風云-fengyun-

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***since 2005/03***

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龍と修羅 - 5 -

 オニイサンは『緋勇龍麻』、剣士さんは『蓬莱寺京一』と名乗った。
 二人は、今日試合をやった真神学園のOBだそうで。その関係で剣道部の監督を頼まれた蓬莱寺さんの試合を見に、緋勇さんがやってきたとか。何でもつい最近まで武者修行のようなことをしていて、中国を回ってたんだって。
「そりゃ、強いはずですよねぇ…」
 蓬莱寺さんと向き合ったときのあのぞわぞわした感じ。気迫とか、オーラとか、道理で物凄まじかったことを思い出して、今更ながら鳥肌が立ってきた。
「勝てる気しませんでしたもん、俺」
「の、割には、挑発的だったじゃねぇか」
 スポーツドリンクの入った紙コップを一息で飲み干して、蓬莱寺さんは明るく笑った。そうして何度目かのゲンコツを、緋勇さんから食らう。お前が言える立場か、という意味らしいけど……二人の力関係ってすごく分かり易いと思う。
「ったく、調子に乗るんじゃない。葉佩君が倒れた責任の一端はお前にあるんだからな」
「分かってるって!だからこうして謝りにきたんだろッ」
「誠意が足りない」
 緋勇さん&甲太郎のステレオ攻撃に、蓬莱寺さんが撃沈する。
「……へーへー、スンマセンでしたぁ。ホントに、悪いと思ってらぁ」
「ていうか、蓬莱寺さんは何にも悪くはないと思うんですけど…」
 ずーっと面を被りっぱでろくな水分補給もしなかったせいっていうなら、蓬莱寺さんに何の責任もないと思うんだけど?
 そのことはさっき言ったんだけど、緋勇さんに却下されちゃいました。
 蓬莱寺さんが相手じゃなければあそこまで試合が、長引かなかっただろうって。
 そりゃそうだけど、試合を受けたのは俺だし、ねぇ。
「うーん、でも…凄く怖かったし、滅茶苦茶しんどかったけど、楽しかったですよ?」
「ほら、な!?葉佩だっけ?こいつもこう言ってんだし…」
「よくない!」
 ……だんだん蓬莱寺さんが可哀想になってきた。
 緋勇さんて、人当たりはすごく良いんだと思うんだけど、蓬莱寺さんには全然容赦ない。きっとそれくらい親しいってことなんだろうけど……殴るたびにもの凄くいい音がしてくるから、本当に大丈夫かなって思う。
「もしかして、緋勇さんも強かったりとか、しません?」
「え?あぁ、そこそこな」
「そこそこぉ!?ひーちゃん、そのコンクリを砕く拳を『そこそこ』で済ませるのは犯罪だと思うぞ!」
「ひーちゃん言うなッ!」
 そしてまた一発。
「……まぁ、こいつに付き合ってれば嫌でも強くなるってもんなんだがな」
 沈めてから、緋勇さんは蓬莱寺さんを見下ろして、ちょっとだけ寂しげに、笑った。
「生憎、俺は無手だったからな。こいつの剣を相手をすることが出来なかったんだ」
「……………」
「中国も色々回って、強い相手を捜して。それを糧にして京一は強くなったさ。でも……」
 強くなりすぎた、と言って蓬莱寺さんを見た緋勇さんの目は、なんていうか、タダの友達を見る目じゃなくて。なんていうか、保護者にも近いけど、もっともっと甘くて艶やかな、そんな視線だった。
「京一と対等に戦える相手にはもう久しく、巡り会ってない。そこに、今日の試合だ」
 蓬莱寺さんが、困ったように頭を掻いた。
「…ウチの部員はよ、あれでもそこそこ強ぇはずなんだ。それがああもあっさり倒されたら、やりあってみてぇって、思うだろ?」
