風云-fengyun-

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***since 2005/03***

何かが僕らを分かつとき

 ぱたん、と。
 後ろ手で扉を閉める。
 さっきまで触れられていた胃の腑の辺りをくるくると撫で、痛みがないことに安堵する。
 これから俺の中に起こる変化は、きっと俺にしか分からないものなんだろう。こんなことは誰にも言えないし、言いたくもないし。だから、全部抱えたまま、その時が来るまで耐えなければならないんだ。
(そーかぁ…)
 腫れ物を身体の中で飼うという気持ち。これは、経験した人間しか分からない恐怖なんだと思う。
(ダメ、かぁ…)
 ダメ、なんだ。何かが、と言うよりも、何もかもが。

*  *  *

 物心ついたときから戦いの中にいた。
 硝煙の臭いも血の臭いも、人の死の臭いもすぐ側にあるような街で、俺自身も戦いながら生きてきた。銃を持つのは生きるのと同義だったし、躊躇いもなく人を撃ってたし撃たれもしたし。
 その街を離れてからも戦いながら生きることを常としていたから、漠然と俺は遺跡の中で戦いながら死ぬんだろうなぁ、とか、思ってた。
 けれどどこでどう間違ったのか、俺の予定調和のような運命は、ひん曲がった。
 病気、なんだそうだ。しかも不治の病っての?そういうノリの。
 このままいけばまず間違いなく、畳の上とは言わないけど、ベッドの上で死ねるのだそーな。
 分かったのはしばらく前。そん時には既に手遅れだったらしくて、毎日甲太郎に隠れて飲んだ薬も全部効果がないと分かったのが今日。つまり俺は、13階段絶賛駆け上がり中というわけなのです。
 初めて聞いたときは、正直、冗談かと思った。俺が?病気?まっさかー、ってな感じ。自覚症状はなかったから、怪我で診てもらわなければ発見はもっと遅かっただろうって言われたくらいだったし。
 この俺が、病気。
 信号待ちをしながら、ふと手を開いてみる。指先は動くし、温かい。この身体は生きている。それなのに直に機能を停止して動かなくなってしまうのだという。
(おかしな話だ。)
 動かなくなる、だって。
 血が通わなくなり、何も感じることができなくなるというのはどういうことなのだろう?もうすぐ迎えるその瞬間には、死んでしまっていて体感することはできないのだという。
(変な話だ。)
 変だけど、確かに。
 俺は死んでしまうのだという。

