風云-fengyun-

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***since 2005/03***

Miss. Lavender

 目の前で、九龍が鼻歌を口ずさんでいる。
 何の歌だか分からないのは、それが英詩だからだ。
 ただでさえ口角が上がっていて、微笑んでいるように見えるのに、今日のヤツは相当に機嫌が良いらしく、満面の笑み、という感じである。
 授業が終わり、放課後という時間になってからずっとこうだ。早く帰ろうと(というか早くマミーズへ行こうと)俺を急かし、帰り道では上機嫌。一体、何があったのかは見当もつかないという俺。
 こうしてマミーズに入って注文を待っている間も指でリズムを取りながら続く鼻歌。
「Touch,like a angel...like velvet to your skin」
「……天使のようだって、誰がだよ」
 たまたま聞き取れたフレーズを、何の気なしに呟いてみると、旋律が止まり、九龍が俺を見上げて『無邪気な笑顔』というのがピッタリくるような表情を見せた。
「へっへー、誰でしょう!」
「知るか」
「うわ、なんか冷たい反応!せーっかく俺にも可愛い可愛い彼女ができたってのに、少しは興味を示してくれたっていいだろ?」
 口に含み掛けた水を盛大に吹き出すところだった。
「ゲ、ッホ、ゲホッ!!」
「あーぁ、ダイジョブ?」
「……お、お前、いきなり何の冗談…」
「えー、冗談じゃないけど」
 失敬だね、なんて言いながら九龍は平然とした顔で。俺はますます、ヤツの顔を凝視してしまう。
「マジ、か?」
「おうよ。しかもね、たぶん皆守も知ってる…てか、会ったことあると思うよ」
 どうやら、冗談ではない、らしい。俺が会ったことある、ヤツ?誰だ?いや、九龍なら誰でも可能性がありそうなところがなんとも言えないが。
 とりあえず、一番可能性のありそうな人物、
「八千穂か?」
「ブーッ、残念外れ。てか、同じクラスじゃないし」
 首を振って、グラスに口を付ける。
 ドリンクバイキングから適当に飲み物を混ぜ合わせてきたせいで、グラスの中の液体は得体の知れない色になっている。それを平然と飲む九龍を見ながら、俺の脳裏には何人もの人間の顔が散っていた。
「……女、だよな?」
「酷ッ!!そこから!?何だよそれー。ちゃんと女の子だっての」
 女の子、その時点で朱堂や雛川、カウンセラーの可能性が消える。となると、椎名、七瀬、辺りか?
「すーっごい可愛い子で。Eyes,like a sunshine!like a rainfall down my soul、って、まさにその通りって感じでさ」
 また、さっきまで歌ってた歌のフレーズを口ずさみ始める。
 こいつが、恥ずかしげもなく天使だ太陽だのって言ってのけるってことは、相当、本気だってことなんだよな。
 九龍の幸せそうな顔を見てると、やたらと複雑な気分になる。なぜか、手放しでは祝ってやれない。
 いつの間に誰かとそこまで近付いたのか、俺は何で気付かなかったのか。考えれば考えるほど、酷く苛ついた気分になる。
 それが顔に出ないように隠して、
「じゃ、椎名か、七瀬か?」
「うんにゃ。てかね、ウチの学校の人じゃないし」
「は?」
 何を言ってるんだ、こいつは。第一、この學園は外には出られない。それに俺も会ったことがあると言っていたが、ここしばらく俺はこの學園から外に出ていない。少なくとも、九龍がここに来てからは。
「それってどういう…」
「お待たせしましたぁ~。カレーライス二つになりまっす」
 俺の言葉を遮ったのは、いつもやたらにテンションの高いウエイトレスの声だった。見上げると、カレーライスの皿を二枚持ってテーブルの横に立っている。
 舞草は九龍と二言三言、親しげに挨拶を交わしてテーブルに皿を置いた。
「あ、そうだ、葉佩くん、今日はどうされますか?」
「え、行くよ、行く行く!」
 九龍の顔が、数段明るく輝いた。
 瞬間、合点がいった。俺が会ったことあるけど、學園の人間じゃない女。九龍とは趣味が合うらしく、この間も特撮戦隊ものの話で大盛り上がりだった。
 そうか、この女か…。
「へぇ…」
 なんとなく納得できてしまった。
 二人はそのまま、話を続けている。
「今日は来てんの?」