「普通は思わないぞ」
 冷たい声に反応して、蓬莱寺さんが甲太郎を見上げるけど、甲太郎は鼻を鳴らして紙コップに口を付けるだけ。どうやら、第一印象はあまりおよろしくなかったようで。
「あは。でも、俺、剣道は初心者だからあんまり相手になんなかったですよね。弱っちくてスミマセン」
「ああ、そういえば臨時部員なんだって?」
 紙コップを手の中で弄びながら、緋勇さんが苦笑する。なんだか、たかが紙コップなのに緋勇さんが持つとウェッジウッドもかくや、って感じになるから不思議だと思う。
「ハイ。部員が足りないってんで、部長に頼まれたんで俺だってインチキ部員なんすよ。そのせいで、正体ばれないようにずっと面被りっぱなしだったんですけど」
「にしちゃあ、強かったぜお前」
 あんなに強い人に褒められると、お世辞でも嬉しい。
「もしかして、何か武道を?」
「イヤ、別にどれをやってたってワケじゃないんですけど…色々囓ってました。剣道は、やってないですけど」
 テコンドー、クンフー、ジークンドー、カポエラにラウェイ……指を折って上げていくと、流石、全部どんな格闘技か分かったらしくて、緋勇さんは苦笑する。
「どうりで。動きが尋常じゃないはずだ」
「尋常じゃ、なかったですか?」
「京一が目を付けるくらいだ。相当だな」
 そうかな?普通にやってたつもりなんだけど。
「そうだぜ?いきなり蹴りくれてくるからビビったじゃねぇかよ。普通はいねぇぜ、剣道の試合中に上段回し蹴りなんか出してくるヤツ」
「……スンマセン」
 思い出して、一体あの時の俺は何を考えてたんだろうって、赤面。穴が無くても掘って入ってやるッ。
「なんか、つい、カッとなったというかムキになったというか、負けたくなかったというか咄嗟にというか…」
 ごにょごにょと情けなく言い訳をしてみたり。でも当の蓬莱寺さんは全然気にしてないみたいで、そういうところが気に入ったって、楽しそうに笑ってる。
「ただ単に剣道が強い、ってヤツを探そうと思えば、多分いくらでも居るんだよ」
「え?」
「でも、俺はそれじゃ足らねぇ。死ぬ気で、どんな手を使ってでも必死こいて勝ちに来ようとする強さを持ったヤツと、戦いたかったのかもしんねぇな」
 それで、なんとなく剣介じゃなくて俺に白羽の矢が立った理由が分かった気がした。
 真里野剣介って男は、たぶんそういうことに凄く潔癖で、正しいから。正々堂々と、真っ正面から勝ってこその意味を貫いてる男だから、蓬莱寺さんの求める強さとは方向性が違ったんだ。
「それにお前、試合中に俺に喧嘩売ったろ?」
「へッ?喧嘩?売ってないっすよ!いつっスか?」
「中堅戦かなんかのあとだよ、俺の方竹刀で指して、出て来いって挑発したぜ!」
「あ、あれは…!」
 別に挑発とかじゃなくて…なんていうか、負けないって言う意思表示だったというか…別に蓬莱寺さんに喧嘩を売ったわけではないんですが…。
「に、してもだ」
 またごにょごにょと口籠もっていると、甲太郎が割って入ってきた。
「それを真に受けて試合に入ってくること自体が普通じゃない」
「だから、悪かったつってんだろ!」
「大体、こいつの管轄はあんたなんだろう。監督不行届じゃないのか?」
 双方向に向けられた嫌味に、けど、反応したのは蓬莱寺さんだけで、飼い主扱いされた緋勇さんはそれでも涼しげに笑ってる。
「悪かったな。この駄犬…じゃない、駄猿は手に負えないもんでね。半分放し飼いなんだ。保健所に持っていかれたらそれまでだって諦めてる」
「……ひーちゃん、酷ぇ」
