六月、学生通りのマミーズ
学生通りに一件、マミーズができた。
今までファーストフードやらカフェしかなかったことを考えれば、学食以外でようやくまともにメシを……というかカレーを、食べられる場所ができたということになる。
(と言っても、学食のカレーは不味すぎて食えたモンじゃないが。280円であんなクソみたいに不味いカレーを食わされるなら別の物を食った方がマシだ。)
昼休み後、三時限目が空きの時間割。昼休みも含めれば二時間以上の空き時間がある。学外でメシなんて今までは面倒でしてこなかったが、まともなカレーが食えるなら、まぁ行ってやってもいいだろう?
昼休みに行ったらきっと混んでいるだろうと思って、三限のある連中が学校の敷地内に戻っていく波に逆らって、通りに出た。
学生通りのマミーズは、あの頃のマミーズと外装はよく似ていたが、もちろん内装は違っていて、入った途端に妙な違和感を感じる。すぐに出てきたホールスタッフも妙に落ち着いた、少し化粧の濃い女。ペンギンみたいなスタッフなんて店内にはひとりも見当たらなかった。
客足はそこそこ。大体が俺みたいな学生で、おそらくは目と鼻の先にある、俺の通う大学の学生なのだろう。二つ向こうのテーブルでは同じ講師の語学授業を受けてる顔見知りの姿もある。場所柄、当然の人種が揃うんだろうな。
俺は煙草の臭いを嫌がって禁煙席に着いた。窓際の二人掛け。外の景色は正に学生通りで、同じような格好をした奴らが闊歩している。
天香とは、違う場所、違う空気。あの閉鎖感を感じることは、もうほとんどない。
卒業してから、俺は東京の大学に進学した。天香での『事件』が終わってから受けたセンター試験で合格圏内だった大学にいくつか書類を出し、通った大学の中でもっとも新宿から近く、そこそこの大学に決めた。
学部は生物科学部だが、うちの大学は文化人類学(民族学や民俗学)や文化学、考古学方面に名の知れている教授が何人もいて、それも決め手となった一つだった。
つまり、俺は応用生物科学や生物工学をやる傍らで、他学部他学科の国際考古学や民俗学概論の授業なんかを取っている訳だ。
何故そんな七面倒くさいことをやっているかといえば……やはり、あの野郎の存在が大きいのだと、少なからず自覚している。
葉佩九龍という、《宝探し屋》。
そして今でも、俺の想いの大部分を占拠し続ける厄介な男。
数ヶ月間だけ共に過ごし、あの學園の、そして俺の根底をひっくり返して、そのまま消えたヤツ。
(あいつは、卒業式に戻っては来なかった。)
大分前に、振り切ることは無理だと諦めた。ならば少しでも近付こうと、今日も四限は考古学史の授業が入っている。履修登録をしてないから単位にはならないが、とりあえず一度も欠席をしたことはない。履修もしてないのに毎回授業にはいる上に、週毎に出すレポートでAもらってる変な学生は、やはり教授の目に止まってしまったらしく、最近では個人的に話もするようになった。
さりげなく《ロゼッタ協会》とやらのことや、遺跡に潜って宝を求める輩の話なんかも聞いてみたことがあったが……そんなもの映画や小説の中だけの話だという答えだった。
秘密組織みたいなものだ、と九龍が言っていた通り、一般人レベルでは本当に知り得ないらしい。
ただし、この間、楼蘭の遺跡から新たな宝が見つかったときには、研究学会などとは全く別の組織からの助力があったらしいということは、聞けた。
その話を突っ込んで聞いたら、「次になんか見つかったら一緒に行くか」とフィールドワークに誘われてしまった。だから、俺は史学部の学生じゃねーっつーの。
注文を取りに来たスタッフに、ドリンクバイキングのではなく、少し値の張るブレンドコーヒーもカレーと一緒に頼み、程なくしてコーヒーの方が先に運ばれてきた。
雨の季節、今日は少し肌寒い。なのに何故かクーラーの効いている店内で湿気を孕んだ空気の中、コーヒーの苦み走った匂いが広がる。アロマパイプを銜えて火を着けると、横を通りがかったスタッフが怪訝そうな目で見てくるが、煙草の臭いがしないことで、咎められることはなかった。
コーヒーの湯気で、窓がうっすら曇った。
冬の寒い日、外との温度差で曇った窓に、九龍はよく指で絵を描いていた。何かのマークだったり、誰かの似顔絵だったり、一番多いのはへのへのもへじだったか。そんな事を思い出しながら大きく息を吐き出した。
そうしてぼーっとしていると、周りの喧噪なんかが聞こえなくなってきて、不意に耳に飛び込んできた音楽。歌。たぶん有線。
聞き覚えがあった。
九龍がたまに、俺の横で、こうしてマミーズに入ったときは目の前で、口ずさんでたんだっけか。あいつの声で聴いた歌しか知らなくて、女のボーカルで聴くと、どこか違和感を感じてしまう。いや、こっちのほうが本家なんだろうけど。
確か、八千穂が好きで九龍に聴かせたら九龍がハマって覚えたんだったか?
思い出して、懐かしさにこみ上げる苦笑。ただ、それがゆっくりと消えていくのは、自覚できなかった。
あまりに、あまりな歌詞で。正直、胸の痛いところを突かれたような気分になった。
優しい街の流れに巻かれて僕は気が付いた。
少しも忘れてないことを。
ああ、そうだよ。
気が付くまでもない。少しも、忘れてなんかない。
あの非日常にも近い日常から離れて、こうして『普通』の日常を送りながらそれでも。
どんなに時間が流れても褪せることのない思い出を、忘れずに、忘れられずにいる。
あの頃、忘れられない人がいたはずの九龍は、この歌をどんな想いで歌っていたのだろうか。厳しく、辛すぎた場所から離れ、普通の高校生に混じりながら、どんな想いで?
もう一度、窓の外に目を向けた。
窓には数滴、雨粒が落ち始めていた。梅雨、六月。九龍とは過ごすことのできなかった季節。これからやってくる夏は、果たされることのなかった約束の季節。
息を吐きかけると曇る窓。その、俺の向かいの席に一瞬だけ、九龍が移った気がして。笑って、頬杖を付く姿が見えた気がして。視線を戻してみても、無人のまま。そこには誰もいない。
あいつがいるはずの、いたはずの空席を呆然とただ見つめることしかできなくて、今更ながら失った存在の耐えられない重さを痛感した。喪失感と空虚感が重苦しい湿気と共に俺を抱く。次第にそれに侵食されて、動けなくなる日までそれほど時間が掛からない気がしてきた。
俺はあの日、何を失ってしまったのか。九龍が帰ってこなかった原因が、俺の行動にあったことは想像するに難くない。つまりは俺は、自分で自分の唯一を手放したというわけで。
九龍が消えたことで、帰ってこなかったことで、俺はあいつを忘れることができなくなった。もしかしたら復讐なのかもしれない。
最後の最後で、あいつを裏切った、俺に対しての。
だとしたらそれはもの凄い効果を発揮してるぞ、九龍。
俺は、マミーズで、あの頃と同じ味のまま変わらないコーヒーを飲んでる。ただ、ここにお前がいなくて、今は六月だということが違う。それだけでかなり大きな違いだけどな。
知らず、自嘲するような笑いがこみ上げてきた。
雨が強くなってきた。何粒も、窓に向かって降ってくる。同じ雨を、九龍は知らない。
あの頃と変わらないマミーズで、あの頃とは違う空気の中、あの頃と変わらない、カレーの匂いが近付いてきた。
目の前には、誰も、いない。