「いいえー、まだ今日は見てないですね~。でも、もうすぐじゃないですか?いつもそうですもん」
 ……一人蚊帳の外で、話の内容が全く見えないが。
「九龍、お前の彼女って……こいつか?」
「へ?」
「えぇッ!?」
 ほぼ同時に頓狂な声を上げて、顔を見合わせ合う九龍と舞草。それからまた、同時に、
「ちっがうよ、それも外れ」
「いやいやいや、あたしと葉佩君ですか!?違いますよ~、そうだったら嬉しいですけど…あ。キャー、言っちゃった~!」
 舞草はトレイで顔を隠して、俺の肩をバシバシ叩いてきた。一体何なんだ…。
「葉佩くんの彼女は、あ、彼女ですよね?ふふふ、すっごーく、可愛い子ですよ!」
「だろだろ~?」
 じゃあ誰だ?来るだの来ないだのって事は、マミーズの別のバイトか?それなら俺も一度くらいは会ってるかもしれないが、舞草以外のバイトと九龍が親しいという話もあまり聞かない。
 もう半ば、考えるのを放棄し、誰でもいいだろ、放っておけと思いながら、それでもどこかで気になって仕方ない自分がいる。
 無意識の舌打ちを、しっかり九龍は聞いていて、にやりと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「皆守クン、もしかして妬いてる?」
「……阿呆か」
「じゃあ羨ましいとか?」
「んなワケあるか」
 吐き捨てると、今度は九龍と舞草、顔を見合わせて笑い合った。
「……なんだよ」
「気になる?」
「いいや、全然」
「何だ、会わせたかったのに」
「他人の色恋沙汰やら惚気に付き合ってるほど暇じゃない」
 からかうような九龍の口調が気に入らなくて、もう相手をせずにカレーを味わうことに決めた。
 舞草はすぐに別の客に呼ばれ、九龍もようやくカレーにスプーンを挿した。
「Touch,like a angel...like velvet to your skin...」
「……………」
「It feels like love...」
「黙って食え」
「はぁーい」
 睨んでも堪えたという様子はない。今日は恐らく、その彼女とやらに会えるのだろう。だからずっと、機嫌がいいのだ。
 今にもまた、鼻歌を歌い出しそうな九龍のテンションに反比例するかのように、俺の機嫌は物凄い勢いで下降していった。
 九龍はやたらに物を食うスピードが速くて、今日もさっさと食べ終わって俺を待っていた。時折、何かを待ちきれないと言うような様子で窓の外に目をやりながら。
「食い終わったんならさっさと帰ればいいだろ」
「……ヤだ」
「何でだよ」
「だって、皆守、なんか怒ってるし」
 それは先に帰ることと何か関係があるのか?
 何を言っても九龍は待ってそうだったから、俺はワザといつもの数段時間を掛けてカレーを間食し、食べ終わってすぐに伝票をひっつかんで席を立った。
 慌てたように追ってくる九龍の気配を背中に感じながら、レジで金を払おうとすると、そこには舞草がいて九龍を呼んだ。
「葉佩くん、外、来てますよぉ」
「ホント!?」
 ……ああ、苛々する。
 勘定をさっさと終わらせ、舞草と立ち話をする九龍を置いてマミーズを出ると、もう外はかなり暗くなっていた。俺の残りのスケジュールは帰って風呂入って寝る、それだけだ。九龍にかまけてる暇はない。
 俺のすぐ後に自動ドアが開いて、「皆守!」と九龍が俺を呼ぶ。
 声を無視して、アロマパイプに火を着けて深く吸い込み、吐き出す。ほぼ同時に、九龍が追いついて学ランの裾を引いてきた。それに振り返ろうとすると、今度はそれと同時に九龍が叫んだ。
「う、わぁッ!?」
 九龍が俺の学ランを掴んだまま、後ろに引っ張る。何が起きたのか、その力はやたらに強力で、つられるように俺も倒れ込んでしまった。
「ッてぇ……何なんだよ、一体…」
 倒れる瞬間、咄嗟に身体を反転させたせいで、九龍を下敷きにするなんて事態は免れたが、両腕を衝立にした間には受け身を取り損ねたらしく、盛大に顔を顰める九龍が。
「痛ッ~、…ビックリしたぁ」
「そりゃこっちのセリフだ!いきなり倒れやがって、何なんだ?」
 しかも俺まで巻き込んで、まったく。
「いや、なんか、飛び掛かってきて…」
「はァ?」
 途端に、俺と九龍の腹の間で何かが動いた。
「ッ――――!!」
 その何かはもぞもぞと九龍の胸まで這い上がって来て、そして…。

「にゃー」

 ………にゃー?