 甲太郎の言葉よりも緋勇さんの一言の方が効いてるっぽい。いや、マジに可哀想だから。
「あのー、ですね。本当に、俺、どこもなんともないし、強い奴ってことで俺を選んでくれたならそれは光栄なことだと思いますし。なにより、竹刀なのに、命のやり取りしているみたいで、すごく、楽しかったんです、俺も」
 だから、気になんかしないでほしいんだけど、と思った途端、がっくり項垂れていた蓬莱寺さんが顔を上げて、俺の手を握ってきた。
「お前、イイ奴だなぁ…。ひーちゃん、俺、コレ欲しい」
 そのまま、胴着を肩に羽織るだけだったせいで、素肌の上から抱きしめられて、ばしばし背中を叩かれて、咄嗟、フリーズ。
 一瞬遅れて、二方向からの連撃を後頭部に受けて、蓬莱寺さんが沈んだ。
「てめぇ、九龍から離れやがれッ!!」
 甲太郎なんか俺を引き寄せると、蓬莱寺さんを蹴り飛ばした挙げ句、スポーツドリンクの入ったポットまで投げつけてる。
「何しやがるッ!んなもん投げるこたぁねーだろ!ほんの冗談だよ冗談ッ」
「冗談でコイツに触るな」
 ……甲太郎サン、それ、聞きようによってはもの凄く恥ずかしい…。
 今度は甲太郎に捕まって、バタバタしてると、その騒ぎの向こうで緋勇さんが、意味ありげに笑ってるのが見えた。それだけなのに、なんだか艶っぽい人だな、ホントに。ちょっとビックリするくらい綺麗だから、余計に。
「京一、無理言うんじゃない。俺たちは、触れさせてももらえなかったの、忘れたのか?」
 ん?……触れさせてもらえなかった?何に?
 何のことだか分からなくて甲太郎を振り返ると、なぜか甲太郎も蓬莱寺さんも動きを止めてる。俺には、というか、俺だけが意味を分かってないみたいで、ちょっと気持ち悪い。
「甲太郎、なんか触ったのかよ?」
「……別に、何でもねぇよ」
 誤魔化すようにアロマに火を着ける仕草を見て、何か隠してるなってピンと来た。
 甲太郎が答えてくれなさそうだから、緋勇さん、蓬莱寺さんの方を見ると、二人は顔を見合わせてにやっと、笑った。
「何か、あったんすか?」
「大したことじゃ、ないんだけどな」
「えぇー?」
 含みのある言い方をして、緋勇さんは甲太郎を見上げる。
「もしかして…甲太郎!いきなり二人のこと殴ったりとか蹴り飛ばしたりとかアロマで吸い殺したりとかしてねぇだろうなッ!?」
「するか阿呆。なんも、してねぇつってんだろ」
「そうそう。何も、させてもらえなかったんだよ」
 蓬莱寺さんが吹き出す。
「お前が倒れたとき、一番近くにいたのが俺だったから、面外して、起こそうとしたんだけどよ。こいつがすっ飛んできて、『触るな』つって、お前のこと、誰にも触らせないで一人でさっさと運んでっちまいやがったんだよ。お姫様だっこってヤツで」
 それから堪えられなくなったように、げらげらと笑い出す。
「それにしてもすっげぇ形相だったぜ」
 ついにはベッドの脇に顔を埋めて、泣きそうなほど笑ってる。
 緋勇さんも、苦笑してる。
 俺はといえば……真っ赤になって黙り込むしかねーじゃんよ!なんつー恥ずかしい…。
「こーたろーさぁぁぁぁん…」
「…んだよ。仕方ないだろ。嫌なもんは嫌なんだから」
「だからって公衆の面前でそんな醜態さらすこたねーだろ!何だよ『お姫様だっこ』って!」
「じゃあ何だ?お前は得体の知れない他校のヤツに介抱された方がマシだったとでもいいたいのかよ」
「得体知れなくねーだろ!!」
「あの時は知れなかったんだよ」
 不毛な言い合いを目の当たりにして、とうとう蓬莱寺さんは椅子から落ちそうになっていた。
 そんなに面白い見せ物をしてるつもりはないんですが。
