風云-fengyun-

http://3march.boy.jp/9/

***since 2005/03***

その日、世界は真っ白で

 長い、永い夢を見ていた気がする。
 ぼやけた頭の中で、夢の感触を確かめる。あれは、悪い、夢だった。
 思い返そうとするだけで吐き気をもよおしそうな、怖気のする悪夢。
 ……九龍が、いなくなる、という夢。身体を内側から蝕まれて、痩せ細って消えていく夢。そう、それで、俺はなぜだか母校に向かい、屋上で、いないはずの九龍と、キスをした。
 嫌な夢だ……。覚めてくる頭の中で、どんどん鮮明になる。それは現実と見分けが付かないような輪郭を持って神経を締め付けてきた。
 そんなこと、あるはずがないのに。俺は頭を振って身体を起こす。
 関節が軋む不快感。首を捻るとこきりと音がした。まだ脳に霞がかかっているようだ。……クソ。
 辺りを見回すと、その日、世界は真っ白だったということに気がついた。こんな日もあるもんなんだな、とぼんやり思う。
 ふと、隣に佇む違和感を探る。白が、じわりと歪んだ。ひやりとした手触りのあと、すぐに訪れる温もり。上体を捻ると、そこには白にそぐわない圧倒的な存在感を携えた黒。いつの間にか俺の背にもたれるようにしている。
 規則正しく呼吸が聞こえ、背中が揺れるのは眠っているからだろうか。
 その存在を感じて、俺は酷い安堵を覚える。ああ、夢だったのか、本当に、夢だったのだ。俺の黒は悪夢ではなく、幸福の色だ。
「くろ……」
 声を掛けかけて、止めた。あんまりに気持ちの良さそうな後ろ姿に、起こすのが悪い気がしたのだ。
 そっと、腕に体重を掛けさせて俺は身体を反転させる。後ろから抱え込むように存在を確かめ、真っ黒い髪をなでる。
 九龍だ。この、腕の中にいる。間違いない。その事実だけがなぜか途方もなく嬉しくて、思わず抱く腕に力がこもってしまった。
「……ん」
 身動いだ身体。腕に、深く吐き出した息がかかる。
「九龍」
 今度は、確かに呼びかける。この黒が、九龍だということが間違いないことを、返事として受け取りたかった。
「九龍?」
 再度の呼びかけに、返ってきたのはまたも深い吐息。重たい眠りから、今覚めたというような。
「こ、たろ…」
 掠れた声は、腕の中から。次いで、頭が揺れて、こちらを向こうとする気配。けれど、俺の拘束力が強すぎるのか体勢が悪いのか、それができずに首を傾けるだけに終わる。
「……なんか、メチャクチャ、恥ずかしいカッコで起きてんスけど俺」
「気のせいだ」
「いや、端から見たら恥ずいこと100パーです」
 あー、九龍だ。間違いもなく、九龍だ。しばらく抵抗してみるものの、無理だと思うと脱力してずるずると地面にへばるところなんて、まさに九龍だ。
 それだけでこんなにも安心できるのは、あの夢のせいだ。九龍がいなくなるなんて、んなクソみたいな夢の。
「悪い夢を見たんだ」
「どんな?」
「お前がさ、……俺の隣から、いなくなる夢」
 すると、腕の中から、息の漏れるような笑い声が聞こえてきた。少しだけムッとして、
「もの凄くリアルで、結構、ビビったんだぞ」
「さいですか。じゃあ、よかったね、夢で」
 ようやく、九龍がこちらを向いた。その真っ黒い眼は、紛うことなく九龍で、その眸の中にいるのは俺。
 相変わらず世界は真っ白で、九龍だけが異物のように黒かった。けれど、それが俺にとっては当然で、世界がどんな色に変わろうとも、九龍だけはこの色をまとったまま隣にいてくれると信じているのだ。
「俺もね。嫌な夢を見たんだ」
「どんな」
「俺が、甲太郎を置いていく夢。先に、逝ってしまう夢」
 カチリ、と、頭の中で何かが符合する。それはまさしく、俺が見た夢そのままだったからだ。
 九龍が病に倒れ、俺はそれを受け入れることができずに天香學園へと戻って来た。こいつと、初めて会ったその場所に。それからいるはずのない九龍が俺に最後の別れを告げて、消えていった。
