。螺旋状になだらかな階段が続いていく。甲太郎は太めのベルトに引っ掛けていた薄型ライトを取りだして先を照らした。
 罠の気配はないが、気は抜けない。二人並んで歩けそうな広さの通路を、甲太郎が半歩だけ先を進む。背中を見せることにまったく抵抗がないかといったらそうではないが、今は何よりも九龍だ。九龍を見つけて合流することより優先することなど何もない。
 やがて、突き当たりに辿り着く。そこには一枚の石碑と扉がある。二人は、その手前で立ち止まった。
 この先にある区画から、得体の知れない気配が漂ってくる。言うなれば、黒い悪意だ。微かに聞こえてくる音を辿っても正体は分からないが、中に何かがいるのは確実だった。
 甲太郎は、黙って石碑をライトで照らした。中国語なら解することができる。事実、碑文の中にも分かる単語をいくつか拾うことができた。
 壬生は、黙って扉に手を掛けていた。中にいるのは誰なのか、何なのか、分かるはずもないのに覚えはあった。―――在りし日の、緋勇龍麻に似ていたのだ。
 蓬莱寺京一が行方不明になったという、壬生と緋勇が初めて会った事件の時だ。『京一を返せ』と凄まじい気を発した黄龍の気配。ここに緋勇がいるはずもないのに、なぜか。
 扉が開いてしまったのは不測の事態だったが、その先にいる人影には驚かなかった。
 後ろで、甲太郎の慌てたような声と共に扉が閉まる。ほぼ同時に、目の前の黒いコートが翻った。
 葉佩九龍というのだそうだ。改めて見て、やはりまだ少年の面影が残ると思う。ただし、さっき闘ったときよりも気配が恐ろしく変化している。
 壬生自身も無表情だと称されることが多いが、今の九龍こそ、無表情というのだ。手に持ったタクティカルナイフで、一体どれだけの化け物を屠ったというのだろう。血の色こそないが、実体のあるものならば今頃真っ赤に染まっているであろう長刃。
 九龍は何かを確認するように小さく頷き、次の瞬間、消音の踵が音もなく一歩、前に出た。その次の一歩で、一気に壬生との差を詰めた。
 平和的解決など微塵もない、容赦ない一撃。カランビットで受け止めるのは無理だと判断し、咄嗟に避けた。首の皮が削がれる嫌な感触が走る。しかも、連撃で脚が飛んできた。
 かわし、受け止め、反撃を繰り出しながら、目の前の青年と緋勇龍麻をダブらせた。『甲太郎を返せ』、そんな声が聞こえてきそうだった。気迫に圧倒されるように、壬生は脇腹に思わず顔を顰めそうになる一撃をもらった。バランスを崩したところに、牙のようなナイフが振ってくる。
 その隙を見て、倒れ込みながらも逆にその勢いを助けに、開いた腹部に渾身の蹴りを叩き込んだ。筋肉を傷める手応えが伝わる。一歩間違えれば死んでいるだろうが、彼は反射的に急所だけは避けた。
 表情に痛みが走るのは隠せなかったようだが、普通ならのたうち回って泣き叫びそうなものところを、彼は気丈にも立ち続けて見せた。足下がふらつくのを踏ん張って、視線だけで人を射殺させそうな眼で壬生を睨む。
 壬生は、小さく二度ほど咳き込んだ。肋が折れたか、ヒビくらいは入っている感触。熱を持った痛みが走る。
 畳み掛けて伸してしまいたいところだったが、身体がそうは動いてくれない。
 膠着状態のところで、九龍が口を開いた。
「あい、つは、どうし、た」
 皆守甲太郎のことか。
 件の彼は生きている。部屋の外にいるはずだ。怪我や異変は見当たらず、歩行障害もない。
 説明しようとして頭の中で言葉を構築するが、咄嗟に言葉が出てこない。横隔膜でも傷めただろうか。咳がひとつ、出るだけだった。
「殺したのか」
 だから、生きていて、部屋の外にいて、怪我もなくと、また言おうとするが言葉が出てこないため、妙な沈黙が二人の間に割って入ってしまった。
 その沈黙をどう取ったのか―――おそらく、肯定と受け取ってしまったのだろう。
 目を細めた彼は、壬生の痛烈な一撃を食らっているはずにも関わらず、そんなもの知らないとでも言いたげな速さで突っ込んできた。
 眼が、キレている。
 それを見て、ふとある言葉を思いだした。
(誤解をされやすい体質なんだよ、君は。)
 そんなことを言ったのは誰だったか、そうだ、港区の骨董屋の店主だ。そういえば最近会っていない。何を言っても、それが例え皮肉でも嫌味でも的確に真意を読みとってくれる彼は、だから誤解される心配がなくて傍にいるのは楽だ。