「この調子じゃ、京一が連れて行くのは無理だろ」
「ひー、面白れ。だよなぁ、片っ方連れてくより痴話喧嘩見てたほうが楽しいぜ」
「見せ物じゃねぇッ」
 甲太郎の怒声も、効果なし。
 どうやら経験値の差が大きいっぽい。甲太郎がこんなに簡単にやりこめられるのなんて、ルイ先生と夕薙くらいかと思ってた。
「クソッ…もういい加減に帰れよ。あんたらがいるとこっちまで具合が悪くなりそうだぜ」
「なんだよ、別に取って食ったりしねぇから安心しろ」
「うるせぇ!九龍、お前もお前だ!変なモンにばっかり懐かれやがって」
「えぇッ!?何ソレ!」
「その変なモンの中には当然てめぇも入ってるんだろうな」
 騒ぐ俺たちを、それでも緋勇さんだけは目を細めて、なんだか感慨深げに見てた。視線に気付いて緋勇さんを見ると、彼は少しだけ笑った。
「ちょっと高校時代を、思い出したんだ」
「いつもこんな感じだったんですか、真神学園て」
「もうちょっと、騒がしかった気がする」
「……すっさまじい高校生活だったんですねぇ」
「癖のあるヤツが多かったからな」
 ウチの学校も、キャラの濃さならどこにも負けないと思ってたけどなんだか緋勇さんて変なものとか引き付けそうだしなぁ。何でも寄って来ちゃいそう。
 それを冗談で言ってみたら、「確かに変なのばかり寄ってきたよ」と笑った。
 どうやら知り合いに、プロレスラーとか陰陽師とか賭博士とか正義のヒーローとか占い師とか(…退魔士ってなんだ?)いるらしい。なんだか、全部本当のような気がして、ちょっと怖い。
「もし、武道をやるなら如月骨董店という店を訪ねてみるといい。合法非合法関わらず、何でも置いてある店だから」
「はぁ…」
「主人に緋勇の紹介だとでも言えば、まぁぼったくられることはないと思うよ」
 さらさらと近くにあった紙の裏に、男の人とは思えない綺麗な字で住所と地図を書くと、緋勇さんは立ち上がった。
「京一、そろそろ戻るぞ。病人には安静にしていてもらわないとだし、部員も待ってるんだろ」
 甲太郎となにやら言い争っていた蓬莱寺さんは、その言葉を聞いてすぐに緋勇さんの方に意識を戻した。
「いけね、あいつらのこと忘れてた」
「今頃お前の悪口で盛り上がってるんじゃねぇか?」
「んなヤツは戻ってから死ぬほどシバく」
「お前の場合死ぬまでシバく、の間違いだろ。それに自分とこの生徒を放っておいて別の学校の子をナンパしてたら言われても仕方ない」
 軽口の応酬の後、緋勇さんはもう一度俺の方を向き直った。
「そうだ、葉佩君」
「はい?」
「無粋は承知で、頼みがある」
「な、何でしょか」
 改めて、真っ正面から見据えられると…うっわ、ドキドキする。あんまりに顔立ちが整いすぎてて、蓬莱寺さん、こんな人がいつも隣にいて心臓壊れないかなって、どうでもいい心配してみたり。
 そして、緋勇さんの口から出たのはその、蓬莱寺さんのことだった。
「また、京一と、遊んでやってほしいんだ」
「遊ぶ、って…」
「簡単な打ち合いでもいい。試合でもいい。こいつが来たら、少しだけでいいから相手をしてやってほしい」
 どうかな?と、こんな人にこんな至近距離でこんな真っ直ぐ言われて、否定の答えを返せる超人がいたら会ってみたい。
 凡人な俺は、当然なんにも考える前に首だけがこくこくと頷いてて、それから大事なことに気付く始末。
「あ、でも、ウチの学校、ちょっと校則厳しくて、こういう交流試合とか特別なことがないと外部の人は入れないんす。俺も、特別な理由がないと敷地の外には出られないし」
「それは大丈夫だ。プールから入れるから」
 ???