 その時の、甘やかなキスの感触が鮮明に残っているのが少しばかり怖い。あれが、現実だったなら、と思うと。
「でも良かった。夢で。俺、その時すごく悲しい気持ちだったから。甲太郎がもの凄く怒って、悲しんで、そんな人を置いていくなんてできるはずないって思ったから。……夢で、良かった」
「おぅ」
 奇妙な夢の一致。同じ眠りの中で同じ悪い夢に浸されていたというのは不気味だった、が、揃いの夢を見られるということはそれほど悪くはないんじゃないかと思ってみたりもする。……そんな考えにぶち当たる自分の思考も十二分に不気味だという自覚もあるが。
「変なのー」
「そうだな」
「俺、マジでキレられたんだぜ?甲太郎に。『勝手に死にやがったらぶっ殺すぞ』とか矛盾しまくりのこと言われて、なんか、死んだ後もチョー心残りで、化けて出たらそこでもキレられた」
「へぇ……」
 思い出し笑いなのか、くくっと九龍が笑う。俺にしてみれば笑えない話なのだが、……まあ、いいのか。笑える夢の話だ、俺も同じようなのを見た、というだけの。
「そりゃキレたくもなるだろ。勝手に病んで黙ってやがって挙げ句に死んで、未練タラタラなところに出てきて『ゴメンねー』なんてのほほんと言われてみやがれ。普通にキレるだろ」
「あれ、俺ったらそっちでもそんなことしてたんかい。やることワンパターンだな……って、俺、俺の夢でもそれ言った気がすんな」
 今度は、苦笑。つられて俺も笑ってしまう。俺は九龍の夢の中でもあいつに置いて逝かれて、それを許せないとぶちギレていたのか。俺らしいといえばまったく俺らしく、九龍の深層の中でもそう在ったのだということは笑えることじゃないか?
「ん、でも、ホーント、夢でよかった」
「だな」
「……実はさ、今、目が覚めて、いきなり世界は真っ白で、ああ、やっぱり俺はここに来ちゃったんだって朧気に思ったんだ。でも、頭ハッキリさせたらいきなりバックドロップ一歩手前の体勢ですよ。んで、ラベンダーくさいとくれば甲太郎サンですよ」
 臭いって失礼だなこいつ。でも、言われてみれば、いつの間にか俺はトレードマークとなっているアロマパイプはバッチリ口に咥えていて、覚えもないのに火も着いている。不思議だ。
「なんつーか、心底、安心した。あんな悪夢、……俺の生きてきた現実より全然酷い悪い夢、そっちが本当なんじゃなくて良かった。泣きそうなくらい、安心した」
「阿呆、泣きたいのはこっちだ。お前は知ってんだろ、置いて逝かれる方のキツさ」
「今度は置いて逝く方のしんどさも体験してみましたー」
「もうしませんて言え」
「へーへー、もうしません。つーか、甲太郎の夢にまで俺は責任もてないし。つーか、甲太郎、夢の中で俺のこと殺したんだ?つーか、」
 なんだか、まだ文句が出てきそうだったから、仕方なく強引に顔をこちらに向かせてキスをした。黙らせた。
 呼吸の音もなくなる世界。今日も今日とて真っ白だ。目を閉じていれば真っ暗で、視界がない分、口付ける感触が、温度が、九龍が、伝わってくる。
 しばらくして顔を離すと、不意打ちが不満だったのか、九龍が目の縁を少しだけ赤く染めながらこっちを睨み上げてきた。
「……今の俺の首の関節の音、聞きまして?」
「いいや、何にも聞こえなかった」
「ベキ、とか、ゴキ、とかっていう擬音で表現できそうでしたよ」
「ゴキか。確かにお前、真っ黒だしな、触覚でも生やせばそう見えなくも……」
「見えるかッ!」
 そりゃこっちだって願い下げだ。どこのどいつが扁平楕円な黒光りする害虫とキスなんざするかっての。
「ったく、するならするって言えば心の準備と無茶じゃない体勢の準備が、」
「んじゃするぞ」
 言って、その体勢のまま第二ラウンド。一瞬、抵抗を感じた気がしないでもなかったが気にしないことにする。じっくり味わっているとさすがに本格的に苦しくなったのか、無理矢理身体をひねり、向き合う形になる。