 会いたい、のかもしれないな、などと考えているうちに一発、二発。腹部に穴が開きそうなボディフックを食らった。
 あんな細腕から、よくも。壬生も本気で相手をしなければと考えるのだが、……如何せん、この手のタイプは苦手なのだ。大切な何かを糧に強くなる人間。自分が傷付くより他人が傷付くことを恐れる甘ったれ。
 苦手で、相手にしたくなくて、けれど、嫌いではない。
 嫌いではないから、本気になれない。
 防戦一方で、続けざまに足技を食らう。顔を狙わず、内臓器狙いの殺しの蹴りだ。爪先や膝、硬い部分が筋肉を突き破り、中身を掻き回す。堪らず込み上げた咳には、血が混じっていた。
 黒い影が、身体ごと飛び掛かってくる。倒れ込みながら受け身を取り、背中に床とは違う何かが当たる感触、首筋にナイフの冷たい刃が当たるのを感じた。
 漆黒の瞳と瞳が交錯する。目の前の目に映る自分を見て、苦しげだ、と他人事のように思った。
 ナイフが切っ先を変えて、眼の中に振ってくるその瞬間も、死ぬという実感はないまま。
「九龍!」
 部屋の中の時間を一瞬制止させる声を聞いても、別段どうも思わなかった。ただ、目の前の彼の表情が目に見えて軟化するのを不思議な面持ちで見ているだけ。
 どうやって部屋に入った来たのか、切羽詰まったような甲太郎は捜し人を見つけて、そしてこの状況を見て驚いたようだ。
「九龍…」
 呼ばれた本人は、小さく頷く。
「うん。俺。」
 途端、滑り落ちたナイフを器用に受け止め、壬生は九龍を見上げる。あの、冷たい視線はどこにもない。呆然としたように甲太郎を見つめていた。
 どうにかなったらしい、と判断し、溜め息と共に吐き出した。
「僕は彼を殺していない。分かったら……そこをどいてくれないか」
 腰の上に座り込んでしまった九龍に声を掛けるが、退く気配がない。
「……腰、抜けまして、立てません」
「…はァ?」
 何を言っている。そう思って九龍を見るが、どうやら本当に腰が抜けているようだ。ぼんやりとした表情で、甲太郎と壬生を交互に見比べている。
 駆け寄ってきた甲太郎が九龍の腕を取り壬生の上から引きずり下ろしても床に座り込んだままだった。
「九龍、大丈夫か?……おーい、九龍?」
「うん、大丈夫」
 壊れた人形のように何度も頷く彼が大丈夫だと言っても、いまいち信用はできないな、と壬生は思った。かなり強めに蹴ったのだ。大丈夫で片付くはずがない。
 かく言う壬生も、好調とは言い難い状態だ。よくもまあ、やってくれたと言いたいところだが仕方ない。
 上体を起こしてから、自らの身体に流れる氣を高めだした。それを練り、傷んだ箇所の淀みを戻していく。《結跏趺坐》という名の技を教えてくれたのは他でもない緋勇龍麻だ。体力が戻ると同時に、痛みも引いていく。これでしばらくは保つはずだ。
 それから壬生は、未だにしゃがみ込んだままの九龍の腕を取った。
「おいで」
「……へ?」
 状況を把握できぬまま呆然とする九龍を引き寄せ、長い腕の中に押し込めた。
「な、何してんだッ!!」
 途端、眦の吊り上がる甲太郎がそれを引き戻そうとするが、壬生は煩げにその手を振り払った。邪推だ。別に変な気を起こしたわけではない。
「ちょ、ちょっと、あの…」
「黙って」
「う、ぇえ…?」
 完全に戦闘態勢を解いてしまった九龍は、わけも分からずされるがままになった。その間に、壬生は再度、氣を練りだした。今度はそれを身体の中に留まらせずに、少しずつ放出していく。
 《魯班尺》という道具を如月骨董店で購入していたことが役に立った。この道具のお陰で、自分の氣がより遠くまで作用するようになる。
 自分が付けた傷を自分で処置するというのもおかしな話だが……これも仕方のないことだ。程なくして、抱える身体の気もほぼ元通りになった。
 確認して腕の力を解くと同時に、それは壬生から離れた。目の前では甲太郎が威嚇するように九龍の手を引いていた。どうやら、誰にも触れさせたくないというスタンスらしい。まるでどこぞの誰かと誰かだと思いながら見てしまう。
 呆けていた九龍が口を開いたのは自分の腹部に手を当ててすぐ。何をされたかは分からなくても、何かされたことは分かった。
「あ、のぉ……何、したんスか」
「一種の応急処置だ。痛みは?」
「あ……ない、デス」
 くるくると痛んでいたはずの腹の辺りを手で撫でて、どういうこと?と九龍は首を傾げる。
 一度、状況説明を甲太郎に対して行っている壬生は、面倒だという理由で再度の説明を放棄した。