 よく分かんないけど、無理矢理納得させられていつの間にかアドレスも交換してた。へぇ、緋勇って、珍しい字書くんだぁ。
「……あんたら、また来る気かよ」
「悪いかよ」
「悪いに決まってんだろ。九龍、悪いことは言わない。止めるなら今だぞ。こういう輩は一度甘い顔するとつけあがる」
 警戒心というか敵愾心剥き出しの甲太郎をなんとか宥めて、立ち上がった緋勇さんを見上げた。
「それじゃあ。今日は本当に申し訳なかった」
「いえいえいえ!こっちこそ、逆に気ぃ使わせちゃったみたいでスミマセン」
「何だよ、んなこと気にすんなって」
「「お前が言うなッ」」
 そしてまた沈んだ蓬莱寺さんの襟首を掴んで、引きずるような素振りを見せてから、ふと、振り返る。
「……それと、俺も、また遊びに来るかもしれない」
「へ?」
「君は、面白い子だからね」
 面白いって褒め言葉かな、なんて考える間もなく。
 さっきの蓬莱寺さんの抱擁よりももっと素早く唐突に、緋勇さんは。
 俺の額に、挨拶のようにキスをしていった。
 いくら挨拶チューは抵抗ないとはいえ、流石にビックリした俺が我に返ったのは、甲太郎の怒鳴り声を聞いたとき。
「てめ、何しやがるッ!!」
「はははは、じゃ、失礼するよ葉佩君、また」
「こんの…ッ、九龍、追っ払ってくるから、ちゃんと寝とけよッ!!」
 甲太郎は追い立てるように緋勇さん(と引きずられてる蓬莱寺さん)を扉の外に追い出して、本当に自分も出て行った。
 処置室は、嵐が去った後のようにシーンと静まりかえる。
(緋勇さんと、蓬莱寺さん、かぁ…)
 なんだか、不思議な人たちだったなー。蓬莱寺さんはなんていうか、面を被ってるときと喋ってるときで大分印象が違うって言うかノリが軽いって言うか、いや、格好良いんだけど。ああやってサバけてる人ってすごく好きだし。背がぽーんと高いしガタイ良いから、めっちゃ剣道着、似合ってたしなぁ。いいなぁ、憧れる。
 緋勇さんは…底が見えない。全然。普通にその辺歩いてるだけじゃ絶対に見かけないタイプの人だと思う。黙ってるだけで存在感あるし。
 そういや武道、やってるって言ってたけど…強そうにも見えるけど、格闘技をやってるっていわれてもピンと来ない気もする。蓬莱寺さんに比べれば華奢だし、体格とかって甲太郎と似たり寄ったり。
 ……なのに、なんていうかな。あの人とやり合ったら、絶対に勝てないって、言い切れる自信がある。蓬莱寺さんは、何が何でも立ち向かわせるって言う迫力があったんだけど、そうじゃなくて、緋勇さんはもっと絶対的に力が及ばないって、思わせる何か。あんな人は、初めて見た。でもって、たぶん二度と、お目にかかれないと思う。
 何よりもの凄く、人を引っ張り寄せる力がある。
 現に俺、また会いたいなって、思ってるもん。
 あんな人のそばに居られるって、何だか羨ましいなぁ、蓬莱寺さん。
 なーんて、考えてる間に甲太郎が戻ってきた。
「おかえりー。お見送り御苦労」
「御苦労じゃねぇよ」
 不機嫌そうにどかりと横の椅子に座り込む。
「どった?また遊ばれた?」
「……違う」
 アロマパイプに火を着けて、しばらく立ち上る煙をぼんやり見つけてる甲太郎には、なんだか、不機嫌だけじゃない何かがあった。俺も何も言わなかったから、少しの間は沈黙が続いて、それから。紫煙をしばらく遊ぶように燻らせていた甲太郎が、唐突に椅子を引いて、俺に顔を寄せてきた。
「今日は、試合だったからいいけどな」
「ハイ?」
「……試合だったから、いいけどな。もし実戦だったり真剣でやり合うような事が…もし、だぞ。あったら、」
「はぁ」
「こんなことには、絶対にさせないから覚えておけ」
 ご、ごめ、熱でクラってる頭には遠回しな言い方というのが通じませんで…。
「え?要するに、俺には何もするなと?」
「そうは言ってないだろ」
「やー、大丈夫だって、もう助っ人なんてそうそう…」
「……そうじゃない」
 甲太郎の歯が、アロマパイプの端を囓る硬質な音だけが響く。あ、それ、俺と同じ癖…なんてのはいいんだけど…甲太郎の言わんとしてることが、なんとも全く、伝わらない。
 困惑を隠しきれないでいると、甲太郎はちらりと俺を見上げ、苛ついたようにガシガシ頭を掻いて、そっぽを向いた。
「だから、なんだ…ちゃんと守ってやるから、って、ことだ」
「…ハイ。………ハイ?」
 ……………。
 ん?