 では、続きを、と思ったらまた待てが掛かる。
「……てかホント、これ、誰かに見られたら赤面死するよ俺」
「誰もいないから安心しろ。どこまでだってやってやる」
「いなきゃなんでもいいとか思ってんなよッ!」
 そうだ。ここには誰もいない。俺と、九龍。それだけ。後はただただ真っ白い世界。誰にも邪魔されずに、何事もなく、ずっとふたりだけでいられる。そうだ、世界は確か、そういうふうに出来てたんだったじゃないか。
「大丈夫だ。本当に、誰も何もいない」
「……誰も、何も?」
「ずっと、俺たちはふたりだったろうが。それともお前、他に誰か必要だったか?」
 しばし、逡巡。おそらく脳裏には今は亡き、いつか家族だった人間の残像だけが浮かんで、そして消えているはずだ。
「おかしな夢が、お前を殺したりなんかするから混乱しただろうが」
「……現に俺、ちゃんとここにいるんですけどー」
「だから安心してるんだろ、阿呆」
 もう一度、向き合ったままでぎゅぅ、と力を込めて抱きしめる。背中に回っていた九龍の腕が、同じ力で返してくる。本当に、誰かに見られていたら俺だって弩赤面モノだが、ここには九龍しかいないんだ。
 誰も、何も、こいつを奪っていくことはない。幸福に満たされた、すべての願いが叶う場所。俺たちが、間違いなく在るべきの世界。
「でも他には誰も、いないんだよ?」
「だったらなんだよ」
「もしかして、甲太郎、俺が死んだっていう夢の中で、そんなもん、願ったりしたワケ?」
「悪いかよ」
 答えると、九龍が眉をひそめた。困ったような、悲しがるような、少しだけ、怒ったような。
 それから、思い切り俺に体重をかけてきた。不意打ちに、後ろに倒れ込む。何もない真っ白な場所に、横たわる俺と乗り上げる九龍。俺の顔の横に両腕を衝立のようにして身体を支えている。
「……そんなもん、願ったり、した?」
「いや、カレーかお前かでは迷った」
「……おーい」
「でも、お前がいなくなるくらいなら世界なんてなくなっちまえばいいとは思った」
「…………」
「そうしたら、目が覚めた。お前はここにいて、俺は安心した。他は別にいらないんだから、何も問題はない。違うか?」
 違う、と言ったのか、違わない、と言ったのか、よく聞こえなかった。今更ながら、こいつはよく泣くヤツだ。それが俺の前でだけだから許せるが、この涙腺の緩さはどうにかならないものか。
「確か、夢の中でも泣いてたよな、お前」
「そ……だっけ」
「ゴメンー、とか誠意のない謝り方をしながら号泣したろうが。で、キスをした」
「俺、その後消えなかったっけ?」
「消えた。だから、俺は悲しくてどうしようもなくなって、それで……」
 胸の中にあった悲哀の波にのまれて、溺れ死んだ。こいつが夢の中で最悪の一言を発したせいだ。『他の誰かがいるから』なんて。いるはずがないのに。俺には、こいつだけなのに。
 だから、願った。他のものは要らない。誰も何もいらない。九龍だけを寄越せと、祈り、想い、呪った。
 そんな夢、だったのだ。
「つーかお前、しょっぺーから泣き止めよ。鼻水混じってねーか?オイ」
「世界中には、何億人もいるってのに」
「話聞けよ」
「ほか、探すとか、少し、頭、回さなかったワケ?」
「まったく」
 即答すると同時に、今度は九龍から覆い被さってきた。俺は、九龍がどうして泣いているのかよく分からなかったが、涙の味が混ざったキスというのも悪くないな、と思った。
 涙からか、口付け越しか、定かではないが、何かが九龍から俺に流れ込んできた。
 様々な想いだった。悲しみも怒りも痛恨も、嬉しさも優しさも驚喜も、全ての感情の色がない交ぜになって、やがてたったひとつの色になって俺の元へと辿り着く。
 混ざり合ったはずなのに、たったひとつの、純粋としか言いようのない一色。
 その日、世界は真っ白で、なのに俺は、正反対の色を抱きしめていた。
 漆黒。その想いは―――愛、とかいうかもしれない。

