風云-fengyun-

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***since 2005/03***

思い出すのも怖いくらい

 この手触りを、知っている。
 そう、あの遺跡に、まだ、取り残されていたときの闇の感触。

 薄暗がり。
 ごおごおと音がしている。
 そこにいるのは誰だろう。

*  *  *

 目が覚めたのが四時だったから、二度寝するのもなんとなく面倒くさくてシャワーを浴びた。朝を目指して、夜はいっそう冷えていたから熱めのお湯を被る。
 バスタオルを腰に巻いてリビングに戻ると、シャワーを浴びる前に付けた暖房が部屋を暖めていた。冷蔵庫の中で冷えていてくれたミネラルウォーターを流し込み、ソファにダイブ。甲太郎はまだ寝ていたし、あんまり寝室をうろうろすると起こしてしまうかもしれない。暖房を最強にし、昨晩読みかけにしてテーブルに放りだしてあった本からしおりを抜いた。
 一瞬、着替えないと風邪ひくかなーと頭を過ぎって、寝室に戻るのは面倒くさいから、畳みっぱなしになっていた洗濯物からTシャツを引っ張り出して着ようとした。
 バタン。
 乱暴な音がして、振り返ると、甲太郎が立っていた。―――すごい、形相で。
 あれ、そんな起こすような音を立てたっけ。あ、そういえばこのTシャツ甲太郎のだった。いいじゃん、借りるだけなんだしおっかない顔しなくても。
 とにかく、おはよう、と。次に、どうしたの、早いね、と、声をかけることはできなかった。
 無言のまま、甲太郎は掴みかかってきた。着かけの体勢だったから、受け身も取れずそのまま床にたたき付けられる。……腰が痛い。洗濯物がクッションになってなかったら、結構な怪我をしていたかもしれない。
 いきなりなにすんだ。
 声は、喉元で止まった。出てこないから、仕方なく、飲んだ。
 甲太郎は焦点の定かでない目をして、見下ろしている。俺と、自分の腕を。
 見れば、指の先は酷く震えていた。
 かわいそうに、なるくらいに。



 (薄暗がり。)
 (風の音は時折音楽のようだ。)
 (そこにいる奴を知っている。)



 かわいそうに。悪い夢でも見たのだろう。甲太郎がこんな顔をするなんて、亡くしてしまった、あの綺麗なひとを見たのかもしれない。残念ながらそのひとはもういないから、俺が指を握ってやるしかない。
 暖房のごおごおという音が、どこか遠くの方で聞こえた。
 握った指先を、自分の口元に引き寄せる。甲太郎が押しつけたのかもしれない。とにかく、ずいぶん冷えていたそこに、はあ、と息を掛ける。温まればいいなと思って。はぁー、と。
 さっきまでベッドの中でぬくぬくしてたはずなのに、なんでこんなに冷たいんだろう?

*  *  *

 この手触りを、知っている。
 そう、あの遺跡に、まだ、取り残されていたときの闇の感触。

 薄暗がり。
 ごおごおと音がしている。
 そこにいるのは誰だろう。

 薄暗がり。
 風の音は時折音楽のようだ。
 そこにいる奴を知っている。

 そういえば、夜を忘れるほどの暗がりだった。
 何も聞こえなくなった。
 そこにいるのは、

 壁に背を預けるように倒れ込んでいるのは、

 血を流して、 目を閉じて、 息をしているのか、 ただただ静かで。

*  *  *

 目を開けると、思っていたのとは少しばかり違う光景が目に飛び込んできた。
 ベッド、じゃない。……床?
 落ちたのか、と思ったが、それもどうやら違うらしい。景色は寝室ではなくてリビングのそれ、のような気がする。
 視界の下の方に黒いものが見えて目をやると、黒いかたまり。ではなくて、九龍の頭があった。一体、何があってこんなことになっているのか、さっぱり思い出せない。髪に手を伸ばそうとしたが、利き手の左は、九龍が両手で握りしめていた。右手は、……九龍の下敷きになっていた。整理してみると、九龍を抱え込んでいるような状態であり、つまりは俺が何かしらをしたからこのような状況になっている、ということである。しかも、洗濯物の上で、だ。
 記憶を手繰る。
 ……思い出せない。いや、微かに、不安な感触が、まだ覚醒していない意識の端の方にいる。思い出そうとすれば、できる。けれど、思い出すのが怖い、きっと、夢の記憶だ。
 何かの悪夢だったのだろうか。そう、なのだろう。心臓が忙しなく鼓動している。目を閉じている九龍を見ているだけで、意味のない恐怖がこみ上げてくる。この感触をよく知っている。夢で見た、いや、夢だけでなく、現実でも知っている、気がする。心臓は、どんどん忙しなくなっていく。
 それを、聞きつけたわけではないだろうに。ふっ、と、呼吸を感じて見れば、九龍の目蓋が動くところだった。睫毛が震える。少しだけ、さなぎから蝶が孵化する様子を思い出す。
「……おはよう」
「ん、ぁ。……はよー」
 眠たげな声と、ふぁ、というあくび。九龍が何かするたび、口元にある指先に振動と吐息が伝わってくる。それくらいの近さ。
 何度目かのまばたきの後、顎を上げてこちらを見上げた九龍は、一直線の視線を投げつけてきた後、また何度かまばたきをした。
「なあ、俺、……何を、した?」
 こんな状況に陥っている理由が分からなくて、なんとなく手がかりになりそうな胸の内の不安感も覚めかけて、おそらくは知っているであろう九龍に問いかける。
 返事は、意外なものだったのだが。
「覚えて、ないの?」
「……申し訳ないことに、さっぱり」
「そ。よかった」
 よくはないだろ、と思ったのだが、九龍がはあ、と指の先に息を吐きかけるものだから、そして、それがひどく心地良いものだから、もうそれでいいということにしてみた。ごおごおと鳴る暖房が、設定温度になったのかピーッという音を立てて止まった。
「夢を、見た気が、するんだけどな」
「んー?」
「あまり思い出したくない」
 なら、思い出さなくていいんだよ、と九龍が笑った。不安と恐怖は、そこであっさりどこかにはぐれてしまった。きっと、本当に怖い夢だったのだろう。そんな気がする。でも、このままもう一度眠りたい気もするし、そうすればもう少し上等な夢を見られそうな気もする。
 九龍も同じことを考えているのだろう。固い床に転がされて、それでも文句一つ言い出す気配はない。俺の指先に温かい吐息を被せ、そっと、睫毛を震わせて目蓋を閉じた。
 そこで、全部やめた。思い出すのも怖いくらいの夢だったから、思い出そうとするのは全部、やめた。

End...