 今、俺、なんか、変な、こと、聞いた?
 あぁれ、熱中症って幻聴とか聞くんだっけ?おっかしいなぁ、さっきまでちゃんと会話とかできてたはずなのに。
 なのに、今。もしかして『守ってやるから』とかって、言った?言われた?
 呆然と甲太郎を見詰めてしまって、それから言葉の意味を頭の中で反芻して意味を理解した途端、頭に血が集まるのを感じた。
 それは、無防備に視線に晒された甲太郎も同じこと。そうやって赤くなられるのを見ると、な、なんか、恥ずかしい通り越してどうしていいか分かんねーじゃねぇか!
「ば、ば、バッカじゃねぇの!?お、前、顔真っ赤で、んなこっ恥ずかしいこと言って、」
「うるさい!お前だって顔赤いだろうが!」
「こりゃー熱のせいだっての!」
 思わず手元にあった枕を投げつけると、火の点いたアロマパイプを持ってる甲太郎は慌てたようにそれを右手で受け止め、逆に俺の頭に押し付けてきた。
 息が詰まって、でもそれって、ただ圧迫されてるからってだけじゃなくて、喉の奥が重たいくらいに押し上げられる感じがして…。何にも言い返さず、反撃もせず、俺は枕に突っ伏した。
 今顔を上げたら、絶対に甲太郎の顔を見てしまうから、そしたらきっと、とんでもないことでも平気で口走ってしまいそうだから。
 呼吸も困難なほどの鼓動の暴走。熱中症の症状も合わさって、頭ん中が飽和しちゃったかってくらい。そんな頭にぽん、って。誰かが手を置いた。誰か、じゃない。甲太郎が。
 反射でビクッと、肩が強張る。俺はまだ、他人の体温に慣れきることができない。
 俺の反応に触れた手が離れて、でも俺の意識はそれを追いかけて、思わず顔を上げてしまって、甲太郎の眼と、ぶつかる。僅かに怯えた、迷いの眼。たぶん俺も今、そんな眼をしてるんだと思う。
 悪意じゃない接触が怖くて、なのに必死扱いてそれを求めちゃうとこ、俺も甲太郎も似てるって最近分かって、でもやっぱりこんな風に噛み合わなくなったりもする。
 そういうとき、どうしたらいいか。俺は知らなかったけど、たぶん、甲太郎だって知らなかったんだろうけど、学んだ事が一つだけある。
 引きかけた甲太郎の手を、俺の手は追っていた。捕まえて、それからどうしようかとかは何にも考えてなくて結局沈黙するだけど、酷く安心する。俺と同じ、タンパク質の塊のくせに、ラベンダーの匂いが濃く染みついた、長い指。銃を撃つ事も、人の首を絞める事もしない、優しい指。
 触れて握り締めたと同時に、もう片方の甲太郎の腕は俺の背中に回っていた。熱っぽい首筋に、髪のくすぐったい感触、それから別の少し低く感じる体温が当たった。
「……熱いな」
 声と重なったのは、俺の息を飲む音と、ベットがギシッと軋む音。
 甲太郎がまるで犬っころが甘えてくる時のように鼻先をすり寄せてくるのを、もう、どうしょもないくらいに愛おしく感じながらいると、
「頼むから、俺の見てないとこでは、無茶すんなよ?俺の手が届かないとこでも、ダメだ」
「……了解」
 いつの間にか握った手は離れてた。俺は丸ごと甲太郎の腕の中に収まっていて、そのまま、体重を掛けられたのにバランスを崩して、後ろに倒れそうになる。