 俺は、目の前に現れたそれを見て、何も言えなくなった。九龍の顔を舐め回っているのは、まごうことなく猫。
「ひゃッ、くすぐったいって、おい!」
 九龍は上体を起こしてその猫を顔から離そうとするが、猫の方はよっぽど九龍に懐いているのか、なかなか離れようとしない。けれど九龍は全然嫌がる様子もなく、むしろ嬉しげ。
「猫ぉ?何だってこんな所に猫が…」
「あ、ほら、皆守、一度会ってるだろ?女子寮の見回りに行ったとき」
 ……思い出した。そう言えば、いたなこんな猫。
「でもって、へへ、これ俺のカノジョ!!」
「はい?」
「可愛いだろー?もう、ラヴだよラヴ♪」
「……………」
 九龍の上から退いて、俺はひとり近くにしゃがみ込んだ。
 彼女、って…猫かよ。ああ、そう言うことかよこの野郎、いらんことで心労嵩ませるんじゃねぇッ!
「いきなり飛んでくるなよ、ビビったじゃんかー」
 そう言いながらも、九龍は胸に猫を抱いて頬ずりしている。
「……さっき舞草と話してたのも、こいつのことか…」
「そ。マミーズに残り物とかもらいにきてるみたいで、舞草ちゃんとも仲良しなんだぜ」
「あー。そー」
 猫は九龍の肩の上に乗り、髪の中に顔を埋めている。一体何がどうなればここまで懐くんだ?ったく…。
「名前がね、ラベンダーっての」
「あ?」
 そりゃまた、なんつー名前を付けたんだ…。思わず口からアロマパイプを離してしまう。
「ラベンダーはラベンダー大好きだもんにゃー、あ、だから飛んできたのか」
 にゃー、じゃねぇよ、にゃーじゃ。
「何でラベンダーなんだよ…」
「こないだ会ったときに、ラベンダーの花、加えてたからさ。どっから持ってきたのか知らんけど」
 ……それはまさか、墓場から盗ってきたんじゃねぇだろうな…。
 ラベンダーという名の猫を睨むと、まるでせせら笑うかのようにそっぽを向きやがった。九龍には悪いが、俺はこんな猫を可愛いとは思わない。
「舞草ちゃんが言うには、俺、お前といつも一緒にいるせいでラベンダーの匂いが移っちゃったみたいでさ。それで懐いたんじゃないかって」
「…そうかよ」
 そういうことを真顔で言うな。
「だからたぶん、皆守とも仲良くなれるよ、なー、ラベンダー」
「ニャー」
 可愛らしく鳴いてはいるが、俺とは全く顔を合わせようとしない。仲良くなる、だぁ?ふざけろ、こっちから願い下げだ。
「皆守、抱いてみる?」
「断固拒否する」
「えー、何で?こんなに可愛いのに」
「んにゃ」
 九龍が猫を抱き直すと、そいつはまるで、見せつけるかのように九龍の唇を舐め上げた。
 だから何だ、というワケでもないし、俺の気のせいなんだろうが、なぜかバカにされたような気がして、咄嗟に猫をひったくっていた。
「ふわふわでもこもこだろー?」
「ああそうだなまったくだ」
 抱きもせず、首根っこを掴んだまま宙吊りにしていたら、突然猫が暴れ出した。放り投げようとした瞬間、手首に鋭い痛みが走る。
「ッ……!!」
 引っ掻きやがったこのバカ猫がッ!
「コラ、ラベンダー!」
「ナー」
 地面に着地した猫は、首を傾げて九龍に擦り寄る。
「皆守、大丈夫か?ゴメン、こいつ、人懐っこいはずなんだけど…」
「……お前にだけじゃねぇのか」
「舞草ちゃんを引っ掻いたりとか、しなかったぜ?」
 そういや、初めて見たときも抱こうとした瞬間に逃げられたよな?てことは、何だ?最初からこいつは俺を嫌ってると、そういうことか?
