世界で最後のキスをした
それはたぶん、世界が最後に見せたバグだったんだと思う。
天香學園、屋上。
数年前の俺のねぐら。風の音や雲の流れを見ながら、ぼんやりと時間が過ぎるに任せていた日々を思い出す。ラベンダーとカレーと静寂さえあれば、他に何も要らなかった。
俺の世界は、それだけで良かった。
そこに混じった不純物をいつの間にか気に掛け、想い、必要としたのはいつからだったか。そんなこと、もう思い出すこともできない。甦るのは、きっかけではなくそれからの時間のことだけだ。
記憶とは随分曖昧で、酷く鮮明なんだな、と。この景色を見ると思う。
きっかけなんて思い出せないのに、景色ひとつであいつの表情や言葉が返ってくる。
空気とはよく例えたものだが、その通りだ。そこにいるときはさも当然のような顔をして、―――いなくなれば、あまりの喪失感に呼吸さえできなくなる。
過去と言うにはまだ、我慢の効かない傷が痛んで、俺はアロマパイプの端を噛んでいた。屋上のフェンスに掛けた指はいつの間には強く網を握っていて、血の気が失せて白く変色している。指先がひどく冷たいのは、外気が冷えてきたせいだけではないのは確かだった。
気付けば、夕闇がすぐそこにいる。
昼と夜が混ざる時間に、過去と今が混ざる場所で、一体俺は何が見たかったのだろうか。
―――何を、したかったのだろうか。
ぼんやりと考えていたら、いつの間にか背後に、気配。俺に不安を抱かせずに背後に立つ、穏やかで柔らかい、知った気配。
すぐ、そこにいる。
「よ。」
声は、ずっと俺が求めていたものだった。
「こんなとこで、サボってんなよなー?なーんて」
振り向くまでもない。
けれど、振り向くしかない。
見慣れたような、けれど随分と懐かしい景色から視線を外し、声を確かめるように振り返る。
「元気……って顔じゃないねぇ」
天香學園の屋上で、九龍はなぜか、前と変わらないように笑っている。なぜか黒いコートを羽織った下は学ランで、なぜか少年のまま、甘ったるい面差しをしている。
けれど俺は、なぜだなどと思わずに、仕方がないから笑ってみせるしかない。
「……今まで、どこ行ってやがったんだよ」
「んー、どうだろうね」
へら、と笑って、九龍は俺の方へと近付いてきた。
今はこの緊張感のない笑顔が憎たらしく、懐かしく、―――どうしようもなく、愛おしい。
思わず、手を伸ばしていた。
九龍に触れた指先は存在を捕まえ、腕の中に押し込める。冷えた指先に、熱が戻るのを感じた。これは九龍の熱で、それを受ける俺の熱だ。
愛用していたシャンプーの匂いが染みついた髪に犬みたいに鼻を寄せ(犬がやたらに鼻を擦り寄せたがるのはきっと相手の存在を寄り知覚したいせいだ)、もう一度、抱く手に力を込める。
「この、馬鹿野郎が…」
「…うん」
「何なんだよ」
「うん」
「勝手に出てきやがって」
「うん」
「……勝手に、いなくなりやがって」
「…………ごめんねぇ」
相変わらずすっとぼけた口調だと、俺は。
嬉しさと切なさと寂しさと苦しさの中で、少しだけ呆れた。
* * *
九龍が死んだのは、半月と少しばかり前。
遺跡で死んだわけでも戦闘で死んだわけでもない。病気で、逝ってしまった。
野郎、病気のことを寸前まで隠してやがって、俺が気付いたときには体重が四十キロの辺りをうろうろしていた。
骨と皮みたいになって、それでも遺跡に潜り続けて、他人のために働き続けて、結果、真夜中に吐血してそのまま病院送り。当然、手遅れ。その時ばかりは自分が気付けなかったことと、自分の弱さを隠す九龍の性格を心底恨んださ。
九龍自身が病気に気付いたときにはすでに手遅れだったらしいが、俺は訳の分からない病院の機器に繋がれた九龍に向かってここぞとばかりに恨み言を吐いた。容赦なく、扱き下ろした。
それでも、九龍は今みたいにへらへら笑って、「ごめんねー」と間の抜けた口調で言うだけだったが。
(最期の最期まで、あいつは笑ったように泣きながら「ごめん」と言っていた)
葬儀は、しなかった。
九龍がするなと言ったからだ。
骨は砕いて粉にして、あいつの故郷だという中国の九龍地区に撒いた。残ったのは、俺の持つ一握りだけだ。これだけは、どうしても処分できずにいる。
そしてなぜか九龍が今、俺の腕の中にいる。
どういう事かは、分からない。
* * *
「俺はね」
しばらくの沈黙の後、九龍が言った。
「俺はね、甲太郎」
「…なんだよ」
「あんまり、正しいこととか、してこなかったんだよね」
「…………」
意味が、分からない。
「正しくないことばっかりしてたから、きっと俺の大切な人はみーんなどっか不幸になるし、俺自身がさ、こうだし」
それは、九龍の母で姉で師匠だったって女と、……俺のことか。
確かに、唯一無二に先立たれた俺は、世界一の不幸を背負っている自信がある。
「でも、俺ね」
「ああ」
「思うんだけど、逆に考えれば甲太郎を幸せにしてあげられるのは俺じゃなかったってことなんだよね」
腕の中で、九龍は俺の胸を軽く叩いた。ノックするように。
それで、俺の何かは開くってか?
