風云-fengyun-

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***since 2005/03***

ピアノ・レッスン

『海に浮かぶ自分を毎夜見上げる』

 そんなエピローグが印象的な、映画がある。
 主人公にとって、ピアノは自分の意思を周囲に伝える唯一の手段で、同時に彼女の分身。掛け替えのない唯一。そんな、映画。
 『THE PIANO』っていう、タイトルだったかな、確か。
 俺が見たのは海賊版のビデオテープだったけど、これは映画館で見たかった、と思った。
 映画自体は、三角関係ありーの不倫がどうのって、結構ドロドロした感じなんだけど、とにかく音楽。『The heart asks pleasure first』ってテーマ曲。とんでもなく、ハマった。
 旋律は、たぶん一度聴いたら忘れられないと思う。事実、忘れられなくって、サントラを探したんだもんよ。でも、表立って探せないせいで手に入れらんなくって、結局旋律が頭の中に残るだけ。あれを弾くことのできる指を持ったヤツも、もういないし、俺はピアノが、弾けないし。
 だから音楽室を近く通ったとき、その曲が流れてきたとき、蘇ってきた想い出に胸を侵食されて、しばらく聞き入ってしまった。雛川センセに、昼休み中に職員室に来るよう言われてたけど、足は勝手に、音楽に向かってしまってた。
 音楽室を覗くと、やっぱりそこには取手がいた。音楽室は音で満ちていて、廊下で誰かが発する音の全てが、ノイズに変わっちゃうってな感じ。俺は急いで音楽室に滑り込んで、扉を閉めた。
 まだ、取手は気付かない。よっぽど集中してるんだろーな。
 流れ続けるピアノ・ソロ。音楽室の端っこの端っこで、邪魔にならないように息を潜めた。呼吸の一つすら、この空間を壊してしまう気がして。
 この曲が使われていた『THE PIANO』を見ている間も、俺は確か息を詰めていたように思う。影像と音楽が完成されすぎてて、身動きひとつで壊れちゃいそうだったのを、よく覚えてる。(『Out Of Rosenheim』も音楽とか影像とか、すげぇ好きな映画だったけど、あっちは逆に、リラックスできるんだよなー。)
 ここからじゃよく見えないけど、取手はどうやら楽譜なしで弾いてるみたいだ。時折、思い出したように全然別のフレーズとかを混ぜたりして、自由に弾いてる。そこにいる取手はもう学生じゃなくて、『ピアニスト』って感じだった。
 ふと、音色が止まる。
 取手が、顔を上げた。俺に気付いて、慌てたみたいだ。
「葉佩君…?ぁ、い、いつからそこに…?」
「さっき、今の曲が、始まってすぐくらい」
「ごめんね、全然、気が付かなくて…」
「だって気付かれたくなかったんだもんよ」
 でも、気付かれちゃったんだから仕方ないよな。取手の空間を壊すのは気が引けたけど、俺は、ピアノへ近寄った。
「The heart asks pleasure first...この曲、好きなんだ」
「『ピアノ・レッスン』の曲だね」
「あ、邦題はそういうんだ?」
 知らなかったー。映画は、世界中で上映されるから結構原題と各国の題が変わってくるんだよな。中国では、『鋼琴別恋』つまり、ピアノに恋をしてはいけない、ってのになってたと思う。
「僕は映画は見てないんだけど、姉さんが遺してくれた楽譜の中にこの曲のものもあってね。弾いてみたらすごく指に馴染んで、だから、よく弾くんだ」
 すごく、指に馴染む、かぁ…。一般人には分かんない感覚だな。さすが、ピアニスト。
「『楽しみを希う心』っていうのが、この曲の、邦題」
 そして、取手は元のテンポより大分ゆっくり、同じ曲を弾き始めた。ああ、本当に馴染んでいるんだなって、自在に踊る指で分かる。
 取手は、ピアノに触れてるときが、やっぱり一番幸せそうに見える。前に、ピアノを弾く自分を通して姉さんに会える、って言ってたけど、それは本当なのかも。不可侵だもん。ピアノを弾いている間は、誰も取手の邪魔はできない。
 俺は、立派なグランドピアノの柔らかい曲線を抱きしめるように腕を伸ばして、そっと、ピアノに耳を当てた。そうすると、稼働するピアノの鼓動が聞こえてくるんだ。ピアノの音ももちろんだけど、微かな弦の音とか、フレームがしなる音とか、そういうの。
 聞きながら、『The heart asks pleasure first』。楽しみを希う心っていうのは、ピアノが、弾かれる楽しみって意味かもしれない。もちろん映画の中で、主人公がピアノを通じて、他人……愛人さんとコミュニケーションを取る、その楽しみって意味も、あるのかもしれないけど。
 取手は、曲のスピードを上げて、原曲を弾き始めた。
 思い切り悲壮感が漂うくせに、楽しみを希う心、だなんて。あ、めっちゃ悲劇的だから、逆に楽しみを願うのか。
「ピアノ・レッスン…葉佩君は、観たことが?」
「んー?あるよー。珍しく最後まで観た映画の一つかな」
「最後まで映画、観ないのかい?」
「だって、結末観ちゃったらそこで映画、終わりじゃん?だからいつも、結末だけは観ないでおくんだ。そうすれば、自分の好きな結末を想像できるし」
 変な見方だと言われること多数。でも、俺なりの映画の楽しみなんだからそれでいいじゃん?
「それじゃあ、最後が気になったりしないかい?」
「するする!そこを、逞しい妄想力で補完するワケですよ」
 グッと、親指を立てると、取手は可笑しかったのか、小さく吹き出して笑った。ああ、笑顔が可愛いよ取手!
「でも、これは。ちゃんと最後まで見て、エピローグでグッときた」
「じゃあ…僕も観てみようかな」
 そう言って、また、弾き始める。
 ……クライマックスで、ピアノで意思を介する主人公の、全てとも言えるそのピアノは海に沈んでしまう。それに、彼女は自分の指すら、失くしてしまうんだ。でも、生き続けるし、ピアノも弾き続ける。
 取手は、どうするんだろう。たぶん、弾き続けるんじゃないかな。
「取手は、」
「ん?」
「ピアノを失ったりしても、生きていける?」
 そしたらね、ほんの少しだけ考えるような素振りを見せた後、俺に向かって微笑みかけた。
「一度、僕は失ってるんだよ?でも、取り戻せた。きっと、僕はこの先何度失っても、弾くことは止めないと思うよ」
「……そっか」
 もし、取手がこの映画を観たとして。そしたら、その時また、取手ならどうするか聞いてみようと思う。その時もきっと同じ答えを聞きながら、The heart asks pleasure first―――楽しみを希う心を、聴いてるんじゃないかな。
 そんな事を考えながら、取手の奏でるピアノに、聴き入った。

End...