「傷、血が出てんじゃん!」
「あ?別に大したことねーよ」
「なくねーよ!」
 そう言って俺の手を引いた九龍が何をしたのかというと。
 恥ずかしげもなく、ヤツは俺の手首に唇を当てた。こっちは咄嗟のことに、動けもしないってんだ。
 傷口に、九龍が舌を這わせる感覚が妙に生々しくて、我に返った瞬間に腕を引いた。
「あ、阿呆ッ!!おま、いきなり何すんだ!」
「ちょっと、腕見せて!動物に引っ掻かれたり噛まれたりって、結構怖いんだぜ?救急キット持ってるから応急処置…」
「そういう問題じゃねェ!」
 怒鳴った瞬間、今度は足。見下ろすと、クソ猫が足に爪を立ててやがる。制服の上からだから痛みは大して無いが、猫は毛まで逆立てて爪を立てていた。
「ラベンダー!何やってんだよ!」
 慌てて九龍が抱き上げると、今度はその腕の中で俺を威嚇する。まぁ、こっちもこめかみに青筋立ってるだろうからなんとも言えないが。
「何だよ、ヤキモチ妬いたのか?そっかー、ゴメンなー。でもこいつ、俺の大事な人だから仲良くしてくれよー」
「にゃーん」
 九龍が頬ずりすれば一瞬で大人しくなるというこの豹変ぶり。猫かぶりとは正にこのことだな。
「でも、皆守の方がラベンダー全開のはずなのに、なんでこうかなぁ…」
「知るか」
「なー、ラベンダー…こいつ、取っつきにくそうだけど、実は心配性で過保護で面倒見が良くてお母さん体質なヤツなんだよ」
「変な紹介をせんでいい!」
「俺の好きなヤツは、ラベンダーにも好きになってもらいたいんだけど…」
 だからそういうことを真顔で言うなッ!!顔面やたらに熱くなるだろうが阿呆!
 九龍から視線を外した俺を、もの凄く胡散臭げな目で、猫が見上げてくる。腹立たしい。
「皆守も、俺の彼女、嫌わないでやってくんない?」
「彼女って…猫だろうが」
「でも、まさに天使だし、すっごい肌触りイイし」
 そうして口ずさんでいた鼻歌をまた、「Touch,like a angel...like velvet to your skin...」と、猫に向かって歌って聴かせる。猫は、甘えたようににゃんと鳴く。
 これが人間同士なら間違いなくバカップルの一言で片付けたいところだが、ここにいるのは九龍で、相手は猫だ。しかも敵意を向けられてるとなれば黙っていられるかってんだ。
「阿呆。猫じゃなくて人間に目を向けろ」
「いいじゃーん、こーんなに可愛いんだもんよ」
「にゃーん」
「てめぇは黙ってろ」
「に゛ャー…」
「今の顔、滅茶苦茶不細工だぞ」
「ニャッ!」
 人語を解してんのか?この猫は。慌てたように鳴いて、また九龍に顔をすり寄せる。
「…ったく、そろそろ帰ろうぜ」
「そだね、真っ暗だし……じゃあ、ラベンダー、またな」
「にゃぁ…」
「そんな顔すんなよ、また明日、会おうな?」
「にゃん」
 ああ、本当に苛々する。思わず九龍の首根っこをひっつかんで無理矢理引っ張っていこうとすると、
「ふぎゃぁッ!」
「ッ――――!!」
 飛んだ。猫が。九龍の腕の中から俺に向かって。思わず叩き落とすと、着地した先で毛を逆立てる。
「こんの、……クソ猫がッ!!」
「ニャゴーーーッ!!」
 九龍を挟んで猫と俺、完全に闘争本能全開で対峙する。
「……二人とも、仲良くしようぜー?」
「断固拒否ッ」
「ナーーゴッ!」
「えー…」
 九龍は情けない声を上げて、所在なさげに頭を掻いた。それからボソリと、「like a angel...」と呟く。
 こいつの言う、天使のような彼女。俺との出会いは、とりあえずそんな感じだった。
 おそらく和解点は……見いだせないだろう。

End...