 危ない、って思うのと、心臓が口から飛び出そうになるのと、視界が反転していくのと、ラベンダーの匂いが頭の中いっぱいに拡がっていくのと……それから。

 ガタッ

 視界の端っこで、誰かが部屋の扉を開けるのが、ほぼ同時に起こった出来事。
 完全に180度、ひっくり返った俺がどうにか確認できたのは、胴衣姿に白髪の、黒い眼帯男。
 甲太郎の腕がクッションになったらしく、のし掛かられた状態になって、一瞬後。
「げッ…」
「なッ!」
「あぁ?」
 三つの声が同時に部屋に響いた。
 上半身を何とか起こして、甲太郎の背中越しに扉の方を見る俺。扉を開けた状態のまま、俺と甲太郎を見て固まってしまっている剣介。密着状態から身体を離して、不機嫌そうに後ろを振り返る甲太郎。
 気まずい沈黙が少しの間流れて、その間、俺は必死に言い訳をしようと口を動かしてるんだけど、何にも声にならなくて金魚みたいに口パクするだけ。
 剣介は、何だかとてつもなく大きな誤解をしているようだった。
 何てったって、俺は胴着を肩に引っ掛けただけで甲太郎にのし掛かられてて、しかも、ベッドの上で、だ。
 硬直した剣介は、慌てたように一つ、咳払いをした。
 そのまま、何も見なかった、とでもいうかのように扉を閉めようとするから、
「ギャーッ、剣介誤解、誤解だから、誤解したまま行かないでッ!!」
 渾身の一撃で甲太郎をベッドの下に沈めた俺は、背を向けて出て行こうとする剣介に向かって必死に呼びかけ、裸足のままベッドから降りて、まだふらつく足下を踏みしめて剣介の胴着の裾を何とか掴んだ。頼む、言い訳くらい聞いてくれ!!
「拙者は、く、九龍の荷物を、だな、その……いや、何も言うまい、邪魔をしたッ」
「してねぇ!何にも邪魔してないからッ!!甲太郎ッ!お前もなんか言え!」
 そう怒鳴って振り返った俺の目に映ったのは、張り飛ばされたダメージから回復して、頭に手を遣って立ち上がった甲太郎。
 そしてヤツは、不機嫌丸出しのまま、言い放った。
「ああ、邪魔だ。とんでもなく邪魔だ、サムライ野郎」
 長い脚で歩いてきた甲太郎は、俺の首に腕を回すと、剣介に向かって一言、
「俺たちはまだやるコトが残ってるんでな。用が済んだら、さっさと戻れ」
 俺には、甲太郎がどういう表情してるのか、全然分からなかったけど。目の前の剣介の顔が見る間に赤くなって言ったのを見て、なんとなく想像はついた。
「し、し、し、失礼したッ!」
「え?ちょ、ちょっと、剣介!?け、けんす、剣ちゃん!!?」
 俺が掴んでいた胴着の裾を無理矢理引き剥がすと、あっっっと言う間に目の前で扉が閉まってしまった。視界の端で、甲太郎が手を振ってるのが見える。わー、珍しい、甲太郎が愛想いいなんて……とか、現実逃避をしている場合ではなく。
 甲太郎は、俺の肩を掴んで反転させると、扉に背中を押し付けた。
「あ、のぉ…も、もう、何にもすること、残って、ない、よね?あ、ルイ先生に報告とか?えーっと、」
「そうか。じゃあ俺が勝手にヤらせてもらうぞ?お前は何にもするなよ?」
「はいィ?」
「続きだよ、つ・づ・き」
 そう言って、鼻先一センチ手前で見た甲太郎の微笑みが。
 何だか、緋勇さんの微笑みに似てると思ってしまった時点で、俺の、負けだったんだと思う……。