*  *  *

 『それ』を見つけたのは、かつて、《墓守》たちを束ねていた長。
 眠るべき者が消えた今でも遺跡の管理者としてこの地に君臨していた。傍らには朱く長い髪をたなびかせる美女。数年前よりも大人びた相貌の二人は、並んで『それ』を見ていた。
 彼女―――双樹がぽつりと呟いた。
「つい、先日のことのようです」
「そうか」
 相づちを打つ長身の男―――阿門は、嘆息気味に呟いた。
「死因は病死、それ以上のことは調べられませんでした。申し訳ありません」
「いや、充分だ。……そうか」
 死んだのか、と口の中で含むように事実を言葉にする。
 数年前、この學園に訪れた一人の《宝探し屋》の存在を、二人が忘れるはずがない。墓の眠りを呼び覚まし、長である阿門の存在意義を根こそぎ奪っていった人間だ。だがそれは、悪いことではなかった、と墓を守りきれなかった張本人たる阿門は思う。向ける念は……感謝、に近い。
「葉佩……」
 呟いた阿門の目の前に在るのは、けれどその人物の何かではない。いや、ある意味、葉佩九龍の一番大切なものであったことは確かだが。
 阿門邸の一室。そのベッドの上。傍らに二人が佇むその場所に横たわっているのは、彼の公私共々のパートナーであった皆守甲太郎。

 その―――亡骸。

 それを見つけたのは阿門だった。場所は、抜け殻となった《墓》の一部。ある夜、葉佩九龍と皆守甲太郎が対峙して、殺し合い、それでも必要とし合った一室だった。阿門はあの場所に居合わせ、崩壊する遺跡の中で、奇跡というものを見せつけられた。
 今度は、何が起きたのか知るすべはない。皆守はもう、何も言うことはなく、事態を知らせようとした相手はすでに死んでいた。
 皆守の遺体に、外傷は無かった。掠り傷一つ負ってはいなかった。こうしていると、本当に眠っているだけのようにも見える。だが呼吸はなく、心臓も動かない。ただの物体と化してしまっている。
 ロゼッタ協会に連絡を取ってみたところ、すでに皆守は退会処理を済ませた後だったが、遺体についての処理は行うと申し出てきた。返事は保留にしてある。皆守は《墓》で死んでいたのだ。そのまま葬るのが正しいような気もした。
「九龍が、連れて行ったのかしら……」
「あれが、そんなことをすると思うか」
「……いえ」
 ひとしきり泣き終えた双樹の口調はすでに落ち着いていたが、それでも時折声がうわずり、言葉を詰まらせる。
「この男が、付いていったのだろう」
 阿門が見つけてからここに運ぶまで、皆守だったものが握りしめて離さなかったもの。ふたつ。
 一つは、一掴みの粉。DNA鑑定をすれば間違いなく元が何であるか判明するものであり、また、調べずとも間違いようもなくそれが何か分かるものでもあった。九龍の、遺骨の残骸。
 もう一つは、九龍が愛用していた漆黒のハンドガン。もう一人の相棒、もう一人の恋人と言っていた銃。
 今も、離さずに握りしめている。死後硬直などというものでは片付かない力で握り続けている。
「……どうされますの?」
「これから、考えるとしよう」
 阿門と双樹は、二人の亡き友に黙祷を捧げた。そうして、部屋を後にした。
 後には、皆守甲太郎と、葉佩九龍のみが、残された。

*  *  *

「九龍」
「……ん?」
「夢でも嘘でも」
「ん」
「もう、どこにも行ったりすんじゃねぇぞ」
 ずっと、ずっと、ずっと。いつまでも。『俺』が無くなる、その時まで、ずっと。

 その日、世界は真っ白で、腕の中の黒だけが真実だった。

End...