「何を犠牲にしても、甲太郎には幸せになってほしかった」
俯いていた九龍が、顔を上げる。随分と晴れやかだ。晴れやかで、そして悲しげだった。
この晴れやかさの下でいつも泣くのを堪えてること、俺は知っている。
「……だったらそうしろよ」
「でもね、できないみたいだから」
「簡単に諦めんのかよ」
「だってさー」
ダメなモンはダメなんだもん、と。あっさりと言って、また笑った。
「だから、俺は別の誰かにそれを託すんだ」
「…………」
「甲太郎は、これからもずっと生きていくんだから、どっかで出逢えるんだよ」
(…ふざけるな)
俺をここまで引っ張り込んでおいて、その無責任さはなんだ。
アロマかカレーか九龍かって言われたら多少迷うが、世界如きと天秤に掛けたら間違いなく九龍を取ると宣言できる俺が、他の、誰かと?
「可愛くて優しくて、カレーとアロマ好きで、それ以上に甲太郎のこと好きだって言ってくれる人、きっといるはずだから」
そうして、そんなことを自分で言ってから、
「いいよなー、俺、その子になりてーや」
なんて言うんだから、本当にワケが分からない。
「絶対、大丈夫」
何が、大丈夫なものか。
「だからさ、俺のことなんかさっさと忘れて、んな骨なんか捨てちゃいなよ」
俺の手の中にあった、小さな袋を指して。それは九龍の一部(だったもの)だというのに。
あまりに簡単に言われたせいなのかどうなのか、俺は込み上げてくるものを押さえることができない。
「……言いたいことは、それだけか」
「へ?…うぉ!」
カシャン、とフェンスが鳴る。俺は九龍の肩を掴んで、力一杯フェンスに押し付けていた。死んだくせに痛みがあるのか、九龍は顔を顰めている。
「いつもいつも勝手に決めて自己完結しやがって、俺はその決定に振り回されるだけなのかよ?」
情けない。情けなくて涙が出てくる。視界がぼけるのは、きっとそのせいだ。
そのぼけた世界の中で、一瞬だけ九龍が表情を歪めた。泣きそうに、歪めた。
けれど確認する前に九龍はその腕を伸ばし、俺の背中に回していた。これでもう、表情は見えない。
「ホントはね。もうちょっと傍にいたかったって、思う」
胸に顔を押し付け、くぐもった声で。
「でもさ、俺じゃダメなんだって、こうなったら諦める他ないっしょ」
泣いているのかもしれない。声が震えている、気がする。
「……ごめんね、ホントに。ごめん」
小刻みに震える肩をどうすることもできなくて、俺はただ、抱き寄せることしか。それ以外に、触れ合う方法を知らないとでも言うかのように。
「悪い夢なら、良かったのにな」
俺の言葉に、九龍が小さく頷くのが分かった。
俺だって、分かっている。九龍だって好きでこうなったんじゃないこと。もっと生きたかったんだということ。俺の隣を空けることを悔やんでいること。
分かっていて、でも、未だに納得できない。受け容れられない事実だ。
「甲太郎」
「……ああ?」
「幸せに、なって。世界で一番」
唐突に、九龍に触れる、実感が無くなった。まるで霞を抱くような、嫌な感覚に変わる。
逃がさない。その意味で強く掻き抱いたが、無駄だった。九龍のコートが、黒い光の粉のようにはためいている。
「九龍」
「ん?」
「……好きだ」
「…へへ。実は、知ってる」
冗談めかして九龍が答える。
何が夢で、何が現実で、どれが幻でどれが本物で偽物で嘘でも何でもいい。
今の俺にとっての真実は、これだけだ。それでいい。願わくば、九龍に戻ってきてほしいが、それは願いすぎらしい。
存在が、揺らいだ。ノイズが混じったように背中が透けて見えた。俺は行くなと何度も言うが、九龍はそれに答えない。視界が滲んでいく。これは、涙のせいだ。
「あ。」
ぼやけた視界の中、九龍が顔を上げた。間抜けな顔をしている。でも目元は真っ赤だった。
泣いている。
そして、やはり笑うのだ。へらへらと、緊張感無く。
「誕生日、おめでとうねー」
言うが否や、唇の先が、俺の唇に触れた。
それが、最後だった。
ざらっと強く吹いた風が、九龍の残像を吹き消した。
残された俺は呆然としながら、言葉の意味と、唇の甘やかさを思い出す。
風の音を聞きながら、可愛くて優しくて、カレーとアロマ好きで、それ以上に俺のこと好きだって言うような変人は九龍しかいないことに気が付いた。
ダメだ、俺は、あいつ抜きでは幸せになれない。だからきっと、九龍の贈ってくれたキスが世界最後のキスになるんだと。今の今まで九龍の居た場所を見つめながら、思った。
手の中には、九龍の骨の粉だけが残っている。
指先は、冷えて悴んでいた。