*  *  *

 道路を渡り終わるか否かというちょうどその時。ぼんやりと歩いていた俺は、呼び止められて振り返った。
「九龍!」
 イントネーションにまったくおかしい所のない綺麗な「九龍」という発音。ロゼッタでは、甲太郎しか呼べない音だ。
 そういえば、今日は買い物に出かけるって言ってたっけ。折角のお休みなのに、俺が一人で出かけるとか言い張ったから。
「甲太郎」
 振り返れば、紙袋を抱えた甲太郎が早足で近付いてきた。俺は、立ち止まってそれを待つ。
 目の前に立った甲太郎からは、スパイスの匂いが漂ってきた。きっと中身はカレーの材料なんだと思う。
「何だ、お前の用もこの辺りだったのか」
「そ。ちょっとね」
 はっきりとは行き先を告げていない。ただ、用があると、それだけ。事はほどほどに深刻だけど、俺は結構嘘を吐くのが上手いから甲太郎にはまだ何も、バレていないと思う。
 どちらからともなく、アパートメントに向かって歩き出した。ロゼッタ協会はエジプトに本部を置くから、世界中を飛び回っていると言ってもさすがに仮宿くらいはあった方がいいだろうと購入した部屋だ。今では世界で一番、落ち着ける場所になっている。
 というよりも、こうして甲太郎の隣にいることが。何よりも落ち着くんだと、実感してる。
 甲太郎はぽつりぽつりと買い物のことを話し、俺は笑ってそれを聞きながら歩いた。いつもなら俺の方が喋るんだろうけど―――さすがに、こっちの出来事は話せないから今日は聞き役。
 ゆっくりと歩きながら、次第に翳っていく太陽を見ながら、幸せだなーと思う。夕暮れの街、しかもエジプトは未だに石造りの建物も多くて、鈍く反射した太陽の光が全部をオレンジ色に染めているような気にさせる。すごく好きな景色の中を、すごく好きな人と並んで歩く。心臓が絞られるくらい、幸せだった。
 ふと、甲太郎が口を噤んだ。じっと、俺を見下ろしている。
「どした?」
「……お前、ちょっと痩せたか?」
「そぉ?」
 そんな事ないよと笑いながら、心中、ちょっと焦る。只今、葉佩九龍の体重は結構悲惨なことになっている。まだ、筋肉はついてるしちゃんと動けるのに、……なのに、身体は着実に弱っていってるんだよね。
「ここんとこ、忙しかったからかな。でも、大丈夫だよ。どこも変じゃない」
「……なら、いいが」
 聡い上に、心配性な甲太郎。こんな得体の知れない俺のことを好きだと言って、抱きしめてくれる人。
 その手が、一瞬、堪えきれなくなったかのように俺の頬に触れた。それはすぐに離れるくらいの接触だったけど、指先の温度が残るのは感じ取れる。
 ここは同性愛に対して厳しいから手すら繋げないけど、その代わりに部屋に戻ったらきっとキスをしてくるんだ。触れられなかった分を、足りないと言うかのように。いつもそうだし、今日もそうだと思う。長い腕にすっぽりと包み込まれる自分の体躯が少し悔しくもあるけど、すごく好きな瞬間だったりもする。
「今日は俺が夕飯作るから、がっつり食えよ」
「そういえば、久しぶりだよな?甲太郎のカレー」
「腕は鈍ってないから安心しろ」
 振った紙袋からはまた、スパイスの香ばしい香りが漂ってきた。
 急に、泣きたくなった。
 慌てて、甲太郎から視線を逸らす。歩調を早めて人混みの中をすり抜けながら、ああ、俺はこの人を残して逝くのだな、と思った。
 そういえば、気怠げな態度に隠した深い傷はもう癒えているのだろうか?大切な人を傷付け、失った痛みはもう感じないのだろうか?俺は、そのための糧にはなれたのだろうか?
 甲太郎がそのことについては何も言わないから何も聞かないけど……これからまた、彼は隣に立つ人間を失うのだ。
 俺は、自分がいなくなることよりもその事の方が、辛い。
 いっそ、逃げてしまおうか?『死』を突き付けられたら、きっと甲太郎は悲しむに違いないから。何も告げずに姿を消して、どこかでひっそりと死んでいこうか。
 そうすれば―――きっと甲太郎は怒るだろうけど―――少なくとも、彼の中では生きていくことができるから。甲太郎は俺が死んだなんて思わずに、勝手に出て行った俺を酷い奴だと見限って、柔らかい腕と優しい笑顔を持つ綺麗な人を選ぶかもしれない。
 そうしたら、甲太郎は悲しまないよな?きっと、これからも前を見て生きていけるよな?
 何だかすっごく名案だと思って、少し後ろにいる甲太郎を振り返った、瞬間にそれはできないと思ってしまう、俺って馬鹿だ。
 甘やかで優しくて、それでいて気遣わしげなその視線が、何より雄弁に想いを物語っている。口に出してないけど、愛しいとか好きだとかそういう感情の全部を併せ持って俺のことを見ている。自意識過剰でも勘違いでもないと言えるのは、俺がそれと同じ目をして甲太郎を見てることがあるって、本人に言われたことがあるから。
 結局の所、死ぬのが怖いとか甲太郎が可哀想だとかそういうことじゃないんだ。
 離れたくない。
 例え死んでも、側にいたい。甲太郎を想っていたい。忘れたくない。
 なのにそれは、できないのだという。
 俺の身体は壊れてしまうのだという。
 動かなくなって、甲太郎の体温すら感じることができなくなるのだという。
 太陽が、甲太郎の頬を赤く照らす。甲太郎は俺が凝視しているのに対して、何だ?というように笑ってみせる。とても幸せで、幸せすぎて、きっとこれは、そう遠くない未来にいなくなる自分に与えられた精一杯の代償なんだろうと思った。
「なんか、俺の顔についてんのか?」
「……いや、いい男だなって、思って」
「阿呆」
 デコピン一発という簡単な接触。それだけで、いいのに。
 別段世界征服をしたいとか、大金持ちになりたいとか、そういうことを望んでるワケじゃないんだ。
 うちに帰って、一緒にカレーが食べたい。遺跡に潜って、石碑を目の前に二人してうんうん唸っていたい。ソファで背中合わせに本読みたい。ゲームの対戦だってしたい。実は俺、負け越してる。まだまだ一緒に行こうって約束しながら行ってない場所だってある。全部全部、甲太郎と一緒にやってみたかった。
 隣に大切だと感じる人がいて、ずっと先まで一緒にいたいっていう、ささやかな願い。
 ささやかなつもりなんだけど、もう、全然ささやかじゃなくなった願い。
「甲太郎」
「ん?」
「……なんでもない」
 鼓動が止まる。体温がなくなる。何も見えなくなり、聞こえなくなる。
 それでも何事もなかったかのように次の朝も目覚めて、俺は。
 ―――甲太郎の隣に、いたいんです。

End...